論文
ディズニー・アニメーションとフェミニズムの受容/専有
―『ムーラン』における女戦士の表象をめぐって―

2 ディズニー・エトスと『ムーラン』

一見親フェミニズム・アニメ『ムーラン』の問題点を論じる前に,ここで従来の批評から,デイズニー・アニメー般の一見非政治的な「幸福な夢の物語」の政治性を確認しておきたい。それを確認しておくことは,『ムーラン』の新しさを別の角度から見る助けとなるだろう。

大衆通俗文化メディア全体について言えることであるが,それらはあまりに親しく身近で「自然化」されているので,批評の対象となりにくいどころか,批評の対象とする価値すらないかに思われたりする。特にディズニー・アニメのように幼少の頃から親しんだものについては,「批評するのがいやだ」「子ども向けなんだし」という郷愁からくる無批判な受容がされやすい。しかし,無批判な受容が成立する「自然なもの」ほど政治的なものはなく,それこそ政治的無意識の領域であり,意識化しなければならないことをフレデリック・ジェイムソン(Frederick Jameson)が指摘して,すでに久しいではないか。

従来から指摘されてきたディズニー・アニメの問題点を整理すれば,四つあげられる。それらは,そのままDisney Ethosと呼んでいいだろう。まず,その「人間中心主義」(androcentrism)である。パトリック・D・マーフィー(Patrick D. Murphy)は,ディズニー・アニメにおける「自然否定」(denatured Disney)世界を指摘した(125−26)。ディズニー・アニメという調和的世界において,主人公にとって徹底的に「他者」であるような苛烈な自然は登場しない。この「他者としての自然」とは,運命であったり野生であったりするが,ディズニー・アニメにおいて,運命は妖精によって主人公を救うべく変更されるし,野生の驚異は主人公を助け慰める動物の愛らしさに変換されている。つまり,妖精や動物は,馴化され管理され人間化された自然の隠喩であるのだ。『ムーラン』にも,素材である中国の伝説には登場しないが,妖精的キャラクターは用意されている。主人公を助ける動物もちゃんといる。ムーランの家代々の守護神のひとつである小ドラゴンが,彼女についてまわり世話を焼くし,ムーランの愛馬も彼女に忠実だ。この点において,孤独な男装の女戦士を取り巻く苛烈な世界は軟化されている。

能登路雅子も,「ディズニーランドは,人間の意のままにならない自然の力を敷地から放逐した理想的な人工世界」(117)であり,妖精やこびとや森の小動物や昆虫から助けを借りて最終的な勝利をおさめるディズニーランドのアトラクションの反復体験は,子どもたちに「どんなに恐ろしいものでも,我々を滅ぼすことはない」し「我々の肉体は老いも衰弱も死も超えて,永遠に若くて美しい」(116)というメッセージを与えると,指摘している。

言いかえれば,人間中心主義とは「自然恐怖」の別名である。東京ディズニーランドの美しく整備された花壇や花園は,徹底した農薬散布によって維持されていることは,よく知られている事実だが,虫や蚊というささやかな「自然」の不快ささえ,排除されるのがディズニーランドなのだ。こうしたディズニー・エトスにおける自然恐怖を,ウォルト・ディズニー個人の生育歴から説明することもできるだろう。竜巻きが起こりすべてを破壊するような厳しい中西部の失敗した開拓民の子としての,正規の教育も受けられず重労働を強いられた少年時代が,徹底して人工的な安全な理想世界への固執の原因だというように。それは,失われた少年時代の回復,一種の楽園願望,変種の子宮回帰/体内回帰であるというように。自然征服は古代より人間の夢であり,特に近代西洋の欲望でもあり,ある程度は普遍的なものでもあるが,その欲望を心理分析すれば,波瀾と未知への不安に満ちた世界に誕生する前の状態への憧憬と言えないことはない。生まれないですんだ子どもは永遠に安全で幸福である。その近代西洋の欲望であり,かつ人間の根源的欲望のカリカチュアがディズニーランドであり,ディズニー・アニメと考えることは妥当であろう。

この自然恐怖の裏返しとしての人間中心主義に非常に関連し,かつそれにつぐ重要なディズニー・エトスは,「アメリカ中心主義」である。より正確に言えば,ヘンリー・A・ジロー(Henry A. Giroux)が指摘するように,社会的歴史的政治的条件を無視して,すべてをアメリカ白人中産階級化して描く歴史忘却性による「無垢空間」をでっちあげる傾向である。たとえば,白雪姫も眠り姫のオーロラも,中世ヨーロッパの王女だが,アメリカの普通の女の子と変わりがない気さくさであり,軽快さである。最初から掃除や料理もできるのである。ディズニー・アニメにおける中世の物語世界には領主と領民や農奴の階層関係など決して描かれない。アラビアを舞台にした『アラジン』においても,王女ジャスミンと浮浪者アラジンの時代考察的には決して埋まらない階級差など,せいぜいアメリカ的な程度に問題になるぐらいである。『ムーラン』においても,フン族に国境を攻撃された中国の皇帝は,「私よりも国民の命が大事だ」などと言って,まるでアメリカ大統領のように民主的(?)である。王女も王子も王様も女王も,アメリカ中産階級のホームドラマ的に関係しあっている。近代以前の文化を舞台にしていても,衣装だけや装置だけが前時代であり異文化で,あとは現代のアメリカである。アメリカの映画やテレビドラマにおいて,どの外国が舞台であろうと,登場人物が外国人であろうと,設定は何であろうと,英語が話され,せいぜい中国が舞台ならば台詞の英語にアジア人っぼいアクセントが加えられるという例が通常であるが,その現象によく似た「アメリカ化」(domestication)は,ディズニー・アニメが元祖なのかもしれない。先に言及したザイプスは,このように古典的童話がアメリカ化されてディズニー・アニメとして世界に広まり消費されることは,それを受容する外国の人々を植民地化することになると述べている((c)39)。ザイプスによれば,この現象は「ディズニーにとっていいものは世界にとってもいいし,ディズニー童話においていいものは,他の世界にとってもいい」と言っているのと同じなのだ。つまり,ディズニー・アニメはアメリカ文化の,アメリカ化の,アメリカ式行動様式の,アメリカ中心主義の強力な浸透准進装置なのである。

