アイン・ランド作品紹介

The Fountainhead
『水源』(1943)
Empire State Building at Dusk

1922年の初夏、主人公ハワード・ロークは建築工事労働者をしながら建築家めざして苦学しながら通っていたマサチュセーッツ州にあるスタントン工科大学を退学になる。学業は優秀だし才能もあるが、大学で教えられる建築学に異をとなえたことから教授達の怒りを買った。ローマ時代やルネサンス時代などの古典建築を現代風にするだけの建築学に彼は満足できない。その建築物の機能を最大限に活かすデザインと建築法と素材を妥協なく彼は求める。かれのデザインと見解は、教授達にはそれまでの建築の美意識を否定する傲慢さに見える。彼は私淑していた高層建築家であり、今は落ちぶれているヘンリー・キャメロンのニューヨークにある建築事務所に就職する。ロークにとってキャメロンは真に才能あるプロなのだが、時代はキャメロンについていけない。同様に、キャメロンを理解できるロークの仕事も、また理解されない。小説は、彼が一流の建築家として名実ともに認められる約18年間の苦闘を時間軸に沿って、舞台を主にニューヨークにおき、描いている。この小説は単なる成功物語ではない。ロークの建築観は彼の世界観、人間観、人生観と結びついていて、それらは彼の生きる時代ばかりでなく伝統的それらと真っ向から対立する。この小説は、ロ−クの思想闘争でもある。小説は、彼と3人の男と1人の女との関わりを通して描かれる。彼らと彼女の生き方を見れば、ロークの生き方がわかる。ペーパーバックでも700ページ近くある長編小説なので、あらすじも長い。藤森が偏愛する小説でもあるので、あえて長々とあらすじを書く。悪しからず。


ピーター・キーティングの場合:彼は世間でいう「好青年」である。「いい人」である。彼は、家族や教師や世間が彼に期待する生き方、他人の生き方(セカンド・ハンド的生き方)に従属する。ロークと同じ工科大学を総代で卒業してニューヨークの一流建築事務所に就職し、上役や顧客の意を汲んで仕事をするので評判はいい。彼には建築に対する彼なりの原則もなければ理想もない。本当は画家になりたかったが母親の希望通り建築家になった。世間から認められる出世のためには嘘もつけば裏切りもしながら、ライバルを排除してきた。愛するキャサリンとの婚約も破棄して上司の建築事務所社長の娘と結婚し、世間的な成功を達成する。彼は、建築のことで困った時はロークにこっそり相談する。ロークは、建築のデザインをいとも無造作にできる。そのアイデアをキーティングに平気で提供する天才である。そのデザインが大きな建築賞を取りキーティングが名誉や富みを得ても、ロークは全く関心がない。ロークは彼の思い通りの仕事ができればいい。他人との比較、競争に関心がない。そのロークの徹底した自立した姿に、キーティングはつねに圧倒され劣等感に悩まされる。若い名建築家として成功している自分の無能さや卑劣さをロークにだけは見抜かれていて、なおかつロークは自分など問題にしないからである。。彼は、世間の大勢に流される大多数の人間の代表である。世間的には成功者でも彼の人生は空虚である。


