アキラのランド節

弱くて運が悪い人間は滅びるしかない [01/31/2004]


子ども虐待のニュースが多い。ストーカーに殺される若い女性のニュースもある。家庭内暴力の亭主から逃げ損ねて殺される奥さんのニュースもあるな。小学生の女の子たちばかりねらう露出症や誘拐犯のニュースもある。甥に殺されて金品を盗られ殺された老女のニュースもあったな。

こういうとき、テレビのキャスターは、「どうにかならなかったのでしょうか。行政の適切な対応がなかったことが、悔やまれます」とか「地域コミュニティの協力と監視が、これからも一層必要とされるでしょう」とか「警察は、いったい・・・」とか「学校は、いったい・・・」言っている。しかしなあ・・・教師や家庭センターや市役所の役人が、頼りになるはずがないではないか。そんな頼りになる有能で体力も豪胆さもある人間が、教師や小役人になるだろうか?馬鹿ガキや、その馬鹿ガキの馬鹿親の相手なんかするものか。辛気臭い相談事なんか聞くはずないよ。もっとはるかに面白いことをしているだろう。いつでもどこでも警察がそこにいる、街角にいつも立っている、呼べばすぐ飛んでくる状態にするための税金は払う気がないくせに、また警察が犯人に発砲したら大騒ぎして警官を批判するくせに、警察は何もしてくれない、なんて言ってもしかたない。一応、困った人を助けることが仕事で、それが義務で給料をもらっているはずの、その種の福祉関係担当の役人や警官でさえ、親身になどなれないのだから、なんでそんな「救世主」を、一般の「地域コミュニティ」の人間ができるだろうか。他人の不幸を見てみぬふりはいけない!といっても、ただでさえ余裕のない時間やエネルギーや金まで削って人を手助けする気はありません、そもそも他人のことにそんなに関心ありません!という見解を責めることはできない。もっと、自分に正直になれば、自分だってそういう類のふつうの人間だろう。「弱くて運が悪い人間は救えない」という事実を、ほんとうは認めているくせに。そう、弱くて運が悪い人間は救えない。救いきれない。滅びるしかない。私も、弱くて運が悪ければ、滅びるしかない。見殺しにされるのだ。

去年だったか、おととしだったか?私が勤務している大学の社会学部の教えたこともない学生から、突然メイルが来た。内容は、「僕がアルバイトをしているコンビニの駐車場に、ホームレスの人がいます。どうも精神病を患っているようです。市役所に電話したのですが、まともに対応してくれませんでした。気の毒でしかたありません。どうにかしてあげられないでしょうか?なにか方法を教えてください」というものであった。なんで、文学部の教師にこういうメイルが来るのか? なんで社会福祉学科のスタッフに出さないのか?と、いぶかしんだが、それもこれも私の不徳とするところ、こういう甘ったれたしょうもないメイルを出しても怒られないだろうと学生が思うほど、なめられてしかるべき人のよさそうな教師をやっている私が馬鹿なのだ、自業自得だ、と反省して、あえて返事を書いた。「あなたの気持はわかりますが、どうにもしてあげられません。行政だって、ほんとうは何もしてあげられません。ホームレスの面倒を見るほどの財源は、どこの自治体にもありません。そのホームレスの人本人が、自分で何とかしなければ、なんともなりません。気力のなく、かつ運のない人間は、滅んでいくしかありません。あなたも、こんなメイル書いている暇があったら、しっかり勉強して、きちんと就職して、他人の寄生虫にならずにすむような人間になることを考えてください」と。

案の定、私の出したメイルへの返事は、「ひどすぎる」とか「愛がない」とか何とか書かれていたが、ほんとに、もうこの種の学生はアホらしい。自分では何も動かないで、何の泥もかぶる気はないくせに、ヤイノヤイノと人を使おうとする。「かわいそうだ!だけど僕には何もできない!」という自分の溢れるような悔しさを胸にたたんで、その思いに耐えることもしないし、その思いをエネルギーにして何かしようと動くかわりに、そのクラスを受講したこともない女教師に甘ったれて質問するぐらいのことしかできないのだ、このガキは。涙を呑んで、見殺しにするしかないんだよ!

私の勤務する大学は、「気はいい」が、現実を直視して、キチンと物事を考えて、自分にできることと、できないことの区別をつけるということができない学生が多い。つまり、とってもとっても平均的な日本人が多い。だからこそ、こっちも教え甲斐があるのだが、時々は、うんざりするのだ。無意味に素直で、幼稚園から高校まで、「責任を負わなくてもいい女・子ども&男のオバサンの無自覚な偽善」をしっかり頭に注ぎ込まれていて、それを疑うこともできない。「いろんな考え方があるのだから、一概にそういうことは言えない」とか一見賢そうな実は小心卑怯極まりないことを言って、自分の立場を採ること=決断(=責任)を回避しようとする。つまり、そういう自分の小狡さすら自覚できないくらいに、心がツルツル。襞がない。陰影がない。いくら同情したって、なにがしかの小額な金を寄付することぐらいしかできない無力で非力で凡庸で、自分のことだけが大事な酷薄な人間でしかない自分自身を、はっきり自覚して受け入れるだけの「内面」というものがない。自分に対してまで「いい子ぶりっ子」していないと安心していられないくらいに軟弱で卑しい。これは今の日本の国民病なんだろう、この当事者意識のない無責任で幼稚で矮小な偽善は。

