アキラのランド節

思想にも松竹梅がある [10/22/2003]


国民年金の未払いが多いそうだ。3割ぐらいの人間は、払っていないそうだ。へたすれば4割は未払いだそうだ。国が信じられないんだそうだ。国が信じられないので、もう自分でやっていく、政府になど頼らない、自分の人生は自分で管理していくというわけであろうか。だとしたら、その心がけは立派である。殊勝である。私自身は、本当のところは、年金と国民健康保険とかの制度そのものをやめたほうがいいと思っている。どうせ、官僚に好きに金を使われるだけだからね。あいつらは、しなくてもいい仕事を、自分たちの存在意義アピールのために、作るんだ。でっちあげる。官僚に好きにされるぐらいならば、自分で人生を管理した方が、失敗しても諦めがつくというものだ。しかし、この国の人々の気質として、そういう発想はないだろう。しかし今の若い日本人にはあるから、保険金掛け金未払いを確信犯的にするのかな?が、テレビの街頭インタヴューで眺めている限り、「だってえ、年金なんて出ないから、払わないんで〜〜」とか答えている耳にピアスつけた「男の子」(でも年齢は30なんだそうだ。そいつは30にもなって男の子なのだ・・・キモイな)のトロイ顔から判断する限り、どうも、年金未払い者たちの多くは、そういう独立独歩の思想から、その行為を選択しているわけではなさそうだ。こういう連中って、年とって無年金になったら、「行政の責任」「政府の責任」「人権の侵害」とか言い立てて、特別年金支給みたいなことを要求するのではないか。「若い頃からのいい加減な生活のつけは自分で払う。いざとなれば野たれ死ぬ覚悟です」と潔い姿勢はとらないだろう。で、マックのハンバーガーでも犬食いしながら無意味に無為にこの地上に長々と棲息したがるのだろう。

国とか社会とか政府というのは、大変だ。こういう人間まで食わせていかなければならないのだから。こういう人間が、国民の2割を少なくとも占めるだろう。ひょっとしたら3割ぐらいは、いるのかもしれない。「自助努力できないし、国民としての保護はされたくても、義務を果たす気はありません〜だって果たせないんだから、しかたないって〜〜」と、この種の人々は、恥じることもないだろう。かといって、こういう人々を排除すると、犯罪とかに走ってかえって社会的コストがかかる。人間が生ゴミの粗大ゴミになると、ほんとうに始末に困る。社会福祉的な「セイフティ・ネット」というのは、個人のためにだけあるのではなくて、その個人への対処に時間も労力もかけていられない社会のためにも必要なのだ。個人的規模で行使される社会福祉行為のひとつであった馬鹿駄目男のお守り=人間生ゴミのリサイクルをしようとする忍耐と模索というものも、いくら善良なる日本の女でもしなくなったので、馬鹿駄目男の犯罪は激増しているが、フェミニズムに世間が冷たいのも一理あるな。馬鹿駄目男の救済には、頭の回らない気のいい女に丸投げしておいた方が、社会的コストはかからないからなあ。そんなゴミに税金かけるのは、ほんとうにもったいないもん。が、やはり、こういうゴミにも税金をかけなくてはならなんいだなあ、秩序の維持のためには。仕方ないコストなんだ。積極的に出したくなるような前向きのコストじゃないけど、必要なコスト。不燃ゴミのリサイクルをしないと、にっちもさっちもいかなくなるのと同じなのだ、やはり。

問題なのは、こういう「社会福祉」という「社会的混乱&不穏回避コスト」というものは、人口を占める2割から3割の人々を穏便に社会に取り込んでおくためにあるのであって、あとの7割から8割の人間は、こんなもの「他人の思想」だと思わないといけないのに、それに便乗しようとしている、ということなのだ。あとの7割から8割の人間は、税金や社会保険料を、「取られる」もしくは「盗られる」ものとして考えてはいけない。私なんか、税金も社会保険料も、へたすれば収入の3割近く源泉徴収でさっぴかれている。「なんだかなあ・・・」と、ため息をつくこともあるが、だいたいは、これは私が社会に支払う「ショバ代」&「寄付金」&「厄落とし」だと考えている。「ショバ代」というのは、この社会で商売はって生きていくためには、この社会のシステムがうまく運営されていなければならないのだから、当然のコストという意味。「寄付金」というのは、私が65歳に達せずに死んだら、私が支払ってきた社会保険料は全く回収できないことになるが、それを損害ではなく、社会に寄付してやったと思うこと。頭の固い心優しき優等生の方々からは傲慢だと言われるかもしれないが、うっかり無意味に無駄に無為に長生きする羽目になった生き恥さらしている可哀相な人々へ施してやると思えばいいのだよ。また、実際そういうものでしょ?「厄落とし」とは、命の次に大事な金をなくすことは、命を守ってくれるから、払った税金が無駄に使われても、それは「厄落とし」と考えて、ある程度までは大目に見ること。大金の入った財布を落とすなんて災難だけど、同時にもっとやばい事態の回避となると、私は勝手に思っている。学生を海外のゼミ旅行などで引率していくときは、事故&災難回避のために、私にしては「大盤振る舞い」をして学生にごちそうする。お土産もバンと買ってゆく。レストランやホテルやガイドにチップをけちったりはしない。学生が全員無事に帰国するためには、私は金を使わなければならない!という強迫観念があるのだ。気前がいいわけではないのであります。保身の「厄落とし活動」なのであります。ま、その種の活動が頻繁すぎるが・・・ははは。

