アキラのランド節

若き英米文学専攻大学院生に捧げる [05/05/2003]


以下の文章は、2002年の12月14日土曜日午後に関西の某大学で開かれた某学会関西支部大会での、「大学で英文学をどうするか」というテーマのシンポジウムにおいて、パネラーとして私が発言した内容であります。パネラーは、司会兼パネラーの方が京都大教授で、もうひとり京都大教授、神戸大教授、京都の某私立女子大の方がいらして、あとは桃山学院大学の私の計5人でした。

大学で教えているといっても、旧七帝大系列国立大学と地方国立大学では、かかえている問題も教師の切迫感も違います。私立大学でも短大あがりの零細企業規模の私立大学と、学生数8000人規模程度の私が勤務する中小企業クラスの大学とでは、これまた同じ私立大学でも意識は違います。私は、私の知っている現実を踏まえて、話すしかなかった。こんなシンポジウムなど無意味なことだ・・・こういうシンポジウムの企画自体、何か大きな勘違いだ・・・と感じつつ、以下のように発言したのであります。

あのお、私も来年50歳になりますので、もう本当のことを言ってしまおうかと・・・みなさん、もういい加減に現実を直視しませんか。自分に都合のいいようなことをあれこれ考えるのは時間の無駄ではないでしょうか。55歳以上の人間は食い逃げることができるが、それ以下の人間は、今後は定年までしっかり、英米文学研究で食っていくということはできない。はっきり不可能です。ですから、今現在、大学院生の方々は、指導教授の方の生き方など参考になさいませんように。親御さんが、大学の文学系教授だとか言う方々も、もう親御さんの生き方など、参考になりません(土台、こういう時代に、親の職業を踏襲しようとすること自体が、あまりに愚かで、人生を、世の中をなめていませんか?頭が悪くありませんか?)。

 英米文学研究者が何を考えようと、何をしようと、英米文学系の学科は消えていくし、実用英語教育や幅広い英米文化教育にシフトしていきます。社会がそれを必要としているのだから、その趨勢を英米文学研究者の都合で変えることはできません。今まで、英米文学系の学科が存続してきたのは、特定の歴史的条件があったからで、英米文学研究者の努力や貢献のせいではありませんでした。全く、そうではありません。その歴史的条件とは大きく考えれば以下のふたつです。

まず、第二次世界大戦後のアメリカ帝国の属国=日本が、宗主国の文化圏の文学を研究することは、政策として推奨されてきました。だから、どんな田舎の国立大学にも、英文科系学科はあるのです。しかし、それだけのことであり、それ以上ではありません。もし、もっと自覚的に、アメリカ(およびそれとくっつきつつ対抗もしてきた英国)という宗主国とやりあっていかねばならない日本という国の運命を、本気で政府が考えていれば、英文学系研究者の優れた人々は、国家戦略を考える場で意見を求められたり、大使として英米に派遣されたりとか、いう事例があってもよかったはずです。しかし、そんな例を、私は寡聞にして、聞いたことがありません。つまり、文学から推し量れる国民性とか、国民の思考とか、その検討・分析を国策に反映しようと、政治家が考えないほど、文学の意義というものは、日本では考察されていないのですよ。この意味で、日本は、文化国家であったことは、ありません。これからも、ないでしょう。衣食足って礼節を知るバブル時代でも、文化国家ではなかったのだから、これから衣食足りない時代になるかもしれないのですから、もっと見込みはありません。

また、アメリカの傘の下における経済成長のおかげで、大学で文学を学び、実学を学ぶ必要のない人間を大量に抱える余裕が日本に生まれた、ということも大きな理由です。子弟を遊ばせておける可処分所得の高い家庭が増えたこと&社会的有効性の高い技術や知識のない人間を雇用して、職業訓練を課す余裕が企業にあったことも、英文科系学科の存続に大きな影響を与えてきました。ご存知のように、英文科系学科の学生は、圧倒的に女性です。将来、自分の才覚で食っていかなくてもいい、専業主婦予備軍が学生の圧倒的多数だったということは、その証左でしかありません。

しかし、今や、アメリカも帝国の維持に汲々として、属国の文化的洗脳を優雅で悠長な形式で勧める余裕はなくなりましたし、それに洗脳はほとんど完了しましたので、もう必要ないのです。加えて、日本も大量の遊民をかかえる余裕はなくなりつつあります。ですから、大学における英文科系学科はどんどん衰退していくしかありません。それでも、リベラル・アーツの一部門としての文学研究は少数の大学の中に残るでしょう。しかし大多数の大学には残らない。我々は、大学での職を確保したいのならば、実用英語教育のスキルに徹底するか、自分に付加価値をつけるしかありません。ひとつの分野で勉強してきた人間ならば、他の関連分野に「学習の転移」ができるのであるから、文学テキストを利用して教えられる分野ならば、どんどん学習していくべきです。どんな分野の専門家でも、その2割ぐらいしか研究などしていないのが現状だから臆することはありません。ほんと、全く「びびる」必要はありませんよ。その方面の専門書を集中的に読めば、なんとかついていけます。

