アキラのランド節

キャラクターは主張する(その4) [09/07/2004]


このHPの掲示板に『水源』の読後感を書いて下さった方の御意見の中に、「女性の影が薄い」という御指摘がありました。確かに、ヒロインのドミニク以外は、ピーター・キーティングの恋人のキャサリン・ハルスィーと、彼の母親ぐらいしか出ない。あとは、キキ・ホルクームとかロークの顧客の金持ちのうるさい夫人とか、名前も記述されない秘書とか、アメリカの前衛詩人のガートルード・スタインのパロディらしきアホ女性作家とかである。女性もけっこう登場するが、その布置は確かに大きくない。

みなさん、こういうことに気がついたことがありますか?女性の存在感というものは、強烈です。たとえば、10人の中に紅一点女性がいれば、それだけで、あとの9人の男性に匹敵するだけの存在感があります。どうですか?そう思われませんか?これが、9人の女性の中に、ひとりの男性が混じっていたとしたら、この男性は女性の中に埋没するのであります。たとえば、理科系の学部の中の数少ない女子学生は目立ち光り輝くのですが、文科系の特に日本文学科などに混じる数少ない男子学生は、いてもいなくてもどっちでもいい感じです。ただし、これは「感じ」であります。優秀か無能かの問題ではありません。それぐらい、女性というのは存在感があります。つまり、生き物としての、数値では判定できないパワーがあるのです。あるものはあるんだから、しかたないよ。

私の地元の某公立大学は「女性の教師ばっかり」という定評があります。地元では女子専門学校時代からの女子教育の伝統を誇る大学です。私の中学時代の恩師である国語の女性教師(心に残る方だった。地元のNHKで脚本とか小説も書いていた)の母校です。1960年代に男女共学になった大学です。ここは、そういう伝統だから、女性ばかり採用するのだという定評です。しかし、この大学の常勤教員の女性の割合は、25パーセントでしかありません。たった25パーセントなのに、「女ばっかり」と言われるのです。全体から見れば、日本の大学における常勤教員中の女性の割合は、ず〜〜と一貫して10パーセント強程度です。それぐらいしか、いないのですよ。女子大とか短大に限れば、やっと25パーセントくらいです。アメリカでは40パーセント、イギリスでは25パーセント、フィリピンでは80パーセントです。なんで、フィリピンの大学教員は圧倒的に女性かといえば、給料が安くて社会的地位も低いので、男性はなりたがらない。フィリピンの女性の社会進出度が高いわけではありません。

まあ、女性教員の割合の国際比較はさておいて、つまり、それくらい女性というのは、良きにつけ悪しきにつけ存在感がある、ということです。黙っていてもうるさい。静かではあるが騒々しい。

で、私が何を言いたいかと申しますと、だから『水源』は女性の影が薄いといっても、女性がいないような寂しい感じはないのではないか?ということです。主たる数人の女性のキャラが出るだけで、現実と同じく、小説空間というものは充填されるのではないか?ということです。

この小説に女性の影が薄い理由は、はっきりしている。要するに、作者のアイン・ランドは、女を描くことに関心がなかった。正確に言えば、『水源』においては、ランドは、ユング心理学で言う「女である自分の中にある男の理想像」=アニムス(animus)を存分に描きたかったので、女はどうでもいいわけ。だから、ドミニクの人物造形には無理があるよね。こういうのって、実は女性作家には珍しい。しかし、こういうことは女性作家だからこそ、できる。英雄的なカッコよさの塊みたいな男=現実味のない夢の男=宝塚歌劇の男を描くということは。しかし、このことについては、別の機会に書くことにします。

今日は、キャサリン・ハルスィーについて書きます。『水源』の最初あたりで、すでにして、このキャサリンという女の子は、ひどい目にあうだろうなあ、と読者は予測できる。しかし、ああいう結末になるというのは、意外ではなかったでしょうか?でも、キャサリンは、「「善良な心優しき思いやりに満ちた女性」だからこそ、ああいうことになってしまう。自業自得なんだよ。