エルスワース・トゥーイーの場合:彼は建築史の研究家でありかつ指導的知識人である。世評を左右できるオピニオン・リーダーである。トゥーイーは資本主義的な自由競争社会を否定し、競争や闘争のない平和な利他的共同社会、福祉社会を提唱し、かつ実践しようとする社会改革家でもある。しかし、彼の一見非のうちどころのない高邁な弱者救済や公共の福祉の完全実現を唱える思想は、彼の人間愛から生まれたものではなく、支配欲、権力欲から来ている。トゥーイーは、人間が自己をなくし他人のために生きることが理想の生き方であり、利他的生き方がもっと徹底されれば社会悪も消えると唱える。世間や他人との協調のために自分を否定して自分を見失う人間が増えれば増えるほど、社会の管理と支配がしやすいからである。トゥーヒーの行動や提唱は、伝統的な宗教や道徳からも支持できるものであり、誰も非難できない正義であるので攻撃を受けることもない。人々には彼の高潔な知識人の仮面に隠された人間蔑視と野心がわからない。トゥーイーは、その徹底した確信犯的偽善を駆使して、人々の「善意」に訴え、人々を意のままにあやつる。その彼がロークを一目見て憎む。ロークの社会的抹殺を決心する。トゥーイーが構築し支配しようとする共同的な他愛的な福祉的社会は独りでは立てない相互依存的人間たちによって成立するのだから、ロークのような真に優れた自立した人間は邪魔だからである。突出した才能の人間は、悪平等主義の協調的共同社会では邪魔なので排除しなければならない。そのために社会が進歩しなくても活力が消えても構わない。大多数の愚かな弱い人間で成立するのが社会なのだから、社会は進歩しなくてもいい。進歩には厳しい競争、弱肉強食の闘争がつきものなのだ。進歩や競争は敗者を作るから悪なのだ。トゥーイーの執拗で陰湿なローク迫害には彼なりの大義名分がある。


ゲイル・ワイナンドの場合:ワイナンドは、ニューヨークのスラム街の浮浪児の境遇から自力独学で新聞王となり億万長者となった。41年制作の名画『市民ケーン』の新聞王ケーンは成功しても虚栄の空しさの中で孤独に死ぬが、ワイナンドという新聞王には、ケーン(もしくはこの映画を作った人間)のそんな感傷など無縁である。億万長者の人生に孤独と悲劇を見るなど貧乏人の発想なのだ。ワイナンドは自分の厳しい人生から社会の無情さを知悉している。彼が大衆操作の手段として新聞というメディアに目をつけたのは、いわば社会全体、世界全体への冷笑であり復讐でもある。彼の支配欲はトゥーヒーのような屈折したものでも偽善的なものでもない。真正面からの戦いを勝ち抜いてきた王者のものだ。彼はロークの何ものにも屈しない強さや自立が理解できる。自分と似ているからである。人生で出会った唯一信頼でき尊敬できる男だと思う。ワイナンドはロークの親友となり、庇護者になろうとする。新聞にローク支持や賛美の記事を発表させロークの才能を認めさせようとする。ロークには庇護者も味方も必要なく、たとえ仕事がなくなっても彼は誇りをもって生きていける人間なのだが。ワイナンドは、トゥーイーの策略にかかり、新聞不買運動や組合のストライキにより追いつめられ、ローク支持の態度をやめさせられる。半生かけて作ってきた新聞社ネットワークを諦めることはできない。姑息な想像力が働かない生まれながらの王者は、トゥーイーやトゥーイーの手先となる奴隷的人々の階級的嫉妬や、卑劣な策略に足をすくわれる。しかし、結局は自ら新聞の発行自体をとりやめて、出生のスラム街再開発を賭けた悲願の自社ビルの建築をロークに一任し、あらたにやり直すことで、ワイナンドは自らの矜持とロークへの忠誠を守る。


