『指輪物語  シリーズもっと知りたい名作の世界9』〔2007年10月〕
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『指輪物語  シリーズもっと知りたい名作の世界9』成瀬俊一編著
ミネルヴァ書房 2007年10月30日刊 税込み 2520円
★ ご存知、名作『指輪物語』のガイド本です。さまざまな角度から読み解いた論文集でもあります。読みやすい論文ばかりです。「読んでも、わからないようなものなんか活字にするな!馬鹿学者の独りよがりが!こんなもん、よく商品にできたな!」とむかつくことは、決してありません
★ 「私はフロドだ」と思っている全ての方々に読んでいただきたいです。「私は、私の指輪をいつ棄却できるのか」と思っている「旅の途上」にある全ての方々に読んでいただきたいです。『指輪物語』は、アメリカでは、「リバタリアン文学」として認定されています。かなあ??

III 『指輪物語』を今どう読むか
Chapter 9  読んで快適な『指輪物語』は政治経済SFである
藤森かよこ


読んで快適な物語が示唆するもの

『指輪物語』を読むのは快適な体験である。読んで快適でなければ、あれほど長大な物語は読み通せない。また多くの人々にも読まれない。ある作品を読むのが多くの人々にとって快適であるということは、その作品の政治的/経済的意識や無意識が、多数の読者のそれらと、ほぼ合致するということを意味する。それは、概して否定的なものと判断される。なぜならば、その作品が一般読者の政治的/経済的意識や無意識に迎合していると考えられるからだ。もしくは作家自身が、自らの政治的/経済的意識や無意識を読者と共有している=一般読者と作者の知的水準が同じであると疑われるからだ。

優れた文学作品は、読者の認識の地平を広げるものでなければならないのだから、俗情と結託(けったく)するものであってはいけないという前提のもとでは、読むのに快適な物語はアカデミズムでは軽視されがちである。事実『指輪物語』は、そのように扱われてきた。この物語が、英国で行われた「二十世紀のもっとも素晴らしい書物(the greatest book)」アンケートで第一位に選ばれたとき、英国の知識人やアカデミズムは、その結果を信じなかったというのはよく知られた事実である(1−719頁)。「『指輪物語』の文学的評価は、英文学におけるその歴史的役割と同様にたえず修正されつつ、上昇している」(2−52頁)という意見もあるのだが。

  私は、『指輪物語』の政治的/経済的意識や無意識の、その「俗情と結託する要素」に注目する。ある作品が広く読まれ、長く読まれ、快適に読まれるということは、その作品の政治的/経済的意識や無意識が、大多数の人間のそれらと齟齬(そご)をきたさないということであるのならば、その作品の政治的/経済的意識や無意識こそ、考えうる限りもっともましな政治的/経済的ありようというものを示唆しているのではないかと考えるからだ。

政治や経済は絶対的に社会的なものであり、のっぴきならないほどにリアルなものだ。政治や経済のありようとは、絶対多数の人間が最大公約数的に望み、耐えやすく何とか納得できるものでなければ、真に機能はしない。いくら高らかに理想を謳い上げても、いくら美しくても論理的でも、多数の人々にとって有効に機能しない政治や経済は恐怖と抑圧でしかない。多数の読者にとって快適であるありようとは、絶対多数の人間が最大公約数的に望み納得するものに近いのだから、それこそ真剣に考察すべき「もっともましな政治経済体制」のヴィジョンなのではないか?ならば、そのヴィジョンを明らかにしてみようというのが、本論の趣旨である。

作者のトールキンは、自らの作品を寓話として解釈されるのを非常に嫌ったが、作品の持つ「適用可能性」(applicability)までは否定しなかった(3―225頁)。現在のところの私の文学作品に対する関心は、その作品が、もっともましな政治経済体制を示唆しているかどうかにしぼられる。そうした私の関心を「適用」できるだけの世界を『指輪物語』は内包している。この物語をSFと考える可能性については、すでにエドワード・J・マクファデン三世が簡単に言及している(4−37−45頁)が、私にとって『指輪物語』とは、まさしく政治的/経済的サイエンス・フィクションである。

(『指輪物語 シリーズもっと知りたい名作の世界 9』pp.118−19より転載)

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