先生、有難うございました
先生、本当にお疲れ様です。何と書こうかと一晩悩みましたが、それしか思いつきませんでした。早くお疲れが癒されることをお祈りしています!そして、有難うございました。先生だけでなく、ここで書きこみをなさった方にも感謝します。
結論
結局、肝臓とかいう奴が一番『思想』とやらにこだわっているんだな。思想の危険性みたいのを訴えてるつもりかも知れんが、自分が自分の貧しい頭で矮小化された思想に支配されていることに気がつかんのだろう。多くの方は第一に物語を楽しんでいるだけだろうに。きっとさみしくて惨めな奴なのだろう。哀れな奴だ。相手にされないのにコソコソやってきては能書きを撒き散らす。こんなかっこわりーやつ見たことない。生き恥だな。
(タイトルなし)
藤森さんいわく『日本人』というのは、日本人ではない。『知的な人』に他ならない。
そうだよ、雪なさん。それが知的な人だ、インテリだ。アホだ。
弱い奴は独善的なもんだ。弱い奴はごちゃごちゃ考え、悩むもんだ。そして練りだした都合のいい考えを他人に信じ込ませようとするもんだ、そのために権力を追求する。権力を手に入れることに成功すると、脅しと暴力でもってそれを強制する。そして今度は常に力を失う恐怖にさいなまれる。そのために権力の増大化を望み暴力を悪化させる。 あんたはどうなんだ?
ひとりごと
「kanzou」という名前を見ただけで、すでに内容は読んでいません。書くのが自由なら、読む、読まないの選択ができるのもまた自由。何を書き散らされても、自分の中に入れていないので、書かれていないのと同じ。知的な人は、みんなそうしているでしょう。
最後に苦い良薬を処方しておく。
”考えることは心身は弱体化させる”という命題を知らない人はいるだろうか? これはむしろ破壊するといったほうがいい。では日常的に考える者がどうなるのか? これが諸兄の疑問に思うところだろうから、それに両極端に答えてみようと思う。1:肉体的崩壊を引き換えに考える葦2:精神的崩壊を引き換えに考える葦。1:この種のタイプは男性に多く、平均以上に活動的だがパゲて、臭くなり、肥満になり、過剰な性欲を持つが、結局は重篤な病に冒されて死ぬ。2:この種の者は女性に多く、フサではあっても鬱に悩まされ怒りっぽくなり被害者妄想や他人蔑視にふける日常を送り、結局病んで自殺する。
みなさまへお詫び
みなさま、数日後にこの掲示板は閉鎖させていただきます。また、あらたな形で再開したいと思いますが、しばらくは閉鎖させていただきます。『水源』と『肩をすくめるアトラス』も出版されました。今は、じわじわと読者の輪が広がっていくことを待っている段階です。このHPは、日本では未知のAyn Randという作家を知ってもらいたいということから、立ち上げられたのですが、ひとまず、その機能は果たしたと思います。次の段階をどうするかを考えたいところですが、その前に、いろいろ片付けなければならないことがありまして、次の段階のHPの内容を考えてゆく余裕が今の私にはありません。しばらく時間をいただきたいと思います。ランド節などは、今後も継続してゆきます。みなさまのご意見やご感想も、Aynrand2001japan@aol.comまで、今までのようにお寄せください。
ユアンチャオさんへ:そこが微妙で
ユアンチャオさん、いつもきちんとしたお考えを書いてくださり、ありがとうございます。刺激を受け、勉強になります。私も、ユアンチャオさんのようにランドの思想は、共通善を設定する前の共通ルール、関係のモデルを明示したのだと思うのです。共通善を設定しないといっても、同じフィールドでかかわっていくためのギリギリの暗黙のルールは、あるわけですから。だから、ランドの言うことは、まっとうじゃないかと、これ以上のルールはあるかと。多分、ランド批判のかなりの部分は、このルールの前提とするratio(交易者どうしの交換物の価値が互いにとって等価であるかどうか、割りにあっているかどうか)の発想自体に向けられているのかなあ・・・?これを簡単にgive &takeと呼ぶと、誤解曲解のもとになるのかもしれません。しかし、人間がギリギリ納得できるルールは、こういうものでしかないと思うのですが。突き止めればそうではないかと。これを打算とか計算とか呼ぶ人間は、あまりに偽善者過ぎないかと。
ランド思想の再発見(3)
そしてその主流に反する流れも生まれました。アイン・ランドの思想もそのひとつだと思います。ランドには「交易者」「商人」を積極的に善しとする思想があります。これは経済に対する考えとしては、自由放任体制による資本主義に帰結されますが、思想や哲学の領域においては、どこかに存在する共通善を目指すのではなく、より多くの人を説得しうる公平で原理的な思想を「小説」や「評論」の形で発表してゆくということになったのではなったのでしょう。ランドは、「絶対の思想」は想定せず、より説得力に優れた、言葉の作品(思想や哲学)を人々が創造し、それをお互いに交換することによって競いあい、人間全体がレベルアップする状態を考えていたのではないかと思います。最後まで来ると確かに少々理想主義的でしょうが、ランドは思想の自由市場を目指し、その市場の参加者の心構えとしても「商人」「交易者」の姿勢を想定したのかもしれない…『水源』を初めて読んだときの感動を思い出して、そのようなことが頭に浮かびました!
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