アキラのランド節

学生根性は醜い [06/02/2004]


今日は気分いいなあ。今朝、教育実習生を引き受けてくださっている中学校を訪問したのだが、その中学校が校長先生以下、みなさん素晴らしかった。大阪府和泉市の南池田中学校というところである。私は、入試の出張講義というか出前講義(高校から要請があれば、こういうことウチの大学でやってます〜〜とデモンストレーションに行く)とか、ゼミの教育実習生の関係で、あちこちの高校や中学校に出張するが、「ああ、こういう先生方がいらっしゃるから、日本の中等教育の環境と水準は、まだ保たれているのだ」と、つくづく感じ入る学校というものが、現にちゃんと存在する。まともなスタッフの多い学校かどうかは、正門入ってすぐ見当がつく。空気というのかな、なんかあるよね。いい学校を訪問した後の帰り道なんかは、正直言うと、まぶたの裏が熱い気分になるな。

私は、無駄口ばかりの教授会や委員会は死ぬほど嫌いだが、出張は好きだ。どんな辺鄙なところでも好きだ。前世が旅芸人なのかもしれないが、もともとフラフラ歩き回るのが好きなのと、自分の狭い視野が少しは広がる気がするから。教育実習生の研究授業なんか、見学させてもらうと面白いよ。中学生ぐらいだと、まだガキだから、眺めていても飽きない。この子たちが成人するころには、世の中どうなっているのかなあとか、考える。クラス・サイズが小さくなっているから、ほんとに少子化が進行しているのだなあと、あらためて思う。職員室にパソコンが並んでいる風景は昔はなかったなあとか、でも教室は昔と同じでなんか雑巾臭いなあとか、どうでもいいことに感心する。

ところで、もうこの年になると、自分の気持ちが前向きにならないような場所には行きたくないので、最近は自分が発表する場合以外は、「学会」という場所にも行っていない。なんで、学会に行っても前向きの気分になれずに寂しくなるのかなあ?と考えて、ふと思い出したのが、『Recoreco』という雑誌(休刊中。いいブックガイド誌なのに。あそこの情報は重宝だったのに。売れないのかなあ?)の8号に、去年自分が書いたコラムだった。

(以下、私が書いたコラムのコピペ) 昔の大学院生時代の話だ。忘年会か何かの席で、某教授が挨拶した。「僕は、永遠の学生でありたい!」と長口舌の最後を結んだ。これは、一見(一聞?)、学ぶことを忘れない学究の徒らしき宣言なのだから、私は感動するべきだったのかもしれないが、そのときの私は、「アホくさ」と思った。死ぬまで勉強するのは、誰にとっても、どんな職業でも当たり前のことで、そんなことを大仰にいちいち言い立てて、何様のつもりかと思った。「永遠の学生」なんて、しょせん万年ガキってことじゃないか。ガッコウという子宮の中で、いつまでもゴッコ遊びしながら胎児でいたいなんて、薄気味悪いではないか。

学生なんて状態は、しかたないからやるものだ。この社会は卒業証書というものを要求する。たとえば大学教師になりたいのならば、やたら学生を長々とやらねばいけない。さっさと就職して生活費は確保して、好きなことを自分のペースで勉強できればどれほどいいかと、私は何度思ったことか。

ところで、そのときの教授の言葉を讃えて、自分も永遠の学生でいたいと言った先輩たちは、確かに「ずっと学生」だ。50歳過ぎても学生根性が抜けない。いつまでたっても「センセイのお気に入り」でいたいらしい。いまだにお手本を物欲しげに探している。いい加減、普通の大人になったら? 以下の7冊を、私の若き日のむかつきを共有する方々に、勝手に脈略なく薦めます。(以上、私が書いたコラムのコピペ終わり)

ああ、そうか。日本英文学会に行っても、アメリカ文学会に行っても、寂しい気持ちになって帰ってきたのは、そういうことだったのか。生気も精気も性器もないような年食いすぎた学生みたいなのが集まって、つるんで「お勉強ごっこのおさらい会」しているのだから、つまらないに決まっているのだよね。まともな大人だと、あほらしくなるのは無理もない。

確かに、「学問オタク空間」というものは、必要だわさ。「学問のための学問の場」というのは、必要だわさ。いちいち「いかに生きるべきか?」とか「現実に、どう生かせるか?」とか考えずに、ただただ事象そのものを研究して、問い詰めて、その結果を知識の集積にあらたに加えるという作業は、必要だわさ。自然科学の分野なんか、そうだよね。いちいち「お茶の間道徳」みたいなこと気にしていたら、遺伝子工学も臓器移植も核開発もできないし。美容整形手術だって進歩しないだろう(ブスが辛いなら整形しよう!私は大学生のとき顎にプラスチック入れたい!岩下志麻みたいな顎にする!と騒いで父親に怒鳴られたが)。自然科学の研究者ならば、どんな狂人でも、どんな痴漢セクハラ男でも、自然科学上の発見なり発明をすれば、それは社会に還元される。だから、「学問オタク空間」は必要だ。

