アキラのランド節

仕事の選択?それ何? [09/16/2003]


今年の夏はきつかった。いろいろあった。その理由のひとつは、引越しだった。勤務先の春学期の仕事が一段楽してすぐに、勤務先の近くに借りている部屋の引越しをした。私は自宅が名古屋で職場が大阪なので、単身赴任者として職場の近くに部屋を借りている。遠方から通勤している同僚は、研究室で寝泊りしたり、ビジネスホテルを上品にしたような趣の大学の宿舎に泊まったりだが、私は、金はかかっても、ちゃんと自分の「基地」がないと落ち着いて出撃できない。それまで借りていたアパートメントハウスは、大家さんがなんか不如意に陥ったらしくて、それまできちんとされていた週一の掃除とかの維持管理がなされなくなった。急に水が出なくなったりお湯が出なくなったりの不祥事も出てきて、それに関する対処も杜撰になり、荒廃してきた。前は学生ばかりだったのに、なんか夜中の3時ごろに階段で大喧嘩する聞きなれぬ外国語でわめいている人々とか、安アパートにベンツで乗りつける目つきの悪い奇妙な人々が増えてきたので、まずいなあ・・・と感じて、引越しすることにした。ついでに、名古屋の自宅近くに本置き場で借りていた部屋も引き払い、そこに入れてあった大量の本も、大阪の「新居」に運び込んだ。だから2回引っ越ししたことになる。疲れた。業者に頼んでも引越しは疲れる。

しかし「新居」には、まだ、本の入った箱が、何十箱も開けられもせず積み上げられている。今度の「新居」は比較的広いので、このまま行くと、私はこの本の箱を開けずじまいに、「図書室」にほったらかしにするかもしれないなあ・・・・廃棄してもいいんだけど・・・人間には未練は感じないが、本には感じる。まだ捨てないで取っておこう。

「新居」は気にいっている。田舎の高台南向き高層マンションの11階だからね。和泉山脈がベランダや窓から見える。もうストレートに見える。私は、高所恐怖症のくせに、高いところに住むのが好きだ。万が一、一戸建を建てることができるのならば、私は高いビルにするだろう。住んでみたいと憧れるのは、マンハッタンのペントハウスだ。ともあれ「新居」は、台所も広くなったんで、好きなもの作れる。前のアパートの電気コンロひとつしかない台所で、餃子を作ったときは悲惨だった・・・。パスタ茹でるのだって、一苦労だった。真っ赤な仕事用テーブルも買ったぞ。これで秋学期を迎える準備万端。しかし、ここは冬は寒いかもなあ・・・風が吹きすさびそう。

それはさておき、こういうHPを、更新をさぼりつつも主宰していると、時々、人生相談のようなメイルが届く。私が書いた「若き英米文学専攻大学院生に捧ぐ」に関して、ある方から質問メイルが来た。「私は、英米文学研究者になりたいが、もうそれは遅れていることなのか?」という内容だった。で、私は記憶力が悪くて思い出にふけるという能力もないのであるが、自分の若かったころを一生懸命思い出した。私は、どういう気持ちで、この仕事を選んだのか?と。

その質問してきた方には、「英米文学研究が好きならば、おやりになればいいです。好きなことやるのが一番です。遅れていたって、ろくに食べていけなくたって、好きならやればいいので、他人の意見なんか聞いてもしかたない。遅れているのかなあ・・・と迷うのは、ほんとは英米文学研究など、さほど好きではないのではないか」というような内容の答を送信した。

私自身は、仕事や分野の選択に悩んだことも迷ったこともない。英語の教師やって食っていくのが当たり前と思っていた。高校教員の採用試験に落ちたので、「じゃあ、大学の教員になるか」と思って、大学院に行くことにした。来年も、高校教員の採用試験を受けようとは思わなかった。だいたい教師になる人間は、親が教師っていう例が多いが、私の場合は、家族や直系親族には、幼稚園から大学に到るまで、何にしても教師をやっている人間は、私が知る限りいない。遺伝子的には、教師になるような因子はない。私自身が、教師に憧れたこともないし、学生時代に教師とよく接触があって感化されたなんてことも、さらさらない。一貫して教師など、ガキの頃から嫌いだった。女教師なんて、だいたい感情的でダサイ極みだったし。

人間好きとかそういうこともない。学生との交流が楽しいわけでもない。ひどい教師にばかり教えられてきたから、自分は是非まともな教師になりたいとかの使命感があったわけでもない。親が薦めたわけでもない。父親は、私が「実業家の嫁」になると思い込んでいたから。

私は欲しい物は見境なく買う人間で、全く貯蓄体質ではない。教師は金にはならないことは、わかっていた。「生かさず殺さず」の給料だとはわかっていた。だから、教師になったら、生涯、貧乏で終わるということは確実だった。

英文科に進んだのもそうだ。何も考えずに進学した。英語ができたわけでも、好きだったわけでもない。でも、他の選択肢は考えたことがない。高校の進路指導の教師から、英文科ではなくて、教育学部とかにすれば、私の志望校である東京の有名私大は合格すると言われたが、英文科でなければ駄目なので、私はそこの英文科を受けて落ちた。

文学部なんてろくでもないということは、すでに1970年代からはっきりしていた。英語の小説やエッセイを読むことなど趣味にはなっても、学問にはならないということは、もう30年以上前から、はっきりしていた。就職は、文学部卒の人間には大昔から至難の業だった。

