アキラのランド節

「努力すれば報われる」とは、希望ではなく酸素である [01/19/2005]


昨日18日で、やっと今年度の担当クラスが全部終わった。

といっても、学年末試験とか入試も本番で、別に楽になったわけでも何でもないが、ホッとはする。特に、講義系科目が終わるとホッとする。私は、ゼミや語学クラスより、大教室での講義の方がはるかに好きなんで、ついつい準備にも時間かけてしまって、またそれが苦しくも楽しいものだから、結局、時間に追われて自分の首を絞めることになる。来年度は、秋学期に、留学生対象ではあるが一般学生も受講できる「日本アニメの諸相」という講義を英語でするようにという「指令」が来た。もう・・・準備だけで死ぬよな。5回ぐらいは死ぬな、きっと。受講生がひとりもいなくて閉講になることを祈るのみ、であります。

最近の大学では、「ゼミでも、それなりに、ちゃんと就職対策やれ」という就職課の要請で、ゼミ内容や卒論内容を就職の面接で聞かれたらどう答えるかのシミュレーションまでやるのですよ。だから、やったよ。効果あるかな。みんな頑張ってほしい。

同時に、某有名企業を定年退職して、経理関係で数字ばかり相手にしてきたから文学なんかやってみようかと桃山学院大学に社会人入学した女性が、たまたま私の4年生のゼミ生なので、その方にお願いして(というか強要して)、謝礼として『肩をすくめるアトラス』を進呈して(というか押しつけて)、3年生のゼミにお越しいただきレクチャーしていただいた。「面接心得」「企業の本音」「企業社会は建前社会」「企業社会での女性の働き方」などについてお話していただいた。あんな真剣で熱心に聴き入るゼミ生は初めて見たぞ。

その方いわく、「気楽に『ゼミの先生ってどんな人なの?』と面接で聞かれても、『いまいちですね〜気まぐれですし〜一方的にしゃべりまくるんで、うるさいですねえ』とか正直に答えてはいけません。企業側は、そういう質問しながら、ちゃんと公的な場所や会社社会で、社会人として建前を押し通して本音出さずに対処できるか見ているのですから、嘘でもいいので褒めておきましょう」ということだった。

その方いわく、「準備段階として、そこの企業の有価証券報告総覧とかチェックしておくこととか、そこの企業の商品とかちゃんと店頭で実際に手にして確認することは当たり前ですが、面接で、その企業の製品や商品を批判してはいけません。デパートとかに入社希望の場合は、そこの社員の接客に問題があったとか話題にしてはいけません。でっちあげでもいいですから、美談を話しましょう」ということだった。

その方いわく、「いつもカジュアルな格好していて、就職活動のときだけ、きちんと、というわけにはいきません。スーツは着慣れておくこと、パンプスも履きなれておくことが大切です。身のこなしが自然になり落ち着いたものになります。スカートの後ろの中心線がずれていてはいけません。シャツはピシッとアイロンがかかっていること。男性もネクタイをするのに慣れておくためには、日常でも努めて実際に着てみることです」ということだった。

その方いわく、「新聞は日本経済新聞。あの新聞は、満員電車の中でも折りたたんでも読めるように、活字や見出しが組んであります」ということだった。ええ?そうだったのか!あなた、ご存知でしたか?

ゼミ終了後、その方とお話したら、なんか企業社会で女性がやっていくためには、ちゃんと外観も整えていなくてはいけなくて、取引先の会社に挨拶に行くのに、いつも同じスーツやパンプスというわけにはいかなくて、新年会でも会社役員の手前、毎年同じ衣装ではいけないのだけれども、その衣装代が経費で落とせるわけではないし・・・とかの話題も出た。女性がパンツで仕事というのは、一般職ならいざしらず、総合職の女性では駄目だそうです。ノー・メイクなんて問題外だそうです。

うわ・・・私は絶対に企業は無理だね。いつも楽天ネットで検索した通販の「ランズエンド」や「ふくふく」のセーターにパンツの格好で仕事しているしなあ。学会の発表と入試と出張以外はいい加減だもんなあ。パンプスなんてなあ・・・化粧しないなあ・・・スカート持ってないなあ・・・昔、名古屋の女子大に勤務していたころは、同僚に女性教師が多くて、それも研究や教育よりも衣服や化粧や上司のオジサン殺しにエネルギーかけているアカデミック・ホステスみたいな人々が多かったので、私もあんまり気楽な格好はできなかったけれども、桃山学院大学って、「大阪」だからさあ・・・それも「南大阪」だからさあ・・・「泉州」だからさあ・・・って、自分の手抜きを土地柄のせいにしてはいけない。

