アキラのランド節

日曜日の昼下がりのつぶやき [12/05/2004]


くたびれている。12月に入ると、学生の欠席も多くなる。若くても、年の瀬になるとくたびれてくるのかな。今や、私立大学は〔特に関西は〕、国立大学の真似して、「授業は半期15週、通年30週」はするべしという方向に進んでいるので、夏期休暇はどんどん短くなっている。昔の大学と違って出席も厳しくなっているし、評価も絶対評価ではなくて相対評価方式に移行しつつある。A(優)は全体の2割までで、D(不合格)も全体の2割までとか規定されてくるので、受講者全員Aの楽勝科目も不可能になるんだよね。留年が増えるかも。どの教師が、自分のクラスでAを乱発しているか一目瞭然のデータを公開している大学もある。この方式が徹底されてくると極端に甘い教師も極端に厳しい教師も居場所がなくなるというわけだ。

まあ、大学の高校化はどんどん進むでありましょう。私も仮病を理由に休講して論文書くことは、いよいよできなくなる。すみません。しかたなくて・・・だけど、教師なんてさ、所詮は学生の「足拭きマット」だからなあ。「踏み台」にさえなれずに、ただ通過され置き去られていく何かに過ぎないのだから、こんなもんでいることだけに時間とエネルギーを注いでいると人間が歪むんじゃないの?自虐趣味のない私にとって、高校化=管理化が進みつつある大学は、じょじょにやばい場所になっていく。定年まで何年あるかな?いや、年金支払い最低期間の25年をクリアするまで何年かな?フルタイムの専任職につけたのは33歳だったから58歳までか・・・げっ。

それはさておき、今の私はアイン・ランドの初評論集といいますか初エッセイ集のThe Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism(1964)の「版権を取ることができた!」という出版社からの知らせを待っている。このエッセイ集は、1998年のランダムハウスの一部門モダン・ライブラリーが実施した「英語で書かれた20世紀のノン・フィクションのベスト100」(http://www.randomhouse.com/modernlibrary/100bestnonfiction.html)の一般投票部門で第1位だったものです。ランド関連のものは、ランドの遺稿管理者のレオナルド・ペイコフ(Leonard Peikoff)氏の書いたObjectivism: The Philosophy of Ayn Randが第3位にはいっているし、第6位にはマイケル・パックストン(Michael Paxton)氏の書いたAyn Rand: A Sense of Lifeが入っている。ランドの書いたものではなくて、ランドの思想を弟子が注釈したものが上位に入っている・・・・??

ちなみに14位がミルトン・フリードマン夫妻の『選択の自由』であり、16位はハイエクの『隷属への道』。一般投票者はリバタリアンが多かったのかな?私が若い頃に好きで何度も読んだヴァージニア・ウルフのフェミニスト・エッセイである『私だけの部屋』(つまり、シェークスピアが女だったら、ロンドンに出奔もできなかったろうし、名作を書く部屋も自分の収入もないから、劇は書けなかったろうという話)は、知識人投票部門では4位だし、一般読者部門でも25位だ。いいものはいいんだよね、やっぱり。まあ、基本的には、私は自殺した作家のものは読まないことを原則としているのだけど、この人と三島由紀夫は読んじゃうなあ。

The Virtue of Selfishness(まだいい邦題が思いつきません)は19の論文から成っているのだけど、そのうちの5編が弟子のナサニエル・ブランデン(Nathaniel Branden)の書いたもの。私としては、このエッセイ集を翻訳したいのではあるが、この弟子のものは省こうと思っていた。何でかって?