私は貯金体質が欠落しているが、おかげで守りにはいる姿勢に陥りようがない。いつも前向きに挑戦的な気分でいられる。攻撃あるのみよ。「中村うさぎ」よ。「日銭」つまりキャッシュ・フローを得るべく働かないと食っていけないんだからさ。守るべき大金がないと世の中の変動なんて、別に関係ないもん。副島隆彦氏の『預金封鎖』が出ても、心静かに縁側(んなものは、狭いマンションにはないが)に座って、お茶を飲んでいられる。あの本に、金持っている老人は、若い可能性のある奴に奨学金のつもりでくれてやれとか書いてあったが、ほんとそうしたほうが身のためだよ。金をなくすのは、いい厄落としだって。訪問販売で大金を騙しとられる老人が多いそうだが、まあ、いいんじゃない?子どもに金残すより、パ〜〜と浪費した方が、長患いしないであっさり死ねるんじゃない?その方が、子どもも介護地獄に陥らないですむんじゃないの?だから、子どもは、親の遺産をあてにして老親の浪費を止めてはいけない。よけい物が売れなくなる。

ところで、ほんとうの金持ちというのは、どんな手段で稼いだかはさておいて、バンバン寄付するものではないの?それが、本当の意味でのマネー・ロンダリングでしょ?不浄な金を浄財にするんだからさ。私なんか、名古屋にある母校の南山大学と、今の勤務先の大阪にある桃山学院大学に奨学金の基金でも出せたらいいのになあ〜と思うよ。口に出すと実現するという言霊神話があるな。実現するかもしれないんで、ここに明記しておこう。「藤森基金」なんて名前をつけるのを条件にはしないでおこう。かわりに「アイン・ランド基金」とするか。むはは。何の話か。

ともかく、だから、たとえ支払った税金および社会保険料が有効に使用されずとも、たとえ年金が将来支払われなくても、「ショバ代」&「寄付金」&「厄落とし」にはなっているので、私は構わないのだ。しかし、実は、こういう発想こそが社会を支える人々の思想である。社会運営というゲームに参加する正規メンバーの思想である。将来、年金が出ないから払わないとか、払った分に見合わないから払わないとか、そういう発想は人口の下層を占める2割から3割の人間のものだ。そういう発想して、気分が悪くないということ事態が、もうはっきり「落ちこぼれ」の証拠である。そういう発想してしまうと、「俺ってセコイなあ〜こういうのを育ちが悪いっていうんだなあ〜〜」と、反射的に自己嫌悪に陥るというのが、「まともな人間」である。今の日本って、こういう「落ちこぼれ」の思想を、まっとうな正規のメンバーまでが、持ってしまっている。思想にも、松竹梅がある。松や竹の思想を持ってしかるべき資質の人間までが、梅の思想にかぶれるのを、「卑しい」と言うのだ。

だけど、寄付する気なんてサラサラなくて脱税している金持ちってのもいるらしい。この種の人々は、きっと松や竹の思想を学び損ねた人間なんだ。こういう人間は、厄が蓄積されるばかりで、ろくなことにはならんよ、きっと。所有しているビルが火事で丸焼けになるかもね。根も葉もないスキャンダルでマスコミにたたきまくられて脳卒中で倒れて半身不随になるとかさ。孫が殺人事件おこして被害者の肉をワインで煮込んで食っちゃったとかさ。もしくは、食われちゃったとかさ。日本の戦後の教育って、ひょっとして誰に対しても一律に梅の思想を教えてきちゃったのかもしれない。だから、本当の意味でのエリート教育を施してしかるべき教育機関が、せっせと梅の思想を、口当たりのいい見てくれだけはいい梅の思想を伝播してきてしまったのかもしれない。

