アキラのランド節 |
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映画『卒業』の謎が解けた [09/03/2002]約4ヶ月ぶりに書きます。出張先のホテルの空調と乾燥で風邪引いた。仕事ができないので書きます。九月になっても暑い。明野照葉の小説に『赤道』というのがあって、バンコクの年がら年中酷暑の気候に頭と精神をやられる日本人の話があったなあ。私は、昔、シンガポールに行って心に決めた。二度と東南アジアには行かない。高温多湿は大嫌いだ。私の遺伝子に南方系はまじってないよ。耳垢だってサラサラしているもんね。耳垢がベタベタしているのは、南方系なんだよ。南方に偏見があるって?あるよ。悪い? で、8月の2週間だけニューヨークに滞在した。短期賃貸用のアパートで数日間爆睡した。だらだら眠った。日本の夏の夜の不快さから来る睡眠不足をしっかり取り戻した。あの街の喧騒を勝手に潮騒だと思い込みながら眠った。調べ物があって行ったので、今回はブロードウエイ観劇も美術館めぐりもほとんどしなかったが、ひとつだけ見たのが1960年代の映画『卒業』のリメイク舞台版。あのダスティ・ホフマンがキャサリン・ロスの結婚式ぶちこわすストーカー映画だ。アン・バンクロフトが演じたロビンソン夫人の役を、舞台ではキャサリン・ターナーが演じた。忙しいのに、なんで観に行ったかというと、「あのわけのわからない映画の意味が、わかるようになるかもしれん」という好奇心だけ。『タイタニック』みたいに映画を単に舞台化しただけっていうのは、ブロードウエイでもやるけれども、最新ヒット映画の舞台化ならいざしらず、35年以上も前の映画をなんで今更舞台にするのか?何かあるにちがいない。匂うな。行って観てこよう。まあ、下らない舞台ならば、インターミッションで帰ってくればいいわけだからさ。 で、観た。大いに満足した。そうか〜〜〜こういう『卒業』なら、わかる!と納得した。あの映画は私が中学時代に封切されたのだが、実際に観たのは大学に入ってからで、その後何度もテレビ放映などで見た。しかし、何度観ても、何がいいのか、さっぱりわからなかった。なんで、あれが名画なのか?青春の名画なのか?東部の名門大学卒業して故郷のノース・キャロライナ(だったかな)に帰ってきた青年が、将来の指針もなく漂っていて、両親の友だちの有閑マダムとの情事にあけくれ、そのマダムの娘を好きになって、その娘の結婚式をぶちこわしてふたりで駆け落ちするという話だ。だいたい、キャサリン・ロスが演じたマダムの娘(UCバークレイに行っているという設定)が、なんでダスティ・ホフマンにほれるのか?好きになるはずないじゃないか、あんなゴージャス系の美人が、あんなうじうじした男に。エール大出ながら「教師」になろうとしている覇気のない男だよ。実家に帰ってきて、ぐだぐだ、だらだらと全く馬鹿みたいな奴だ。 それに、自分の母親の愛人だった男なんかと結婚するか?いくら馬鹿な世間知らずのお嬢ちゃんでも、それは気持悪いだろーが。あ〜〜〜気持悪い。音楽がいいからといって、騙されてはいけないよ。あれは、ほんとうに下らない映画だ。 舞台では、映画と違って、キャサリン・ターナー扮するロビンソン夫人と娘の関係が丁寧に描かれていた。夫人は、金と時間と美貌に恵まれた上流中産階級の有閑マダムで、人生に倦怠していて大学出たばかりの若い男の子ひっかけるような暇つぶしをしている。この夫人は、若い頃、自動車の中で一回だけした性交渉で妊娠したので、しかたなく好きでもない男と「できちゃった結婚」して、体裁と偽善だけの郊外族(suburbia)の良妻賢母を演じてきたが、実は俗物の夫や世間の慣習のくだらなさを心底軽蔑している。映画とはいささかニュアンスが違って、夫人はきわめて知的な女性として造形されていた。