アキラのランド節

絶対積極人間ハワード・ローク [11/21/2004]


『水源』が出版されてから5ヶ月近くが経つ。地味地味地味地味ながら、コンスタントに在庫が少しずつではありますが捌けているようです。『肩をすくめるアトラス』も好調のようです。読書人口が激減して、実質的には文盲(あ、失読症と言うらしいですね、今時は)が増えつつある日本ですが、アイン・ランドのこの二大小説は、心ある日本人の脳と心という海原を泳ぎ続けることでしょう。

ところで、私は『水源』が出版されて以来、学生とか知人とかから、「ハワード・ロークがわからない。感情移入できない。人間的じゃない」という感想をよく聞いてきた。アメリカ文学者の越川芳明氏も「現代の一般読者は、自分が巨人でないことを知っているので、いかに愚劣であろうと、これらの『二流人間』の成功や挫折の方に、リアリティを感じてしまうのだ」(『日本経済新聞』9月19日朝刊)と書いていらしたし、柳下毅一郎氏も「だがトゥーイーは最後まで敗北しない」(『新潮』10月号)と書いていらした。

グラノラブックス(http://granola.jfast1.net/index.html)という文学作品の書評サイトでは、『水源』と『肩をすくめるアトラス』を取り上げてくださって、ロークのことを「かぐや姫」みたいなものだと書いて下さっていた。これには感心した。大いに気に入った。

私は、日本にしろどこの国にしろ、folkloreにあまり関心がないので、よく知らないのだが、「かぐや姫」だけはすごく好きなのだ。だって、なんか痛快じゃないか、このかぐや姫という女の子は。どんな求婚者にも「いや!」と言い張って、ミカドさえも「駄目なの!」と拒否して、さっさと天上の世界に行ってしまうという、この圧倒的わがままぶりは、全く日本の女離れしている。「かぐや姫」は、チベットあたりが起源だとか、ギリシア神話の永遠の純潔の乙女=月の女神ダイアナとかが起源だとか、いろんな説があるらしいけれども、まあ、確かに日本の民話には異色のヒロインだ。

日本の民話のヒロインって、オトタチバナヒメ(これは『古事記』か)とか「つう」さん(夕鶴ですね〜)とか、自分を犠牲にして男に尽くすとかいうのが多い。守ってもしかたないような、しょうもない男を守るという物好きで暇な女性が多い。だから、読んでも愉しくない。「かぐや姫」は、そういうしょうもない同情心は欠片もない。いいわあ。

つまり、グラノラブックスの評者の方は、ハワード・ロークは、懊悩したり迷ったりせずに、いつも高みで燦然と輝いているんで、「かぐや姫」みたいなものだと、指摘なさったわけです。宇宙人みたいなもんだと。だから、ピーター・キーティングの悩みもわかんなくて、容赦がないと。こんな人間が身近にいたら、すっごく嫌だろうと。ははは。

不思議。ロークみたいな人間が身近にいたら、いやかなあ?そうかなあ?人のことだもん、関係ないじゃん。こういう同僚がいたら、世話がなくていいですよ。寡黙にやるべき仕事はきちんとやってくれるんだから。有能で働き者の同僚はいいですよ。自分がだらしなく生きていないかチェックするために便利な指針になるしね。まさに、ポラリス。北極星。私は、世間話や愚痴で時間つぶすのが苦痛な非社交的な人間だし、職場なんかでも無駄口たたかれるのが嫌いだし、死ぬまでしつこく人知れず努力して向上し続けたい(私は馬鹿みたいに超生真面目な人間なんです)ので、ロークみたいなのが身近にいても困らないけど・・・ロークみたいな人間ばかりになれば、この世は天国だと思うけど・・・

ロークみたいな「天才的建築家」でいることは誰にでもできることじゃない。でも、ロークみたいな「人間」でいることは、不可能じゃない。『水源』のレヴューをアマゾンに書き込んで下さったユアンチャオさんの言葉を借りれば、ロークは、「生きることの天才」です。生きることの天才ってのは、「絶対的に積極的肯定的に生きる人間」ってことだもの。あ、中村天風みたい?そう、そう、私は、確かに『水源』読んで、「ああ、中村天風みたいな青年なんだなあ、このロークって」と思ったのは確か。

