雑文

ヴィジョンなき国家のアニメ---大友克洋作Akira
報告者:藤森かよこ


★ 以下の文は、2007年11月に出かけた韓国は大邸(テグ)市での<啓明大学&桃山学院大学 国際学術セミナー11月6日&7日>で、私が発表したものの原稿です。この発表が始まったときは、会場にいっぱいだった聴衆が、この発表の途中で、特に学生さんたちが退席していきました。私は、「あ、授業が始まるんだな」と思いましたが、同僚に言わせると、私の発表内容のある部分が、韓国の若い学生さんにカチンときたのだと言います。ハングル後の翻訳とか通訳の水準がわかりませんので、私の意図が伝わっているのかどうかもわかりません。まあ、どっちでもいいんだけど。

はじめに

本報告は、アニメ分析や解釈の発表ではありません。「研究発表」ですらありません。本報告は、韓国のみなさんへの、アニメを利用した私からの「問いかけ」です。このセミナーにおいて、こういう類の報告は異例かもしれません。しかし、あえてそうさせていただきます。

アニメ(Anime)という単語はすでに「日本製アニメーション・フィルム」という意味で英語の語彙に含まれておりますが、ここでは単なるアニメーション・フィルムの略です。本報告において、日本アニメの代表作であり、欧米における日本アニメ・ブームの発火点ともなった大友克洋(おおとも・かつひろ)作のAkira(1988)を取り上げるのは、なぜかと申しますと、21世紀になって見直したAkiraが、自らのヴィジョンを持てない国家、言い換えればnational identityを持てない国に生きる人間の生き方を私に考えさせたから、なのです。その国とは、日本のことです。

アニメAkiraに触発されて私が考えたことは、部分的には、韓国のみなさんにとっても、他人事ではないかもしれません。この作品をご覧になっていない方も多いと思いますので、アニメAkiraの物語の要約を以下に記しておきます。上映時間124分の作品ですので、プロットも複雑ですから、要約の分量もいささか長くなっております。