「長い研究時間をあてていないものは、底の浅い授業しかできない」とか「この道一筋。この作家だけに人生を捧げる」とか、このごにおよんで優雅なこと、視野狭窄的世迷言を言っていないで、どんどん守備範囲を広めていくべきです。底が浅いか、深いかなど、主観的なものでしかありませんし、底の深い講義ができるような優れた資質のある創造的な人間ならば、教師になどなりません。

旧七帝大系列の大学院大学で職を得ることができる人間は別として、その他の研究者は、大衆化した大学で教えます。大衆化した大学に来る学生は底が浅くとも、幅広い知識と視野と、自己教育できる技術と方法を獲得するために大学に来るのです。ですから、教師は、栄光ある専門馬鹿になるのではなくて、知的活力ある雑学者であるべきです。

ほんとに、オタク的な専門馬鹿的文学研究がやりたいのならば、同好の士と世界の片隅で勝手に読書会でも開いていればいいのです。ほんとうに好きならば、そうすればいいのです。ここで、ほんとうに文学好きな人間は、英文科系には来ない傾向がある、という事実をわざわざ指摘するのは必要もないことですね。みなさん、よくご存知でいらっしゃる。1960年代以降の大学創立ラッシュ以来、一般教育の英語担当者として、大学に就職できた人間の数はすこぶる多かったので、英米文学など全く関心がないし、そんな感受性のない人間が、大学の英文科系学科には、おびただしく棲息しています。英語もできないし、文学も理解できない、つまり真に知的好奇心に満ちた学問好きでは決してない、という程度の人間が、大学の英文科系学科には、よく見受けられます。どこの大学でも、英文科系学科のスタッフは、他学科のスタッフから馬鹿にされておりますが、その理由は、このあたりにあるのです。無理もないことです。ともあれ、ほんとうに英米文学を愛する人間は、大学から英文科系学科が消えても、そんなことは気にしないでしょう。

ここまで私が申し上げた事情は、重々承知の上で、文学の価値や意義はさておき、その直接的社会的機能の面から見る英文科系学科の無能については確信犯的に無視して、今後も日本の大学において、英文科系学科の存続を確保したいのならば、政治的手段しか残されておりません。日本英文学会も、アメリカ文学会も、他の文学系学会と連合して、政治的圧力団体になるしかありません。「農協」や「日本医師会」なるしかありません。実際に国民に有益かどうかではなく、その維持と存続そのものを目的として、政治に働きかけるしかありません。アメリカの一大総合文学系学会Modern Language Associationの会長は、上院議員と太いパイプを持ち、政治的影響力は大きいです。

しかし、日本の大学の教員というのは、文化サヨクが多く、自民党政権に対する心情的批判者が多いので、これは不可能でしょう。野党と結びついても、しかたありません。また、この種の行動が苦手なので、教師になり、文学に迷い込んだ人々なのですから、その実現性はきわめて薄いとしかいいようがありません。また、日本英文学会も、アメリカ文学会も、会長に選出されるのは、旧七帝大系国立大学の教授たちです。この種の人々は、税金に寄生する公務員であって、政府を動かそうと志向する人々ではありません。「政府のガキ」であって、「有力な市民」ではないのです。有力な市民ではない貧乏な庶民ですから、やはりこの手は効きません。

結論です。文学は面白い。素晴らしい。これは主観的真実です(私にとっては絶対的真実です)。しかし、社会や時代の(とりあえずの)変化やニーズという事実と、この真実は関係がありません。大学は、学生のため、社会のためにあるのであって、そこで働く教員にためにあるのではありません(ましてや、勤務中にたらたら、読んでもしかたない新聞を読んで時間をつぶす事務職員のためにあるのではありません)。もちろん文部科学省の役人が、大学行政に口を出して、暇つぶしするために、あるのでは、ありません。主観的真実と、事実は別個に考えなければなりません。事実と主観の区別というのは、まあ、日本人の苦手なことではあるのですが・・・みなさんは、これから事実に対処しなければなりません。食べていく、職を得ていく、金を稼ぐ、ということは、そういうことです。世間は、あなた方の主観など、あなた方の幻想などと付き合っているほど、暇ではありませんし、世間にはそんな義務もありません。今まで、こんなに大量の人間が英文科系学科教員として、食っていけたのが異常だったのです。あっては、いけなかったことなのです。だからこそ、馬鹿無能なスタッフの溜まり場が、英文科系学科ということになってしまった。これから正常にもどるだけのことです。みなさんのご健闘を、お祈りいたします。私も、必死に、ほんとうに必死に努力いたします。ただし、私の必死さという主観が、「事実」に対処できるだけのものであるかどうかは、別の問題なのではありますが・・・ ご静聴、ありがとうございました。