ともあれ、3年生はすでに晩秋ごろから就職活動で忙しくなるのだけれども、そのことに関連して読んだ評判の『希望格差社会』〔筑摩書房〕には、考えさせられた。

『希望格差社会』の著者は、「パラサイト・シングル」という卓抜秀抜奇抜な新語を創った家族社会学&感情社会学(そういうジャンルがあるのか)学者の山田昌弘氏だ。この本のタイトルもうまいよねえ!社会的布置(階層)によって生じる希望格差が、さらに希望格差を増幅し再生産すると。しかし、読んでいて辛い本だった。身につまされるというか。

そういえば、山田氏の造語であるこの「パラサイト・シングル」は、2001年の初夏あたりのNew York Timesの日曜版で取り上げられていたな。「理想の結婚相手を求め続ける日本の未婚女性のパラサイト・シングルぶりは、フェミニズムの成果?それとも未成熟さ?」とか書いてあったな。

横暴なつまんない男なんか相手にしないもん、というのはフェミニズムの成果。リスクのある人間関係を引き受けて苦労するのはかなわんわ、結婚したら家事だの育児だの介護だの女の方に負担がかかるのは目に見えているんだから、ならば結婚しない方がいい・・・というのは、勇気の欠如というか蛮勇の欠如というか、好奇心の欠如というか、冒険心の欠如というか、博打精神の欠如というか、駄目でもともと精神の欠如というか、つまりはケチなんだよね。自分が持っているものに執着して、少しでも無くすのが怖くて、ひたすら守りにはいっているというケチ。中途半端に何か持っていると、こういうことになるのかな。

たとえば、結婚って相手のいることだから、はっきり言って自分の努力では何ともならない。亭主が努力したって、馬鹿な女房が賢くなることはない。女房がいくら頑張っても、駄目な亭主は駄目。賢くてハンサムで人柄がいい亭主は早死にするかもしれない。料理の上手な優しい奥さんは鬱病になるかもしれない。ほんと、運だけだよね。つまり、駄目でもともとの「博打精神」がないならば、結婚なんかできない。5つ試して、ひとつあたったら「大当たり!」とする「博打精神」よ。人間関係に関しては、「安全確実元金保証の投資精神」では構築できません。「パラサイト・シングル&引きこもり」なんて、単に臆病で気が小さくて自分の人生を信用していなくて、かつ怠惰でズルイだけのこと。リスクを受け入れられないならば、人間関係なんか持てないよ。全部はずれるってことはないって。ティッシュペーパーぐらいはあたるって。もともと他人というのは、親兄弟含めてみんな100パーセント全員リスクです。リスクには、チャンスの意味もあるもんね。何の話か?

山田昌弘氏の『希望格差社会』の話でした。実は、このリスクというのが、この本のキーワードのひとつでもあります。山田さんは以下のように語るわけです。1990年代から始まった日本の産業構造の変化=終身雇用制の崩壊、IT化、個人を支える共同体の消滅、工場の海外移転とかの非熟練労働のアウト・ソーシング化は、日本人を、いわゆる「正社員=勝ち組」と「使い捨て労働者=負け組み」に二極化させたと。つまり、高度成長期の日本人の、「努力してれば何とかちゃんと食べてゆけるし、贅沢はできないにしてもいい暮らしもできる」という見込みが消えたと。努力したって、リストラされかねないし、会社がもっと大きな会社と合併するかもしれないし、外資に買われるかもしれないし、リスクばかりだと。能力のある人間にとってはチャンスの多い社会だが、能力に恵まれない人間にとっては、希望のない社会であると。

こうした職業面での勝ち負けは、当然、私生活の家庭とか子どもにも関ってくると。勝ち組は勝ち組どうしで結婚するんで、高収入者は高収入者どうしで結婚すると。で、家庭も円満、子どもには教育投資がいっぱいできるから勝ち組の親の子どもは、また勝ち組になれると。一方、負け組みのフリーターは、勝ち組の異性に選ばれないから、負け組みどうしで結婚して、収入もずっと不安定で、子どもが生まれても生活苦で教育費に金を割けないし、貧乏のストレスで子ども虐待に走ると。で、負け組みの親の子どもは、やはり負け組みになると。

