アキラのランド節

知られざる傑作(その2) [02/14/2002]


小林よしのり作『最終フェイス』と「崇高の美」の話です。18世紀の英国で、文人ジャーナリストとして、『フランス革命の省察』(Reflections on the Revolution in France)とか、数々の政治討論集みたいなの書いて活躍したエドマンド・バーク(Edmund Burke)という人は、今でも政治思想や哲学の分野では、超ビッグな人らしいです。でも、英文科においては、この人は「美」というものが、どういうものであるか説明しつくして、美には二種類あるということを、つまりbeautifulとsublimeは違う!ということをきちんと指摘した人、ということで有名なのであります。『崇高と美の観念の起源』(中野好之訳・みすず書房・1999年刊・これは、全集の訳に入って1973年に出たものの再出版。A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful,1757)という本は、英文科では、必読書ということになっているのであります。実は、この本のおかげで、スティーヴン・キング(Stephen King)は、ホラー作家として食っていけるようになったのであります。いや、ほんと。これは、また別の話で、ここには書きませんが。

このバークという人は、どういうようなものに人間が「美しい=beautiful」と感じるかについてこう説明しています。簡単に言いますと、次の5条件。(1)小さい(2)滑らかな(3)漸進的変化をしている(=ゴツゴツしていなくて、急に形が変化していないこと)(4)繊細(5)色彩が明るく澄んでいる。つまり、顔が小さくて、肌がすべすべと綺麗で、顔の造作の芸が細かくて、肌が白くて透明感があって明るい感じで、首から肩の線、肩から胴体、胴体から手脚という線が自然にくぼみと隆起と線を形成している女性は、「美しい」のであります。こういうことは、大昔に、すでにエドマンド・バークという人が、言っていたのであります。だから、「片桐はいり」より、「神田うの」が美人だと、私たちは感じるのであります。こういう形状のものに、人間は愛情を感じ、「親切にしたいな〜〜〜」と感じるようにできている、ともバークさんは語っております。だから、「赤ちゃん」と「美女」「美男子」は、形態的特徴を多く共有するのですね。

ところが、同じく心動かされるといっても、愛や親切が沸き起こるのではなくて、「や、やばい!」と恐怖と危険を感じて、とっさに身を守ろうと、我知らず緊張して苦痛を感じさせられるような対象に出くわすことがあると。しかしその対象によって、直接暴力を受けたりするわけではない場合は、その緊張や苦しみには、その対象に対する驚愕、感嘆、畏怖がまじりあった喜悦へと、変換されると。そういう対象が「崇高=the sublime」だと、バークさんは言うのです。だから、崇高とは、(1)でっかい(2)ごつごつして野放図・直線的・とんでもない変化をする(3)暗く陰鬱(4)堅固(5)量感たっぷり、ということになります。

たとえば、イギリスの南部や中部など旅行しておりますと、もう景色はほんとうにビューティフル〜〜でありますね。国中が花壇という感じ。国中が箱庭。ほんとに「庭のイングランド」(あ、これをそのまま題名にした英文学の本があります。故名古屋大学教授の川崎寿彦氏の。名古屋大学出版局。私は興味がないけれど、一応言及しておこう)という表現がぴったりの、綺麗な、綺麗なたたずまい。明治以来、日本人が憧れた西洋の風景の雛形。これが、スコットランドの北とか行きますと、崖が切り立って、荒野〜〜〜bleak〜〜という趣です。こういう自然、人間が手を加えて整えていない、むきだしの厳しさと冷酷さをあらわにした偉大なる風景こそ、崇高の美というものでしょうね。バークは、アイルランド人だから、そういう北の荒涼とした人間を拒絶するような自然に馴染んでいたにちがいない。まさに「嵐が丘」ね。

新大陸アメリカに上陸したヨーロッパ人は、あのグランド・キャニオンの威容に、ほんとうに驚愕したろう。驚愕の度が過ぎて、麻痺してしまい何も感じられなかったぐらいに、仰天したかもしれない。私自身がそうだったように。あのね、どんな凄いもの見ても、見る人間が小さいと、その大きさも味わえないね。心の容量が小さくて、大きなものが入らないのね。私が、大学生のとき初めて見たグランド・キャニオンは、「豚に真珠」だった。「崇高の美」を感じて、受け止めて、そこに喜悦を感じるには、幼稚すぎた。「こんな、こんな大きいものが、なんでここにあるの?どうしてこういう無駄があるの?日本はあんなに狭いのに。何考えとるんじゃ!地球の無駄使いだ!」と憤怒を感じるレヴェルだった。つまり、「崇高の美」は、美意識の中でも、かなり高等な部類に属するのであります。恐怖や危険の中に、自らを変える契機となるような偉大さを感じて、そこに悦びを感じるという精神運動は、ガキには無理だったのであります。もっとも、あの頃の私は「崇高=the sublime」なんて言葉は知らなかったが。