このナサニエル・ブランデンってさ、ランドの弟子兼25歳年下の愛人だったものだから、彼が書いたMy Years with Ayn Rand(1999.)は、もとは1990年にJudgment Dayというタイトルで出たものの改訂版。その本において、彼は、けっこうランドのことをあけすけに書いている。思想家としてのランドも人間としてのランドも、きちんと書いている。ランドを美化していることもないし、かといって貶めているわけでもない。まあ、公平な姿勢で事実を書こうと努めている。しかし、なんか、それでも私はこの人物に好感が持てないわけでありますよ。

「師匠と寝やがって、ひいきにされて、えらそうにしやがって、だけど他の女弟子とできちゃったんで怒られて追い出されたんじゃないか、今更師匠のこと書いて稼ごうとするなんて、うっとうしい男だ・・・先生のお気に入りになって威張っていた奴なんて、ろくなもんじゃない、死んだ師匠にまで、たかるな!ば〜か!」という気分である。

だから、私は、私のアイン・ランド研究のアドヴァイザーである政治哲学者のクリス・マシュー・スカバラ氏(この方の書いたAyn Rand:the Russian Radicalはランドの研究書の中で最高だと私は思う)に「ランドのエッセイしか訳したくない。弟子なんか嫌いだ」と、メイルに書いた。そしたら、やたら長い熱いメイルが返って来て、私は叱られた。要するに、その内容は、「あんた、その態度は、あんたも僕も嫌いなアイン・ランド・カルトと同じことじゃないか。個人的感情が何であれ、そいつがどんな生き方をしているにせよ、そいつの人間性と思想は別に考えて、その思想が意味あるものならば評価するのが学問的態度だろうーが。ランドは、彼女の過激な剣呑さとか性的スキャンダルとか弟子たちとのカルト的閉鎖性のせいで、その思想の先見性がまともに扱われてこなかった。今でもまともに考察されていない。ランドがまともに評価されるには、まだまだ時間がかかる。人間と業績は別だ。あんたのブランデンに対する気持ちと、ブランデンの書いたものへの正当な評価は全く別のこと。あんただって、ブランデンの書いたものもいいと思っているんだろうーが。一冊の本は有機的なものなんだから、やはりそれ全体として翻訳し紹介しないのはいけない。ブランデンの書いたものを省くというのは、いけない!」というものだった。

まあ、私としてはクリスさんに説得されはしたのだけど、なんか、ある人間の性格とか人格と業績は別だという考えそのものには、いまひとつ納得できていないのだよね。特に思想関連においては。ある思想を提唱する人間のキャラが、その思想と乖離しているのは、なんか裏切られた気分になるというか・・・その思想の信憑性まで疑うというか・・・

ポール・ジョンソンの本に『インテレクチュアルズ』(別宮貞徳訳、共同通信社、1990)というのがあったよね。知識人や思想家の実人生と彼らや彼女たちが唱えた思想との乖離を暴露した本。この本によると、プロレタリアートに対する資本家や貴族の搾取に激怒したマルクスは、自分の家の女中を強姦して、子ども産ませて、生まれた子どもは孤児院に捨ててしまったとか。金銭感覚ゼロのくせに経済を論じたとか。実存主義者のサルトルは女漁りがひどかったとか。サルトルの「永遠の知的パートナーであり恋人」ということになっているフェミニストの元祖ボーヴォワールは、サルトルの女衒みたいなものだったとか。彼女を尊敬し慕った女子学生をサルトルに斡旋していたとか。あんなロンパリ(片方の目がロンドンを見て、片方の目がパリ見ているみたいに瞳の位置がずれていること)でぎょろ目の醜男でも、知の巨匠となると、若い綺麗なインテリの女の子はひっかかったらしい。そういえば、お勉強のできる女の子に限って、「顔で判断しちゃいけないわ」ってことになって、口の達者なインテリ不細工男に騙されるんだよね。私は、ヤンキーの女の子の「男はカッコよくてなんぼ!」という見解に与するものであります。悪い?