ドミニク・フランコンの場合:ドミニクは、キーティングの就職した一流建築事務所経営者の娘である。美しく頭脳明晰でワイナンドの傘下にある新聞社の記者をしている。ドミニクは、自分の父親の所有である採石場で働いていた作業員の青年の美しさ、たくましさに動揺した。彼は完全に自足していて、臆するところもなければ自己を誇示するところもない。子どもの頃から、世間や人々の俗物性や愚劣さを深く嫌悪して、真実の美も強さも現実の社会にはないと絶望してきたドミニクは、何ものにも誰にも関心を持たず執着しない冷ややかな女である。なのに、彼女はその青年には強い欲望を感じた。その青年こそ、建築事務所を転々としては解雇されて建設労働者として働いていたロークだった。二人は強くひかれあい、ドミニクの別荘にロークは夜忍び込み、彼女の陵辱という形で二人は結ばれた。その後、ドミニクは自分を感動させた現代的美に満ちたビルの建築家が、自分を陵辱した青年だと知る。完全な独立、自由を保持したい彼女は、自分がロークに心奪われ支配されるのが許せない。美しいものはこの世の腐敗に汚される前に滅ぼすべきだ。だから、ドミニクは新聞のコラムでロークの建築をこきおろし続ける。自分が彼を滅ぼすべきだという屈折した愛情を抱えながら。そのくせ自分からロークの住居や仕事場に出かけて彼に性交渉を求める。女の世話や介入など独立独歩の男ロークには無用であることを、ドミニクはよくわかっている。互いの利用、搾取であるような相互依存を愛と呼ぶ通俗や自己欺瞞はふたりには縁がない。ドミニクはロークを愛しているがために、軽蔑するキーティングと結婚する。それは、ロークの社会との闘争を彼女なりに共有する試練である。ロークもそれを受容する。ドミニクはその後、キーティングと離婚してワイナンドと結婚する。それもドミニクにとっては自分への試練だった。


この小説のクライマックスは、政府による大規模な公共住宅建設をロークが爆破して、裁判にかけられる事件である。そのプロジェクトはキーティングの経営する建築事務所が請け負ったのだが、実際にそれを設計したのはロークだった。ロークはその設計図を、「全て彼の案どおりに建築する」という条件でキーティングに渡した。彼にとって名声などどうでもいい。自分の仕事が現実に活かされることが彼の望みだった。しかしキーティングの弱さのためにプロジェクトの工事内容は、ロークの原案から後退する。だ からロークは建設途中の工事現場を爆破した。しかし、ロークが逮捕されたことを知ったら、ドミニクは今度は耐えきれずにロークの手助けになろうとロークの元に来てしまうだろう。それは二人が密かに守ってきた自分たちの独立と愛を汚すことになる。ロークはわざと爆破時間にドミニクが工事現場にいるようにドミニクに依頼する。そのために重傷を負い死にかけたドミニクだったが、ロークが社会あげての非難にさらされるところは見ないですんだ。いかにドミニクが強くても、愛する男のそのような孤独な戦いを、男の強さを信じて黙って見ているわけにはいかなかったろう。ロークにはそれがわかっていた。死線をさまよったドミニクに、もう怖いものはない。ロークが刑務所に入っても構わないのだ。自らの心に忠実ならば何も恐れることはない。ドミニクとロークは再び結ばれる。ドミニクは自分の不義を世間にわざと広めることで、夫のワイナンドが彼女を離縁せざるをえなくする。


ワイナンドは自分の傘下の新聞でローク擁護の記事を書かせていたのだが、この爆破事件で、新聞の不買運動が起き、組合いのストライキもあり、追いつめられる。それは新聞社のっとりを図るトゥーイーの策略だった。しかしドミニクの意図的な不倫騒動で、世論はワイナンドたたきから悪女ドミニクたたきにシフトして、彼の社会的生命は保たれた。


裁判で、弁護人もつけず、ロークはプロジェクトを破壊した理由を語る。ロークは前もって陪審員たちを安易な同情や感傷で動揺する「いい人」「優しい人」ではなく、最も厳しい手強い人々を選んだ。優れた個人の才能から出たプロジェクトのデザインを妥協と不徹底な努力のために台なしにすることの社会的弊害と、安易な調和を優先させる集団主義がどれほど社会を停滞させるかをについて、ロークは冷静に弁論した。陪審員は彼を無罪と判断した。


小説の最後は、ワイナンドの自社ビル高層建築の責任者として、建設中のビルの頂上に作られたの足場に立つロークに会うために、建築資材用の簡易エレベーターに乗ってドミニクが上昇していくという実に象徴的なシーンで終えられる。彼女の眼下にハドソン河やその先の大西洋やニューヨークの街なみが広がり、行く手にはロークの笑顔があるという場面。この小説は、とてつもなく硬派な恋人たちの物語でもある。