キャサリンは、女らしくて素直で猜疑心のない「いい子」です。エルスワース・トゥーイーは、亡き姉の残したこの姪を引き取って一緒に暮らすつもりはなかったけれども、ニューヨークの駅に降り立ったときの彼女の顔が、未来への希望で光り輝いていたので、この姪を引き取ることにした、と小説は記述している。もちろん、トゥーイーは姪の明るさに心打たれたわけではない。その人生を肯定して疑わない明るさをぶっこわしてやろうと、彼にとっては空気のように当たり前の悪意から、彼女を引き取った。確信犯的に、姪を不幸にするつもりで一緒に暮らし始めた。

姪のキャサリンは、叔父の言うとおりにすると、自分が全く幸福でないことに「変だなあ・・・・」と気づいたときもあるし、はっきり叔父に反感を持ったこともあるのに、いつも適当に叔父に誤魔化される。この女性は、頭が悪いわけではないし、自己省察能力もある。自分がスラムの改良運動をヴォランティアでやっているときに、これだけ私が苦労しているのに、なんでこのスラムの人々はもっと私に感謝して言うこと聞かないのかしら、と苛々する自分を自覚している。スラムの人々が幸福になるのを、内心では望んでいなくて、スラムの誰かが幸運に恵まれると嫉妬してしまう。そういう自分を直視する「自分に対する正直さ」がある。こういう自分の歪みを叔父に打ち明けて相談したときに、叔父のトゥーイーは、「なんで、そんなに自分のことにこだわるのか?自分が何を感じようが、そんなことはどうでもいいことで、自分の感情に関心を持つのは自己中心主義だから、それをやめれば悩みは消える」とか、わかったような、わからんような事を言う。そんな叔父の屁理屈に彼女は納得させられてしまう。

だいたい、この叔父は、姪がキーティングに残酷な形で婚約不履行されたときも、キーティングを責めることなどいっさいせずに、姪の悲嘆とキーティングの裏切りを「若いときには良くあること」などという形で矮小化=冷笑した。叔父ならばキーティングに対してカンカンに怒るのが当たり前とは、このキャサリンは、ちらりとでも思わない。「叔父さまは公平で無私な方だから」だもんね。ましてや、この叔父が、自分とキーティングが婚約していることを知っていながら、キーティングにドミニクとの結婚を、巧妙にたきつけてきたなどとは、知る由もない。

とんでもない形で、キーティングに裏切られてからのキャサリンが、6年後くらいにキーティングと再会するときが、面白い。本気でソーシャル・ワーカーとしてのキャリアを築き、ワシントンを拠点に全米を出張で飛び回る忙しい日々を送る30代半ばに達したキャサリンは、キーティングに遭遇しても、キーティングに恨み言を言うわけでもなく、笑顔で「あら、久しぶり」と言い、淡々と無関心さに限りなく似た友好的な態度で接して、お茶して、思い出話をして、さりげなく自然に別れる。キーティングに対する嫌味で芝居しているのではない。ごく自然にそうしている。キーティングが思うように、こういう自然な普通の態度ほど、再会したふたりにとっては、不自然で異常なことはない。ここはキーティングを完全にシカトするか、手近なところに金属バットがあったら(ないか)ぶちのめすのが、人間として当然の道である。

美人ではないが瑞々しく可愛らしかった彼女の、老け込んで乾ききった優等生ぶりと、「慢性的に苛々している調子」の原因であるところの、すでに抑圧されていることすら意識できない完璧な自己抑圧=自己欺瞞ぶりは、無残だ。

Atlas Shruggedにも、同じタイプの女性〔ヒロインの愚兄の妻〕が登場するが、そっちは錯乱と恐怖の末に河(貯水池だったかなあ?)に落下して溺死する。『水源』では、心が死ぬわけだ。作家のランドの「善良な心優しき思いやりに満ちた女性」への残酷な扱いは、はっきり言って気持ちが良い。よくぞ、やってくれましたっていう感じである。ランドは細木数子さんじゃないけど、果敢にズバリ言うんである。「みんな、キャサリンみたいに、自分を誤魔化して善良な心優しき思いやりに満ちた女性のお面かぶっていると、そのお面が顔から取れなくなるわよ。地獄に落ちるわよ〜〜」って。むはは。