ところが、それから20年以上経った40代初めに、私は突然気がついた。自分が英国的箱庭花壇的風景に退屈しか感じていないことに。小学生の頃はけっこう好きだった吉永小百合とか石坂浩二とかいう類の俳優さんに対して「せこい・矮小・小利口・馬鹿な優等生・人生なめとるんと違うか?」と、嫌悪と軽蔑心を感じていることに。美術館に行っても、印象派の絵もいいけれども、いかにも「泰西名画」チックな美男美女の絵もいいけれども、中世の宗教画もいいけれども、と同時に陰鬱な荒野を描いた大きな風景画、どこに視点があるのか不思議な、でっかい崖と森と大空を鳥瞰したような風景画、砂漠の絵、荒れた海だけの絵、廃墟の絵も好きになっていることに。ばっちりと趣味良く決めたファッションの女性よりも、タータンチェックのシャツに水玉のスカートに、レースのリボンなんかして、厚化粧に昔のフランス人形みたいな髪型している女性(大阪には棲息してるんだよね)の悪趣味に、感動したりしていることに。アンジェリカ・ヒューストンという女優さん(お化け屋敷Adam’s Familyのお母さん)に、「怖い・・・なんという怖い顔か・・・しかしなんという美人だ・・・」と魅了され、ジョン・マルコヴィッチという男優さんに(Sheltering Sky良かったですね〜)に、「なんという奇怪な顔だ・・・しかし、これはどんな美男子にも負けない顔だ・・・」と、恐怖に似た畏怖を感じていることに。だって、あんな顔が目の前に出現したら、怖いぞ、ほんとに。

欧米って、面白いなと思うのは、こういう「崇高」系の俳優さんが評価されるってことです。日本で「崇高」系の男優さん、たとえば三船敏郎とか三国連太郎とかが評価されたのは、アメリカ映画の影響でしょう。歌舞伎なら、完璧に悪役ですよ、あの顔は。若い頃のあのふたりの顔は、怖かったぞ〜〜超端正だと怖いものです。年くっても、あれだけ立派な顔というのは、若い頃は、気持ちが悪いくらいに整っていて、それを美男子と呼ぶには過剰な何かが横溢している顔だったのであります。だから、うさん臭い顔だったのであります。あ、これは「スズキムネオ」的うさん臭さとは別のものではありますが。普通のアイドル顔が年取ると、ただの生彩のないオバサン、オジサン顔になります。同窓会で、貧弱になった「元美人」「元ハンサム」を眺めるのは残酷に楽しい。小さい顎の細い顔は、しなびますね〜〜世の中はわりと公平だな、と思う瞬間ありますね〜〜はい。若い頃に、怖いくらいにグロテスクなくらいに迫力のある顔が、老いて普通の見やすい人間の顔になるのであります。みなさん、未来は明るい!何の話か。

『最終フェイス』の話でした。私はこの漫画を読んで、はっきりと、「あ、これは崇高の美について描いた作品なのだ!」「私は、やっと崇高の美がわかる段階に達したのだ!」と、わかったのであります。あのね、男性に関しては、「ジャイアント馬場」とか、「栃錦」とか、崇高系の市民権はあるのね。一応ね。男は、でっかくて、陰鬱で、暗くて、ゴツゴツしていて、堅固で、重量があって、いいのね。それはそれで邪魔臭いけど、まあいいわけ。フランケンシュタインって、可愛いいとも言えるよね。でも、まだ女性に関しては、崇高系の市民権はないの。まだまだ、日本には、「アンジェリカ・ヒューストン」が出ないの。「ジーナ・ローランズ」も出ないの。「アンジェリカ・ヒューストン」系が出ても、コミカルにされて、喜劇的に使われて、その崇高性が去勢されるの。「片桐はいり」の顔は実に見事なのに。確信犯的悪の輝きなんて発する役を演じさせてあげたい。女優さんの方にも、「アンジェリカ・ヒューストン」やるだけの器量がないの。「ジーナ・ローランズ」やるだけの迫力ないの。柄の大きい品格というものがないの。

だから、演出家の蜷川幸雄は『王女メディア』を平幹二郎に演じさせたでしょ。日本の女優さんでは、「自分の国を裏切ってまで愛した男が、他の女になびいたので、その女を謀殺ついでに、男とのあいだにできた二人の息子も殺して、高笑いしながらさっさと逃げる」なんて、あのギリシア悲劇のヒロインはできないの。映画では、オペラ歌手のマリア・カラスがやりました。あの顔の濃さは怖かった・・・ご存知ギリシャの大富豪オナシスの愛人だった人ね。国家の法と単身対峙して死んでいく『アンティゴネー』もやれないの、日本の女優では。「まつ」とか「ねね」なんて、どうでもいいでしょ。あほくさ。小賢しい女房なんて、どこにでもいるだろーが。そんなもん、わざわざ金かけてドラマにするな!!日本は、女に関しては、「崇高の美」後進国です。幼稚なbeautifulしか認めない国です。美意識の幅の狭い、矮小な物大好きな国です。そこに、小林よしのりは、「恐怖の究極のブスの勝利と、美意識の革命」を描いた。すごい。すごい。単なる冗談でしかない作品とはわかってはいるけれども、無自覚に書いたとしか思えないけれども、作家の意図はどうであれ、私はこの漫画を「傑作」と認定いたします。勝手に。

ところで、アイン・ランドって作家は、「崇高」系美人です。日本人が好きな「メグ・ライアン」系じゃない。彼女が造形した主人公たちも、「崇高」系です。彼女の小説には、この「崇高の美」志向が横溢しています。ランド自身は、beautifulとsublimeをごっちゃにしているけれども。天才って、無自覚なんだよね。