アキラのランド節 |
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なんでだろう、なんでだろう??(その1〜3) [03/02/2003]なんでだろう、なんでだろう??(その1) 勤務先の大学の入試シーズンは、あらかた終わった。入学試験が終わる頃、大学前の道路には受験生出迎えの車がズラリと長々と並ぶ。早朝の気ぜわしいときに、公共交通機関の混雑をはばかって(痴漢も出るし。私は大昔、地元の国立大学受験の朝、電車の中で生まれて初めて痴漢に会った。目の前にサラミ・ソーセッジが一本あったのだ。最低。露出症変態男はすべからく死刑にすべきだ。変態サラミはシュッレッダーにかけるべきだ)車で送るというのはわかるが、なんで迎えにまで来るのか。幼いガキじゃあるまいし、終わったら勝手にひとりで帰らせればいいではないか。娘なら痴漢の心配もあるけど、息子などほかっておけばいい。だらだら狭い道路に並ぶな。クラクション鳴らすな。うるさいんだよ。 うちの大学を受けるような青少年の未来は厳しい。掛け値なしで実力で生きていかなければならない層の人間だからなあ。否が応でもまともに生きていかなくてはならない層だからなあ。だから、せめて家庭の中でだけ、思いっきり甘やかして大事にしてあげようという親心だろうか?しょうもない。なんで、今の親はそんなに暇なのか。17や18にもなったガキの世話でもしていないと暇がつぶれないのか。気色悪い。大の大人が、ガキに相手になってもらわないと寂しいのか。恥ずかしくないか。また、昔のガキは、親が迎えに来るのなんか嫌がったものだ。大人ぶり、何でも自分でやりたがって背伸びするのが、ガキというものだったのになあ。 なんでだろう、なんでだろう??(その2) いつ頃から、日本にはこんなにペットが氾濫するようになったのか。私の勤務先の大学は、巷では「ハウステンボスか、桃山学院大学か」って噂される(?)ほど、キャンパスには金をかけている。管理には神経質だ。なにしろ欧米の公園なみだから。オーストラリア製の煉瓦使っている。トイレにはウォッシュレットよ。緑も豊かで散歩にはもってこいなのだ。で、早朝とか夕方になると、近所の人が犬の散歩にやってくる。ついでに、馬鹿犬の糞の始末もしないで去って行く。程度の低い連中である。 これが東大か京大だと敷居も高いしキャンパスも汚いので散歩する気になどならないのは当然のこと、何よりも部外者は入れないのだろうけれども、うちみたいに敷居の低い、美しく快適だが、あくまでも庶民的な「コミュニティに開かれた大学」には、こういう馬鹿犬と同じくらいの馬鹿人間が、厚かましく入り込む。拝観料でも取りたいところだ。ディスコ並みに、ファッションと顔のチェックでもしたいところだ。 私は「ペットなど飼う人間は、支配欲の強い歪んだ幼稚な人間である」という確固とした見解を持っている。家畜ならわかる。盲導犬ならわかる。警察犬ならわかる。なんでペットだよ。ペットなんて惨めな存在じゃないか。人間の世話と保護がなくては生きてはいけない要介護重度障害生物じゃないか。そんな生き物として半端なもの相手にして楽しいなんて、歪んでいるとしかいいようがない。サディストなんじゃないの?生き物への尊敬とかほんとうの愛情がないのではないの? 圧倒的に自分より弱く小さなものしか相手にできない人間に、愛などあるのか。言語能力が貧しくて、同じ人間とは意志の疎通ができないから、ペット相手に独白をしているのか。動物園も悲惨でみじめだけど、ペットというのは、もっと惨めだ。馬鹿な人間に飼われて、いじくられているペットは、その飼い主そっくりのマヌケで下品な顔つきや体つきになる。見よ、盲導犬の凛々しさ、無駄口たたかない清冽さ。あの静かなまなざし。ペット流行なんて、どう考えても、すごく不健康で陰惨な現象だ。それとも、これってディズニー・アニメの影響?だって、あそこのアニメには必ず主人公にくっついて主人公の世話をやく小動物がいるでしょう。まあ、アニメ批評では、あの小動物は人間中心主義(androcentrism)の自然征服願望の具現、西洋近代的欲望のカリカチュアということになっております。要するに、自分勝手な子どもだってことだよね、やはり。 なんでだろう?なんでだろう??(その3) 私は、若い頃から必死で勉強したということがなくて、仕事で必要なことは、食っていくためにしかたなく覚えたという程度の、基本的には全くインテリではない人間だ。