アキラのランド節

キャラクターは主張する(その1) [07/20/2004]


おかげさまで、アイン・ランドの最初の長編小説The Fountainheadの翻訳『水源』が、出版された。見本を7月のはじめにビジネス社より送っていただいて、それを初めて目にしたとき、装丁のデザインの素晴らしさに、思わず「カッコいい〜〜〜」と大声を発してしまった。9.11以後のニューヨークの超高層ビルの風景を油絵に描いて知られている大西信之画伯の作品を使用させていただいたのだそうだ。大いに喜んで、ビジネス社にお礼の電話をしました。一時期は、金属バット持って乗り込むつもりだったのだが。むははは。

装丁に感心した後は、本の分厚さにびっくりした。「なんだ、これ辞書みたいじゃないか?!」二段組で、この厚さならば、税込み5250円って安いんじゃないの?だいたいが、薄い本よりも厚い本の方に、中身がぎっしりつまっているのは、物の道理であります。

実は、『水源』には、けっこう校正のとき見落としたミスが多いです。小さい誤訳もある。私は、確かに「びじょうふ」と正しくルビをつけたつもりだったのだが、どういうわけか「美丈夫」に「びじょうぶ」とルビがふってある。なんで??? いつから、「美丈夫」は、「びじょうぶ」になったの?最近は、そう読むの?「美丈夫」というのは、体が大きくて立派で美貌って意味です。昔の日本人男優ならば、佐分利信とか。知らないよな。。

某通信社から、この本の書評を出してくれるというお話をいただいたが、この本の分厚さに書評者が見つからないのだそうで・・・・依頼から締め切りまでの3週間の期間(通常そうらしい)では、引き受け手がないのだそうで・・・どうなるんだろ・・・分厚いがゆえに書評されないなんて・・・書評者が見つからなかったら、どうしよう(涙)私が、書評できればいいのに・・・そういえば、自分の結婚式の披露宴の司会者をどなたにしていただくかを決めたときに、私は密かに、自分が司会できればいいのに、ならば安心して任せられるのに、と思ったものだった。非社交的なくせに、逆説的に非社交的だからこそ、昔から、私はコンパの幹事とか、送別会だの、歓迎会だの、出版記念会だの、還暦祝賀会だの、集まり事を企画して幹事を務めてきた。おかげで、親の葬式のときもあわてずにすんだ。まだ葬儀委員長はやったことがないが、きちんとできると思う。実は自分の葬式でさえ自分で仕切りたい。だって、ほんとに気のきかない心のない葬式って、あるものなあ。何の話か。

今日は、『水源』を購入して読んでくださる方々の御参考までに、「キャラクターは主張する」という題で書く。よく作家が言うではないですか。小説を書いていると、登場人物が主張しだして、作家の最初の意図とは違った動き方をするとか何とか。翻訳にも、似たようなことがあります。その話を書く。

『水源』は、会話が多い。シナリオ・ライターだったランドらしく、またその会話がうまくて、生き生きとしている。その会話を訳すとき、キャラクターによって語調や口調を変えなくてはならないわけだが、その選択の苦労が全くなかった。キャラクターが勝手に私に口調を選ばせた。いや違うな。もう、そのキャラクターならば、こういうふうに話す以外は考えられないというくらいに、自然に口調が決まった。それだけ、『水源』における登場人物は、「キャラ立ち」しているということであります。こいつの性格がわからんわ、これでは共感もできんわ・・・という登場人物が出てこない。シェークスピアの『ハムレット』なんか、初めて読んだとき、「こいつ、わけがわからん。うっとうしいわ」と思ったが、あの優柔不断なくせに小うるさい甘ったれた八つ当たりばかりしている馬鹿で暇なデンマークの王子様みたいな、ややこしいのは出てこない。

(1)まずハワード・ローク。この最初から人格が完成してしまっているダイヤモンドみたいに傷つかない硬派なんてものではない青年の語調は、辻邦夫の『安土往還記』の信長像からぱくった。信長を主人公にした小説は数多くあるが、この辻邦生が造形した信長ほど、カッコいい信長はいない。『背教者ユリアヌス』を初めとして、若い頃の私は辻邦生の小説が大好きだったが、一番好きなのは、やはりこの『安土往還記』。無茶苦茶にカッコいい。先輩の男性からは、「ああ辻邦生?純文学の宝塚だね。清く正しく美しく、ね。女の子ってああいうの好きだね」と馬鹿にされたが、「ほっとけ。お前みたいな、小狡くてセコクて不細工な男に言われたくないね」と、私は心で罵ったもんだ。

