アキラのランド節 |
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キャラクターは主張する(その2) [08/20/2004]8月に入ってから疲れの出た私は、今日に至るまでずっと死んでいた。思えば、これは1992年の父親の死以来、1998年の母親の死を経過して、いろいろさまざまなことが蓄積された疲労である。こんなに死んでいた夏も珍しい。スポーツは全くできないから興味もなくて、いつもはオリンピックなどどうでもいいのだが、今年は死んでいたので、体操ニッポンの復活に涙した。福原愛ちゃんの可愛らしさに釘付けになった。声も可愛いな。しかし、あの開会式の日本選手団の安物の花柄のパジャマみたいな国辱ユニフォームは、またもユニクロの寄付なのでしょうか!? 2004年7月20日付けの「ランド節」の続編に入る前に、ちょっとお知らせであります。掲示板に書いたことも、まじっていますが。 お知らせ1: 私のランド研究コンサルタントであり、アメリカ有数のリバタリアニズムとアイン・ランド研究者である、クリス・マシュー・スカバラ博士(リンクにこの方のHPも紹介されています)が、「日本にアイン・ランド初上陸」と題したエッセイを下記のサイトに、お書きになりました。この方は、まだ40代そこそこの若い研究者なのですが、慢性のご病気のために常勤の大学教員にはならずに、母校のニューヨーク大学の客員研究者(visiting scholar)として研究活動を続けていらっしゃいます。ご関心のある方は、以下のサイトをご覧下さい。 http://www.nyu.edu/projects/sciabarra/essays/japan.htm お知らせ2: 翻訳『水源』の装丁に使わせていただいている摩天楼の絵をお描きになった大西信之氏の絵画展「REBORN もう一度生まれ変わって」が、8月18日(水曜)から24日(火曜日)まで、伊勢丹新宿店本館5階のアートギャラリーで開かれます。大西信之画伯のギャラリートークは、22日の日曜日午後2時から開始だそうです。ニューヨークやロス・アンジェルスやシアトル、サンフランシスコ、デンヴァーなど全米各地で開かれた展覧会は、どれも人気を博しましたが、今年の5月には、トロントでも個展をお開きになりました。日本での個展は、今回以後しばらくないそうです。 お知らせ3: パク・ヨンハ(『冬のソナタ』でヒロインにふられまくったサンヒョク演じた男の子)のCD『期別』は、意外なほどいいから、聴きましょう!1980年代終わり頃のイギリスのBlackとかThomas Langを思い出させる。ヨン様よりも、パク・ヨンハ。 そうであります。私が敬愛する年配の同僚の評によると「人物がしゃべりすぎる」きらいのある、つまりやたら会話が多い『水源』の主なキャラクターの口調の訳文の選択の話でありましたね。 4番目は、この小説の中で一番饒舌なエルスワース・トゥーイーの口調について。トゥーイーは、眼鏡をかけて小さな卵形の顔をして、小柄で痩せていて、足が極めて小さくて、肩幅が狭くてなで肩で、真ん中で分けられた黒髪がぺたりと頭にはりついているみたいな貧弱な容姿と設定されている。こういうのって、いわゆる典型的egg-headedというのかしらん?昔の日本の大学の先生にも、こういう感じの風貌って、よく見かけたよね。 ランドって、自分は小柄なくせに、小説の人物に関しては、身長の高さと人格のそれを正比例させるという悪趣味がある。ついでに容姿に関してはジェンダー束縛が強くて、男は男らしい偉丈夫(いじょうふ!いじょうぶと読まないように)でなければ駄目で、女は、いかに男まさりの女傑でも、あくまでもエレガントで女らしい華奢な容姿でなくちゃいけないという偏向がある。このあたり、いかにもWASPぶりっこしたい被差別白人(=ハリウッドのロシア系ユダヤ人)的な趣味であり、少女趣味であり、ガキみたいな偏向である。が、まあ作家としては、望むままに思う存分描きたいと思うのは、当然なのですから、いいではないですか。「政治的に正しく」(politically correct)なくたって。 エルスワース・トゥーイーは、このうえなく優雅で知性と良心の権化みたいな顔しているが、権力志向の出世主義の確信犯的ワルの知能犯という設定である。彼は、ピーター・キーティングみたいな「いい子ぶりっ子」の無自覚な偽善者ではない。自分の内奥に欲望が欠落していることを直視できる。だからこそ、自分が、自分の内なる空虚を埋めるための権力(大量の他者の是認)を必要としていることを自覚している。その実現のために陰謀をめぐらす自分の邪悪さも直視している。