中村天風って知らない?1919年(大正8年)から1968年(昭和43年)まで、講演活動によって人間はいかに生きるべきかを説き続けた人。1876年生まれだから、92歳まで生きたわけですね。なんか若い頃(明治時代です)は蒙古や満州で軍事スパイだったとか、不法出国した先のアメリカで金持ちの中国人の代理でコロンビア大学の医学部に入って優等で出たとか、フランスの女優サラ・ベルナールと同棲してたとか、ネパールでヨガの導師に教えを受けたとか。その生涯は、ほんまかいな?と疑うみたいな波瀾万丈奇想天外です。私はこの人の講演内容を書き下ろした本を何冊か買って、その口絵の写真見て、「こういう顔のオジサンなら信じよう」と思ったんで、たとえ経歴がデタラメでも構いません。

私は、若い頃に自分が3B=「馬鹿で貧乏でブス」ってことを自覚して、素直にそうでない状態に憧れたから、3Bから脱出すべくいろいろ試してきた(これは、今は消えたRecorecoというブックガイド誌のコラムに書いたっけ)。で、中村天風の著作もけっこう読んだわけです。あ、この方の本は、「日本経営合理化協会出版局」というところから出ています。「会社の社長」を対象にした本を出すところだそうです。だから、ここは、一冊1万円ぐらいのハードカバーの立派な装丁の本ばかり出版している。

あなた、人間は本気になれば、一冊1万円だろうか3万円だろうが、買うんだよ。昔の洋書は高かったんだから、ほんと。たかだか税込み5250円とか6300円に、値段が高すぎるなんて言っているうちは、人生に本気じゃないよ。うちの学生の中にも、しょうもない衣類には金を出しても、本には、いいさい金は使わないっていう奴が、ときどきいるが、そいつらの未来は暗い。ヤンキーじゃないんだよ、大学生なんだからさ。私なんか、読みたい本は躊躇うことなく見境なく買う金が必要だから(図書館に行って借りるのなんか面倒臭いよ)、オッサンたちの暇つぶしみたいな、しょうもない会議にも我慢して出席しているんだからね。何の話?

そう、中村天風の話。この人は、positive thinkingの元祖。ハワード・ロークより(つまりアイン・ランドより)、はるかに早いpositive thinkingの免許皆伝の達人。

人間は否定的なこと悲観的なことを考えて気に病み、外部からのマイナスの暗示や言葉や出来事にいちいち反応して神経過敏に心を消耗させ、身体まで弱くするが、人間というのは、本来はそんな小さな存在ではないのであって、人間はもっともっと幸福になれるし、生きていることの至福を存分に味わえるのだ、ということを戦前から、中村天風は言っていた。どんな過酷な状況でも、その現実は現実だが、心までそれに汚染されることはないのに、恐怖や喜怒哀楽に振り回されて神経過敏になって、病気になったり、宗教(=邪教)にはまったり、人を憎んだり嫉妬したりするのが世の人々の常だが、そんな愚劣なことはやめようと本気で志すならば、やめられるとも言った。ちゃんと具体的な方法(呼吸法や、食事法や衣類の種類や、もろもろ)まで、しっかり開陳した。

戦後の1962年には、信奉者たちによって財団法人「天風会」というのも結成された(これは今でも存在する)。会員には、松下幸之助とか著名人がいっぱいいたらしい。自民党の影のご意見番の安岡正篤とか作家の宇野千代も私淑していたそうだ。来日したデイヴィッド・ロックフェラー三世は、この天風師がGHQで行った講演(英語話せるから)に感激して、アメリカで講演してくれと懇願したらしいが、提示された謝礼もすごかったらしいが、天風師は「信念するところにより」行かなかったんだって。これ以上、アメリカ人を元気にさせる必要ないと思ったのかな?「グローバリスト」(昔はアメリカ帝国主義と言ったんだろうが)の手先になってたまるかと、考えたのかな?そりゃ、日本人に幸福に生きる方法を伝授するほうが、先だよな、やっぱり。

私は、この方の本を80年代の終わりごろか90年代の始めに読んだ。若い頃の私は、神経過敏で、体が弱くて、そのくせ気が荒くて、同僚だろうが学生だろうが、頭にきたら怒鳴りつけていたのだけど、こういうことって、自分自身が不快じゃない?私みたいな温厚な人間に怒鳴られる人間は、確かに馬鹿で卑しい奴らだったから、怒鳴ったこと自体は全く後悔しないのだけれども、そういう連中への怒りに振り回される自分がいやだったんだよね、私は。自分自身が平安な気分じゃないってのが、辛かった。ストレスで、花粉症になったり、眩暈がしたりで、体調も悪かったし。だから、中村天風師の本を読んで、かなり救われたことはあった。でも、ほんの少ししか理解できていなかったんだよね。

