アキラのランド節

なんだって両刃の剣だよね [10/17/2004]


今だから書きますが、2001年の早春あたり、アイン・ランドについて調べ始めたときに、少しだけ私には迷いがあった。「この人を日本に紹介するのは、日本人にとっていいことだろうか?」とか、「この人を研究対象にしていいのだろうか?なんか、しょうもないことに加担することにならないか?」とか、わりと真剣に考えた。

以下が、私が悩む原因になった、ランドに関する疑惑ふたつです。

(1) 疑惑1:アイン・ランド=ネオコンの手先?
多くの研究者が論じてきたように、ランドが提唱した客観主義という思想は、政治哲学用語ではリバタリアニズムと呼ばれるラディカルな自由主義に入れられる。だいたい、雑に言ってしまえば、リバタリアニズムというのは、アメリカの「独立宣言」の理念を徹底させただけのことだ。

個人の自由と平等と幸福の追求の権利を守ることだけが政府の機能と定めたこの宣言の背後には、宗主国イギリスのやり口にうんざりしてきたアメリカ植民地の人々の切実な感情がある。政府がとやかく口出すとろくなもんじゃない、税金取られるばっかりだ、俺たちが生み出したものは俺たちがどう処分しようが、俺たちの勝手だろうが、どこの国に売りつけてもいいだろうが、先住民族殺しまくって、汚くて危険できつい3K仕事やりまくって、この大陸をここまでしてきたのは、俺たちなんだぞ、本国で気取って小指たてて紅茶飲んでる連中がいったい何をしたのか?という怒りである。

ランドの思想は、アメリカの草の根の保守思想というか、基本的な古典的なアメリカ人の政治観であり、西洋近代のエッセンスみたいなものであり、私にはしごくまっとうなものと思える。だから、なんで、こうも文化左翼系リベラリストたちから馬鹿にされなければならないのか、わからなかった。私の同僚のアメリカ人なんか、「馬鹿右翼。資本主義擁護者。あんなのが読まれているのは、アメリカの恥」とか言いやがった。くそ。だけど、この人物は、ランドのものを読んでいないのだけどね。『肩をすくめるアトラス』は、途中まで読んでやめたそうだ。だいたい、ランドを馬鹿にする奴は、ランドをほんとうには読んでいない。間違いない。

アメリカの左派系インテリから見れば、ランドの思想は、ネオコンの論理に賛同していることになる。熱烈に自由放任資本主義を擁護し、アメリカ的システムを神聖視し、人類が獲得できた最も優れた政治体制であるとして、冷戦期のアメリカの大義を説き続けたランドは、アメリカの都合どおりに全世界をアメリカ化(グローバリゼイション)し、アメリカ一国主義(ユニラテラリズム)を正義と考えるネオコンと、どこが違うか?というわけである。世界がアメリカになれば、世界は理想郷に近くなると考えるのと、どこが違うか?というわけである。アメリカがアメリカであるためには、非アメリカが存在しなければならない、アメリカが非難する非アメリカのおかげでアメリカは立っている、という省察がないネオコンと、どこが違うか?というわけである。

ついでに、ランドのアメリカ的システム絶賛は、アメリカをやたら美化、ロマン化したい移民根性の産物で、現実のアメリカの暗部や闇を直視することから国民の目を逸らしてきた、アメリカの不正を糊塗することに加担してきたと、いうわけである。非アメリカ的なことは言うまでもなく、反アメリカ的な言説も封じるアメリカの画一主義(conformism)まで、ランドの言説はあと一歩だ、というわけである。これこそランドが憎んだ集団主義、全体主義じゃあないか?というわけである。

