アキラのランド節 |
---|
ニューヨーク・ゼミ研修旅行覚え書き(その1) [3/20/2005]みなさま、お久しぶりでございます。スギ花粉が景気よく舞い飛ぶこの季節、いかがお過ごしでしょうか。前のランド節でも書きましたように、私は、2月始めからひどい風邪をひき寝込みました。体調が悪いまま、17日から25日まで、ゼミ海外研修旅行の引率&添乗員&現地ガイドをしました。無事勤めまして、帰ってからまたまた寝込みました。今回は、どういうわけか時差ボケが一週間も続いてまいりました。 今日に至るまで、なかなか書かなかったのは、次の理由からであります。 ニューヨーク滞在最後の2月23日のお昼にチャイナタウンのGolden Unicornで飲茶をみんなで食った後、学生たちが五番街だの、ブルックリンのブライトン・ビーチだの、SOHOだの、自然史博物館だの、めいめい最後に行きたい場所に散っていったあと、私はチャイナタウンをブラブラ歩き回っていた。そしたら、汚いビルの狭い玄関に立て看板が地味に置いてあって、このビルの2階にFeng Shui(風水)の店があると示してあった。「水晶パワーの店」とか、「25ドル商品を買えば、オーラ写真を5ドルで撮る」とか書いてあった。で、うさくさいものが大好きな私は、サッサと階段を昇っていった。 その店の若い可愛い女性の店員さんは話し上手で陽気だった。私は、男性の店員がヘラヘラした軽薄な口八丁手八丁だと、絶対に買わない。「女だと思ってなめてやがるな」と感じたら、絶対に買わない。男の店員が出てくると、私は「ちぇっ、はずれか」と反射的に思ってしまう。女客と見ると、弛緩した態度で、ため口きく馬鹿男の店員が多い。どうせ、そいつの母親がろくでもない人間で、そういう息子を作ってしまったんだろう。生育暦の過程で、なめてかかってもいいような女にしか出会ったことがないんだよね。まったく下司な連中だ(うちの同僚にもいるよ、そういうの。教師って、教室で若い学生を煙に巻ける程度の知識はあっても、幅広い教養はなくて、ついでに自分の貧しさに無自覚な奴が多いからね。ああ〜一流の人々と接することができる立場になりたいなあ!)。 ただし女性の場合だと、その種のセールス・トークにも聴き入ってしまうんだよね、私は。そのたくましさに感心してしまうわけです。というわけで、日本では見かけないような、ほんとうに緑色幽玄的なグリーンファントムの水晶七角柱などを3つばかり買った。で、オーラ写真を撮ってもらった。 できあがった写真を見ると、私の頭や頭上には青色や白色や紫色やピンク色の煙みたいなのがかかっていて、体の回りは暗かった。その写真を「鑑定」して、女性店員はこう言った。「すごく疲れていますね。休養が必要です。ともかく休みましょう。スピリチュアル・エネルギーは強いのに、肉体的エネルギーが弱すぎる。バランスが悪すぎる。Take a rest!」と。 だから最低限の仕事はして、あとは休養していました。素直な私である。おかげで元気になりました! 「ニューヨーク・ゼミ研修旅行覚え書き」に入る前に、お知らせさせていただきます。
<お知らせの1>
<お知らせの2> さて、やっと「ニューヨーク・ゼミ研修旅行覚え書き」に入ります。書いておかないと、みんな忘れるからなあ、私は。 「ゼミ研修旅行」という名目ではあるが、実はゼミ生は総勢14名のうち6名しかいなかった・・・あとの8名とは、ゼミ生の友人の桃山学院大生2名&ゼミ生のお母さん&桃山の社会人聴講生のA画伯(お弟子さんも多い有名女性画家)&A画伯のお弟子さんのお母さん兼A画伯のお友だち&私の昔の教え子で韓国語を大学で教えているB嬢&私の夫&私なのだった。不景気のせいかなんかしらないが、参加者が集まらなかったんだよ。 最低14名は集めないと、7泊9日空港からホテルまでの送迎&半日観光付食事なし15万円の格安ニューヨーク旅行のツアーは組めないので、私は必死で参加者を募ったのだ。「ゼミ旅行参加する人〜〜手を上げて〜」と言ったら、3年と4年のゼミで20名以上が挙手したんで、私は旅行会社に20名で見積もり出してもらったのに、くそ。ほんとに、いまどきの学生はあてにならん!と私は、内心むかついていた。「これが桃山最後のゼミ海外研修旅行だ!もう、やらないぞ!やらないほうが私は楽なんだから!」と心に決めたぐらいだった。 しかし結果的に、この混成チームが成功した。学生と教師だけだと、単に学生と教師の旅でしかないが、そこに親御さんだの社会人だの元教え子だのがからんで、実に賑やかで楽しい旅となった。
