Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)

第11回 集合名詞は、うさんくさい  [08/31/2008]


It is obvious that the ideological root of statism ( or collectivism) is the tribal premise of primordial savages who, unable to conceive of individual rights, believed that the tribe is a supreme, omnipotent ruler, that it owns the lives of its members and may sacrifice them whenever it pleases to whatever it deems to be its own “good.” Unable to conceive of any social principles, save the rule of brute force, they believed that the tribe’s wishes are limited only by its physical power and that other tribes are its natural prey, to be conquered, looted, enslaved, or annihilated. The history of all primitive peoples is a succession of tribal wars and intertribal slaughter. That this savage ideology now rules nation armed with nuclear weapons, should give pause to anyone concerned with mankind’s survival. ( “The Root of War” in Capitalism: The Unknown Ideal)


(国家主義(もしくは集団主義)のイデオロギー上の起源は原始的野蛮人の部族の前提であることは明らかである。彼らは、個人の権利など頭に浮かべることもできず、部族こそ至高の万能の支配者だと信じる連中である。部族は構成員の生命を所有しているのだから、部族が「善」と判断するものにならば何にでも、部族が好きなときに、構成員を犠牲として奉げていいと信じる連中である。野蛮な暴力の支配以外に社会を支える原則は何ひとつ知らない野蛮人というものは、部族の要求は物理的力によってのみ制限を受けるのであって、他の部族は自分たちの欲望の餌食だと信じている。征服され略奪され奴隷化され全滅されてしかるべき餌食だと信じている。 すべての原始人の歴史は、部族内戦争か部族間虐殺の連続であった。人類が生き延びていけるかどうかという問題に関心がある人々はみな立ち止まるべきである。今や、この野蛮人のイデオロギーが核兵器で武装した国家を支配しているということを憂慮するべきである。)

★第10回に紹介したアイン・ランドの言葉で、「ランドは国家主義者なんだ〜〜」と勘違いするような強烈にアホな奴、いえ、変わった方はいないと思いますが、念のため。

★ランドは、合理的な人間どうしの間では争いは生じないと言います。長期的視野にもとづいた合理的な自己利益を求めて生き延びようとする人間どうしのあいだに、利害の衝突はないと言います。なんでかっていうと、合理的な人間というのは、「自分がそれを獲得するに値するような能力も労力も投下していないのに価値あるものを欲しがって、他人が自分の能力や労力で生み出した価値あるものを搾取するような不合理(理不尽)なことはしない」からです。

★まあ、確かに良心的で頭が良くて自立心があって分不相応なことは望まない人々は喧嘩しませんね。別に良心的でもなく、頭が悪くても、非合理的でも、喧嘩しませんが。私なんか、初秋ともなれば、サツマイモふかして塩ふって食らいつきながら、本を読んでいるかパソコン打ちしているか、小林旭さんのDVD見ていれば天国であります。桃山学院大学の社会人聴講生の方が、1978年当時の旭さんの「ビッグ・ショー」が再放送されていたので録画しましたと、DVDを送ってくだいました。まだ40歳の若々しい旭さんです。感激です。ありがとうございました!って何の話か。

★確かに、すべての人間が、徹底的に損得に徹し、長期的視野に基づく自己利益をはかれば戦争は起きない。主義や理想や信仰や大義ではなく損得に徹すれば戦争は起きない。「長い目で見れば」戦争なんか絶対に損ですから。戦争で儲けた人間にとってでさえ損です。戦争の後遺症は何世代どころか何世紀も何世紀も残り、子々孫々まで歪め、その子々孫々が住む国は荒廃し、戦争で儲けた奴の孫は通り魔に5回ぐらいは殺されるかもしれない。「利己主義に徹すれば美徳にいたる」と説くアイン・ランドは、ほんとうに正しく清く美しい。実に素朴に断固として倫理的です。乙女のごとく生真面目です。Dirty Workは(古い時代の)男に任しておきましょう。女が生真面目でなくなったら、この世は闇よ。

★ともあれ、近視眼的不徹底似非利己主義(世間では、これを利己主義と呼ぶとランドは言う)の人間が多いので、物理的強制力(暴力)によって、他人の持つ価値あるものを略奪する行為は後を絶たない。これは事実で現実。で、しかたないので、本来ならばないほうがいい統治機関を置いて、軍隊や警察や裁判を委ねて、個人の所有権(個人の権利の基礎の基礎)を守ることに人々が合意した。それが「政府」だというのが、アイン・ランドの政府観です。

★上記の引用文は、「人類の圧倒的多数は戦争なんかいやなのに、どうして戦争が絶えないのか」という問題について、1966年に書かれた文章の一部なのです。ランドは、その理由を、現代の人間のなかに残る原始人時代の心性「部族根性」(tribalism)だというのです。

