アキラのランド節

ぶっちゃけて言えば [01/30/2005]


学年末試験も終わった。成績報告書も提出した。明日から、入試のために3泊4日高知に出張だ。高知は初めて行く。四国ならば高松のほうがよかったなあ。讃岐うどんが好きだから。高知といえば、四万十川のじゃこは滅茶苦茶にうまいが、行っている時間はない。この前、細木数子さんが、「このまま行くと、15年後には、日本人が全員餓死します!」と、ズバリ予言した。しょうもないグルメ番組ばっかり放映している日本だからな、いずれ食い物の罰はあたるよ。

ぶっちゃけて言えば(その1)

あ、このウエッブサイトの表紙でも紹介しているように、最近、私が編者をした『クィア批評』(世織書房)っていう本が出た。同性愛と異性愛を脱構築するqueer theoryによる文学研究や映画批評の論集です。私は、好きな作家がほとんどゲイなので、この方面には昔から関心があった。アメリカの大都市の大きな書店には、必ずレズビアン・ゲイ研究書のコーナーがあるよね。装丁は、『水源』の表紙をデザインした方に依頼した。パワーハウスっていう会社の大谷さんという装丁家の方です。『水源』と同じく、硬質で上品でシンプルで静かなパワーがある表紙となった。むふふ。

なにしろ、この本は、編者の私が文学研究から関心を逸らしてしまったので、10年間ほったらかしにした本である。ひどい話だが、執筆者の方々にも、出版社にも多大な迷惑をかけてしまった。昨今の出版状況も鑑みて、せめてもの罪滅ぼしに、私が大学から支給される研究費の3年間分を(つまり3年の分納で)出版費用にしてくださいと、出版社に申し出た。そういう使い方を大学が了承してくれた。感謝合掌。だから、装丁も、私の希望どおりにしていただけたのだ。見本ができあがって、出版社も最初は700部くらいしか(あ、うちの業界は500部売れればまし、1000部売れたらヒット、5000部売れたらホームランという流通範囲が極小の世界ですから・・・)刷るつもりはなかったのですが、初版印刷部数は1500ということになった。内容から見て増刷も期待できるだろうということです。

この本が出てから、執筆者の方々には、私は強引でかつ失礼(かもしれない)な依頼をした。「いまどき、文学研究の本など出してもらえるのが、ありがたいことであります。世の中にあまり役にたたないことをして食べていけるのは、ありがたいことであります。みなさんは、ナントカ先生の還暦祝いとか退官祝いの論集出版のときみたいに出版費用を分担させられたわけでもなく、勤務先の大学から出版助成金を取らねばならなかったわけでもなく、貴重で無駄使いなど絶対にしてはいけない税金である科研費(文部科学省筋が、申請者の中から選んだ学者や学者集団に、研究助成金を出す)を使用したわけでもありません。みなさんには、いっさい金銭的負担はなかったのですから、印税をもらうなんてことは考えずに、印税で相殺されるくらいの冊数の献本なり<お買い上げ>をしていただけないでしょうか。それが、仁義っていうものではないでしょうか?本は出してもらったわ、販売努力はしないわ、あなたまかせで良きにはからえ〜の態度では、通用しません。皇室じゃあるまいし。そういうやらずぶったくりの幼稚で厚かましい寄生的なことはして平気なのが、従来の何も生み出さない学者というものでありましたが、現在の出版状況はそういう甘えを許さないものになっております」という内容のメイルを出しまくった。

さいわい、みなさん、快く(?)ご理解くださり、ぶっちゃけて言えば、印税=現物支給という条件を受け入れてくださり、出版社も大変喜んでくださったのでありますが、執筆者のひとりの某独立行政法人大学の教員が、「公費で購入できますか?」と意味不明なトンチンカンなことを問い合わせてきたのには驚いた。

いや・・・ぶっちゃけて言うと、某出版社の方に漏れ聞いたところによると、「一流の学者さんほど、ご自分でも販売努力してくれます。講演会でもリュックに本をつめて運んで、売ってきてくれます。三流どころの学者さんほど、販売努力もしてくれないし、書くものも面白くないし、仕事は遅いし、ナニサマのつもりかなと思うことがあります・・・」とか。私だって、『水源』でも『肩をすくめるアトラス』でも『クィア批評』もリュックに詰めて持って売りたいが、講演会にお呼びがかからない。講演するネタもないし。高校への出張講義では販売できないよ。その前に、リュックの重みでひっくり返るな。最近私が購入したものの中でもヒット商品の、『通販生活』掲載のスワニー(SWANY)の四輪カート・キャリーで運ぼう。あれは軽くて素晴らしい!大阪と名古屋の二重生活で移動が多い私は、キャリーといえば、RIMOWAから何から、いろいろ試してみたが、これはいいです。お奨めします。何の話か?