2月17日(木曜日) 飛行機の中で、某通信社から書評依頼されていた伏見憲明氏の対談集『性という[饗宴]』(ポット出版)を読む。48名の論客と伏見氏がしゃべり倒した分厚い600ページ以上もある大対談集である。面白い。面白すぎる。世の中には、ほんとにいろいろな人がいる。私のような小心で平凡な小市民の縮みがちな心に風穴を開けるような本。 目を上げたら、映画が始まっていた。アメリカ映画版のShall We Dance?だった。日本版よりも、はるかに良かった。泣けた。主役のリチャード・ギアとジェニファ・ロペスがいい。ジェニファ・ロペスって情がある感じで好き。日本版は主役の男女が猛烈にダイコンで駄目だった。でも、脇役陣は日本版の方がはるかにいい。 デトロイト着。空港の大きなガラス窓の外には雪が舞っている。入国審査のときに、両手の人差し指の指紋と顔写真を撮られる。デトロイトからニューヨークのラ・ガーディア空港へ。いや〜〜なんか帰ってきた気がする。夕暮れで寒い。空港から送迎のミニ・バスで45丁目のミルフォード・プラザホテルへ。旅の汚れを洗い流して、夕食は42丁目の中華レストランでfried riceとegg rollsと野菜スープを注文。体調は悪くても食欲はあるんだよな。食った後はサッサと寝た。男子学生は、ステーキ食って来たとか言ってた。
2月18日(金曜日) バスは南下して、バッテリー・パークで停車。記念写真。かもめが低く飛んでいる。「The Fountainheadにかもめの描写があったよね、ヘンリー・キャメロンが引退してニュージャージーに行く場面で」と、私が話しても、学生は「??」という表情。くそ。 次にバスは、黒い金属製の十字架が立つグラウンド・ゼロ前の道路に止まる。「お〜〜ここか〜〜」という暗黙の感慨で、みな急いでバスから降りる。キャアキャア騒いで写真撮るんじゃないよ。静かに撮りなさいよ。晴れているのに、ここは空気がどんよりと重い。3000人以上の成仏できない霊がウヨウヨしているのだから、無理もない。夕暮れ近くにここに来て、なぜか帰り道に迷って、不思議に誰もいない道を、あちこちさ迷ってしまったという経験をした若い女性を、私は知っている。霊たちに遊ばれたにちがいない。 ここには何も建てない方がいいのに。何か事が起きれば、ひどい目にあうのは政府ではなくて、必ず普通の庶民だということを骨身に沁みこませて、思考と行動の前提にするのが、リバタリアンだよ・・・ 市内観光の後は、メトロポリタン美術館見学。2月21日の月曜日がPresident’s Dayで明日から三連休にはいるが、早々と休暇をとっているのか、美術館はメチャメチャ混雑していた。入館するときの荷物検査が、異常に厳しくなっている。 昼食は各自で取る。カフェテリアも改装して場所も変わり広くなった。夕食をいっしょにするために午後4時半に集合を決めて、解散。学生たちは、学生証は持っていなかったが、I am a student!と言い張って学生料金7ドルで入場。私の元教え子の30代前半のB嬢も学生料金でチケット代わりのバッチを手にする。私も「あなたも学生?」と皮肉な調子で聞かれたが、「わたしはセンセイ」と答えて、15ドルの入場料を払った。値上がったなあ!A画伯は、プロの画家としての国際認定書持っているので、世界中どこの美術館も博物館も無料で入れる。だけど、受付のお姉さんは、「いくらでもいいから寄付してください!」と言い張った。財政が苦しいのかな。 4時半に再集合。美術館って疲れるんだよね。見よ、本物の美術館とはこういう場所を意味するのだ。若い頃から、ちゃんと一流のものをいっぱい見ておこう!と言ったのに、集合時間まで、5番街のTiffanyで買い物していた女子学生がいたし、セントラル・パークで遊んでいたのもいたし、なんとグッゲンハイム美術館に行ったとか、ホイットニー美術館に行ったとかの学生もいた。