こういうことは、まともな観察力のある人間ならば、ある程度は見抜けるものであるが、口に出すのには蛮勇がいる。この種の「善良な心優しき思いやりに満ちた女性」を批判すれば、批判する方が批判される。おかしいんじゃないかと疑われる。こういうことは、わかる人にはわかるが、わからない人には全くわからないんで、うっかり口に出せない。気の利いた女同士ならば、この手の女の「うざったさ」&「不幸になる度の高さ」をよ〜く知っているので、こういうのには勝手にヒロインをさせておく。で、「彼女〜〜?とおっ〜〜てもいい人よね!?」と互いに目配せしながら言ってニヤリと笑いあうだけ。見抜けない連中に真実なんか言ってもしかたないし、忠告するのもお節介だし、不幸になる権利だって人間にはあるんだし。キャサリンみたいなのって、世間にかなりいるのですよ、ほんと。

キャサリンは、キーティングを信じているから疑わずに待っていたわけではない。疑って考えた末に何事か自分で決断選択するのが面倒くさくて、怖くて、嫌だから、疑わないことにしただけ。事実を見るかわりに、自分の希望的観測を抱えたまま現状維持をしていただけ。その方が、当座はラクだから。その「当座」も蓄積すれば、取り返しがつかない無為で無駄な時間になり、可憐な少女も目の端に皺が寄る30歳になる。キーティングを待っていたのも、彼の人となりに確信があってのことではなく、彼を信じて待っている自分の判断の無謬(むびゅう)性に執着しているだけ。つまり、ただ頑固で思い込みが強いだけ。はっきり言えば、自己陶酔していたいだけ。陶酔する前に自分の身を守れよ!「ああいう馬鹿で卑怯で嘘つきでいい加減な男だけど、ハンサムだもん!惚れた弱みだからしかたないさ!好きで待ってんだからいいのさ!どうせ、あたいは馬鹿な女さ!」と、片肌脱いで立膝で赤い襦袢をチラリと見せながら開き直っているわけでもない。

キャサリンは、叔父のエルスワース・トゥーイーの邪気を感じる感受性はあるのに、その自分の実感を大事にしない。「こいつがどんなに立派な高尚なこと言っても、なんかうさんくさい。顔が言葉を裏切っている。言葉の端々にいやらしさが滲む。口の片方が笑うとき歪むのって、心にもないこと言っているんだ〜〜おぞましい〜〜」とか、内心つっこみ入れながら教師を観測しているタイプの女の子ではなくて、センセイを見ると、パブロフの犬じゃないけど、どうしても反射的に「先生のお気に入り」の清楚で真面目な女学生やってしまうのだ。叔父に悪意があるということを、自分にまっとうな愛情など感じていないことを、自分に認めさせない。そういう人間も存在するという現実、そういう人間を身内に持つはめになった自分の境遇の寄る辺無い現実、自分が悪意にさらされていて無防備なのだという現実、だから逃げないとやばいという現実、そういう現実から、ひたすら目をそらす。現実を直視すれば、自分で決めて選んで動かざるをえないもんね。それって、面倒くさいし億劫よね。叔父問題に関しても、キャサリンは、当座のラクの方を、身を守ることに優先させている。あぶなっかしいよね〜〜だから、可憐なわけ。助けなくてすむ危ない人って、文句無くかわいいもんね。

だいたい、ある人間のそばにいて、自分があんまり愉しくないというか、気分が良くないとか感じたら、離れるのが生き物の素直な反応ではないか。相手が立派だろうが、何だろうが、自分自身が苦痛ならば、無理してそばにいる必要ない。仮に、ほんとうにその人が立派だとしても、自分の方がそれに見合った水準でないのなら居心地悪いだろうから、情緒の安定のためには同程度の人間のそばにいるしかないよ。だんだん、自分の水準が高くなれば、立派な人との御縁も生まれるかも。反対に、水準の低い人々のそばにいて苦痛ならば、もっとまともな人々を求めて逃げることを、真剣に試みなければならない。自分に正直に素直でいるためには、努力もいるよ〜怠惰ではできないです。