ぶっちゃけて言えば(その2)

いや、もうかなわんのよ、会議ばかりで。私の勤務先の大学の文学部ってのは、他の大学が文学部から撤退し始めた1980年代の終わりに文学部を新設した。ぶっちゃけて言えば、一般教養科目担当の教師たちが専門科目を教えたいという悲願から作った学部です。まあ、こういうことは、日本中の大学で起きたことでありますよ。国立大学から教養課程が消えたのは、そのせいであります。国立大学というか独立行政法人大学の教養学部とか情報科学部とか言語文化学部とか国際言語学部とか、その類の名称の学部は、教養課程の教師たちが学部に「昇進」したくて騒いで作ったものです。まあ、だからいろいろ問題は最初からあったわけですが、その先送りされてきた問題が、21世紀になって、今になって、もう見てみぬふりできなくなってきた。

10年後の中堅私立大学の経営状況だけを考えたら、もう文学部は廃部したほうがいいのだけど、ぶっちゃけて言えば、文学部持っているような余裕はないのだけれども、そういう抜本的な対処はできないのが、日本の組織であります。特に民主的な体制で来た大学ほどラディカルな改革ができない。民主的だからさ、責任主体がないの。学長だってサラリーマン教員だもの。どこか他人事よ。つまりトップダウンができない。そんな頭があったら、教師になんかならないという説もあるが。ともあれ、ボトムアップということは、研究など諦めて講義もおざなりの暇で会議がやたら好きなオジサンたちの意見が「下からの意見」となって、深く考えもされずに実現されてしまう、ということでしかない。

で、私が所属する英語英米文学科というところが、文学部の中に渦巻く不安と苛立ちと鬱積の格好の的になるのですねえ〜つまり、会議しか生きがいのない、人生が充実していない暇なオッサンたちの攻撃の的となり、英語英米文学科を廃止せよ!という声が教授会で挙げられる。よって会議が繰り返されるということになる。英語ってのは、到達目標が数字で(TOEIC何点とか、TOEFL何点とかさ)設定されやすい。それが達成されなければ、いくらでも批判できる。非常に責められやすいのが英語関係学科の運命であります。

英語英米文学科攻撃をしているオッサンの担当科目は、漫談でもすむみたいな、評価もしようもないような、教育効果も算定できないような曖昧模糊とした人文系講義科目だから、無敵です。ぶっちゃけて言えば、実学志向になりつつある中堅私立大学においては、どちらかといえば不必要で無用な科目なわけ。彼らは、実はそのことを意識しているからこそ、敵を想定して、自分たちの存在無用性を隠蔽している(と勘ぐるほどのもんでもないかも)。まあ、どこか国内問題から国民の目をそらすために、日本攻撃ばかり煽っている中国の共産党政権やマスコミに似ている。英語英米文学科って靖国神社なんかしら。

しかしねえ・・・彼らは、時間だけはある。しょうもないこと考えて、集まって、くっちゃべっている時間だけは、たっぷりある。根回しもできる。そこが私たち、まともに忙しいスタッフにとっては、太刀打ちできない強みよ。あああ〜〜温厚で無口で物静かで慎ましい私も、いよいよ会議で黙っているわけにはいかなくなったよ・・・以前に、戦力にならないくせに口うるさい邪魔な、やたら私に敵対的な甘えのお化けみたいなオッサンの同僚がいたんだけどさ、そいつは酒の飲みすぎで肝臓癌で亡くなった。私って運が強いから、天佑は繰り返されるかも。むふふ。最近、一番悪質な奴の顔色が、貧相な古紙のような汚い「ねずみ色」である。還暦過ぎた身で、ジーパンはいて出勤してくるぐらいだから、もうすでにして認知症(痴呆症とは言わなくなったんだよね?)である。

ぶっちゃけて言えば(その3)

ところで、ハリウッド時代のアイン・ランドが書いたシナリオで映画化されたのが、2本ほどあるのだけれども、そのうちの一本であるLove Letters(1945年製作で、『ラブレター』という邦題で日本では1949年に上映されたらしい)という映画のビデオを、やっと見ることができた。アメリカでも手に入らなかった一本です。「名作シネマ」(http://www.meisakucinema.com/)というネットショップで購入できた。『水源』の映画化作品『摩天楼』(1949)も、ここで日本語字幕ついたのが売っている。5040円だって。なぜか、このショップでは、『摩天楼』は売れているらしい。『水源』効果?まさかね・・・

