アキラのランド節

すべてを委ねて抱かれたいという残虐で極悪非道な欲望 [04/17/2004]


イラクで拘束されていた三邦人が解放されて、よかった、よかった。あの三人の中でも、フォトジャーナリストの人は、身の危険と仕事のチャンスを交換するのだから、私なりに共感があるな。ガキとお嬢ちゃんは、顔見るだけでむかつくな。その理由ははっきりしているけど、ここでは書かない。ああいう顔が日本人とは、世界から思われたくないなんて、いくら私でも書けないです。別件のフリー・ジャーリストとNGOの人も、解放されてよかった、よかった。

大義中毒かプロ魂か山っ気かしらないが、ああいう人々について、危険をわかっていて勝手に行ったのだからといって無視もできないし、なんか対策を講じているふりしないといけないから、政府も面倒くさいだろうなあ。いざとなったら、ほんとうにいざとなったら、つまり国民が国に守ってもらいたいなあと切実に思うときに、国が国民を守るなんてことは金輪際ないので、みなさんイラクにいようが、日本にいようが、火星にいようが、そこのところはわかっておいてください。なかにし礼の『赤い月』(上下巻・新潮文庫)を読めば、そのあたり、よ〜〜く納得されることでありましょう。満州の引き上げの話ですが、ほんと、ここに描かれていることこそ、善悪を超えた事実、国民と国ののっぴきならない関係なのでありましょう。一読をおすすめいたします。

この小説の映画化は、まだ観ていないけど、主なキャストの顔ぶれから見て、私の大好きな香川照之さん以外は、才能のない役者ばかりなので、見てもしかたないかも。優れた長編小説の映像化作品って、だいたいが大コケしているということもあるし。しかし日本から、若い優れた素敵な俳優が消えつつあるのは寂しい。ごくふつうの清潔そうな品のいい美男子俳優さえいなくて、韓国まで調達に行かないといけなくなっている。ヨン様、ヨン様って。あ、今夜『冬のソナタ』を観るのを忘れないようにしなくては。むふふ。

今回のタイトルは、「すべてを委ねて抱かれたいという残虐で極悪非道な欲望」です。私は、前に8年間勤務していた名古屋のキリスト教系女子大のクリスチャンの同僚たちの気色悪い人品卑しい矮小な醜い人格のことについて、「なんで日本のクリスチャンの中には、ああいう人間が発生しやすいのか?」と、ずっと折に触れて考えてきております。ああいう人間を大量に見るのは、けっこうホラーな悪夢的体験でして、トラウマになっているもんだからさ。あそこにあのままずっといたら、精神病になっていたろうな、私は。ほんと。で、ともかくずっと考えてきたわけです。なんと最近、その理由のひとつが、わかったような気がしたのでありますよ。つまり、彼らや彼女たちは、「すべてを委ねて抱かれたいという残虐で極悪非道な欲望」の持ち主なのではないかと。

今年度の担当講義のひとつは、アメリカの政治的な宣言とか演説とか政治批判(マーク・トェインとかメンケンとかが書いたような)とか、そういうテキストを熟読するクラスなのだけど、まずはアメリカの「独立宣言」から読んでいる。これを題材にすると、自然法とか自然権とか社会契約論などが説明しやすいから。市民革命を経た近代西欧の国家観と日本人の国家観とは、決定的に違うんだということが、つまり吉本隆明が『共同幻想論』の冒頭で書いていたことが、わかるから。ただまあ、受講生の中には、アメリカがかつてイギリスの植民地だったってことを知らないのがいるし、そもそも植民地ってのが何かわからないのもいるし、主語と目的語の区別もつかない「英語が好きな」学生というのもいるので、このクラスの水準は、はっきり言って、定年後の男性とかインテリ主婦とかで成る社会人聴講生と、中年の社会人入学生によって、支えられているのでありますが。

