アキラのランド節

知られざる傑作(その1) [02/06/2002]


私は、フェミニストとしては、「小林よしのり」という漫画家を嫌いであらねばならない。だってこの人、完全に確信犯的セクハラ体質だぞ。そのセクハラ体質には全く翳りも屈折もない。実に堂々としたセクハラ体質である。女を女としてしか見ない。女を「おかあちゃん」としては見ない。美しいメスとしてしか必要としない。もう濃縮100%男である。日本の男には極めて珍しく、女に依存するマザコン気質が希薄である。嫉妬心や劣等感が、日本の男には珍しく希薄である。インテリ的屈折がないので、もう言語道断なほど男むき出しである。これで、つるまない体質の人だったら、言うことなしでカッコいいのだけれどもなあ・・・つるむ体質かどうかは、よく知らない。ともあれ、この人がセクハラで訴えられないのは、写真で見る限り美男子だし才能も金もあるので、女性にもてる(と思う)。だから、わざわざセクハラしなくても女は寄ってくるということなのだろう。しかたないさ。そういう男性はいますよ。ははは。あ、これは私が小林さんを好きだという意味ではありませんからね。「いい男」は、やっぱり得だという一般的な話ね。

私が、この漫画家は天才かもしれない、と思ったのは、彼の『最終フェイス』という漫画を読んだときだった。私にとっては、『ゴーマニズム宣言』や『戦争論』や『台湾論』よりも、『少年ジャンプ』時代の『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』よりも、『最終フェイス』がすごいのだ。これは、ほんとに、とんでもない傑作である。小林よしのりの知られざる傑作だ。徳間のコミック文庫から出ている。でも、もう絶版かもなあ。私は、この漫画を読んで、英文学史上における「一大美意識の転換」つまり「崇高の美」(sublime)の誕生というものが、初めて理解できたような気がした。18世紀の英国で、美意識が変わったらしいのです。というか、美意識の幅が広がったらしい。美しさには、beautifulとsublimeがあるっていうのが、英文学の常識なのですよ。後で話すけどね。小林よしのりという漫画家には、そんな意図はなかったかもしれないけれども、単なる彼流の「非人間的なほどの悪ふざけ」を全開させただけだったかもしれないけれども、無自覚にやったことならば、なおさらこの人は天才である。

『最終フェイス』のヒロインは、世界最強のブス「一条かれん」である。いくら漫画家でも、こんなブスは描くのもいやになるのではないかと、読者が思うほどブスである。どんな不機嫌でも、その顔を見ると吹き出してしまうくらいの、超ウルトラ・ハイパーブスである。どんな美容整形手術も改良できないほどの完璧なブスである。一条かれんは、人気作家である一条点線(松本清張がモデル)と美人女優である一条麗子のあいだの一人娘である。父からはその怪異なる容貌を、母からは誇り高い魂を継承した。「ぶっといマユ。広がりっぱなしのハナ。大ダラコのくちびる。はりがねのようなカミ」のチビで短足でウエストのくびれなど痕跡もないデブで、父親の点線すら内心、嫌悪・恐怖してやまないこのブスの娘に、母親の麗子は決定的な自己確信というものを与えて育てた。母親の麗子は、「さあ、よくごらんなさい、この子の顔・・・現代の美人の概念にひとつもあてはまらず、かといってブスというには深みがありすぎる!そう・・・この子こそ、美人の条件に最終的に決着をつける顔!この子は、顔面の革命児!未来の超美人!最終フェイスなのよ!!」と宣言する。見る者を呆れさせ、怒らせ、ひきつらせるブスゆえに持つ圧倒的な存在感のために、しだいに一条かれんは時代の寵児になっていく。「最終フェイス」の王座を競う、かれんに勝るとも劣らぬ「権戯洲恥美々」(ごんざれすちみみ)という名前の、アメリカの某オリンピック陸上選手をモデルにした、一目見たら絶対に忘れられないようなホモ・サピエンス離れしたブスも登場するよ。しかし、この「ちみみちゃん」は、健気で可憐で繊細で聡明で心が綺麗なのだよ。料理も上手なのだ。一条かれんは、もうピカレスクだけどね。堂々とした、どうしようもない悪女だけど。一条かれんのマスコミへの登場に刺激されて、日本中のブスが東京に集結するなんて展開もある。一条かれんから逃げ回っていたハンサムな少年も、しだいに美意識に変化が起きてきて、普通の美人を見ても、「しょせん、整形で作れるよーな顔じゃねーか・・・・・??」という心境になっていく。ついには、一条かれんを美しいと心から思い、避けまくっていた彼女に恋するようになるという結末。もう〜何度読んでも、あきれるほどにふざけまくった、下品でパワフルな漫画である。何度見ても一条かれんは、絶対に負けない、めげない、腹の立つほど可愛げのない自己確信のゆるがない究極のブスである。落ち込んでいたり、体調の悪いときには、小林よしのりの漫画は読まないほうがいいかもしれない。あの滅茶苦茶な悪ふざけに対抗できるだけの気力が充実していないと、彼の漫画には負けるかもしれない。数年前、私は落ち込んでいたので、彼の漫画が読めなかった。最近、また読めるようになって嬉しい。

ところで、あなた、文学研究の分野で人跡未踏の問題というのは、つまり学会で真正面から扱われない問題のひとつとは、作家の美醜の問題よ。ニューヨーク市立大学の大学院の比較文学の演習では、しっかり作家の美醜が与える作品や世界観への影響について議論していたよ。「シモーヌ・ヴェイユは美しくなかったから、虐げられている人々への共感というか、彼らと自分とを同一視できたのかもしれません。」「先生、美しくないって、uglyですか?homelyですか?どっちですか?」「先生、uglyとhomelyは違うのですか?」「ugly はbeautifulの反対であり、ずばり醜い。homelyは単に不細工ってことで、醜くはないの。」「じゃあ、シモーヌ・ヴェイユはどっちですか?」「どっちでもない。彼女はweirdだったの。そこがすごいの。」という会話が、教授と院生の間でかわされていた。ほんとうだって。このクラスのテーマは、「20世紀の女性知識人」だった。私は、耳を疑ったよ。何の話か?そう、「崇高の美」の話であった。残りは、続編に書きます。