だいたいが、ランドが賛美するアメリカの建国の理念など、黒人奴隷の解放に関する事項を削除した独立宣言起草の段階で、すでにしてあらかじめ、ぶっ壊れていた。南北戦争のときには、すっかり空洞化していた。だって、「南部は南部でやりますから、ほっておいて」というのは、イギリスに対する植民地アメリカの姿勢と同じだ。民族自決だ。「それぞれの地域には、文化とか経済体制とか独自な事情つうものがあるんで、そう理屈どおりには行きません。あんたたちの黒人奴隷解放という大義名分の背後にある覇権志向や経済侵略に、素直につきあってはいられません。こちらはこちらのペースでやります。そういう権利は我々にはある」という南部の立場は、理が通っている。そんな、空洞化して100年以上もたっている理念を20世紀にがなりたてて、アナクロ〜〜なんか魂胆でもあるの?〜〜と左派が疑うのも無理はない。

私は、ランドの見解に素直に屈折なく賛同した者である。アメリカの建国の理念を額面どおりに受け止め、感動した者である。でなければ、日本に原爆をふたつも落とした国について勉強したりしない。だいたい、ランドという作家は、私みたいな単純な人間をひきつけるほどに、とてつもなくナイーヴでまっすぐなんである。

そもそも彼女の考える資本主義者とは、自らの能力で生み出したものを、その生産物の価値と匹敵する価値を持つ何かを生み出せる人間と、公平に互いに納得しながら交換するという、交易者(trader)である。だから、『水源』においても、『肩をすくめるアトラス』においても、ランドが肯定的に描く財界人は、みな独力で実業や重工業分野で資産を築いた人々である。その資産をさらに大きな事業に使っていく挑戦者である。会社の社長といっても、自ら工夫し発明するんである。産業の一線に立って戦い責任を担う人々である。銀行家や投資家や金利生活者は、彼女の小説においては、まともなキャラではないんである。

しかし、このような交換ぐらいでは資本は大きくは蓄積されない。ただみたいに容易に楽々と手にいれたものを、どこか別の場所で高く売りつけることをしないと、巨大な利益は出ない。また、ランドは、利子については書いていない。つまり貨幣が貨幣を生むことで蓄積されてゆく運動については、何も書いていない。ましてや、デリバティヴなんてネットの先物取引の数字だけが行き来するようなマネー・ゲームなど、想像すらしていない。ランドが支持する資本主義は、あくまでも勤勉な労働者に報いる公平なシステムなのだ。国家的危機だろうが国際紛争だろうが高税だろうが、すべての政治経済的リスクを回避してサヴァイバルできる貨幣の蓄積による絶対確実な子々孫々にわたる保身と権力維持という、グローバルな=無国籍な資本家というものを、ランドは想定していない。

『肩をすくめるアトラス』は、腐ったアメリカの中に、もうひとつのアメリカ=新生アメリカを建設する大プロジェクトを扱った物語だが、そこには、自分の国の行く末なんかどうでもよく、国民のことなどどうでもよく、自己の財産の保全と保身のみが関心事であり、税金はなるだけ払わないように全身全霊かけて工夫し、国家滅亡の事態にもちゃんと安全確実に備えているという類の金持ちは、登場しないのだ。

現代の文脈で言うグローバリストなんて、ランドの想像力の中に存在しない。だから、彼女をネオコンと同一視するなんて、曲解もいいところである。

しかし・・・そういう見方が現実にあるということは、これ事実なのであります。ランドは、表面的には、リバタリアンとも見えるし、ネオコンとも見える。それは事実。こうした、ランドのヤヌス性は、日本人にとっては、両刃の剣だ。自分を搾取する者に性懲りもなく期待し続けてきた依存性が骨がらみの権威主義の奴隷根性の日本人が、リバタリアニズムという思想から学ぶものは多い。一方、ネオコンは長いものに巻かれる日本人の奴隷根性を増幅させる。リバタリアンの先駆としてのランドは日本に紹介する意義がある。しかし、ネオコンの仲間のランドを日本に紹介することなど、無駄なことだ・・・私はアメリカ人じゃないもんね・・・アメリカ人になりたいわけでもないもんね・・・これを悩まずして、何を悩むべきか?

リバタリアンとネオコンは似て非なるものだ。ラディカルな自由主義は、互いの自由な選択を認め合って、妥協を図る。ネオコンは、アホが考えて選択しても、しょうもないから、賢い奴が考えるとおりにしな、という姿勢である。人間は、矛盾しているものであるが、アイン・ランドという作家&思想家も矛盾しているのよ〜〜ということで片付けられるのか?