それでも、私はそうした。私にとっては、英文科に入って出て、英語の教師しながら、好きな本を読みながら暮らすというスタイルは、当たり前の規定のコースだった。疑問に感じることもなく、それは規定のコースだった。すでに、70年代後半の大学院の教授は、「女性は大学院出ても就職できないので、まあ投資のための勉強とは思わずに、就職は考えずに消費活動として勉強しなさい」と、女性の院生たちに入学式のとき言った。私は、「勝手にほざけ」と思っただけだった。で、就職の世話を期待して教授のゴマをするような無駄なことはせずに、そこの大学院の英米文学専攻を出た人間としては初めて、コネなしの公募で田舎の公立短大に就職した。

私は自分が選んだ進路や仕事に関して、その選択の根拠や理由など考えたことがない。教師でなかった自分など想像つかない。死ぬときには、一生の各場面が走馬灯のように再現されるとか、フィルムのようにコマ回しで自分の人生を見るとか言うけれども、私はきっと大教室で講義している自分自身を見るだろう。他に、絶対にこの場面は見るはずだと断言できるような場面は、私にはない。しかし、「教師は私の天職だ」と思ったこともない。後悔はないが、これでよかった!としみじみ思うこともない。天職だろうが副職だろうが、そんなことはどうでもいい。私は、そうと意識もしないぐらい、好きなことをしてきただけだ。いや、それも正確ではない。ただ、やりたかったから、しただけだ。

だから、私にはどうしても「仕事を何にするか、何をしたいのか」に関する葛藤がわからない。そういうことは、気がついたら、それをしていた、そっちに進んでいた、というものではないのだろうか?いちいち、あれこれ考えるものなのだろうか?漫画家はなろうと思ってなるものでなく、ある日気がついたら漫画を書いているのではないか?政治家は、なろうと思ってなるのではなく、気がついたら政治活動をしていた、というものではないだろうか?作家は、気がついたら書いていた、誰が読んでくれなくても書いていた、というものではないだろうか?料理人は、気がついたら、しつこく「このスープはどうやって取るのか?」と考えて、試しているのではないか?美容師は、人形の髪でも結いたいのではないのか?主婦は、ともかく暮らしの細部が好きで、快適で美しい暮らしを作り維持するために、いろいろ手をかけ心をかけたいのではないか?家族が認めようが、認めてくれなかろうが、そういう営みを勝手に愛しているのではないか?戦争放棄した国でも、軍人になりたい人間はなるだろう。国を守るってことに、ごく自然に体が反応するのだろう。「公務員」だからなった、なんて自衛隊員や警官や教師は、おかしい。人格障害だ。サイコだ。社会にとっても百害あって一利なしだ。

つまり、私が言いたいことは、こういうこと。ごく当たり前に、ごく自然に、やりたいことがあったら、やればいいってこと。金になるとか、将来性とか、考えることはないってこと。世の中なんていつも動いているし、時代は変化するし、そんなあてにならないことはどうでもいいんで、自分がやりたいなら、やればいい。好きなら迷うことない。飽きるまで、ず〜〜とやっていればいい。あんまり金にならないとか、立場が不安定とか、いろいろ苦労はあっても、それは「下司の苦労」ではないから。心の奥を侵食するような質の悪い苦労ではないから。それに、どんな職種でも、絶えず工夫して努力をし続ける人間って少ないので、やり続けていれば、凡庸な能力の持ち主でも、相対的に浮上してしまうのだよね。それぐらいに、この世間は、食べていければ、ただただ生活するだけで、他には何もしないし、向上をめざすことなどしない、ただただタラタラ生きているだけという人間が多いのだ。だから、自分の能力に関して不安に思う必要もない。たかがプロ野球のチームの勝敗に、あんなに夢中になれる程度の人間が、世間というものを形成しているのだ。あれが、世間というものの水準なのだから、恐れることはないよ。

問題なのは、「これやろうかな〜私はこれやりたいな〜〜やるな〜〜」という自分の自然なる思いを聴き取れない鈍さ、なんだよね。これはあたいの人生だから、これでいいの!飢え死にはしないわさ!とスッパリ思い切れずに、なんか他にまだ有利なこと得なことがあるんじゃないかとか、他人から見てどうだろうとかチマチマ計算をしないではすまない貧乏くささ、なんだよね。

でも・・・なんか、自分の選んだ仕事を、いやいややっている人間って多いねえ。どう見ても、医者やっているのがいやでしかたないみたいな不機嫌な医者っているもんねえ。なんでこんなまずいラーメン作っていられるのかなあ?と、つい店主の顔を凝視してしまう中華料理店もあるしなあ。政策実行しないで、歌舞伎とかオペラばかり出かけて、しょうもない外国俳優と握手しているどこかの国の首相もいるなあ。この人は政治家でいることは、ほんとは嫌いなんじゃないの?ほんとは、関心がないのではないの?目だって、チヤホヤされたいだけならば、他にもっと適したことがあるはずだけど。こういう人多いよ。そう、だから、あなたにも、つけこむ隙があるわけです。だから、あなたにもできるわけです。好きなことならば、すればいいよ。好きなことにめぐり会うのは、好きな人にめぐり会うよりも、あなたの人生にとっては、もっともっと大事であり、決定的なことなのいだから。