笠井潔(この人の本邦初のリバータリアニズム国家論『国家民営化論』の復刻にご協力下さい!)のミステリー小説の『バイバイ・エンジェル』や『サマー・アポカリプス』や『薔薇の女』や『哲学者の密室』などの矢吹駆(やぶき・かける)シリーズに登場する、フランスを舞台にした難事件を解決する冷徹な日本人哲学者「カケル」の語調もぱくった。このシリーズは、推理小説のくせに、探偵カケルと犯人が哲学的討論(フランス語でするんだよなあ、設定としては)を、長々としたりする。結構泣かせる熱い議論だったりする。『バイバイ・エンジェル』の終わりあたりのカケルと犯人との死を賭けた議論には、ほんと泣いてしまった。推理小説読んで、泣いたのは生まれて初めてだったなあ。

(2)次にドミニク・フランコン。『水源』映画化の話が持ち上がったとき、ランドは、ドミニクの役はグレタ・ガルボに演じてもらいたかった。実際に、ガルボをイメージして人物造形している。1930年代あたりのアメリカ映画によく出てくるカチッとしたスーツに身を固めた痩身、長身のクール・ビューティだ。日本ならば、この種の美人は、戦前や終戦直後の日本映画の高峰三枝子(高峰秀子ではないよ)や桑野通子(みちこ。桑野みゆきのお母さんといっても、桑野みゆきすら、知らないよな)の役どころ。昭和30年代ならば、日活映画の北原美枝(石原裕次郎の奥さん。正確な名前忘れた。北原三枝かもしれん。昔のあの人は、すっごくカッコよかった)とか、井上靖原作の『通夜の客』に出ていた有馬稲子とかの、高嶺の花系&高飛車系&言葉丁寧系&痩身長身系の美人です。戦前のアメリカ映画ならば、イングリッド・バーグマンを、もっと華奢に都会的にした感じ。戦後のアメリカ映画ならば、グレース・ケリーを、もっと硬質に怜悧にした感じ。

だから、あのあたりの日本映画に出てくるお金持ちの、誇り高い知的で気難しいお嬢さんの口調をぱくった。『暖流』の病院長の令嬢の口調ね。普通でも敬語や丁寧語で話すわけです。聞きようによっては嫌味な話し方。だけど、超美人だから、ただただ魅力的に響くという趣。ただし、原文の英語が、そういう丁寧表現を使っているわけではない・・・私が勝手にそうした。悪い?しかし、ロークとマロリーだけには、このお嬢さんもため口をきく。ただし、原文の英語に変化があるわけではない・・・私が勝手にそうした。悪い?

昔のアメリカ映画にしろ、日本映画にしろ、主演女優さんというのは、ほんとに綺麗で上品でした。実際の生身の女優さんなんて、どうでもいいわけで、スクリーンの中で輝いていればいいのであります。私は、ガキの頃、母親の婦人雑誌のグラビアの女優さんを飽きずに見つめていたものであります。色鉛筆で、その写真にアイ・シャドウしたり、口紅したり・・・せっせとお化粧しておりました。幼い頃の「刷り込み」とは怖いもので、私にとっては、美人というものの基準が、クラッシックに固定してしまった。その後のアイドル全盛時代には、「美人が見たいのに、なんでこうも下品なオネエチャンばかり出るんだ?!」と、怒りまくっていた。私は、大学生時代(私の出身校の名古屋の南山大学は、当時は不思議にも上品系美人が多かった。今は知らんよ)は、先輩にすごい上品系美人がいると、擦り寄っていっては、ご機嫌伺いしていたが、そういう私を、人は「レズビアン」と誤解していた。単に美人を見るのが好きなだけだ!その人自身そのものには関心がない。

ところで、長じたのち、私は、私自身が1930年代的クール・ビューティのファッションが絶対に似合わない容姿・体型であると冷静に自覚した。そのときは、とても悲しかった。自分の着たいものと、自分が似合うものが違うということは、自分が好きな男性と、自分を好きになってくれる男性が違うのと同じくらいに、悲しいもんであります。しかし、まあ、ドミニクみたいな絶世の美人でなければ、女に生まれても、女やってもしょうがないだろう〜〜フェミニストになるしかないよな〜〜恋愛なんて無縁なことだなあ〜〜私の人生はそれでいいのだ〜〜と、乱暴にロマンチックな恋愛をすっぱり諦めた私の潔さと極端な美人崇拝癖を、私は否定いたしません。悔やみません。ところで、うちの壇寺の先代の住職さんの奥さんは、70歳過ぎているのに、すごい美人だ。私のガキの頃から、同じ顔している。驚異的だ。「野に遺賢あり」ならぬ「野に隠れたる美女あり」だな。何の話か。