ところが、『水源』の原書を読んだとき、「ああ、絶対積極(せきぎょく、と天風師は読んだ)人間、絶対肯定的人間って、こういう人なんだ!」と、実感できたのだ。ロークに強烈に「共感」したのだ。私は、ロークのことがわからないと思ったことは一度もない。この人、すっごく単純でわかりやすい。私には、ものすっごく理解できる人だ。

ハワード・ロークというのは、否定的発想は断じてしないと意志的に決めてそれを実践して、とうとう習慣化した人です。恐怖、不安、妬み、そねみ、恨み、憎しみ、焦り、臆病、弱気、虚栄、はったり、自己顕示、投げやり、捨て鉢、絶望、怒り、悲観、こういうもろもろのマイナスの感情が、自分の心に侵食してくるのを、バチンと撥ねのけている人なのであります。他人に理解されようが、理解されなかろうが、自分の幸福な人生を確信しているのであります。悩んでもしかたないことは悩まないのであります。

「この世界を僕の造った建築物で美しくしたい」という100パーセント肯定的な気持ちだけが、ロークの心の中を満たしている。そこに夾雑物や陰りがないのよね。どんな不快で辛い悲しいことがあっても、それはロークの心のある一点までしか届かない。と、彼自身が小説の中で言っているよね。鈍感だからじゃないよ。天性無神経で気にしない人間ならば、このような自己分析はできない。否定的なものが心の奥に届かないように自分を鍛えてきた人だから、そう自覚できるんだよね。

通常の小説は、主人公が成長していく過程を描いたりする。ドイツ語で言うBildungsroman〔教養小説〕とか、青春小説ってそういうものだ。ところが、『水源』という小説は、主人公が通常の小説で描かれるべき過程をすでにクリアして久しい時点から、始まっている。だから、ロークは一貫してロークであって、そこに迷いも逡巡もない。ロークは、彼がめぐりあう人々に感化されるのではなくて、彼が出会う人々を変えていく人間なんだよね。絶対的に「光源」なわけ。まさに、「かぐや姫」だよね。まあ、奇妙な小説という印象も、こういう人間が主人公になっているという点にある。だけど、別に、そのことは、この小説の傷ではないよね。そういう主人公がいたって、おかしくない。

私は、『水源』読んで、初めて中村天風師の言葉の意味がストンと胸に落ちたのであります。つまり、確信が胸の底にきちんと位置を占めたのであります。そう、人間は、ロークみたいに生きられる。「生きることの天才」になれる。なったっていいんだから、遠慮することないよ。幸福になることに何の遠慮もいるものか。税金もかからない。この世界の現実は、私にはどうにも変えられないことが圧倒的に多いけど、自分を絶対積極人間に変えることは自分で自前でできる。私は、素直に幸福でいたいので、凡人ですが、ハワード・ロークしたいと思います。はい。

ところで、うちの学生で、『水源』読んだ男子学生が、“Howard Roark”という英詩を作って、私に見せてくれた。ちゃんと韻をふんでましたよ。この学生は、バンドか何かやっていて、メロディに詩をつけるのが役目らしくて、他にもたくさんの自作の英詩を見せてくれたのだが、この“Howard Roark”用のメロディはまだ存在しないらしい。すっごくいい一行があったので褒めちぎったら、それは彼が今年の夏休みにニューヨーク一人旅したときに、エリス島で見つけて書き留めておいた文章や句のひとつだとか。大西洋越えて来た移民の入国管理局&一時的居留地&病院(アメリカに災厄をもたらすような伝染病者、精神病者などは厳しくチェックされ入院させられたり、本国に還されたり)があったエリス島には、今は大きな博物館ができている。そこには移民に関する資料がいっぱい展示されているのだが、展示物の中の文章を丹念に、彼は読んだのらしい。で、ある一文に魅かれたのだそうだ(その学生の知的所有権の問題もありますんで、ここには書きません)。

なにか・・・こういう話って、心に触れるよね。アイン・ランドも希望に燃えて、エリス島に上陸したんだろうな。決して否定的なことに心を汚染されまいと心に決めながら、21歳の小柄な女の子は瞳をランランと光らせて、移民審査の行列の中にいたんだろうな・・・みなさん、ハワード・ロークになったって構わないのですよ。「かぐや姫」になっていけない理由はないのですよ。エルスワース・トゥーイーやピーター・キーティングやってるより、気楽で愉しくて心安らかだと思いますがねえ・・・