自分が支配する人間たちの愚劣さ矮小さも直視できる。奇麗事はいくらでも言うし並べるが、奇麗事など信じていない。ときには、奇麗事を信じたくなる自分の甘さも自覚している。だから、この人物の台詞を訳しているのは、キーティングの台詞を訳しているときよりは、はるかに面白かった。無自覚な偽善よりは、計算づくの意識的偽善、徹底的な偽善、覚醒しきった偽善の方が、眺めている分には退屈しないから。 まだこの小説の第一部を訳していた2001年の暮れの頃だが、私の話を聞いて、10歳ほど年上の同僚が『水源』の原書を読んだ。で、私が感想を求めたとき、その同僚が言った。「エルスワース・トゥーイーっていいねえ!!」と。もう、私はほんとうにひっくり返りそうなほどに、びっくり仰天した。そういう観点がありえるのか?という驚きだった。今でも、実は驚いているけど。 そういえば、こういう「影の権力者」とか「静かに優しく微笑む優雅なる策士」というのは、いわゆる「インテリ」というものの理想像なのかもしれない。「先頭をつっ走ってしまう英雄」とか「矢面に立っても言うべきことは言ってしまう勇み肌」よりは、はるかに安全だし、泥かぶらなくてすむし、結果のはっきりでる勝負はしなくてすむし、言質はとられないし、土壇場に追い詰められるようなことはないし。官僚や政権の走狗となって、政府御用達しの知識人になれば、名声と名誉は思うままで、内容がどんなにしょうもない本でも、権威主義の世間は、その本を有難がって買うんだろうし、末は文化勲章もらって年金もはいるわけで、確かに、エルスワース・トゥーイーって、「インテリ」の目標なのかもしれない。こういう「頭の良さ」って、しょうもないとは思うが。 私自身は、エルスワース・トゥーイーという人物は、よくわからない。なんで、こういうややこしいことするのか、わからない。もう一度言うが、この人物は、自分の中に自分自身の内奥からわきあがってくるような欲望がなく、自分というものがないので、その空虚を埋めるために他人から認められたいという気持ち=支配欲が強くて(人間依存症だな)、大多数の他人を支配するために、人間たちの愚劣さに忍耐強くつきあい、アホな世間をお守りすることにかけては達人のマキャベリストということになっている。自分自身の内奥からわきあがってくるような欲望がなければ、静かに世界の隅っこで遊んでいればいいのに。夕陽でも眺めながら、のんびり海辺で貝殻でも拾っていればいいのに。なんで、わざわざ陰謀めぐらしたり、内心では軽蔑しきっているピーター・キーティングみたいな人々の操作などしなくてはならないのか。ご苦労なことである。勤勉なことであるなあ。 ある大義があって、手段として、こういうマキャベリストになっているというのならば、わかる。難しい外交交渉には、こういうタイプの煮ても焼いても食えない怜悧冷静な官僚というものが必要だろう。頭脳の限りを尽くして国益を守るのが立場の人間が、便宜上、こういうタイプにならざるをえないというのは、わかる。ま、こういう官僚が現実の日本に存在しているかどうかはさておいて、こういう人間像というものは、わかる。が、トゥーイーって、そういう大義もない。 強いてあげれば、傑出した人間は、世の中に新しいものを導入してしまって、その変化と進化のために、大多数の人間は競争社会に入れられるから、大多数の臆病で怠惰な人間のために、世の中が進歩するのは間違っていて、だから傑出した人間が出ないように社会体制をガチガチにしておく=全体主義の社会主義の利他主義の社会にしておく、それこそ万人のための優しい愛の社会を作る、というのが、トゥーイーの大義らしい。 だけどなあ、この人物が言うように、人間の水準というものが低いのならば、わざわざ陰謀などめぐらさなくても、ほっておけば、世の中は劣化、退化していくのだしさ。ほっておけばいいのに・・・だいたい、人間って、こういうマイナス的努力なんか継続できるのか?癌になりそうな気がするな、こういう生き方は。この人物の饒舌は、自己表明というより、ひたすらchattering curtainで、いったい何を隠すために、むやみやたらとしゃべっているのかと、不思議に思わされるようなものだ。 多分、この人物は生きていたくないが、死にたくもないので、ひたすら「生」そのものを憎んでいるのだろう。活き活きとした向日的なるものを、憎んでいるのだろう。つまり、憎むほど愛しているということだよな。つまり、それは、人間が本来向日的であるということを、逆説的にではあるが、激しく肯定し、信じているということだよな。信じているからこそ、ぶっ壊そうと思うのかしらん。