で、政府というのは、創造者から人間に賦与された権利を保証するために政府と国民の契約によって設立されたもので、その義務が果たせないときは、そんな政府は変えたって廃止したっていいんだと、「独立宣言」は言っている。こういう「契約」っていう概念は、もちろん旧約聖書や新約聖書の「約」の字でもわかるように、神と人間の約束、契約という概念から出ている。ユダヤ・キリスト教においては、神は人間とちゃんと差し向かいになって、交渉して、契約して、「あんたねえ、こういう条件を守んないと、こっちとしても、あんたを守れないからね。あんた、救われないからね。わかっているよね?」と人間とやりあっている。イエス・キリストなんかは生意気にも、「ねえ、僕がここで十字架にかかって死ぬからさ、今までの人類の罪をチャラにしてよ。ね、ね?」という具合に、神様と新しい契約をしている。こういう土台がなければ、社会契約説なんて発想されないし、主権在民とか民主主義なんて思想も出てこない。ユダヤ・キリスト教においては、人間は神と契約する。交渉する。これって、すごいことではない?? 神と差し向かいで契約するぐらいだから、そんなもん、政府を向こうに回すのなんか、当たり前だろう。国民の権利を確実にするために政府があるんであって、お互い契約して、お互いにやるべきことやるんだから、政府がちゃんと雇用条件守らないと、政府を解雇するぞ!という発想になるのは、過激でも何でもなくて、自然のコース。

こういう発想って、日本人にわかるのかなあ?「契約する」というのは、相手を認めて、相手を他者として交渉して条件詰めて話し合って、というコミュニケーションというか交通関係が繰り返されるのが前提となる。でも、日本人にとっては、神様って、だいたいが「勝手非道なことをするオールマイティのわけのわからん存在」か、「すべてを委ねて甘えてひたりたい、その胸に抱かれたい存在」でしょう。「契約」する相手ではないよねえ。「他者」ではないわけであります。一方的に自分を否定する存在か、ただただ自分を肯定する存在か、まあどちらにしても自分が飲み込まれる存在が神様。

つまり、日本人にとっては、神と対峙することによって、実感されてくる自分というものはないのよね。ということは、他者と交通する、契約をかわす主体としての自分はないわけね。ということは、他人のことを「自分」を持った存在とは、どうやっても思えないわけね。自分の中に自分がいないのだから、他人の中にある自分、つまりその他人にも自分というものがあるんだよ、自分に自分があるように・・・ということが、わからないよねえ。他人の主体なんか、わからんよね。だって、自分にも主体なんてないんだから。人間って、自分の中にないものは、理解できないからさあ。

主体なんて幻想だ!とか欲望は他人の欲望である、自分の内部から出た欲望なんてない!とか、そういう思想は、キリスト教信仰が崩れた近代の産物だから、これってつまり西洋人が日本人的になりつつあるのが現代なのかなあ。まあ、遺伝子に蓄積された発想というのは、なかなか消えるものではないから、ユダヤ・キリスト教徒の末裔たちの中には、「他者と契約する意志と自由と義務と責任をもった主体」としての自分というイメージは、まだまだ深く内面化されている。ランディアンとは、そういう人々です。のはず。

で、日本のクリスチャンって、まあ私がかつて目撃した人々の例でいくと、彼らの神様は、だいたいが「すべてを委ねて甘えてひたりたい、その胸に抱かれたい存在」であって、奇妙に日本人化した神様だもんだから、「ちゃんと神様と契約したのに、守れない僕・・・・」というふうには、悩まないみたいで、ひたすら帰依していればいいようなドロドロろしたつかみどころのない、存在にもなっていないような何かになっている。

かわいそうに、ある種の日本馬鹿クリスチャンにとっての神様は、神としての主体すら持てずに、人間の怠惰で一方的で分節化されない感情の塊をぶつけられ、まぶされ、こすりつけられる巨大なティッシュペーパーか便器みたいなものらしい。この人たちは、「こんなしょうもない人間ばかりで、さぞかし神様も寂しいだろうなあ、疲れて泣きたくなるだろうなあ、愛想が尽きるだろうなあ」なんて発想は絶対にしないのではないか。ひたすら自分を委ねて甘えて抱かれたいばかりで、自分から抱いてあげようかなんて思うことはいっさいないのだろうなあ。なんかねえ、「すべてを委ねて甘えてひたりたい、その胸に抱かれたい」という思想は、とてつもなく残酷なもんだと思わないか?実に実に残虐で搾取的で冷酷ではないか?その自分の残虐さ、搾取性、冷酷さを意識できないぐらいに残虐で搾取的で冷酷な欲望ではないか? すべてを委ねられて甘えられて、べたっと全重量をかけられる方は、どれだけ辛くて痛いか考えないのかなあ?