(3)次は、ピーター・キーティング。彼の口調を選ぶことほど、簡単なことはない。こういう男は、掃いて捨てるほど日本人には多いから、ぱくる必要もないほど日常的な風景だ。特に教師なんてやっている男には、多いタイプだ。そういえば、桃山学院大学には、ほとんどいないな。大阪には、あんまりいないタイプかもしれないな。

つまり、いかにも「いい人」で、「誰の友だちにもなる人」で、人付き合いの良さと温厚さを、それとなく、かつあからさまに強調して、誰かを知っているということを自慢げに吹聴し、誰かと話しているときも、相手の話にどこか上の空で、目だけはキョロキョロと周囲を落ち着きなく、小心に小賢しくいつもチェックしている奴だ。このピーター・キーティングそっくりの矮小な人格の、自分の父親が「高校の校長だった」ということを、やたら口に出す(自慢していたのかな?まさか?)クリスチャンの、ただしキーティングとは正反対の不細工極まりない男が、かつて私が勤務していた名古屋の女子大の同僚にいた。だから、この小説を初めて読んだとき、「アメリカにも、ああいうキャラの奴っているんだなあ!」と感心したものだ。そいつの、上品ぶって気取ってはいるが、どこか下司な人品の卑しさが滲み出してしまう物言いを、不快さを我慢しながら、無理して思い出して、訳してやった。ざまみろ。ああ、気持ち悪かった。

正直言って、キーティングが出てくると、訳すのがいやになったものだ。ロークやドミニクや、私がお気に入りのキャラ、若き彫刻家マロリーが出てくると、嬉々として訳は進む。しかし、こいつが出てくると、ムカムカしてきた。「なんでまた、お前、出て来るんだよ!ひっこんでろよ、ボケ!」などと、吉本新喜劇風にブツクサ言いながら訳していた。

しかし、そんな時、つくづく作家というものは凄い!と思った。好きで憧れている人間や事物を描くのは、楽しいし快楽だから、とことん描けるだろう。嫌いで軽蔑している人間や嫌いな事物を描くということは、とことん描くということは、難しいのではないか?嫌いな人間になど、関心が持続できないではないか。どうでもいいや〜〜こんな奴〜〜描くのもアホらしい〜〜という気分にならないだろうか?

だから、掲示板とかで、また「2ちゃんねる」(私は読まない。一度読んでみたら、気分が悪くなったので)とかで、執拗にある人物を攻撃した文を書いている人間は、ひょっとして、その人物を愛しているのではないか?と思ってしまう。時間もかかるのに、嫌いな人間のことについてなんか、延々と長々と書き込みできるだろうか?愛だな、愛。作家というのは、「いろんな人間を描かなければならない」わけだが、この素朴な原則は、なかなか達成できないのではないかなあ。私ならば、ロークしか描く気ないよ。なんで、キーティングみたいなクズを、延々と描写する気になれるか?要するに、私は、作家になるには単純過ぎる、モノを書くには感情を切り捨て過ぎるのだな。嫌いなもの、不快なものを直視して、見続ける好奇心が足りないな。愛がないのかも。

ランドの弟子たちは、彼らや彼女たちの批判の対象になる人々のことを、それぞれを「キーティング1号」とか「キーティング2号」とか仲間内で呼んでいたそうだ。だけど、意外に、日本では、この人物が一番共感を呼ぶのかもしれない。この人物って、ロークがキリストならば、ユダみたいなもんだ。キリストが好きで好きでしかたないんだけど、キリストに認められないので、キリストに「特別に」愛してもらえないんで、恨んで裏切ったユダ。『円卓の騎士』みたいなものでもあるな。アーサー王が好きで、だからアーサー王の妃を愛したランスロットみたいなもんでもあるな。あ、ちょっと違うか。

今回は、この3人のキャラの話だけに、とどめておきます。しかし、ほんと暑いですね。20年ぐらい前に、イギリス旅行の帰りに、シンガポールに3泊ほどしたときに、まるで風呂につかっているような暑さに、息をするのも苦しいような暑さに、ほとほとまいった。まるで冗談でなく、この頃の暑さは、東南アジア的酷暑だ。こういう夏は、心は熱いが涼やかなキャラクターが静かに闊歩する小説『水源』を、読みましょう。なんちゃって。