アキラのランド節 |
---|
王子様と王女様に贈る [04/06/2002]みなさん、「国策としてのブンガク産業?」の完結編(その3)は、書くことを当分延期します。なぜならば、なんとなく資料が集まってきて、論文になるかもなあ・・・と思いつつありますから。誰も期待していないから、いいよね?冬になったら、書けるかも。 だってさ、私は、若い頃、読書会だとか研究会だとかで自分が言ったことが、後で、その場にいた他人の論文に使われたことが何度かあったのよ。こういうことはよくあることだから、別に怒っているわけではないけれども、あまりいい気分ではなかったよ、それはやはり。それ以後、だから用心はするようになった。それに懲りて、自分の分野の読書会だとか研究会の類には入らないことにした。傲慢なこと言うつもりはないけれども、私程度が入れる研究会だと、私に得るものはないの。退屈なだけ。所詮は、いい年しても学生根性が抜けない幼稚な連中の「勉強ごっこ」だもん。若い頃に金がなくて、娯楽と言えば読書会ぐらいでした〜みたいな、教師やるしか能のない中年男女が、不倫するような度胸もないので、いやらしい視線を飛ばしあっているみたいな貧乏臭い研究会も多いしね。気持ち悪いんだわ、ほんと。しかし、私が利益をたっぷり得られるような研究会は、私などでは参加させてもらえない。ひがんで言っているわけではないよ。冷厳なる事実です。そういうものだって、世の中は。 ところで四月であります。大学も始まった。先日は、文学部新入生270名に英語の能力別クラス編成のためのPre-TOEFLが実施された。試験監督しながら、今年の新入生を、とっくりと観察する。10年くらい前までは、新入生は高校の制服脱いだばっかりで、何を着たらいいかわかりません〜〜という間の抜けた風情が、まだあった。しかし、年々歳々、新入生はお洒落になり、2年生や3年生と新入生の区別はつかなくなってきている。同じく、年々歳々、増えているのは、入学式にやってくる父母の数。母親だけなら、「まあ暇なのかも」と思うが、最近は父親も母親もおばあちゃんも家族総出で来る。もちろん、だから卒業式や入試のときも、親の出席や付き添いが年々歳々増えてきている。入学試験のときは、父母用待機室まで大学は用意する。彼らの親は私と同世代だ。なんで、そんなに暇なのか? ついでに年々歳々、私が感じるのは、新入生たちの「お坊ちゃん、お嬢ちゃん」的ノホホンとした、小動物のペットみたいな可愛らしさである。みんな、王子様や王女様みたいに、大事に気を使って育てられたらしき、庶民の環境では、あまり役に立ちそうもないおっとりした風情を発散させている。自分がアホで、新入生用のガイダンスに出席しそこなっただけのことなのだが、さも一大事のように、そのへんにいた学内労働者らしきおばさん(私だ)を捕まえて、ナントカしてくれと訴える厚化粧新入生もいる。だから何?ガイダンスなんか出なくても、履修方法など学生便覧読めばわかることだろーが。私は学生時代、そんなもんは、いつもさぼってたぞ。と言っても、しかたないので、丁寧に対処策を教える。授業料と施設費で年間100万円払ってくださるお客様ですからね。客に本当のこと言ってもしかたない。対等な人間同士としてのつきあいができるのは、卒業してからよ。馬鹿な客は、お店を出たらさよならね。卒業したら、さよならよ。むふふ。 しかし、王子様みたいに王女様みたいに育てられたにしては、倣岸なる自己確信には欠けるようであるなあ、このお坊ちゃまとお嬢ちゃまたちは。どうでもいいことに被害妄想的に過剰反応する。動きはタラタラのろいが、鷹揚ではない。こういう調子で、親にもギャーギャー要求してきたから、他人の大人にもいちいちゴチャゴチャ要求するのだろうか。こんな手間のかかるペットみたいなもんを、いつまでも飼育していられるほど、暇なのだろうか、今の親は? そういえば、ここ10年ぐらいで、あまり珍奇なことではなくなってきたなあ。単位が足りなくて卒業できないというので、親が大学に文句を言いに来たり、教師の対応がまずいとか言って、親が教務課に文句を言いに来る現象が。学長に直訴の手紙を出したりする親もいる。