なんだ、それ? なかには、日本でちゃんと円をドルに交換してこなかったからというわけで、銀行に行って両替しに行っていた学生もいたのであるが、一万円札しか両替に応じてくれなかったそうである。なんでか?「ニューヨークのマンハッタンの5番街のシティ・バンク」の人間が、日本の新札の情報を持っていなくて、一万円札の顔は、旧一万円札と同じ顔だから本物だろうけど、五千円札や千円札は顔が違うから、偽札の疑いがあるから両替はできないと言い張ったんだそうである。なんだ、それ?そんな偽札があるか?? アメリカの銀行の窓口で働いているのは、1時間6ドルとか7ドルから始めるパート労働者だから、そんな水準なのか?日本の新札情報など知らなくて当たり前なのか?アメリカのパートナーのつもりだかなんだかしらないが、日本人観光客の多いニューヨークですら、アメリカの対日本認識は、この程度のものなのであります。 しかしなあ、出発する前に、ちゃんとメイルで参加者には伝えておいたのになあ。トラベラーズ・チェックなんか持って行くなって。ちゃんと両替して現金を持って行けって。両替なんか現地でしたら、手数料が高いって。100ドル札や50ドル札なんか持っていても普通の店では使えない。全部20ドル札以下に替えておけって。1ドル札なんて何枚あっても便利なんだから。 ともあれ、全員再集合後は、冷たい風の中を、ゾロゾロとみんなで5ブロックほど歩いて地下鉄に乗る。メトロ・カードの買い方を勉強。33丁目で降りて、35丁目の某コリアン・レストランで食事。韓国語で「大きな田んぼ」という意味の名前のお店です。ここは安くておいしいんだ。14名用にテーブルも並び替えてもらった。最後の晩餐ならぬ最初の晩餐。なにしろ我らが一行には、韓国語を話せるB嬢がいるから、とても心強い。彼女とウエイターが話していると「冬のソナタ」の世界です。言葉の問題を人様に任せることができるというのは、なんと気楽で心安らかなことでしょうか。 14名が、チゲ鍋だのチジミだのユッケだの石焼ビビンバだの春雨と野菜の煮物だのナムルだの、野菜もたっぷりとお腹いっぱい食いまくって、チップこみで300ドル。安い!夜景のビルの明かりがきれいな夜のマンハッタンを、またゾロゾロとホテルまで歩いて帰る。 2月19日(土曜日)今日は、このゼミ研修旅行のハイライトである「アイン・ランドのお墓参り」の日。チャーターしたバスが着くのは朝8時なんで、それまでに墓前にお供えする花を調達してこないと。3ブロック上がったところに、「みどり大百貨店」(Green Emporium)というふざけた屋号の小さなデリがあったんで、そこで15ドルの花束と10ドルの薄いオレンジ色のバラ12本の花束を買い、墓石洗い用の2リットル(?)入りミネラルウォーター2本購入。ちゃんと、『水源』と『肩をすくめるアトラス』も持った。 マイナス8度の寒さの週末のマンハッタンから、バスで北上して、ヴァルハラ市にあるケンシコ霊園まで行く。このバスにはガイドは付かないはずだけど、昨日と同じ美人のガイドさんが来てくれた。ケンシコ霊園なんて行くのは初めてだし、聞いたこともないそうだ。 8時55分にケンシコ大霊園のオフィス前に到着。マンハッタンより寒くて冷える。2001年の8月の終わりに来たことがあるから、訪問者用のトイレがある場所は知っていたので、トイレはここだと一行に指示してから、私はオフィスに入る。そこで勤務している女性が、「まだ始まる時間じゃないから。あと5分待ってて」と言うから、「日本からアイン・ランドのお墓参りに来た」と言ったら、「あら〜〜じゃあ、資料を渡すわ。何人分必要?」とか言って愛想が良くなる。 歩いて行くつもりだったけれども、霊園の中を自動車で案内する役目の年配のオジサンが、「寒いからバスにみんな乗りなさい。その場所まで誘導してやるから」と言ってくれる。歩けば20分くらいだけど、バスだからあっというまにアイン・ランドと夫のフランク・オコーナーのお墓に到着する。お墓の背後で2001年の夏には青々と茂っていたかえでの木が葉を落として、たたずんでいる。