私は大人だから、自分にできることとできないことの区別はつくし、やりたくないこととやる気のあることの区別もつく正直さも持っているので、あえて書く。ホームレスの人も、虐待を受けている子どもも、騙される老人も、薬に頼って中毒になる人も、家庭内暴力の亭主に苦しむ奥さんも、基本的には誰も救えない。弱くて運が悪い人間は、救えない。その弱さと運の悪さから抜け出すべく、本人が死にもの狂いで逃げなければ、救われない。それだけの努力をする気のない怠惰な人間は、救えない。実の父親と継母から餓死寸前にまで追いやられた大阪の岸和田市の中学生のケースは、親が悪いに決まっているが、そんな親から逃げなかったこの中学生も悪い。幼児ならば、自分の身がやばくなるまで親の暴力にさらされて殺されるしかないが、この年ならばもう親の水準もある程度わかるだろうから、逃げるべきだったのだ。そういう家庭に生まれてしまったのだから、幸福で正常な家庭など参考にできないと、早々と親を捨てるしかなかった。しかし、この中学生は助かったのだから、運はあるぞ。よかった、よかった。ちゃんと馬鹿は相手にしないということを学ぶだろうか?親兄弟なんて、一番用心しなければならないということを学ぶだろうか?

親子関係だって人間関係だから、その人間の質によっては闘争になるしかない。弱ければ、相手のいいなりになるしかないのだ。私自身、「このまま、この人間につきあっていると、私が潰されるな」と判断して、母親を実質的には捨てた。私の葛藤は大きかったが、私は母親といえども他人の犠牲になる気はなかったのだから、しかたない。家族のために人生を思うように生きることができなかったと嘆く人間は、さほど強烈に自分の人生を生きたかったわけではないのだろうから、勝手に家族の犠牲になっていればいいよ。ほんとうに望んでいたら、親兄弟の死体を踏み超えてでも、それを求めるのではないか?諦められるものは、諦めても構わないものなのだ。

アメリカの作家のテネシー・ウイリアムズの作品に『ガラスの動物園』という自伝的な劇がある。アメリカでは学生演劇とか地方演劇とか、どこかでいつも上演されている名作ということになっている作品だ。その語り手の青年は、母と引きこもりの姉を捨てて、念願どおり船員になるべく家出する。ふやけて甘ったれていた大学生の頃の私は、この劇を読んで「こんな大不況期の1930年代のアメリカで、女ばかりでどうやって食べていけるのか、かわいそうに・・・」と思ったが、今の私はそうは思わない。この青年は、どんなに後悔したって、やりたいことをしてよかったのだ。息子や弟という他人を犠牲にして平気な神経の母や姉など捨ててよかったのだ。この劇の引きこもりの姉は、テネシー・ウイリアムズの実姉がモデルだったのだが、この実姉は、弟の印税のおかげで、憂うことなく生活にも追われることなく、高級な精神病院にはいって、87歳まで長生きした。弟の死後も長々と生きた。自分のことを「英国の女王」と思いこんで、病院では子供たちに優雅に手をふっていたそうだ。弟のテネシー・ウイリアムズは、自分が劇作家になるために家を出て、この姉を両親の元においてきてしまったので、ヒステリーで錯乱気味の姉がロボトミーの手術を受けさせられ廃人になってしまったと、生涯罪の意識を持っていた。かわいそうになあ・・・姉じゃないよ、この弟がかわいそうじゃないか。罪の意識なんかで苦しむことはなかったのに。だって、このお姉ちゃんは、「世の中の汚れに染まることができない繊細な永遠の少女ゆえに神経を病んだ」のではなくて、「中産下層階級の生活の闘争から逃げて、おとぎ話の幻想に逃げこんで絶対に出てこなかった厚かましく図々しい確信犯的狂人」なんだからさ。ま、この勝負は、弟の負け、お姉ちゃんの勝ち。

私はフェミニストではあるが、家庭内暴力の亭主に殺されてしまった女性に同情しない。こういう事件は悔しさで涙は出るが、加害者は死刑!と思うが、被害者に同情はしない。フェミニズムは、無用心で馬鹿で努力もしなくて情報収集もしなくて怠惰に甘ったれている女を、さらに甘やかす思想ではないです。「機会の平等は絶対に確保するべく徒党を組もうね、女だからということだけで搾取されないように気をつけようね。頭悪いとコケにされるからね。自由でいたかったら、女もそれに見合うだけの勉強も努力もしようね、責任もとろうね、負けることはあるけど、男だってほとんどは負けるんだからね、女だから負けたとか愚痴いいなさんな、勝てば勝ったで、これもまたきついんだからさ、そういう覚悟持って生きましょうね、奴隷になっていたくないのならばね。アメリカの黒人だって、太平洋戦争や朝鮮戦争で、あれだけ血を流したので、1960年代に公民権運動ができたんだからね」という覚悟の思想が、フェミニズムです。アホ馬鹿怠け者女なんか、知るか。

