アキラのランド節

悪夢がお好き? [01/30/2002]


某サイトを見ていたら、そこの掲示板に、誰かが「東大出ていないがゆえに、社会で被る屈辱とルサンチマン」について書いていた。その書き込みをした本人が、東京大学出てないから苦労しているんだそうである。本気で、そう思っているならば、再度、東京大学受験に挑戦すればいいのに。学士入学という制度だってあるんだからさ。掲示板なんかに書き込んでいるのは、本気で悔やんではいない証拠だな。本気ならば、愚痴ってる暇に、受験勉強しているだろう。30歳過ぎていてもいいではないの。本気で、そう思うのならばやってみればいい。愚痴りはするけれども、かといって状況を変える気はないというのは、今の自分の状況がそう嫌いではないのだと思うよ。ならば、素直に自己肯定すればいいのに。自分の人生だもの、誰に遠慮がいるものか。うんと愛せばいいのに。自分の現在を楽しめばいのに。べつに税金はかからないよ。ほんとに、男の子と言うのは、よく言えば社会性が豊かとでもいうのだろうけれども、他人との比較の中でしか、その序列の中でしか、優劣意識の中でしか、他人の目に映った自分としてしか、自分をとらえられないという点で、どうしようもない。だから、嫉妬から解放されないんだよ。だから暗いの。だから亜人間だというの。我ばかり強くて、自分というものがない。プライドばかり肥大して自尊心はない。育ちが悪いって、そういうことを言うの。

私が昔勤務していた、名古屋の某プロテスタント系女子大の女の子たちは、その点あっぱれであった。私は、この学校の教員とか職員は、ほとんど嫌いであったが、学生は好きだったよ。彼女たちが限りなく高く評価するのは、「センスがいいこと。カッコいいこと。気持ちいいこと。楽しいこと。」であり、そうでないものは、世間的にはどう崇め奉られるようなものでも無意味なのだ。もう完全にはっきりしている。自分たちの価値観の中で自己完結していて、迷いがない。たとえば、彼女たちは、地元で一番の国立大学であるN大学の女子学生に全く劣等感など持っていなかった。なぜならば、「薄化粧でも厚化粧に見えてしまうくらいメイクが下手で、おしゃれしても、せいぜい田舎のOLみたいな格好しかできず、ノリをよく見せようとはしゃいでも重くてうるさい」からだそうだ。もちろん、自分たちを教えている大学教員など歯牙にもかけていなかった。彼女たちが育った家庭と比較すれば、圧倒的に慎ましい=貧乏な家庭出身で、青春を楽しむべきときに辛気臭く本読んで教師になるしかなかった不器用な連中など尊敬などしない。したがって、うっかり教師を信用して、セクハラされるなどという間の抜けたことになど巻き込まれない。馬鹿な男の教師のあしらいかたなど、付属中学の頃からよくわきまえている。根拠なく自信があり、かつ自分が必ずもっと幸福になると確信して、情緒は安定していた。意外かもしれないが、あの種のお嬢ちゃん女子大というところは、女の子どうしの葛藤なんてないのである。苛めもない。自分は自分で幸福なので、人のことはどうでもいいのである。わざわざ苛めたり、悪口言いまくってシカトするほど他人に関心がない。余裕のある家庭で可愛がられて育ち、してもしかたない苦労はしていないので、明るくて基本的に素直で正直である。つまり、自分の欲望に素直なので、つきあいたくない人間とはつきあわない。したくないことはしない。いい子ぶりっ子はしない。義務より楽しみ優先。だから、ストレスがない。だから卒業生の離婚率も高いらしい。くだらないこと我慢しないのだよね。あの当時(1980年代後半から90年代前半)で、偏差値は50あるかないかだったけれども、「女社長」になっている率は高いのだ。ほんと。まあ、父親や亭主の会社引き継いだという例が多いかもしれないにしても、なかなかの快挙だ。あの子たちは、ゼミ合宿などで、どこかに旅したり、いっしょに食事しても、気が利いたし、マナーがいいから嬉しかったな。女の子の、ものの食べ方が綺麗で大らかで、爽やかに豪快なのは、いいものです。

私は、今でも彼女たちの自己中心的な自己肯定が好きだ。いたずらに自己卑下もしないし、とらわれてもしかたない劣等感などに脚をすくわれない「屈折のなさ」が好きだ。「他人と競争して勝たなくても、私はあらかじめ勝ってるもん」というあっけらかんとした姿勢が好きだ。自分は自分だから他人と比較してもしかたない、自分が楽しければいいという単純、素朴な本音むきだしの、生きることへの臆面のなさが、好きだ。女の子は、育ちのいいのに限るね。つきあうのに面倒がない。つまらん気を使わなくていい。育ちの悪い女の子は、競争意識ばかり強くてうっとうしいでしょ。育ちの悪い女の子の特徴のひとつは、同性への意地の悪さです。はい。

男の子も、ちょっとは、こういう女の子の真似してみればいいのだ。そうしてみれば、けっこう自分が幸福で、けっこう生きていることが楽しくて、今の自分がそう嫌いでもないし、惨めでもないということがわかるはずだ。自分の人生をきちんと引き受けて愛そうと思えるだけの「自分」という「内面」を育てそこなっていることの空虚さを、「自己陶酔」や「自己憐憫」や「呪詛」や「八つ当たり」や「大義」や「組織」や「他人からの是認」で埋めていて楽しいのかな。そういうのは、一種の気取り、虚栄でしかないよ。贅沢でもあり、浪費でもあり、かつ貧困でもある。私たちが、持っているのは、この「自分」だけなのだから、「自分で作ってきた自分と自分で作っている自分」だけなのだから、またそのこと自体を自覚できるのも「自分」だけなのだから、早く正気にならないと、早く当事者意識に目覚めないと、夢の中で生きていくようなものになる。それも悪夢の中でね。なんか、自分に不正直な男の子の人生って、ホラーだよね。醒めない悪夢って感じ。その悪夢の中で、わんさか敵と怒りと憎悪を捏造生産しているんだろう。ご苦労さん。