次に問題となるディズニー・エトスは,再びザイプス指摘するところの,登場人物の一元的造型による想像力の馴化作用である((c)39−40)。登場人物は成長や発展を遂げることがなく平板な人物造型がなされていて,物語における機能をはたすだけの単なる類型であり,そうしたアニメに慣れることは,人間や物事に村する想像力が貧困になるとザイプスは論じる。ディズニー・アニメの女性の類型について,ヒロインは必ず若く美しいが性的なものは感じさせず,ヒロインを虐めるお妃や継母は必ずバンプ型の中年女性であり性的な盛りを誇示し,ヒロインを助けるのは必ず閉経を過ぎた老女であると,ベルは分析している(115−16)。セクシュアリティと悪を連結させるこうした性の忌避は,それはそれで興味深い問題だが,ここで注目したいのは,こうした類型が形成する世界を二元化して見る傾向である。これは絶対的な悪と絶対的な善が世界で戦っていると考えるマニ教的世界観であり,冷戦的世界覿でもある。『ムーラン』において,中国を侵略するフン族は絶対的悪として描かれ,人間としての描かれ方はされていない。まるで襲来怪獣であり,絶対的異邦人であり,その図像はなぜかアフリカ系風に肌が黒い。フン族が,人種的には白人のコーカサス系であることは,すでに歴史的常識なのであるが。悪いやつは黒く描かれ,絶対に悪いのである。だから黒い人間は悪いのであると言いかねない単純さであると同時に,人種差別的でもある図像の問題もさることながら,米ソの冷戦集結から10年たっても,ディズニー・アニメは冷戦的世界観を保持しているのである。実は,この単純明快な勧善懲悪の幻想の中で正義の味方を演じることこそが,ディズニー・アニメとアメリカ合衆国という国家の欲望かもしれない。

ともあれ,こうした想像力の馴化作用,類型的二元的世界観は,ディズニー・アニメならずとも,大衆通俗文化メディアの映画やテレビドラマなどにも共通であるが,前提として子ども向けに製作され消費されるディズニー・アニメの教化的浸透力と世界的な伝播カを考えれば,その影響を軽く見ることができない。マインド・コントロールは,子どもにしてこそ最も効果があるし,最も解けにくいのだから。こうした虚構による想像力の馴化は,現実の混沌や多層性や多様性を直視することを困難にし,それに対処する忍耐と努力からの逃避をまねく。

そして,本論の主旨において,最も問題となるディズニー・エトスが,先のマーフイー(127−28)も指摘するその男性中心主義である。これについては,詳述する必要はないだろう。ただでさえ,大衆通俗文化メディアの男性中心性などうんぬんするのは,同語反復でしかない。だからといって,批判をやめるわけにはいかないが。

実は,フェミニズムに影響されたヒロインが活躍する1980年代以降のディズニー・アニメでさえ,男性中心主義はまぬがれていない。『人魚姫』のヒロインもその活力は結局王子を獲得することに費やされるのだし,『美女と野獣』のヒロインの聡明さと愛情は,野獣の姿から王子を解放するために重要となる。『ポカホンタス』のヒロインの努力も,スミスという白人男性開拓者の名誉に帰する。究極の英雄である女戦士ムーランさえ,戦士になったのは自分を見つけたかったからと言いながら,その機能は,父と未来の夫たる軍団長の青年と皇帝を守るわけで,結局は家父長制への奉仕なのだ。もともと,中国の女戦士の史実も,彼女たちが夫や父や兄弟の代理として戦ったからこそ是認され歴史にとどめられたのであって,彼女たち自身の業績や力量そのものを賞賛されてのことではない。

同じ伝説の女戦士をあつかったマキシン・ホン・キングストン(Maxine Hong Kingston)のThe Woman Warrior(1975)は,中国系アメリカ人の少女がチャイナタウンに住む幼い時に母に語り聞かされた故国中国の伝説の女戦士を内面化して,自らの自立と解放を実現するための精神的糧とする女性の成長物語である。キングストンは,この伝説の女戦士の家父長制に貢献する「父の娘」を,作品の中で「母の娘」に変換することに成功している。この作品の語り手である娘は,故国の旧弊な性差別的慣習の中に抑圧され埋没して生きざるを得なかった母や近親の女たちの解放への夢と願望を継承し,男性中心体制の教化と維持のために搾取される女の犠牲化の象徴としてではなく,女それ自身の可能性と豊かさの象徴として,女戦士の像を心に育むのである。この小説と比較すれば,『ムーラン』の女戦士ぶりの一見親フェミニズム的外観の下に隠されている男性中心主義は,より一層明らかとなる。

以上のように,ディズニー・アニメの問題点を整理してみたのだが,この問題点こそディズニー・アニメを,世界を圧巻するディズニー・アニメそれ自身にさせているエトスであり,強みでもあることが確認された。そして,初のアジアもの,初の英雄的ヒロインの採用という新しいディズニー・アニメである『ムーラン』も,伝統的ディズニー・エトスの反復をしていることも,確認された。しかし,本論で最も問題としたいのは,この反復点ではないのだ。その問題は,よりフェミニズムを混乱させる危険性に関わるものであり,次に日本における受容に関わるものでもある。順に論じていきたい。