しかしその私は、大学教員として就職して約20年、「この人ほんとうに知的だな〜〜」とか「聡明な人物だな〜〜」とか同じ英米文学関係とか英語学とか英語教育とかの業界の人間に対して感心させられたということが、あまりない。特に同僚となると、はっきり言って、そいつらの愚劣さの尻拭いをさせられたことのほうが圧倒的に多かった(現在の同僚は普通の人々が比較的多いので実にありがたい)。みな、私の出身大学よりは世評も偏差値も、はるかに高い大学や大学院の出身であったが、そいつらの頭の悪さや人品の卑しさはすごかった。もちろん、私が今まで勤めていたところは、田舎の公立短大とか、田舎の女子大とか、そういう類のところだったので、優秀な人間が集まるところではなかったという理由が主たるものだろうが、私が言いたいのは、そういうことではない。 私が言いたいのは、世間の人間より長く勉強もし、ものを考える時間もあったであろうし、それこそが仕事でもあるような研究者に、とんでもなく異常なほどに他愛のない幼稚な人間が多いのはなぜなのか?ということなのだ。 たとえば、東大出の某有名英文学者で某有名私立大学教授は、学生が他大学の大学院を受験するので推薦状を書いて欲しいと依頼したとき、なにゆえか受験先の大学院のスタッフなどを記したパンフレットを持ってこなければ推薦状を書けないと怒鳴ったそうだ。なぜならば、「僕の推薦状は、受験先の大学のスタッフに多大なるプレッシャーをかけるから、もし知人などいたら、僕に気兼ねして、公平な入試ができなくなるだろうから、僕もいろいろ考えなければならないから」なんだそうだ。その教授は、自分の推薦状の価値の大きさと影響力に無知なる学生の「無作法」と「無礼」に怒りまくったそうだ。 まったくなあ。自己評価のこの誇大妄想ぶりに、学生への居丈高なぶち切れ具合、この気取ったもったいつけぶり、全てが他愛なく幼稚だ。全てが貧乏臭い。英文学の業績など、社会的有用性などないし、学会でいくら有名でも社会的発言力も影響力も皆無だし、そいつの論文や著書など読まれることもない。学会員ですら読みやしない。学会員の9割は研究などしない。もともとが、内的動機とか、自発的な知的好奇心なんてないので、専任の職が決まれば読書もしなくなるから。だから30年も同じ作家だけ研究しているのに、そのへんのアマチュアの読みや洞察に劣る見解しか持っていない、ということになる。 文学系教員など徹頭徹尾無駄なこと、不毛なことやっているのだから、せめて学生相手ぐらいにはサーヴィスして当然じゃないか。推薦状など、初めて会った人間や、会ったことない人間のためでも書こうと思えば、いくらでも書ける。文学研究者のくせに、その程度の想像力も感受性もないのか。羞恥心も美意識もないのか。まあ、努力してきたけど「金にもならんし、尊敬もされんし、女にももてんし」という不遇感ゆえの八つ当たりなのだろうけれども、それはしかたないよ。世間は何のかんの言っても正直だから。いてもいなくてもいいもん、英文学者なんて。横丁のラーメン屋ほども社会に貢献してないもん。食っていけること自体が法外な幸せってもんよ。感謝しこそすれ、不遇感だなんて、何様のつもりだ。 これはほんの一例である。全くもってして、私のいる業界では、まともな普通の大人に会うのは僥倖に近い。特に、なぜか男は狂っている。だいたい狂っている。ほとんど狂っているな。私は、自分の属する業界の有名人(?)たちと個人的に話したいとか全く思わない。会いたいとも思わない。まず、つまらない、ろくでもないガキだからだ。一方的にお守りさせられるのはかなわんよ。 そこなんだよね、不思議なのは。学問したって、幼稚な他愛ない人間にしかならない。これって、どういうこと?これって、日本における学問は頭を余計悪くして、人格の陶冶には全く無益だってことでしょう。それとも、私の業界のやっている学問は、学問なんてもののうちには入らないってことか?もしくは、学問は人格にはいっさい関わりないってことか。人間を賢くしない学問って何なのか?そういえば、名古屋大学のセクハラ強姦教授は、哲学の専攻だったっけ。そうか、宗教も哲学も学問も人間を向上させることは、滅多にないということか。ああ・・・こういう現実を直視するのは、辛くて寂しいものだなあ。そうだ、この現実に対処すること、この現実の意味を考え抜くこと、これが学問なんだな。ならば、いつから、現実逃避が学問の別名になったのか。 |