どうする?どうしようか・・・

しかし、どんなものでも両刃の剣だろう。どんな思想だって両義的だろう。時代によって違ってしまう文脈が、両義性を生み出し、新たな意味を付与してしまうということもある。それに、魅力的な人間はうさんくさいものだ。安全無害な加害性のないものは、毒にも薬にもならない。私は、ランドの「薬」「光の面」を信じることにした。まあ、最後はやみくもな信仰みたいなものに、背中を押されるしかないわけだし。信じるというのは、博打みたいなものだし。

(2) 疑惑2:アイン・ランド=ユダヤの世界支配陰謀の一味?
この疑惑は、問題にすること自体が馬鹿にされるようなもんである。しかし、私たちが知っている(官製の)歴史が隠してきたことは多いらしい。ええええ〜〜〜?!と仰天するような現実が庶民には知らされてこなかったらしい。たとえば、副島隆彦氏の漫画『属国日本史幕末編』(早月堂書房、2004年)を読みましたか?濱田政彦氏の『神々の軍隊---三島由紀夫、あるいは国際金融資本の闇』(三五館,2000年)とか、在野の日本史研究者(弁護士さんでもあった)の鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇――明治維新の謎』(新国民社、1999)とか、読みましたか?もう、ひっくりかえりそうになる。この3冊をフランスに住んでいる友人にアマゾン経由で送ったら、読んで興奮した彼女から、国際電話がかかってきたくらいである。

たとえば、『神々の軍隊』には、以下のようなことが書いてある。明治維新以来、皇室を含む日本の上層部は、政治家にしろ大財閥にしろ知識人にしろ高級官僚にしろ上層軍人にしろ、欧米の国際金融資本の支配下にあり、そのネットワークに依存してきたのであり、日本人であって日本人ではなかったし、上層部ほど日本のことは考えてこなかったとか。皇室は、スイスの銀行に財産をあずけていたし、この欧米国際金融資本のネットワークから情報を得て投資もして財産維持増大をしてきたとか。「天皇よ、この大和の国の現人神として顕現せよ!」という2・26事件の反乱将校たちのゴリゴリ国粋主義の遅れてきた尊皇攘夷みたいな純粋天皇主義者の熱い熱い思いなど、天皇にとっては迷惑至極、うざったくてしかたないものだったとかいうことも、書いている。

欧米の帝国主義の真似をして品位を失くして行く祖国を憂い、天皇を「本気で」信じ敬った反乱将校たちの、真の皇道派の血気と忠誠は、完全な片思いだったわけです。チヤホヤしてくれるのは構わんが、崇め奉ってくれるのは大いによろしいが、国民とともになんて気持ちはサラサラありません、ましてや責任などありません、我々は特別なんだから、というのは、あの種の特権階級の本音だろうなあ・・・三島由紀夫は、だから昭和天皇個人には批判的だったとか。今の皇太子夫妻も、志が低いというか、幸福なマイホームを維持するのが人生の主たる目的の「ふつ〜の御夫婦」みたいで、あんまり日本のことにも日本人にも関心なさそうだもんなあ。ましてや、日本の霊性を具現する存在たれ、ガキに父親をパパなんて呼ばせるな!と言われても困るだろうなあ。

自分のこと名誉白人みたいに思ってしまって、極東の黄色い猿だと思わないというのは、これ日本の上層部の人々の症状なのでしょう。植民地とか属国の上層部、指導者層というのは、必ず宗主国に深く取り込まれる。取り込まれるから、属国の上層部になれる。カトリックのアイルランドの支配層が、アングロ・アイリッシュというプロテスタント(英国国教会)みたいなもんでさ。だから、あなたが本気で「属国日本」で出世したかったら、キリスト教徒になるしかないよ。ただし、「モルモン教」とか「ものみの塔」では駄目だよ。アメリカ狙いならば英国国教会系か長老派系だし、「クウェーカー」というのも大いに結構ですね。うん、「クウェーカー」が一番いいかも。ヨーロッパに進出したかったらカトリックだね。

