アキラのランド節

冷戦こそ文明? [11/14/2001]


私は馬鹿なので、国際紛争なども、どうしても普通の人間関係とか日常の比喩で考える癖がある。人間が互いに理解しあって愛に満ちての調和した関係、「いつもどこでも仲良しこよし」というのは、周囲を観察しても自分の体験を思い出しても、当然のことながら、ありえない。つるんでいるのは、一人でいるのが退屈で寂しいからだし、数を頼むほうが心強いし、要するに利益になるからだ。理解とか愛とは関係ない。つるんでいる集団内に切磋琢磨なんてありえない。際立って優秀だったりする突出した人間は、そんなところでお山の大将になっていてもしかたないので、別の自らに利益になる集団に入り込む。だから集団内の派閥闘争というのは、中途半端な人間どうしの、その集団を抜けてもっとグレイド・アップした集団に入会できない者どうしの「どんぐりの背ならべ競争」でしかない。長く継続できる集団とは、成員間の力関係が「嫉妬しあうことも足の引っ張り合いも悪口も言い合っていますが、みな同じ馬鹿です〜〜〜馬鹿だからこの集団の外に出ることができません〜〜〜だから、この中で楽しくやります〜〜〜」という水準で安定している期間が長いだけのことである。同人誌とか地方の学会とか市民団体とか、中学以来変わらずつきあっている友人グループとかが継続する理由は、それしかない。結局、みな落ちこぼれだもん、仲良くしようよ、というのが暗黙の了解である。

今はかなり減った問題だろうが、たとえば嫁と姑の争いもそうだ。「家」から出る能力がない女どうしは、へらへら適当に作り笑いしながら嘘つきながら互いに軽蔑しあいながら、食っていけばいいのだ。それ以外の平和はない。殺し合いの大喧嘩はしないで、適当な小競り合いで生きていければ幸福な家庭だ。上司が部下を理解しているなどということはありえない。もちろんその反対もありえない。心の中でその上司や部下を何度も殺しながらも、出社すれば明るく挨拶しあえばいい。どちらかがストレスで癌になって死ぬのを待つしかない。さっさと死んでくれたほうがいい家族や同僚や知人に普通に接することができるのが立派な文明人というものだ。そういえば、私が前に勤務していたプロテスタント系の女子大(ここの話題が多いのは、私はここで人類の水準というものを心底学んだからであります!)では、会議で意見が対立した相手から翌日挨拶されても無視するというクリスチャンや地方公務員の子弟である同僚が多かったな。そんな「お子様ランチ」ですませられる育ち方をしてこられたのだから、実に優雅ですな。顔は下品だったけれども。今の勤務先を私が好きな理由のひとつに、会議でやりあっても、後に引かない人々が多いということがある。ガンガン机たたきあって言い合いしても、終わればケロリとしている(ただし、この点に関しては女性の同僚は男性の同僚に劣る。真面目というか世間知らずというか、「いい子ぶりっこ優等生」の成れの果ては困るよ。40歳過ぎたブスが「繊細な文学少女」やっていると気持ち悪いんだよ。ちゃんと堂々とオバサンやれよ〜)。

要するに、「平和」とは「これ以上さっさと逃げて出て行く広いところもありませんし、そこに行く能力もありませんので、かといって殴り合いの喧嘩は痛いし損だから、やめときます〜〜」という状態を意味するのだと、私は思う。核弾頭という元も子もない喧嘩道具を使わないで口喧嘩や石の投げ合いや殴り合いでごまかしながらやっていく「冷戦」というものしか、私には「国際平和」というものが、イメージできない。今回のテロリストの根城根絶戦にみせた「中東も好きにしたいだけだけど帝国主義侵略に見えないようにやらかそう侵略」を、うっかり「文明の衝突」に拡大してしまって、大喧嘩になって史上最大ホロコースト起きて、とことん収拾がつかなくなったら、やっとこさ停戦して、「冷戦」にもどすという形が、二一世紀後半からの人類の長い平和を作るのかもしれない。そのとき、本当に切実に「多文化主義」という思想が認知されるのだろう。あんまり好き勝手やると、自分で自分の首を絞めることになるとアメリカとその手下たちが気がついたら、「多文化主義」の真の始まりだ。80年代のそれはまあ、ままごとしてみたんだよね。最初は「ごっこ遊び」から始まるからさあ。それでも100年もたたないうちに、人類はやはり忘れるか。どんな悲劇を経験しても、歴史から学べないのが人類の水準だからね。でも「冷戦」でありさえすればいいよ。熱戦にならなければ、それでいいよ。