もう、これだけ駄目男の駄目な凶悪犯罪が報道されているのに、身の危険が迫っているのは明々白々なのに、なぜ逃げないのか?なぜ徹底的に容赦なく冷酷に非情に逃げないのか?まあ、それができないからこそ、男につけこまれるのだけどね。頭は悪くても勘はいいんだよ、駄目男というのは。女を良く見てるよな・・・ともかく最初に男に殴られた時点で、もう必死に逃げないと駄目である。その暴力は絶対に習慣性である。自分だけは何とかなるのではないかと、ズルズル現状維持して、あげくのはてに殺されるのは、どうみても、その女性の愚かさゆえ、としか言いようがない。「生きたい!もっとましな人生を送りたい!」という強烈なる欲望が足らないのだ。そういう迫力のない心の隙を、駄目男は見逃さない。そもそも、付き合い出したら、それとなくわざと喧嘩ふっかけて、そいつに言語でやりあう能力があるかどうか探るぐらいの、用心深さがなぜないのか?声が裏返ってヒステリックにならないかどうか、なぜ確かめないのか?人生をなめているとしか思えないぞ。そういう無用心さを、自分の「優しさ」と勘違いしているんだなあ・・・幽霊だって、同情してくれる人間のところしか、無駄に優しく暇な人間の前にしか、出ないぞ。幽霊なんかに会うのは、幽霊になめられているのだから、反省しよう。だいたい、出会い系サイトや携帯のメイルで知り合った男なんか、ストーカーになるに決まっている。間違いない。あたいはアホで無駄に馬鹿男にも愛嬌を振りまいているけど、まだ殺されていないわ〜〜っていうのは、運がいいだけで、あなたの努力のせいではないので、どこかの神社に行って、お玉串を差し上げて神恩感謝の祝詞をあげていただきましょう。

あ、反対にまれなことではあるが、女に殺される男もいるな。かつて私が教えていた名古屋の女子大のときの教え子は、婚約不履行の恋人を刺殺した。懲役6年の判決が出た。事情があって依頼されて、この教え子の身元引受人を私はしていたことがあった。刑務所にも接見に行ったことが何回かあったが、この教え子が実はサラサラ全く反省していないということがわかったので、気味が悪くなって身元引受人は辞退した。身元引受人だからといって、やたら平気で厚かましく経済的にも頼られてしまって、弁護士費用なんかも出す羽目になったので、この調子では出所したらもっと厚かましく依存してくるなと判断して、縁を切った。まったく、私も人を見る目はないのだよ・・・とんでもない人間は、教え子だろうが何だろうが、とんでもない人間なのだ。それはさておいて、この殺された男性も運が悪く弱かった。別れ話なんか、相手の女の家でするというのが無用心である。私は、男子学生に言うのだ。「性欲に負けて、一見おとなしそうな女を相手にしてはいけない。そういう女は頑固なだけである。別れるのが厄介である」と。「別れ話は、ディズニーランドかユニバーサル・スタジオでしなさい。いざとなったら巻いて逃げることができる」と。「どうしても別れたいときは、エラそうなしょうもない捨て台詞言わずに、プロミスで金借りて、金を差し出して、土下座してともかく逃げろ」と。弱くて性欲に負けて、そう好きでもないが手近な女に手を出して妊娠させて結婚するはめになるというのは、ほんと男の立場からすれば悪夢だよなあ。で、殺されるなんてなあ・・・家族は生涯辛い思いをするだろう・・・でも、この男性は、いずれどこかでこういう羽目になったのではないかなあ。

ともあれ、基本的に、原則として、弱くて運が悪い人間は、滅びるしかない。誰も救えない。これこそ、マルクスの言う「疎外」ですね。人間の願望や思惑なんか関係のない世界を貫く法則。宇宙の摂理。マルクス、読んだことないけどさ。

ね、たらたらうつ病の真似しているときではないのですよ。自分の人生をまっとうさせること、だけでも闘争なのであります。退廃とか倦怠なんてものが入り込む隙のないほど、この呆けまくった弛緩した日本でも、実は戦場なのです。生きるべく、生き残るべく本気で戦わない人間は、殺されるしかないのだよ。イラクに派遣された自衛隊員は、あなた自身なのですよ。いざとなれば、オランダ軍もアメリカ軍も、彼らを助けたりはしないように、あなたの人生もあなた自身しか救えない。誰も救えない。ね、楽しいじゃないですか。この原則を心と頭にたたきこんだ時から、人間は、ほんとうに「人間」になれるのです。退屈な平凡な単調な日常ではない、スリルに満ちた日々が始まるのです。馬鹿な頭でも、必死で生き残るために使うようになれば、少しは回るようになるでしょう。どんよりとした若者の目も、ガキの目も、老人の目も、活き活きと光りだすでしょう。めでたし、めでたし。