『神々の軍隊』は、すっごく面白い本なのだが、私自身には私自身の日本というものが心の中にあることはあるが、日本の伝統とか文化とか国体とか、そういうもの自体は、幻想だと思っている。伝統とは、ある国や社会が、強力な外部に遭遇してアイデンティティの不安にさらされた時に、でっちあげられるらしいからね。タータンチェックとかキルトとかバグ・パイプとかのスコットランドの伝統的事物は、イングランドへの対抗意識から取り入れられたものだそうだ。エリック・ホブズボウム&エリック・レンジャー著/前川啓治&梶原景昭訳『創られた伝統』(紀伊国屋書店、1992)に、そう書いてあったよ。伝統というのは、ナショナリズムの構築のために捏造される(invented)のであって、伝統とか固有の文化がナショナリズムの母胎じゃないってさ。巨大な外部と出会った不安と恐怖と怨恨がナショナリズムの土台だってさ。

日本の精神風土も日本人も日本の風景もどんどん変わってきたし、これからも変わっていくんだ。永遠なるものなんてない。もちろん、万世一系なんてデタラメ。まあ、だからといって、強引に退ける必要もない。エネルギーの無駄。ほっておけばいい。いずれ消えるものなのだから。何の話だったか?そう、そうアイン・ランドに関する疑惑のことでした。

ランドについては、いろいろうさんくさい情報によく出会う。たとえば、ランドの『肩をすくめるアトラス』は、ユダヤの世界支配を比喩的に描いたものだとか、ユダヤ国際金融資本的資本主義のプロパガンダ小説だとか。ランドが、フィリップ・ロスチャイルドの愛人で、彼の指令で『肩をすくめるアトラス』を書いたとか。

要するに、世界は、頭のいいユダヤ人たちが仕切っているのに、それを見てみぬ振りして、優秀なユダヤ人の生産物に寄生するその他大勢のアホ民族は、いつかはユダヤ人から捨てられるんだぞ、ユダヤ人が世界史を管理するのが最も人類にとっていいのだ、だって他のアホ民族ではろくなことしかできないんだから、ランドの『肩をすくめるアトラス』は黙示録的にそれを書いているんだぞ、アホは黙って賢い人々の言う事聞くしかないんだよというメッセージを発信しているんだぞ、というわけである。

つまり、アイン・ランドはネオコンどころか、アメリカのネオコンに姿を借りた、もっと長い歴史を貫徹し、もっと多くの国々に張り巡らされてきた大プロジェクト&そのネットワーク=ユダヤの世界支配の走狗、というわけである。彼女の作品の人気も、それを目的として組織的に生成されてきたもの、というわけである。

1998年になされたランダムハウスのモダンライブラリーの一般読者アンケート『英語で書かれた20世紀の小説ベスト100』で、ベスト10の中に4つもランドの作品が入っているということに関しても出来すぎてはいる。確かにうさんくさい。「こりゃ組織票だな」と、誰でも疑う。

しかし。ロスチャイルドの愛人ねえ・・・大財閥ネットワークのドンの情婦?それほどの美女とも思えないが・・・いわゆる美女とは、違うだろう・・・典型的ユダヤ系ロシア女のごっつい顔だ。ユダヤ系ドイツ人の美人のハンナ・アーレントの若い頃と比較すると、かなりやぼったい。ランドの正真正銘の愛人だった25歳年下の弟子のナサニエル・ブランデンは、「彼女は美しくはなかったが、抗うことができない魅力があった」と書いている。だから、美人でなくても愛人にはなれるということは、言えるけどさ。

しかしなあ・・・飛行機に乗るのが大嫌いで怖かったランドにとって、「海外旅行」とは、ロシアからアメリカに渡った1926年の船旅一度なのだから、そういう人間に「世界支配」という発想は、なじまないよなあ。彼女は、本来の意味での「アメリカ・ファースト!」だ。外国のことはそこの国民の問題と考える素朴な保守主義者&愛国者。彼女は「自由なアメリカ」が好きで、アメリカの独立宣言が言っていることを丸ごと信じてアメリカ人になった。無国籍な国際金融資本との関係など考えられないのだけどねえ・・・