学生本人が、教員の研究室に来たり電話してきたりして、しつこく頼み込んだりすることは、昔からあったけどね。なんで、こんなに暇なんか、今の親は?私が、たった1単位足りなくて留年が決まったとき、うちの親は「恥ずかしいねえ〜〜みっともない。親戚には黙ってないといかんがね。あんたも黙ってりゃあ。」と、名古屋弁で言っただけだった。確かに、その程度で済んでしまうようなことなのだ、落第なんて。授業料は余分にかかるから、これは痛いけどね・・・ と、ここで、ハタッと思い出す。そうか、このお坊ちゃま、お嬢ちゃまたちは、私の姪と同世代だ。私は、姪の幼稚園の学芸会のお芝居というのを、姪の母親の妹につき合わされて見物に行ったことがある。『赤頭巾ちゃん』をやるとかで、主役の赤頭巾ちゃんを姪がやるということだった。幼稚園中退の私は(幼稚園のスクール・バスで降りるところをいつも間違えて迷子になっていたそうだ。で、行かなくなったらしい。)、郷愁と好奇心いっぱいに出かけたのだが、舞台で起きていることが最初の10分は何が何だか、さっぱりわからなかった。舞台には、赤頭巾かぶっているガキが四人立っていて、元気いっぱいに、頭が破けたように声を張り上げ、何か言っている。口上みたいなもんか?その中で、姪は台詞も言わずに、「ママ〜〜〜」とか言って母親に向かって手を振っている。親に似てアホである。その次の場面では、ベッドで四人のガキが体を寄せ合って寝ている。なんだ、これ?そこに、どやどやとさきほどの赤頭巾をかぶった四人のガキが登場して、声を合わせて「おばああさんの〜〜おくちはあ〜〜なんでええ〜〜おおきいいいのおおお〜〜」と言った。で、やっとわかった。なにゆえか、この舞台は、ひとり二役ではなくて四人一役であると。案の定、木こり役のガキも、狼から出てきたおばあさん役のガキもそれぞれ四人登場。最後は、狭い舞台にぎっしり十六人のガキが勢ぞろいで、わけのわからない歌を合唱して、大きな拍手を受けていた。 私は、妹に尋ねた。「なんで、それぞれの役を四人でやるの?わけがわからん。」と。妹は答えた。「だって、可哀相でしょう〜〜役のつかない子が。みんなが舞台に出れないと、可哀相でしょう!」と。そうか。幼い子どもたちの心を傷つけまいと、最近の幼稚園はそこまで配慮しているのか、なるほど、なるほど・・・でも、なんかアホみたいな気がするなあ・・・と私は納得がいかなかった。自分が舞台に立てなかったとかで傷つくことはあろうが、そんなもん過ぎてしまえば、忘れてしまう程度のことではないか?傷ついて悪いのか?劇の主役は、女の子ならば可愛くて利発でおやじが病院やってるみたいな良家の子女がやって、男の子ならば体が大きくて成績が良くて明るい運動神経の発達した子がやるもんだ。ドンくさいのは馬鹿にされ無視される。ドッジボールも、まっさきにボールをぶつけられる。「やめて〜〜」と言ってもボールは飛んでくるよ。 ガキの頃から、じわじわじわじわと、世間の実態にさらされるのはいいことだと思うけど。社会の実態は、階級社会で、弱肉強食で、エコヒイキはびこる不平等で不公平な世界だ。少しづつ慣れておかないとやばくない?小学校の教師は、PTAの会長の子どもに気を使うし、中学の教師は生徒の居住する地域とか親の職業にこだわるなあとか、眺めてきたからこそ、長じて、大学院の指導教授が、美人の院生の修士論文は自分が代筆するなあ、とか、お気に入りの院生の修士論文は提出期限が遅れるのを大目に見るなあ、とかの事実を目撃しても、「こんなもんだろ、世間は」と達観していられるのである。「こんなもんだろ、世間は」と思えるからこそ、世間をあまり恐れずに生きていけるのだ。だからこそ、「こんな程度の世間に翻弄されるはずないよ、あたいが」という闘志だって生まれてくる。「大学教授なんて偉そうな顔してても、これだけ下品な馬鹿でも勤まるんだから、誰でもできるな。ほんとに、こいつ東大出か?」とか、地位や学歴などで他人を判断しないことも身に染みて学習するのだ。 皇族とか大財閥の御曹司として生まれて育つわけじゃないのだから、庶民のガキが「傷つくこと」を恐れて育っていいもんだろうか?どっちみち、傷だらけになるんだから、その対処を教える方が、「みんなが主役」みたいな偽善やっているよりも、大事なことだ。