私は、名古屋の女子大の短大部に勤務していた頃の8年間、そこの同僚の質(たち)の悪さと浅ましさのために、大いに迷惑をかけられ、実に不快な日々を過ごした。といっても、私の性格だし、まだ若かったから黙って微笑んで耐えるなんてするはずはなく、彼らや彼女たちを公平に扱いはしたが、正々堂々と嫌い公言し、ハエや蚊みたいにうるさがっていたが、恨んだとか憎んだことはない。だってハエや蚊だもん。それに、「この種の人間と同じ職場にいるのは、私が悪い。私の水準が低いから、こいつらと同じ場所にいるはめになっている。こんなところにいる自分の無能さが一番悪い!」とわかっていたしね。だから、せっせと論文を書いて発表して、いろんな人に「移りたいんです〜!」と宣伝しまくって再就職活動に勤しんでいた。この女子大には就職したとたんに、「あ、こいつら馬鹿ばっかり。早くどこかに行かなくちゃ!」と発見&決断しても、私の無能さゆえに、そこから逃げるのに8年もかかってしまったけどね。何の話か。

つまり、キャサリンは、生き物として素直に、「生きたい!」と欲望するには、怠惰でありすぎるわけ。しょうもない自己陶酔的プライドを超えて先に行くだけの志がないわけ。まめに働いているけれども、やたら時間はかけているけれども、健気にやっているけれども、肝心要のことは実質的には何もしていなくて、そのことに無自覚な人っているでしょう。そういう人なわけですよ、キャサリンって。アル中男や家庭内暴力男や性格異常男の献身的奥さん=馬鹿駄目男を一層に馬鹿駄目にしている母親とか妻とか娘とかの「家庭の天使」には、もってこいの女性です。くだらん男、いないほうがましな男、よくこんなのに嫁さんがいるよな〜的男のそばには、きっとキャサリン的女がいる。間違いない。

ところで、カール・ヒルティという19世紀から20世紀初頭まで生きた敬虔なプロテスタント&文人&政治家だったスイス人が書いた『幸福論』全3巻(岩波文庫。とっても名訳。白水社版は訳文が良くない)は、若き日の私の人生の指南書(断じてアランの『幸福論』ではない。あれは似非クリスチャン向きの本)だった。この本には、具体的な処世術がいっぱい書いてあって、非常に役に立った。たとえば、新聞など読まなくて全く困らないとか、仕事は面白いときに中断すれば、またすぐに取り掛かる気になるとか、いろいろ。人間判定のコツとかも書いてあって、これも役にたったな。このヒルティが、女性に関する章で、次のようなことを書いていた。「女性は身勝手で自己中心的な方が幸福になりやすい。こういう女性は、結婚生活においても男の身勝手と気丈に戦い身を守るが、心優しい我慢強い女性は低級で横暴な男の暴力にさらされやすく不幸になりやすい」と。これは、ほんとに観察が鋭いよね!なんでそういうことになりやすいかについては、もうわかるよね。その心優しい我慢強い女性は、我慢してはいけないことに我慢するという誤魔化しをするから、そういうはめになる。

ヒルティは、「心優しき女性の方が苦労するという例をあまりに見かけるので、この世界の悪の実相には暗澹たる思いになる」みたいなこと書いて嘆いている。あほらしいよね。こういう女の不幸のロマン化はいかんよ。女の不幸を、自然現象みたいな、「しみじみとした風景」にするなよ。ヒルティ自身は、なんで善良で心優しい女の方が不幸になりやすいのか、理由は書いていないけれども、まあ、それは、19世紀の心優しき男性&宗教者カール・ヒルティとしては、女性の内面を直視するのは紳士としてあるまじき「はしたない」ことだから、物言えば唇寒しの感じで何も言及しなかったのかもしれない。言い換えれば女の内面なんか分析してより深い真実を探る好奇心=女という同じ人間に対する公平な関心など持ち合わせなかったのかもしれない。でも、21世紀の私たちは、そういうわけにはいかない。

キャサリンとは、「望ましき期待される女性像」であります。ほとんどの女が、キャサリンだから、つまり自分も生活も変えるのが面倒くさくて、現状維持で生活できるだけは生活して体裁だけはつけておこう、奇麗事を適当に自分にも回りにも言っておこうという曖昧ではあるが確信犯的な「ゆで蛙精神」でいて平気。女がこうだからこそ、この世の中って安定できる。実質的には破綻している結婚も、解散しても解決不能の家族間葛藤も、家から追放すべきパラサイト・シングルによる親の老後の安定への侵食も、うやむやにされて事なきを得る。事なきをえたまま対処されず、じわじわと破局に至るのを待つその空虚な粘りこそ、キャサリン的美質であります。心優しき思いやりに満ちた忍耐強い姿勢の本質とは、こういう死に向かうエネルギーもない死そのものなのであります。これ、太平洋戦争末期の日本帝国陸軍に似ているな。いや、今の日本かな。