まあ、こういう「陰謀説」は、証明できないから、資料もないから、嘘とも真実とも、何ともいいようがない。ビルダバ−グ会議に出席したり、欧米日三極委員会みたいなところに入会できれば、わかるのかもしれないが、そんな予定は私にはないしなあ。だから、この疑惑に関しては、考えてもしかたないんで、捨て置くことにした。

以上が、私が少しだけ悩んで切り捨てたアイン・ランドに関する疑惑であります。

他にも小さな疑惑はある。たとえば、アイン・ランド=弟子ハーレム化疑惑とか。これはデマ。そんなこと面白がること連中は、頭が悪い。下司な男の発想。ハーレムなんてものは、やることがなくて暇もてあましている王侯貴族か、それに似た類の有閑階級の人々の作るもの。自分で食っていかなければならない中産階級の女に、そんな暇も体力もあるか。

そりゃ、さっきも書いたように、彼女に25歳年下の弟子のナサニエル・ブランデンと性的関係にあったことは事実ですよ。彼自身もそれは認めて書いている(My Years with Ayn Rand, 1999)し、彼の元妻のバーバラ・ブランデン(The Passion of Ayn Rand,1986)も書いている。どちらも、きちんとした評伝ですよ。人間としてのランドをそれぞれ真摯に描いて、決してランドを貶めていない。

たまたま自分を慕ってくれる頭も悪くないかなり年下の男が、好みの顔だったし、向こうも嫌そうじゃなかったんで、何回もやっちゃったということが、それほどの悪行でしょうか?ランドの人生は、厳しくてしんどいものだったんだから、なんかロマンチックな幻想がないと生きていけなかったんじゃないの?私は、同じ女性として、ランドの体力と好奇心に感心します。快挙なんじゃないの?50歳で25歳の男性を相手にするとは・・・大したものである。この私の感慨に、同世代の女性ならばしみじみと共感してくれるものと確信します。ランドには、「よくやったで賞」を進呈したいくらいだ。

ランドの夫は、超美男のいい人ではあったけれども、ランドにとっては、知的にも性的にもかなり食い足りなかったようだ。このフランク・オコーナーは、実はランドに押し切られて結婚した。彼の兄(若くして亡くなった)か彼か、どちらかがランドと結婚しないと、ロシア移民のランドのビザが切れる・・・もうこれ以上は更新されない・・・という事情があって、兄弟が話し合って、弟がランドと結婚することになった。頭は兄の方がはるかに良くて、ランドの良き理解者であり、ランドの英語もかなり直してくれたらしいが、兄はゲイだったから、ランドと結婚はできなかった。多分、弟のフランクのほうも、あんまり女性に濃厚な感情や欲望を向ける方ではなかったのではないか?

これ、ランドが男ならば問題にならないんだよね。男と女弟子の性的スキャンダルって履いて捨てるほどあるし、セクハラが生まれる土壌でもある。男の場合だと、「あの人も好きだよねえ〜若い子っていいもんね〜〜しかたないよね〜〜」ですむが、女の場合だと、なんか人間性そのもの、人格まで疑われることになる。こういう性的ダブル・スタンダードは女性差別なんだけど、こんなこと、「ランド愛人いっぱい」説を信じる馬鹿男に言ってもしかたないし。

アラン・グリーンスパンも愛人だったとかいう説もあるので、彼女は男の弟子たちをハーレム化していたというデマが生まれたのかな。確かに、ランドは、ブランデン以外にも、アラン・グリーンスパンを特別扱いにして可愛がった。それは彼女の弟子の中で、彼だけが、彼ひとりのみが、ビジネスマンだったからだ。実地にウォール街のビジネスにたずさわっていた経営コンサルティング会社の社員であり役員であったからだ。あとの弟子は、人文系学問分野の研究者とか大学院生が多かったので、アメリカのビジネス精神を鼓舞する小説の作者ランドにとっては、グリーンスパンは、ほらごらんなさいと自慢できるような「説得力ある弟子」だったのだ。それだけのことだ。ランドは美男好みですから、グリーンスパンを愛人になんかしません。若い女ならば誰でもOKのオヤジと一緒にしないで欲しいね。