エルスワース・トゥーイーというのは、ほんとによくわからんキャラである。 ほんとうは、この人物は、自分自身の生そのものを憎んでいるのかもしれないなあ。自分を愛して肯定したいけれども、意味なく頭が良く生まれちゃったので、異常にプライドが高くてナルシスティックなので、自分のカッコ悪さが自分自身では絶対に受け容れられない、ということだろうか?あるべき自分であったローク的人間に対しては、嫉妬しつつ破滅させないでは、気がすまないということだろうか?ということは、ものすっごく、ロークを愛しているのだろうなあ。『水源』に出てくる男たちは、みなそれぞれに、ロークを愛しているけれども、一番ロークを愛し、ロークを理解しているのは、このエルスワース・トゥーイーなのかも。 私自身は、自分のことはそう好きではないけれども、断じて憎んではいない。自分が憧れる状態から、かなりはずれまくった資質で生まれて、かなりはずれまくった迂闊な穴だらけの人生を送ってはきたので、もう・・・と嘆いてはいるけど、そういう自分の人生の軌跡そのものは愛しいもんなあ。基本的には、自己肯定激しいもんなあ。 脚が短かったから、地味な目立たない格好するしかなくて、おかげで痴漢にあわないですんだとか、酒が飲めないから、わけのわからん繁華街に縁もなくて、安全に暮らしてきたとか、もてないから、ストーカーにもあわずにすんだとか、名古屋の南山大学の大学院にいたから、有名国立や私立の大学院の厳しい競争の激しさは経験しないですんだとか、優秀な人間がいない田舎に生まれて育ったから、無理せずにマイペースでやってこれたとか、金も名誉もないんで、どんな社会変動が来ても平気とか、極東の離れ小島の黄色い猿として前近代人として生まれたんで、勉強しなければならないことが多いから死ぬまで退屈しないし、主流西洋白人みたいな裸の王様みたいな寄生虫的搾取的存在ではないから、きっと死んだら、さっさと天国に行けるだろうとか、下腹が出てるから妊娠してると思われて、日本でもアメリカでも席を譲られて得したとか、なんでもかんでも、自分に都合よく考えてきたものなあ・・・・ それに他人を支配したいっていう欲望もわからない。他人なんか他人だもんね、所詮。私は、自分が幸福で快適ならば、それでいいですが・・・人の心配するときは、その人が不幸だと、私自身が嫌な暗い気持になるから、その人も幸福でなければ困るという、あくまでも自己中心的な心配しかしませんが・・・ ところで、トゥーイーの口調は、大学院生時代に一度だけ受講したことがある地元の某国立大学から出講していた英文学の有名教授(もう故人です)の口調からぱくった。なんか、先輩や周りは、その教授のことを褒め称えていたし、その教授の本務校の大学では、その教授に帰依する学生がすごく多くて、その大学の英文科では、その教授のエピゴーネンいっぱいとかの噂を聞いたけど、私自身は、内心、こういう教授が南山にいなくて、よかったなあ〜〜と安堵していた。教師なんて、基本的には学生をほっておいて、最低限のことだけすれば単位はくれる、っていうのが最高だと、思っていたから。邪魔さえしなければいいって感じで。あの教授が、講演中だったか、講義中だったか忘れたが、ケンブリッジかオックスフォードかしらんが、そこの教授たちがラウンジでワイン飲んでいる光景を思い出し語りながら、「いいですねえ!!」と、うっとりしていたことがあった。あれは、冗談ではなく、本気だったな。日本の貧乏くさい研究室にいれば、そういうのに憧れるのもしかたないか。しかし、英国の学者も、しょうもないね。貴族ぶりっ子してそういう好事家やっているから、さしもの大英帝国も衰退したんだわさ。 しかし、「ここまで優秀でも、この業界では、こういう魅力のない、つまんない俗物にしかなれないのだ」という、ある種の絶望を20代の私に教えてくれたこの有名教授は、しかし只者ではなかったことは確か。だって、私にとっては共感も理解もできないエルスワース・トゥーイーという人物の口調を訳すことが、まったく迷いなくできたのは、この教授を見物していた記憶のおかげだったのだから。 あ、実は、トゥーイーの口調は、ある同僚の物言いも大いに参考にした。この人物、無駄口が多くて、簡単に簡潔に言えばすむことを、雄弁にややこしく説明する。特に女性の聴き手がいると、はりきってネチネチダラダラ延々としゃべりまくり、ニタニタ悦に入って気取っている。ただし、自分のファンたる「観客」がいないと張り合いがないようで、たった一人でも言うべきことだから言い張るという筋金入の硬派ではない。地方国立大学の学生自治会の会長のノリを、初老になってもやっている。プチ・トゥーイーは、どこにでもいるってことか。 |