このアイン・ランド脚本の映画『ラブレター』は、『水源』をお読みになった方が観ると、笑える。つまり、ものすっごくアイン・ランドくさいから。あたりまえか。台詞がほんとにアイン・ランドしています。プロットの巧みさもアイン・ランドしています。どこか少女小説じみているのもアイン・ランドしています。風変わりなミステリー仕立てのラブ・ストーリーなんだけど、コンセプトが、「事実を直視して受け入れないと、勇気がないと、自分自身になれないし、真の幸福を獲得することはできない」なんだよね。ハリウッド映画(英国が舞台だけど、なぜかみんなアメリカ英語しゃべっている)には、そぐわないような観念的な生真面目さが根底にあるのも、もろアイン・ランドです。私は、生々しくアイン・ランドに触れた気がした。ランドの体温を感じるような気がした。懐かしいような、哀しいような気分になった。日本敗戦の年に作られた映画であります。

また、ヒロインのジェニファー・ジョーンズが若くて可愛くて美しくて瑞々しい。香港を舞台にした『慕情』で女医さん演じたあの大柄な美人ね。相手役の男優さんのジョセフ・コットンも、また素敵です。ハワード・ロークの役は、この人のほうが、よかったんじゃないの・・・?ゲーリー・クーパーは超美男だけど頭が悪いみたいで、あの裁判でのロークの長い自己弁論の台詞の意味がわからなかったみたいで、あの裁判場面は、台詞が命なのに激しくすべっている。このとき、クーパーはドミニク・フランコンを演じた共演者の20歳年下のパトリシア・ニールと不倫真っ最中だったそうだから、集中できなかったのかな。ゲーリー・クーパー!撮影が終わってからにしろよ、下半身系活動は!!『水源』の映画化作品『摩天楼』はヒット間違いなしと大期待されていたのだけれども、大コケした。だって、原作の絵解きにすらなっていないもの。

そういえば、パトリシア・ニールが『真実---パトリシア・ニール自伝』(新潮社、1990年)の中で、アイン・ランドのことについて書いていた。この女性、英国人作家のロアルド・ダールの奥さんだった人です。この自伝読んでから、なんか、もうロアルド・ダールの小説なんか読んでやるか!と思ったね。いや〜〜な男だ。この自伝は、もう絶版らしいけど、女優の自伝としては、ものすごく面白いし、稀有なほど勇気のある女性の真摯な告白になっている。お奨めします。

ところで、そのパトリシア・ニールの自伝によると、『摩天楼』の撮影中に、アイン・ランド(翻訳ではエイン・ランドとなっている)はしょっちゅう現場に来ていたらしい。自分が書いた台詞を、俳優の気まぐれで変えられるのを嫌っていたから。舞台の脚本も書いていた経験から、現場では脚本は勝手に変えられがちで、脚本家が作品にこめたテーマが観客に伝わらなくなることに関しては、アイン・ランドは懲りていたというか、思い知っていたから。パトリシア・ニールは、リリアン・ヘルマンと仲がよかったのだけれど、アイン・ランドはリリアン・ヘルマンと敵対していた(私の好きなメアリー・マッカーシーもリリアン・ヘルマンと仲が悪かったから、ヘルマンってよっぽどしょうもない劇作家だったらしい)。それでも、パトリシア・ニールは、ランドのことが好きだったと書いている。いい子だわ〜〜ゲーリー・クーパーみたいな下り坂のオジンと関わらなければ、彼女も女優としてもっとチャンスがあったのではないかな。

ところで、ネットで検索していたら、横浜市立図書館で『水源』の予約が12件はいっているという情報が出てきた。12件?ということは、半年先まで予約が入っているということです・・・税込み5250円という価格は、それほどに購入がためらわれる価格なわけです。文庫本にならないと、もっと読まれないのかもしれない。どなたか、シナリオ・ライターのお知り合いがいたら、その方に『水源』をご紹介ください。もうテレビ・ドラマ化でもされないと、文庫本になる可能性もない。私の友人の知人が、シナリオ・ライターだっていうんで、「おっ!!」と色めきたったら、なんとそれは、彼の恋人の奥さんだそうで・・・なんだよ、それ・・・あまりにもクィアだわ・・・