とにもかくにも、アイン・ランドというのは、アメリカでさえ、さんざん誤解されているのだ。ましてや、まだまだ前近代の頭グチャグチャの日本人は完璧な勘違いをするかもしれない。ここが、私が日本人にランドを紹介するにあたっての、一番の心配だったんだよね。

ランドが提唱していることは、語調は激しいわりには、懇切丁寧には説明しないという彼女のスタイルも影響して、単純至極なアホな奴が読めば間違える。たとえば、ランドの自己中心主義を利他主義に対して道徳的に優先する考え方は、自己の幸福を自己中心的に追求する当事者が求める幸福が、ちゃんと理性的に考えられたものであるという前提がある。

だから、「他人のことはいいんだよ、ほっておけばいいんだよ、あんたが好きなことすればいいんだよ」ということでは断じてない。「現実は人間の思惑や幻想でナントカなるようなものではない客観物なのだから、その絶対的客観物の現実の中を生き抜くには、絶対的客観物の現実に対処するべく理性を駆使しないといけない、そうした理性を人間は有しているのだから、そうした理性の上にあんたが求めた幸福は、他者の権利を侵害するものではないよ、だから堂々とあんたの欲望を追及しなさい」という考え方である。つまり、ランドの思想は、アホ人間を対象にしていないし前提にしてもいない。

そうなんです・・・ほんとうにランドの書いていることは、誤解されやすい。明快に断言してしまうだけに、わかりやすそうに思えるだけに、一層誤解されやすい。ロークの真似はしても、ロークの努力の真似はせず、ダグニー(『肩をすくめるアトラス』のヒロイン!)ぶりっこはしても、彼女のタフさも有能さもないランディアンはただの馬鹿(馬鹿って、なんで馬と鹿と書くのか知っていますか?馬を鹿と言いくるめて、現実を認めないからだってさ)。個人主義と独立独歩を称えたランドの弟子が、いつまでたっても師匠の遺産にぶらさがって、つるんできたから、師匠のランドまでが嘲笑されてきたでみたいなもので。まあ、そんな弟子たちなんかはべらせたのは、ランドの問題という考えもあろうが、できのいい弟子たちはどんどん独立していったのだから、ランド・カルトの問題はランドの落ち度ではなく弟子の問題。師匠とか教師というのは、親と同じで、踏み台にされ卒業されていくのが仕事なんだからさ。弟子がランドから離れて行く方が、自然で健全なことだ。弟子が変だからという理由で、師匠まで貶めることないよ。あ、でも子どもがアホだと、親の顔が見たいと言われるなあ・・・

まあ、ランドの書くことの誤解されやすさは、ここは私がしつこく説明し続けるというか、paraphraseしてゆきます。彼女の「あまりにまっとうなので、つい深読みされてしまう」見解を、そのまんま受け取ってもらえるように、努力してみます。しかし、素直に読めば、誤解しようもないのであるが・・・

と言うわけで、みなさん、『水源』と『肩をすくめるアトラス』を、お読みください!高くて重くて、持ち運びできないから、通勤通学のとき電車や地下鉄の中で読めない、だから読まない、という御不満を耳にいたします。すみません。申し訳ありません。そこはそこ諦めていただきまして、ダンベル代わりに持っていただいて・・・・読み終わっても、この2冊だけはBook Offに売らないでください。後悔するぞ〜〜『アンセム』の翻訳もUPしましたから、読んでやってください。どこかの出版社の方で、「もっと訳文直したら、出してやってもいいよ〜」と思われる方は、ご連絡ください。

締め切りがとうにとうに過ぎてしまった『若草物語』に関する論文の原稿も書かずに、校正しなければならないゲラもほったらかしで、また「ランド節」書いてしまった・・・貴重な宝石のような週末が消えていく・・・・秋の陽が翳ってゆく・・・・