だけどさ、人文学というか、リベラル・アーツの分野の文学研究が「学問オタク空間」になっていいのか?「このしょうもない地上の現実の浮世の中で、いかに自分の欲望と集団の折り合いをつけ、いかに自分自身を受け入れ、いかにまっとうさを維持して生き抜くのか?」という問題を、既成の宗教や既成の道徳を超えて、善悪の彼岸を超えて、文学テキストを通して考えるというのが、文学研究なのではないのか?実際の事件の分析ではなくて、物語、虚構の出来具合について、ああだこうだと言い合って、作家の生育暦と時代背景調べ上げて、勝手なこと考えるという「お遊び」は、物事を直視する能力に欠けた人間(ほとんどの人間はそうです!)には、ちょうどいいのだ、認識と想像力の訓練として。物語を通して人間は現実を見る。ベタな現実は、わかんないのだ、あまりにリアルで。失恋した後は、失恋の小説を読んで、自己の失恋体験を再構成して、その意味を把握する。だから、文学を知らない人間は、自己を知らない。他人もわからない。だから理数系純粋偏り男と結婚すると寂しいぞ〜〜!

いまや、お寺の坊さんは法話もできなくなって、お経も下手(般若心経ぐらい暗唱しておけよ!)だし、クリスチャンと言えば、教会には通っても、心の中に神を感じる能力は皆無の「宗教と信仰の区別がつかない&慣習と意志の区別のつかない」人間が多い(あ、また昔の勤務先の女子大の同僚を思い出してしまった)のだし、道義といえば、政治家の年金の未払いがどうのこうのと騒ぐような「女・子どもの貧乏人お茶の間道徳」しかないのだし。年金の心配しかやることないのか、日本人は?老後の生活に不安があるのならば、今を必死に頑張って無理して生きればいいんだよ。そのうち大病になるから適当なときに死ぬ。しなければならないことも特に無いような凡人が、健康に気をつけて長生きしてどうするんだ?退屈と無為は諸悪の根源よ。はっきり言う。長生きは罰。人間の一生に公平に割り当てられた量の苦労をしていないから、死ねないのだ。いわば宿題をやっていないガキ。返済していないローン。間違いない。何の話か。

ともかく、宗教も道徳も死滅しつつある現代なのだから、文学が、この種の問題を扱わなければ、誰がするんだ?だけど、この種の問題は、万年ガキの学生根性の人間には扱えない。 いい年して、しょうもない勉強会を開いて「異性交遊ごっこ」をしているような連中には無理だ。プライドが高いわりには臆病なので、アヤマチを犯せなくてついつい「永遠の乙女」になってしまいましたという女には無理だし、風俗店とかキャバレーとか見学もしたことがなくて、それは金がもったいないからだし、one of themの「客」として扱われることに耐えられないほどナルシストだから、というケチな男には無理だ。ひたすら外国の論文のコピーをして整理してファイルにして読むのは忘れた「真面目だけど成績の悪い中学生」みたいな連中には無理だ。教師やって食っているのに、組織人やって食っているのに、「こんなに仕事が多いのでは研究ができないよ」とほざくような、<そういう台詞は、ノーベル賞級の学者だけが言っていいのだ!>と、こちらが即つっこみたくなるような連中には無理だ。税金で経営されているのだから、税金配分機関である行政から「無用です!廃部廃科します!」と宣告されたら、素直に解体・解散するしかないのに、ウジウジ言っている公立大学の英文科のスタッフでは無理だ。国立大学が独立行政法人化する!とか大地震みたいに騒ぐような連中には、無理だ。思うようにならない現実にまみれて、辛い思いをするのが大人だもの。自分のいる矛盾だらけの現場で、自分にできることは何か考えて、試行錯誤するしかないのが大人だもの。「このしょうもない地上の現実の浮世の中で、いかに自分の欲望と集団の折り合いをつけ、いかに自分自身を受け入れ、いかにまっとうさを維持して生き抜くのか?」という答えの出ないことを考える文学と文学研究と文学教育は、大人しかできないんだからさ。ひたすら、「センセイの答え」を推量し、センセイの顔色を見ている学生には、無理なことだ。

先日の5月23日に、私はひさしぶりに日本英文学会に出かけたのだが、そこではいろんな人が、「文学ってもう駄目」とか「文学教育はもう大学から消えてしまう!」とか「未来が暗い」とか「いい話聞かないよねえ」とか言っていたらしいが、しょうもないこと愚痴りあっているなんて、まだまだ暇だし、切羽詰ってないよな。駄目なのは、消えていいのは、学生根性の万年ガキの馬鹿教師。カリキュラムから文学系科目が消えても、ゲリラ戦でやれる。現場にいる限り、できる。ドサクサにまぎれて、できる。ただし、ゲリラ戦の現場には、「センセイのお手本」はないからね。