キャサリンの語調は、19世紀のアメリカの家庭小説に出てくる東部WASP中産階級の女の子らしい口調、つまりルイザ・メイ・オルコットのLittle Womenの翻訳『若草物語』の四姉妹の口調(翻訳は何種類もありますが、だいたいのところで・・・)をぱくりました。日本を舞台に強いて移し変えれば、明治末期か大正の東京の山の手の、お旗本か維新の士族の血筋であるが、御一新の世に乗り遅れて零落した家の出自で、名誉はあるが金はない知的職業についている男を父に持ち、その忍耐強い善意の妻を母に持つ良家のよく躾けられた娘たちで、パーティじゃないお茶会に着ていくドレスじゃないキモノが無くても親には愚痴言わず、地味に質素に清潔にきちんと、しかし教養は高く暮らすという趣ですね。そうか、オルコットって、ペン一本で一族を食わせながら何とか生き抜いたアメリカの「樋口一葉」みたいな人だったわけだ。結核にかからなかったタフな樋口一葉だったわけだ。樋口一葉も父親の残した御家人株買い(もう徳川幕府が終わりとはわからなかったわけで)の借金や、家族の生活のために無理したし、オルコットの父親も現実的には無能極まりない理想家の教育家で、まともに家族を食わせることはできなかったくせに、稼ぎのいいオルコットのことは可愛くなかった。

あからさまに言えば、『若草物語』って、要するに、金がないことでいつも苦労していて、だけどそれはお父さんが甲斐性がないからではなくて、お父さんが意義あるお仕事をなさっているからで、「なんで甲斐性もないくせに結婚して4人もガキ作って偉そうな顔できるのか、この計画性のないオヤジは?」なんて断じて決して考えずに、それでも金は無くても中産階級の体裁だけは絶対に保たなければならないんで、だから娘はお行儀よくしていなきゃ駄目で、自分の欲望を満たすなんてしてはいけなくて、自分の欲望に負けると罪の意識に悩んでしまうから、ちゃんと良い子にしていましょうという、たまに稼いだお金があったらお母様に使っていただきましょう、みたいな調子の中産階級に生きる娘たちの不安と抑圧と忍耐の合理化と美化とロマン化の実例集です。この作品が、1886年以来延々とアメリカでも日本でも読まれ続けているというのは、女の一生って、変わっていないのだよねえ・・・

あ、実は、このキャサリンの口調は、以前の勤務先の同僚の女性の口調からもぱくりました。ものは考えないけれども記憶力はすごく良くて、国立大学で税金使って何のための学問だか文学以上に無用そうなエイゴガクとかいうのを専攻にして、でも論文は書かず本は読まず新聞をよく読むことを自慢していた、顔だけ白塗り厚化粧のクルクルパーマのロングヘアの、猫なで声の、オッサンにはお世辞と追従ばかりの、学生のカンニングは見て見ぬふりをする、都合が悪いことが起こると「フジモリ先生がそうおっしゃったので・・・」と私がいないところでは私に責任転嫁ばかりして、嘘ばかりついている、田舎ではソコソコ大きい会社みたいなとこのOL風ポリエステル混紡素材のピンクのスーツ着て、短いスカートから膝出して曲げてナヨナヨ歩いていた目つきは悪いがヘラヘラ愛想だけはいい人物の口調も、一部真似してみました。だって、キャサリンのところ訳し始めたら、この女性の歯並びの悪い作り笑顔と、安っぽくみみっちい「女らしさ」が、唐突に思い出されてしまったのだから、しかたないじゃないの!ごめんなさい、すみません。

こうして、振り返ると、私の苦痛だった名古屋の某女子大勤務時代は、『水源』における類型的を通り越して寓意的ですらあるからこそリアルな(引き立て役的)登場人物たちのおしゃべりを訳すために、あったようでありますね。な〜んと、ピーター・キーティングの「男のぶりっ子クリスチャン極度に不細工版」とか、キャサリン・ハルスィーの「時代劇田舎腰元風ナヨナヨ女教師版」とか目撃できたわけだし。どんな経験も無駄にはなりませんね。感謝。合掌。