★暴力から国民を守るために設置された(はずの)政府が、侵略されて自己防衛のために国内で戦うしかない場合はいざしらず、「外地」で戦うことを「祖国防衛のため」という理由で国民に強制し、かつ国民も、いやいやながらも、「国のためならば、しかたない・・・」と、それを認めるのはなぜか?それは、「国」という実体があると思い込み、しかも、「国」は個人より上位概念という思い込みがあるからです。「国がなくては個人は生きてゆけない」という前提に無自覚だからです。

★ならば、「部族」の保護がなければ個人は生きていけないよと恫喝して、「部族」は「個人」を好きに使用し、「個人」を廃棄できます。ならば、個人は「部族」の奴隷になるしかありません。「家族」だって、あまりに個人に対して抑圧的であるのならば、解散していいのです。「一家心中」というのは、人間の死に方とは思えないほど、私にとっては気持ち悪く感じられます。なぜ気持ち悪いのか?その家族の誰か個人の自殺に、他の成員が良く考えもせずに洗脳されて愚かにもつきあってしまったか、強制的につきあわされたという事実があるのにも関わらず、その事実が「家族」という集合名詞が付与されている神聖さによって覆い隠されるからです。殺人事件を美化するな。あ〜〜気持ち悪い。

★「部族」(もしくは「家族」とか「共同体」とか「会社」とか「国家」)って言葉は、misleadingです。集合名詞はみな、うさんくさい。集合名詞は、個人名詞より立派に見えて、個人を犠牲にするだけの至高の価値があるような擬態を示しています。「みんながそう言っている」なんて、実にうさんくさい。「みんな」とは誰か?

★「ひとつのまとまった集団の脳」なんてものはないのだから(第1回参照)、個人の集まりしか存在しないのだから、「部族」の構成員である個人より上位に存在するのは「部族」ではありません。正確に言えば、「部族を率いる少数の特権的人々」です。部族主義(国家主義)なんて存在しません。「部族を率いる少数の特権的人々が好きにする方針」があるだけです。

★なんで、少数の人間たちに、大多数の人間が好きにされるのでしょうか?自分たちがしたくもないことをするはめにされるのでしょうか?それは、「部族を率いる少数の特権的人々」が、ものすっごく頭が良くて、自分たちが少数であるということを巧みに隠して、「こうするしかしかたないんだよ〜〜そうしないと、あんた生きていけないよ〜〜」という恐怖と不安を、大多数の人間に蔓延伝染させる技術を非常にうまく使いこなしているからです。かつその技術は、蓄積され伝承されて、より一層巧妙になり、その技術が作る幻想が、「なんぼのもんじゃ、そんなもん」と個人に思わせないほど、迫真性を増すからです。

★また、大多数の人々が、自分の生きる世界を所与のものと思い込み、変えることができるものだと思わないからです。いつまでたっても、21世紀になっても、心底のエトスは「中世の農奴」だからです。自分の感覚や思考や直観を信じないで、世に流通するもろもろの言説の内実を疑わないのはなぜでしょうか?「マトリックス」維持のためのエネルギーを送り、自分がエネルギーを送っている「マトリックス」が作る夢のなかに生きている人間の姿は、もう20世紀末には映画化されていたのに。あれは、SFではありません。私たちの日常の現実の世界の比喩です。

★つまり、何が言いたいかというと、恐れる必要もないことを恐れ、しなくてもいいことをガタガタと無駄にすることを、自分が(便宜上)属しているだけの集団に対して、私たちはやりがちではないかということです。怖いのは、恐れる必要もないことを恐れる自分の無知です。その集団に付与された集合名詞の粉飾厚化粧に負ける自分の「スケベ根性」です。

★「国家主義」というと、非常に御大層な感じに聞こえますが、要するに原始的部族社会の残滓です。合理的に考えたら、どう考えてみても変だし、したくもないことを強制してくる存在は、「集団」ではないです。「政府」とか「国」ではないです。「少数の特権的人々」です。個人たちです。私たちと同じく、いずれは死んでゆく個人の人間です。

★ところで、先日You Tubeでいろいろ調べているときに、何かの番組の一部が投稿されていて、女性の文化人(?)が、「専守防衛というけれども、侵略されても殺さない、自分が殺されても殺さないという態度でいなければならない」と話しているのを聴きました。うわあ・・・この女性、日本侵略に抵抗して戦い死んだ同胞について、どう思っているのでしょうね。「左の頬をぶたれたら右の頬も差し出せ」ってイエス・キリストが言ったそうですが、それがほんとうにキリストの言葉ならば、キリストは頭がよくなかったかもしれない。そもそも「左の頬をぶたれる」ような事態は招かないようにするのが知恵だって、どこかに書いてあったなあ・・・どこだったっけ・・・