さらに『インテレクチュアルズ』によると、フランスの対独レジスタンスの女闘士との友情を描いた左派リベラル映画の傑作『ジュリア』の原作を書いたリリアン・ヘルマンは虚言症だったとか。だから、『ジュリア』もデタラメだそうですよ。そういえば、私の好きなメアリー・マッカーシーは、ヘルマンの虚言症のことを「彼女の書くコンマやピリオドまで全部が嘘!」とテレビのトーク・ショーで言ったので、ヘルマンに名誉毀損で訴えられたんだよね。マッカーシーは事実を語っただけだったみたい。ああ、そういえば、『アクセルの城』で日本の文学研究界においてでさえも一世を風靡したことがある文芸評論家のエドモンド・ウイルソンは、マッカーシーの2番目の亭主だったけど、すごい家庭内暴力亭主だった。あんな美女を殴る蹴るなんて、とんでもない奴だ。確か、『インテレクチュアルズ』には、この人のことも書いてあったな。私の嫌いなヘミングウエイのことも、ルソーのことも書いてあったな。ついでにチョムスキーのことも。

なんかねえ・・・やっぱり私は納得できないのよね・・・思想家というのは、それではまずいんじゃないかと・・・

たとえば、軍人ならばわかりますよ。人格下劣冷酷苛烈(あ、韻踏んでますね)でも戦略に秀でて戦闘において動揺せず勝つ人間ならば、立派な軍人ですよ。たとえば、企業家ならばわかりますよ。どんな嫌な奴でもいいよ。会社つぶさずに利益上げて社員を路頭に迷わさず、株主に利益を出すならば、秘書のお尻を触って悦んでいるエロオヤジでも構いませんよ(だけどセクハラで訴えられるのはしかたないよ。会社の規定による秘書の仕事内容に社長の性的遊戯のお相手という項目がなければさ)。政治家ならば、国民を飢えさせることなく、国土と国民を戦火に巻き込ませることなく国政と外交の舵取りをすれば、変態だろうがサイコだろうがOKですよ。野球選手ならば勝てばいいよ。お笑い芸人ならば笑わせればいい。女優ならば美しければいい。画家ならば作品だけが命。小林旭さんは歌とスクリーンが全て。むふふ。

でも、やはり、たとえ思想家でも、業績と人格は別に考えるのが近代人なのかな。

アイン・ランドは、尊敬しあっている者どうしにしか真実の愛も性もなく、弟子のナサニエル・ブランデンとの関係はそういうものであるのだから、私とこの弟子がやりあうのは、哲学的に倫理的に正しいと言って、夫やブランデンの妻を説得して、ふたりの了承のもとに、ブランデンとの情事を開始した。で、ナサニエル・ブランデンが、最近はちっとも自分に付き合わないのに、若くて美しい女弟子とはばっちり関係していたとわかったときに、「あなたが合理的な人間ならば、私を愛するべきであるのに!」と激怒してナサニエルを平手打ちにした。何度も何度もぶったたいた。このときランドは63歳。元気である・・・

Intellectual honestyに鑑みれば、アイン・ランドもナサニエル・ブランデンも「やりたかったからやった」、しかし「相手がもうやりたくないようだから、やめた」もしくは「もう、やっていても楽しくないから、やめた」と認めるべきだったのではないかなあ??それでは、いけないのか・・・

まあ、そういう疑問なんかにも、The Virtue of Selfishnessを翻訳する過程で、つまりランドの思想ともろに本当に格闘する過程で、私なりの答えが見つかるのではないかと思うのでありますが・・・『水源』のときより苦労することは確実。オバハンは荒野をめざす。早く版権が取れるといいなあ〜〜別に問題はないと思うが・・・

今夜は、昔の教え子で在日韓国人の超美人の女性と近所のフランス料理店で長い夕食でありました。19歳の美少女がかつての彼女を教えた私と同じ年頃になり、ごちそうしてくれた。彼女は韓国の大学院で韓国語学を学んで、今は名古屋市内の私立大学で非常勤ではあるが韓国語を教えている。パク・ヨンハの2005年のカレンダーを予約したと言ったら馬鹿にされたけど、愉しく嬉しい晩だった。最近、昔の人々とよく会うなあ。