やっと、少しわかってきたのであります。なんで、ああも、私は前の勤務先に棲息していた日本クリスチャンたちが、不快だったのか。なんで、ああも、私はあの人々を嫌悪したのか。あの人たちは、世間一般で観れば、人当たりのいい温厚な人々なのだろうけれども、私には最初から非常に気味が悪く思えた。グニャグニャといい人ごっこをして、いかにもいかにも優しげな殊勝なことを口に出すのだが、彼らや彼女らのやっていることは、寄生虫だった。集団に帰依し依存し埋没しているが、その集団に実質的な貢献は何もしていなかった。徹頭徹尾無責任で当事者意識がなく、芯も核もなく、あるのは何かのフリ、真似ばかりだった。正直言って、私はあの人々を「人間」とは思えなかった。あの人々からすれば、「ちゃんと気を遣ってやっているのに、なんで絶対に溶け込まずに、いつも離れているのか?まったく協調性がなくて勝手な奴だ。人の和を壊す身も蓋もないことばかり言って」と思っていたろうが、私は、ほんとに気味が悪かったんだから、しかたないよ。そいつらの顔を直視すると、悪寒が肌を伝うって感じだったもん。ほんと。確かに男だと不細工でモグラみたいな上目遣いで嫉妬深くて、女の場合だと夕方になると顔の表面がひび割れてくるぐらいに厚化粧のわりには、手はグローヴみたいに黒かったので、キモイことはキモかったな。

「すべてを委ねて甘えてひたりたい、その胸に抱かれたい」なんて欲望は、おぞましい。そういうものを求める恋愛ならば、しないほうがましだし、そんな人間関係なんか、ほとんど拷問だ。そういう残虐な言語道断の冷酷な欲望の持ち主は、神からでさえ主体を奪うのだから、自然を汚すままにして汚物を垂れ流すままにするぐらい簡単にするだろう(つまり日本には本当のアニミズムはありません。汎神論もありません。ほんとうには信仰対象を大事になんかしてないもん)。政治家や官僚ならば、国民から税金を徴収することだけが国政だと考えるような苛斂誅求など平気でやるさ(相続税100%にすれば、問題はすべて片付くと思うけど?)。男がこういう欲望の持ち主だと、子どもにも女にも手加減のない暴力を延々とふるうぐらい簡単にするな(子どもも女も、そんな欲望を叶えることなどできないのに、それを求められるんだから、かなわんよ)。国民の中にこういう欲望が共有されていると、国民が何をやろうが、どこに行こうが、脱税しても年金保険料は払わなくても、何でも許してともかく生まれてから死ぬまで手厚く面倒見るのが政府の義務ということになって、国家=巨大な介護施設ということになるんだろうなあ。で、この巨大な介護施設の介護者は誰がやるの?介護者のいない介護施設って、ありえるのかな?

もともと自分なんてものがない日本人が、もっと自分を捨てたいと思って何かに帰依したら=すべてを委ねて甘えてひたる=その胸に抱かれることを始めたら、怖いよ〜〜逃げた方がいいよ〜〜もう何でもやるよ。「自分の中にある自分を規制し律する他者=契約し交渉しあう相手の相手としての自分」がない奴なんか、人間もどきのチクワ(芯がない)であって、人間ではないよ。

という話を、私は授業でしているのだけど、私の話す日本語が全然わからないって、学生がコメントペーパーに書いてくるんです。どうしたら、いいでしょうか?悩みの深い春爛漫の週末です。