まあ、こういう洞察力と観察力ある頭のいい女性がたまたま美人だったりすると、条件のいい結婚ができてしまうから、安易にそちらに流れ込んで、結局自分のエネルギーもてあまして、浪費か浮気に走るという例ですね。三島由紀夫の『美徳のよろめき』の世界ね。この夫人が、うじうじ青年を情事の相手にしたのは、青年と自分が反世間の反俗物の反逆精神が共有できたからだ。だから、互いに正直に自分の気持をさらけ出したりできる。社会的不適応者なわけよ、ふたりは。 この夫人は、情事の相手の青年が自分の娘に会うのを嫌がる。嫉妬からじゃないよ。こんなちんけな男の子に嫉妬なんかしないよ。夫人は頭がいいから、娘が夫そっくりの単純で馬鹿馬鹿しいほど無邪気なAll American Girlだってこと知っている。可愛いといえば可愛いのだけれど、物事を深く考える資質が欠けた人間だって知っている。この手の娘が、東部の名門大学出たばかりのうじうじ青年に会ったら、勘違いして恋してしまうことが予測できる。うじうじした小心男を「優しい人」とか「翳りのある人」とか言って恋してしまう女の子っているでしょう。「気の弱いやつ」と「優しいやつ」の区別もつかない女の子って多いからね。夫人は、自分のような頭のいい、すれっからしの中年女を相手にしているうじうじ青年が、娘に出会えば、その単純さと無知を純潔な天使のような無垢と勘違いして、娘に恋してしまうだろうことも予測がつく。真面目な世間知らずな男の子が、無神経で厚かましい田舎の女の子を大らかで明るい無邪気で清純な娘としてロマン化するって、よくあることだ。 案の定、青年と娘は恋に陥る。夫人は、このふたりが将来幸せになれないことはわかっているから、反対する。青年が自分を強姦したと「告白」してふたりの仲を裂く。娘は医学部を卒業した申し分のない好青年と婚約し結婚式の日を迎える。舞台では映画とは違って、挙式の真っ最中に、突然教会の窓をたたいて大声で叫んだりしないのだ、青年は。控え室に入り込み、娘ときちんと話し合うのだ。娘は青年を拒否する。娘は青年に憧れはあったけれども、愛してはいないとわかったから。 しかし、その後で母親である夫人と青年が話し合うのを、娘は立ち聞きしてしまう。母親が娘の性格を分析して、青年にとってはいいパートナーではないと言っているのを聞いてしまう。で、娘は前言を翻して、結婚をとりやめて青年と逃げることにする。なぜならば、この娘は有能で知的で美しい母親に劣等感があり、自分が母親に愛されていないのではないか、母親から軽蔑されているのではないか、という不安をかかえていたから、母親の自分に対する否定的評価をはっきり聞かされて、あらためて母親に反抗する気になった。青年と逃げる気になったのは、母親への宣戦布告だ。「私は、そんな馬鹿じゃないわよ!なによ、あんたなんか!」というわけである。また、現にそういうことばを母親に初めて投げつける。良家の子女が生まれて初めて母親に対して口汚く怒鳴る。娘は娘なりの意地もプライドもある。「私だって、できるんだから!」ということである。 立派なのは母親のロビンソン夫人。娘の初めての反抗のことばに、にやりと笑う。馬鹿な娘がやっと大人になるべく、自分に堂々と挑んできたのだ。馬鹿だけど、あっぱれ、というところか。結局、不幸になるのが目に見えていたって、子どもは子どもの選んだ人生を行くしかない。母親が娘に言った最後のことばは、たった一言Bless!だ。「好きにやんなさいよ。どうなっても、あんたの人生だもん。やっとあんたも私から卒業したんだから。」というニュアンスだ。 映画は、花嫁姿の娘と青年がバスに乗っている場面で終わっていたが、舞台は違う。ふたりは、とあるモーテルにたどり着くわけだが、娘は明日の朝食べるシリアルを気にしている。青年はトランクに入れてきた娘の好きなシリアル(朝食用に、ミルクぶっかけて食べたりするやつ)を取り出す。