「傷つくこと」は、チャンスでもあるのだということや、「傷つきながら生きていくのは悪いことではない」ことを教える方が、大事なのに。トラウマだの、AC(アダルト・チルドレン)だのと言っても、トラウマの原因とAC産出の原因は、消えないよ。こんな、しょーもない概念を広めたのが、世界で一番豊かで強くて、子どもを傷つけずに養育する余裕があるアメリカだというのは、当然というか皮肉というか。一都市のビルをふたつ破壊されたくらいで、あれだけヒステリーになるんだから、よほど傷つくことが許せないんだなあ。いいよね、帝国のお坊ちゃまとかお嬢ちゃまは。 運動会でも一等とか二等とか順位をつけないで全員に参加賞を渡すような現象は、いつ頃からこの国に生じたのかな?1980年代の半ばぐらいから?遅くとも、1990年代には、こういうことは話題になっていたよね。そうか。最近の大学生ぐらいの日本人は、こういう配慮がされた学校などで育ってきたのか。そうか。家庭でも、学校でも、彼らは、王子様に王女様みたいに扱われてきたわけか。ならば、ひとりで入試会場にも来れないし、苦手な教師がいれば親に訴えるよなあ。ちょっとしたことで切れもするし、引きこもりにもなるし、不登校にもなるよなあ。たかが、留年ぐらいで大騒ぎするよなあ。好きな女の子が振り向いてくれないからって、ストーカーもするよなあ。ならば、教室で、「僕はまだプリントもらっていません」と言えずに、ただ、じ〜〜と教師の顔を黙って恨めしそうに見るしかないよなあ。で、「自分でちゃんと言わないと駄目だよ。ここは幼稚園じゃないよ。ただ黙って待っているやつなど無視されて当然。」と教師に言われたら、次の時間から授業に出ないとかいうことになるよなあ。で、そうなると、単位が足りなくなるよねえ。で、親は大学に電話してきて、「なぜ、もっと早く親に連絡してくれなかったのですか。」とか怒るわけよ。でも、「あんたんとこのお馬鹿息子を中心に、世の中回っているわけではないからさ」とか言えないわけね、サーヴィス業としては。 不思議だ。なんで日本みたいな貧しい国が、国民を王子様や王女様に育てるの?貧乏な家のガキが甘やかされて育ったら、生きていけないではないの。マナーも自信も身につけた、どこに出ても気後れしない、ダイヤモンドみたいに傷がつかない心を持った、決して物事にびびらない王子様や王女様に育てる=日本人インド人化改造計画(この国の人々はすごく誇り高くて、インド人が世界で一番美しいし頭いいと信じて疑ってない。ほんと。ニューヨークでも態度の大きな堂々としたアジア人って、インド人だった)を、国策として展開しようというわけでもなさそうだし。 この国の王子様は、平気で痰やつばを道端に吐くし、食べた弁当のプラスチックの器はゴミ箱に入れずに、そのあたりにほうりっぱなしにするぐらい大らかに育っていらっしゃるのに、自分の人生には大らかな夢を描く心の自由さえ持てず、学生のうちから安サラリーマン的発想で無気力で怠惰である。この国の王女様は、地下鉄の中で化粧をし、東南アジアの売春婦さんみたいな格好しながら咥えタバコで歩いているほど天衣無縫にお育ちなのに、自分の人生の可能性に関しては天衣無縫に信じられずに、男の寄生虫になるべくセコイ計算ばかりしている。 さあ、この国の王子様や王女様のしょうもない、自給1000円も稼げないプライドに傷をいっぱい、いっぱい、つけて差し上げましょう。私は、心から祈ります。この4、5年間のうちに、この王子様と王女様たちが、ほんとうの自尊心というものを育てて、本気で自分たちを、本当の意味で「自分の人生の王子様」や「自分の人生の王女様」にしようと自己改造する意志を獲得しますように。自分を育ててくれた親の確信のない気弱でひ弱で中途半端で愚かな愛情に感謝しつつも、黙って静かに心理的親捨てをすることを学びますように。そういう親子関係と教育環境を生産するこの国の「偽善的で無責任な女・子ども的いい子ぶりっ子の浅薄な正論文化」から脱出することを学びますように。以上のことばを、新入生のみなさんに贈る言葉とさせていただきます。しっかり、傷ついてください。期待しております。 |