アキラのランド節

ロリコンにもマザコンにもファザコンにもなれない日本人 [04/12/2004]


春だな。ひばりが鳴いている。今年度は、もうさぼることにしたな。今の日本の大学って、下らない教授会や委員会やいろいろあってどんどん増えて、教師をやりたい人間には、しょうもない場所にますますなりつつある。こういう状態って、もう教えることも研究もどうでもいい人々には、時間がつぶせて、何事か意味あることをしているような気分になるんで、ありがたいのだよね。まあ、ギリギリ自分の食い扶持さえ稼げるようなったら、大学は辞めるな、私は。どこか別の大学が、今の勤務先よりいいということは、ありえない。桃山学院大学でこんなんならば、あとはもっとひどいよ。ここは、私みたいな人間が、さして不満なく働いてきたところなのだから、どれほど働きやすいところかわかるってもんじゃないか。つまり、要するに日本の大学はみな機能不全。落ちるところまで落ちるしかない。

ここ数日、テレビも新聞も、イラクの三邦人拘束のニュースで賑々しい。いつ解放されるか、今か今かとみな待っている。ともあれ解放されることになって、ほんとうによかった。泥沼になることは目に見えているから、自衛隊の撤退はすべきとは私も思うが、しかし、こういう人々を救うために一国の軍隊を撤退はできないよなあ、それは。あの三人は、ガードマンも雇わずに、武器も持たずに(=武器使用の訓練もしないで)、自分の善意と志だけ信じて、使命感と正義感に駆られて、危険区域の戦場を目指したのだから、立派というか勇敢というか、きっと死ぬ覚悟はできているのだろう。もはや日本政府の対応など、この三人にとっては、どうでもいいのだろう。彼岸の彼方だろう。だって、彼らと彼女は死を覚悟しているのだから。亡霊のように冷静沈着に事の推移を見つめているのだろう。しかし、もし、覚悟もなく出かけたとするのならば、この三人は病気だよな。己の強運を確信しているというか、現実無視というか、ほんとによくわからない人々ということになるな。それにしても、本気でイラクの復興とか考えて、自らを役立てたいと考える人間が、こんな無謀な無計画な行き当たりばったりのこと、するだろうか?もっと、自分自身を大切にするのではないかなあ?

さて、今回のタイトルは「ロリコンにもマザコンにもファザコンにもなれない日本人」である。なんで、こんなテーマかというと、なんか大きな誤解が日本にはびこりつつあるのではないかと思うからだ。ひどい誤解でありますよ。

小学生や中学生の女の子が誘拐される事件が後を断たないが、こういう誘拐、拉致事件の犯人は「ロリコン」と呼ばれる。ロリコンの語源は、ロシア系アメリカ人作家のウラジミール・ナボコフの名作『ロリータ』だけれども、この小説の主人公の中年男の義理の娘ロリータへの恋は、全身全霊かけて、なおかつ知的なもんである。この美少女のそばにいたくて、「父親」でもいいからそばにいたくて、彼はこの美少女のしょうもない母親と結婚する。彼は、美少女の輝き、美少女の悪魔性、美少女の官能を純粋に憧れ追い求めて、翻弄される。主人公の中年男は、自分の身勝手な欲望を一方的に押し付けたりなんぞは、しないんだ。自分の欲望を押し付けるには、彼はロリータに夢中すぎるからね。本気で好きなんだもん。ああ、なんたる純愛。ロリータが、若い女の子にありがちな、しょうもない浅はかな頭の空っぽな若い男にひっかけられて妊娠しても、金を出して援助したりして、いろいろ尽くすのだ。日本の「ロリコン」と呼ばれる男みたいに、大人の女性には相手にされないんで、ガキにお守りされたがっているというような幼稚な甘えのお化けとは、わけが違う。ただただ、誰にも受け止めてもらえない自分を押し付けているだけの馬鹿男には、ロリコンになれるだけの成熟も、才覚も、知性も、愛情もないのだから、こいつらを「ロリコン」と呼ぶのは、間違っている。とんでもない間違いである。

ルイス・キャロルの名作『不思議な国のアリス』や『鏡の国のアリス』に描かれるアリスという少女の、生意気で勝手で自由気ままな可愛らしさは、もう本当の愛情がなければ、表現できないようなもんだ。あんな、可愛い女の子はいないじゃないか。もう、ほんとに可愛いぞ。生き生きとした愛くるしさの結晶じゃないか。「ロリコン」とは、極めて高度な美意識である。作者のルイスは、アリスのモデルになった近所の少女の写真も、たくさん撮影して残しているが、ただただこの少女の美しさを愛しただけだぞ。ガキに自分を愛してもらおうなんて考えもせずに、一方的に崇め奉ったのだ。無償の愛とは、こういうものよ。「究極のファンの愛」よ。こんな愛し方は、甘ったれた幼稚な馬鹿男にはできんのよ。ルイス・キャロルは、本職はオックスフォード大学の数学の講師だったけど、やはりそれぐらい優秀な男でないと、「ロリコン道」は極められない。日本の無能な引きこもり男になんか、自分の中で育んだ幻想に殉じて、ただただ崇拝するだけの高度な精神活動ができるもんか。こんなクズみたいな連中には、美意識なんかひと欠片もないのだから、こいつらを「ロリコン」なんて呼ぶのは、「真性&神聖なるロリコン」に実に失礼である。こいつらは、文字通り「生ゴミ」と呼ばれるのが正しい。日本人では、宮崎駿クラスでないと、「神聖ロリコン帝国」に入れてやらないよ、私は。幼い紫の上に対する光源氏程度の態度では、「帝国」に入れてやらない。