たとえばさ、東大みたいなところで、梅の思想である左翼思想を教えること自体は学問の自由だけど、そんなもん本気にして「伝播」するのはやめて欲しいよ。きちんと骨太な枝ぶりもいい常緑樹の松の思想をたたきこんでほしいよ。私のいる業界でもさあ、松の思想とか、最低、竹の思想ぐらいは持っていてしかるべき国公立大学の出身者が、もう、すごいガリガリ梅の思想で生きているからねえ。被害者意識ばっかりでさ、身銭きって本買わずに、研究費がどうのと公金使用ばかりねらっている。私の業界では、ひとりの作家だけの研究を長年「一筋」でやっているのを誇りにしている馬鹿がいるけどさ、どうもいろいろ手を広げ関心を広げると書籍代や資料代がかさむっていうのが理由らしいのよね。なかには、親と同じ作家を研究して書籍代を浮かそうとするのまでいる。だいたい、親と同じことやろうとする根性がみっともないけど、それはさておき、書籍代けちるわりには、化粧品に金かけて塗りまくって余計一層ブスになっている奴とか、みんなで飲み食いするときは他人より大量に食べて飲むのに、あくまで精算はワリカンにこだわる傲慢デブ色白大福体型の奴とか、金払って客になって女の子にお守りしてもらえばいいものを、客である女子学生相手にお守りしてもらおうとする本末転倒の貧乏くさいセクハラ男とかね。この連中は、なんでこの社会に税金で運営される高等教育機関があるのか、わかってないよね。税金というものを払えることは、ありがたいことであり、嬉しい!と考えるような松の思想=noblesse obligeの持ち主を養成、再生産するためだ。まあ、私は、「嬉しい!」とまで思えないから、竹の思想にとどまってはいるが。私は私立育ちじゃけえ、しかたないわさ。

お勉強はできたけど、頭は悪いっていうタイプは、小賢しい計算はできても、大きいところは見えないから、どうしても梅の思想に汚染されるのかもね。梅の思想は、一時的にせよ生涯にわたってにせよ、あくまでも社会から救済されなくては生きてはいけない人々のもの。そうした人々を救済するシステムは、社会秩序の維持と社会の精神風土の酷薄冷酷苛烈化回避のためには、必要なもの。どうしたって、生きることが戦いとは思えず戦意高揚できない人間だって、存在する。「優しい社会」でないと生きていけない人々はいる。その人々のためのメニューが「梅の思想」だ。一食320カロリーの糖尿病食みたいなもんよ。誰にでも適用していい普遍的な思想ではないの!

若い方々へ。俺は何も持っていないから、梅の思想でいいや、と思わないように。若くて何もない頃から、松や竹の思想に慣れておくことです。ひとつの思想が、心の奥に根を下ろし、根をはり、育つには時間がかかります。じっくりゆっくり松や竹の思想を身体と心に浸透させるには、ガキの頃からの家庭教育が大事ですが、梅の思想に凝り固まった親を持つ羽目になった場合は、自分で自分を育ててください。だいたい、自分の馬鹿さ加減を、親や教師や社会のせいにするのが、梅の思想の始まりよ。ともかく、あんたが馬鹿なのは、あんたのせいだよ。他人のせいにしたって、その他人から損害賠償金をふんだくっても、あんたの馬鹿は治らない。あんたが自分で治すしかない。カウンセリングに行っても駄目だよ。教会に行っても駄目だよ。

甘やかされたからこんな人間になったと、親を訴える奴がアメリカにいたそうだけど、そういう馬鹿アメリカ人の真似をしないように。あの国は、松の思想ぶっているけど、実質は「隠れ梅の思想」の持ち主であり、世界の寄生虫なんだからさ。他人の労働を搾取して食っていくのが何世代にも渡って恒常化した集団を「貴族」と呼ぶとしたら、今のアメリカは日本とヨーロッパの富を搾取して国家の財政破綻を先延ばしにしている(『悪の経済学』とかの一連の副島隆彦氏の経済本とか、藤原書店から出ているエマニュエル・トッド『帝国以後』を読んでください)成金貴族だ。強者ぶりっこして他人に寄生して恥じない弱者は、単なる弱者より質が悪いね。まさに「ならず者」だな。ヨーロッパの被差別民が北米大陸にわたって帝国を築いたのはいいけれども、根性だけはずっと被差別民から抜け出せなかったらしい。アイン・ランドの思想は、「弱者切捨て思想」だと非難されてきたけど、弱者であることに居直って世界に寄生して遠慮も恥じも感じないというのは、しっかり強い人ですから、どうぞ自分で生きてください」と言うと、「弱者切捨て思想」になるらしい。ランドが夢見たアメリカって、今のアメリカではないよ。私のアメリカも、貴族という名のならず者の倒錯した梅の思想を軽蔑する国柄だったはずなのになあ・・・