ふたりは、ベッドに入って仲良く、シリアル(いろんな形の粒がはいったシリアルらしく)選り分けて食べたりしている。娘は、まだそんなことにこだわるくらい幼稚なのだ。それが楽しいくらいのガキなのだ。 何かから自由になりたくて青年は彷徨を続け、恋を成就させた。そのために両親も傷つけた。故郷にはもう帰れないだろう。しかし、初めて自分を貫いて、ここに愛する娘といっしょにいる。その娘は、シリアルを選り分けている。日本で言えば、命賭けた恋の末に駆け落ちした先の宿で、娘が「今日、SMAPが出るのよ〜〜」(古いか)とか言ってテレビにかじりつくようなもんだろうか。青年は、初めて誰かを守り保護する立場に立っている。娘がシリアルを選り分けるのを見守っている。誰のせいにもできない。これは自分が選んだことなのだ。青年は、このとき初めて「大人」になったのかもしれない。「卒業」したのかもしれない。舞台は、ベッドでシリアルを選り分ける娘を手助けする青年という構図で終わる。こっけいなような、にがいような、物悲しいような、切ないような、幕切れ。初めてのふたりの夜に青年は孤独を感じている。娘にはそれがわからない。それでも、ふたりは、これからふたりきりで生きていくのだ。互いに愛し合っているわけではなく、理解しあっているわけでもなく、単なる意地で駆け落ちしてきただけなのではあるが。まあ、瓢箪から駒ということもあるからさ、ふたりきりでジタバタしているうちに、何とかなるかも。 この舞台は、トニー賞は受賞できなかった。いい作品なのに。50歳近くのキャサリン・ターナーは全裸にまでなって熱演したのだが。あの年齢になると、ほっておけばすぐ太るから、肉体管理は大変だろうなあ。私は、「青春映画の傑作」ということになっている『卒業』の意味がやっと理解できたよ。私にとってはわけのわからん映画だったが、当然だったのだ。だって、あの映画は何も描写していなかったのだから。人物も何も。舞台版の方が、はるかにきちんと人物造形ができていて、台詞もよかった。でも、あそこまで渋い内容になると、ヒットは難しい。大方のアメリカ人には無理だ。わかりやすいハッピー・エンディングじゃないと駄目だ。二人でお手手つないで夕陽に向かって走らないと駄目だ。 劇終了後に帰る観客たちの顔は、迷っていた。面白くなかったことは断じてないのだが、でも、よくわからないな〜という顔だ。どう反応したらいいか困ったような顔が多かった。キャサリン・ターナーという映画スターが出るから観に行ったという「おのぼりさん客」だと、あの劇はきつかったかもしれないなあ。喜劇なんだけど、なんか身につまされる苦渋が残る喜劇なんよ。「大人」になることの寂寥と苦渋とこっけいさと、覚悟と。 ところで、映画版にせよ、舞台版にせよ、私には気になるシーンがあるのです。大学卒業して故郷に帰ってきた青年のために、両親がホーム・パーティ開いてくれる。招待客の一人のおじさんが、青年に「君にとって将来役に立つことを、ひとつ教えてあげよう。」と言って、「プラスティックだ。」って言うのであります。これは、なにかよくわからない台詞なのだよ・・・わかる?アイン・ランドの小説のThe Fountainheadの中に、主人公のロークに彼の師匠であり不遇の中で死んでいく天才建築家ヘンリー・キャメロンが病床でロークに言うことばがある。「これからは、プラスティックだ。」って。つまり、建築の素材も新しいものがどんどん開発される。未来は、プラスティックの時代だろうとキャメロンは予言するのだ。1920年代を舞台にした物語の中で。ランドの小説が本当の意味で凄い人気を博したのは、実は1960年代。映画『卒業』の製作・発表時期なのです。関係あると思うのだけどなあ・・・どなたか、このことで何かご存知ですか? この舞台版は2002年8月18日で終演になりました。今行っても観ることはできません。 |