つまり、現在とこれからの日本は、この職業と家庭と教育の二極化構造がどんどん進み、「努力して、まじめにやっていれば、報われる・・・」という希望を持てない層が大量に出て来ると。つまり、彼らや彼女たちの「希望の喪失」は、社会の大きな負担になるどころか、国を破滅させると。「やる気がなく、努力もしない」という性向を負け組みは固定化させてしまい、犯罪は激増し、無責任などのモラル・ハザードははびこると。そうなった社会を支え維持するコストはとんでもないと。もう、ここまでくると、個人的対対処には限界があるから、若者のために職業カウンセリングとかの「個人的対処するための公的支援」を整備しないといけないと。「機会だけ与えて結果は知らない」というシステムでは若者は、社会に対してルサンチマンを持つだけになると。

この本の著者の言うことはすごくわかるし、共感するところも大なので、現実認識のためにこの本を読むことを、私は学生に薦めますよ。ただし、私は、そのときに、「でも、やっぱり個人的対処しか術はないけどね」と言うよ。「個人的対処するための公的支援なんかあてにしていられません。役所ができるのは、形式整えることだけなので、ものの役にはたちません。期待するだけ時間の無駄です」と言うよ。極論?実も蓋もない?だって、事実だもんね。

「機会は与えて結果は知らない」というのは、この世界の前提でしょ?前から、そうだったでしょ?結果の平等というのは、もともと実現不可能でしょ?現代は、リスクの度合いが、もっと高まっているって?そうなのかなあ・・・私の若いころから、やはり危険だらけで、きつかったけどねえ・・・

まあ、私がぶっちゃけて言いたいこととは、負け組みにとっては、「努力すれば報われる」とは、「見込み」とか「希望」とかいう類のことではない、ということなのであります。「心に抱くことができる」といった可能性の問題ではない、のであります。そんな甘いものじゃない。そんな余裕のあるようなものじゃない。負け組みにとっては、なければ死ぬしかない酸素みたいなものなのですよ、「努力すれば報われる」という思い込みは。

だって、負け組みの人間は、「努力すれば報われる」という思い込みがなければ、努力するのをやめて滅びていくしかないのだからさ。負け組みが生きていくためには、「努力すれば報われる」という思い込みを持つことしか、他に選択肢はないわけです。余裕のある連中はさ、努力するのをやめても、食べていけるし、引きこもりもできるだろうし、パラサイトもできるだろうけども、負け組みにはもともとその種の「寄生可能個人資産」がないのだからさ。

そんな思い込みは、狂気すれすれの「信仰」だって?そうですよ。なんか悪い?狂気だろうが、信仰だろうが、それ以外に選択肢はないのだから、それで生きていくしかないでしょ?そういう心的態度を、「太平洋戦争のときの神風を信じる気持ちと同じで、宗教で・・・」なんて国立大学の先生が論評するのは、御説ごもっともだけれども、「個人的対処するための公的支援」なんてあてにしていられない「負け組み」にとっては、そんな御説は何の役にもたたない。嘲笑されようが、批判されようが、短絡的だろうが、視野狭窄だろうが、それしか選択肢がないの!「警世の評論家」なんか、やっている暇はないの!

なんで馬鹿にされながらも、延々と「宗教」が生き延びてきているか、それどころか新興宗教は生まれ続け、カルトも絶滅しないのか?そこしか居場所を見つけられない人間は、そこに行くしかない。そこが必要なのだから、しかたないよ。それが現実なのだから。まあ、もう少し考える力がある人間とか、組織の機能は組織維持であって、組織の成員の幸福に寄与することではないという鉄則を知っている人間は、組織ではなくて、自分個人の心のなかに、そういう「教会」を建てる。

社会構造が生み出す希望格差推進力をねじふせて、自分の心の中に希望=思い込み=信仰=狂気=静かで知的なる博打精神=負け組みの酸素を持ちつづけることは、どうしたら可能かなあ。まずは、アイン・ランドの『水源』を読むことだよね。はい、おあとがよろしいようで。