アキラのランド節 |
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凡人が英語やると馬鹿になる? [11/24/2001]日本人の英語力向上にも英語圏という異文化理解にも、何の役にもたっていないと罵倒されて久しい英文科(とかそれに類する学科)は、何とか延命しようと、時勢に応じて新しい科目をカリキュラム改正のたびにでっちあげる。わたしが学生時代であった1970年代から80年代初頭にかけては、女性の作家など、Virginia Wolfぐらいしか授業で読んだことがなかった。教師や男の院生など、「こんなこと女性が書けたなんて、ほんとは彼女が書いたのではないかもしれない。」と、平気で言っていたぐらいの時代だ。アメリカ文学に限っても、アフリカ系アメリカ人作家とか先住アメリカ人やアジア系、日系、ヒスパニック系作家、ゲイやレズビアン作家など、文学史にもほとんど載っていなかった。ジャンルもSFやミステリー、児童文学、大衆娯楽小説の類を扱うなど、許される雰囲気ではなかった。今は何でもあり、だ。通訳やディスカッションはもちろん、英米の映画や童話や童謡のクラスまで、英文科にはある。英文科だって、こういう無駄な努力はしている。しかし、こういう新しい科目に挑戦するのは楽しいのだよ。月に10万円くらいの書籍代はかかっても、学生が面白がれば、教師というものは何だってやるものなのだ。ほんとは、自分が一番楽しいのである。すみません。 ところで、どこの大学でもそうだと思うのだが、英文科所属の教師たちは、他学科の教師からは、はっきり軽蔑されている。なぜか?英語が好きだったので、つい大学院に進んでしまって、英語の小説や詩や演劇読んで、あらすじ紹介と感想文を飾り立てたような論文みたいなもの書いて就職できてしまいました〜〜という水準のスタッフが多いからである。他学科のスタッフと比較すると、はっきり馬鹿なのだ。特に、昭和一桁から10年代生まれのスタッフは、昭和30年代以来の高度成長期の日本において、大学が大量に開設された時代に、これまた量産された英文科教師や教養課程の英語教師として、実に容易に就職できた世代である。学問的訓練とか、競争の激しさとか経験していない。60代にもなって、大学教員を30年以上やって書いた論文数(一編400字詰め原稿用紙で換算すれば30枚程度のものですよ)が15本にも満たないという詐欺師が掃いて捨てるほどいる。他の学問分野の大学教員にとって、英語は情報収集と情報発信の手段にしかすぎない。英語で小説を読むことなど気晴らしの趣味でしかない。道具でしかないもの、趣味でしかないものを目的化して、それで学問しているつもりでいるのが、大方の英文科というものの内実であった。しかし、若い頃を文学作品やその解説書の英語読み取りだけに集中していられるというのは、それだけ知的好奇心の幅も狭いし、読書の幅も狭い、つまり視野が狭い、知識がない、生きる活力があまりない、ということだ。無理もないのだ。凡人がシェークスピアの全作品を原書で読破するだけでも10年以上はかかると思う。それでも英文科の学生でシェークスピア専攻というのは一番優秀なのである(ということになっている)。 自分が、大学とか短大とかそういう場所で働くようになって、気がついたのは、「一般的に、英文科の人間は、世間話でさえ幅が狭く、人間も面白くないし、公の場で論陣をはれないし、教授会のような場所でさえ発言に無駄が多くて論理性もない」ということだった。ただし、学内政治でマキャベリスティックに動くということもない。そんなややこしいことができる頭ではないのだ。おおむね、おとなしい無気力な人々である。問題なのは、このごにおよんでも、自分らは馬鹿であるという自覚が、英文科の教員に欠けることなのだ。この自覚があるゆえに自分の職業の意義に思い悩んでいる、という人には、あまり会ったことがない。英語が多少読めるだけのことなのに、自分を頭がいいと思っているのである。それくらい無知である。それくらい頭が貧乏である。英語で、頭が悪い安っぽい美人をbimboと言うが、academic bimboであるのが、英文科系教員だ。 外国語というものは、普通の能力の持ち主にとって一生勉強してもマスターなどできないものだ。凡人が英語ばかり、若年にやると、はっきりよけい頭が悪くなる。私は、バイリンガルなんて信じない。優秀な人間以外、バイリンガルなどというものは中途半端な頭の持ち主だと思う。植民地育ちで、英語と英語とは全く系統の違う類の母国語両方使用してやってきた人間に、創造的な知的活動ができるのだろうか?どちらかの言語はおかしいのではないか。思考は必ずどちらかの言語でしているに違いない。あのミシェル・フーコーの日本初の紹介者であり、妃殿下時代の美智子さんの相談役であり、大大秀才であった神谷美恵子氏でさえ、フランスからの帰国子女なので、やはり日本語はぎこちないぞ(みすず書房から全集が出ています)。内容はいいのに、文自体が回りくどく、読みすすませる芸には欠ける。バイリンガルには、少なくとも作家や、哲学者は出ないのではないか。政治家のスピーチのライターも務まらないと思う。 英文科人間の中途半端さを見るにつけて(あ、私は英語できないです。嫌いです。勉強しませんでした。歴史学科か哲学科に行きたかったのですが、食って行けないので英文科に行きました。日常会話に毛の生えた程度ぐらいしか話せません。国際学会に言っても内容が聴き取れません。文献の大雑把な趣旨さえわかればいいという雑な読み方しかできません。実質は高卒です。だから私はまともな人間です)、英語ばかりやって頭がぶっ壊れて、結局その英語もほんとうにはできない人間集団の中にいて、私は将来、どうやって食っていこうかと考えあぐねるのです。こういう中途半端な実用にもならんし学問でもないという学科を優雅に保持していられる余裕も、いずれ日本にはなくなるでしょうしね。ところで、雅子さん、赤ちゃんまだですか? |