同じ理由で、日本の男を「マザコン」と呼ぶのも、まちがっている。母親という人間の質の高さなり、知恵なり、愛情なり、美しさなりを心に深く刻み、人間判断のものさしにするほど、自らの人間形成に母の影響が巨大であることを自覚し、しみじみありがたく感じているので、しょうもない女なんかに惑わされようもないし、人間というものに根底的に信頼感がある、というのが、正しいあるべき「マザコン」である。女は、こういうマザコン男こそ、結婚相手に選ぶべきである。女たるもの、そういう真性&神聖マザコン男の母親には、全面降伏するべきである。「姑」なんて呼び方は、不遜であり失礼である。ほんと、そういうさりげなく普通に立派なお母さんって、いるからね。ああいう女性たちがいるから、日本の男も救われるなって思わされること、結構あるよ。

日本で通常言われるマザコンとは、「自分の人生を自分自身で作れないので、他人に介入することでしか暇がつぶせない女に、ヴィジョンも見識もなく、気まぐれに世話され、いじくられすぎたんで、世話されて構われていないと安定できない人間依存症になった」だけの人間のことである。うちの職場にもいるよ、こういう人間依存症というか、女依存症の馬鹿が。女と見れば、しょうもない冗談言ったり、ため口きいたり、からかったり、ほんとうるさい二枚目ぶった初老教授なんかいるよ。ビジネスの現場で、そんなオッサンというかオジイサンに歪んだ形で甘えられたって、気持ち悪いだけだ。「無駄口たたくな!その加齢臭が気持ち悪いんだよ!さっさと癌にでもなって死んでくれ!」と私は心の中で叫んでいるが、「加齢臭」とか「オッサン」と言うのも、セクハラになるから口に出しては、言えない。私、今年度のセクハラ相談員になってしまったからなあ・・いやだなあ・・

こういう男で質がもっと悪くなると、母親からは暇つぶしで相手にされていただけで、ほんとうに愛されたわけではないことを、うすらぼんやり意識はしているんだけど、それは直視せずに、無意識のまま母に憎悪を怨恨を抱いて、それを抑圧してしまって、母と形態が似ている女一般に、その怨恨と憎悪を向けるよね。敵は母親であり、その問題を直視しない自分自身の勇気のなさなのに、自分の深層心理を分析できないというのが、日本の男の知的情緒の水準の低さだよね。こういうのは、実質的には「母なるもの」を知らないのだから、「マザコン」と呼ぶのは、間違っている。単に「濃縮100パーセント孤児」でいいよ。もしくは、「優しい子ども虐待サヴァイヴァー」とでも呼ぶか。

同じ文脈で、日本の女性に「真性&神聖ファザコン」というのも、そうそういないのだよ。きちんと責任を負って生きている男らしい男を父として育った女というのは、成長過程で、男の仕事の厳しさとか、孤独とか、プライドとか、疲労とか、どこかで感じて知っているので、人間が生きていくことは甘ったれたものではないということを知っている。保護されたいのならば支配されるしかないと、わかっている。自分が好きに生きたいのならば、自己責任と孤独はついてくると、わかっている。親父(オヤジ)は一人で決断し責任を負うから、親父として尊敬もされるし、その強引さも許容される。保護が欲しい人間は、小さなガキみたいなわがままは言えても、大きなわがままは通せないのだと身に染みて知り、あえて大きなわがままを通せる人生に挑戦したいと思う・・・これが、「真性&神聖ファザコン」女の心であります。駄目馬鹿男には情け容赦ないが、賢い男は尊敬し、その世界に立ち入ったりしないで、自分の分をわきまえて、かつ自立しているのが、「真性&神聖ファザコン女」です。むふふ。

日本で、俗に言われる「ファザコン女」って、大きなわがままを通すだけの気概もなければ努力もしないで、気の弱い男にセコイ小さなわがままを言い募っているだけじゃないの?気の弱いお行儀のいい男は振り回して、セクハラしてくるような馬鹿男には怒鳴りつけることすらできないという気の小さい卑怯なことでは、まあ男女平等なんて、まだまだ先の話よ。優しい男は苛めて、ひどい男にはびくびくして甘やかすというのは、なんかおかしくないか?家庭内暴力を許すのは、女のこういう卑怯さである。紳士的な男性にはちゃんと紳士的に応対して、つまらん下品な男には厳しく対応するというのが、筋ではないの?日本の女って敵を間違えていないか?

つまり、「ファザコン女」ってのは、優しい甘い父親に可愛がられて育ったので、男をなめている女とか、際限なく甘やかしてくれる男ばかり求めて、自分は全く成長しようとしない女の呼称ではないのであります。まともな男に育てられなかったので、まともな男のモデルが身近になかったので、厳しくきちんと生きている人間というものを知らずにきてしまったので、つまり「甘ったれの駄目パパ」しか知らないので、その程度の人間でも人生を渡っていけると、生きることをなめてしまった女性の呼称ではないのであります。そのへんの公務員や教師の娘では、「真性&神聖ファザコン女」にはなれません。実質的には男なんて見たことないんだからさ。「男のオバサン」しか見てないんだからさ。私が入っている業界でも、気は小さいくせにセコイわがままと頑固を振り回すような五流どころのくっだらない貧相な男が、結構もてている。この業界の女の父親って、教師とか「昔の銀行員」とか多いけど、だからかなあ・・・・?

ほんと、日本では「ロリコン」も「マザコン」も「ファザコン」も、間違って使われている。いまどきの日本人に、ほんとうの「ロリコン」や「マザコン」や「ファザコン」になれるだけの精神性があるかっつーの。なれるもんならば、なってみろ!日本に、ほんとうの意味での「ロリコン」や「マザコン」や「ファザコン」が増えたら、日本の未来も明るいよ。