そうそう、ここここ!いやあ、ひさしぶりですねえ!さすが、今年は、アイン・ランド生誕100年の2005年。お供え用の真っ白い花が墓前に美しく飾ってあった。 A画伯によると、お墓に到着したとたん、いかにも体調が悪そうで咳をしていた私が、俄然元気になったんだそうである。顔がパッと明るくなったんだそうである。さっそく、私がミネラルウォーターを墓石にかけて、スポンジで汚れを落とし始めたら、昔の教え子で韓国語の教師のB嬢が、「あ、やります!」と言ってスポンジを私の手からひったくり、墓石を拭いてくれた。私は、そのあとにまた水をかけて、タオルで水気を拭き取る。 ランド夫妻の墓石は、日本の墓石のような表面がツルツルと磨きたてられた御影石と違って、表面がザラザラしている。ほんとはスポンジやタオルで拭いてはいけないのかも。ひょっとして、これってハワード・ロークの象徴たる花崗岩なんかしらん? その後、花束と『水源』と『肩をすくめるアトラス』を墓前に供えて、私は座り込み、祈り始めた。「やっと翻訳も出ました、日本人もあなたの小説を読めるようになりました・・・」とか何とか、ブチブチと英語で小さい声で、ランドの霊に話しかけた。「あ、オバハン、本気みたい・・・やっぱり、頭おかしいな・・・」という感じで遠巻きに私が敬虔に祈る後姿を見物している空気を背中にひしひしと感じる私。「みんな、これがアイン・ランドのお墓です!The Fountainheadの作者のお墓です!」と、私が吼えているのに、全くピンと来ていないようだ。ちぇっ。感動のない連中だ。 ガイドさんは、「Ayn Randって、どういう人ですか〜〜??へ〜〜こういうツアーは初めてです〜〜」と言う。感心しているというより、あきれている感じ。よし、『水源』と『肩をすくめるアトラス』は、この女性に進呈しよう。読者を増やそう。 私のお祈りが終わったら、みんなで、ワイワイガヤガヤとひとしきり記念撮影。このHPの表紙にそのときの写真がUPしてあります! 「アイン・ランドのお墓ばかりじゃなくて、有名な音楽家や野球選手の墓もあるよ。連れて行こうか?」と親切に申し出てくれる「誘導オジサン」に礼を言って、「アイン・ランドのお墓だけでいいです」と答えて、一行はバスに乗り込み、霊園のオフィスに戻り、またトイレをすませて、マンハッタンへと帰る。 私は帰りのバスの中で涙が出そうだった。2001年の夏に初めてランドの墓参をしたときは、『水源』の翻訳も始めたばかりだった。どうなることかと思ったことも何回もあった。しかし、その翻訳も無事に出版された。書評もいくつか出た。アイン・ランドの名前は、少しは日本でも認知されつつある。あの日から3年半を経て、今日はその翻訳本も携えて、学生や敬愛する友人たちや昔の教え子と、賑やかに墓参できた。なんと、ありがたく幸福なことだろうか。奇しくも、今日2月19日は、アイン・ランドがマンハッタンに上陸した日だ。1926年の2月19日のことだ。 ところで、今夜は、みんなでブロードウェイのミュージカルを観ることにする。しかし、私がビギナーには最適だからと選んだ42nd Streetは1月いっぱいで終わっていた。2001年のトニー賞受賞作のThe Producersは、アメリカ社会の背景とか文脈がわかっていないと理解できない差別ネタ満載の反ポリティカリイ・コレクト劇だから、学生には理解不能だと思う。しかたないから、無難なところでBeauty & Beastを観ることにして、劇場の売り場でめいめいが切符を買う。オーケストラ席で100ドル。値上がったなあ! その後は、グランド・セントラル駅まで歩き、そこで解散。フード・コートもあるし、おいしい濃厚なチーズ・ケーキ売っている有名店もあるし、オイスター・バーもあるし、マイケル・ジョーダンのステーキ・ハウスもあるし。 私は、4年前に住んでいたアパートメント・ハウスまで歩いた。国連が北の窓から見えるTudor City Placeというところ。映画のSpider-manの敵役が住んでいたペントハウスは、実は私が住んでいたアパートメント・ハウスの最上階という設定。1980年代の映画Splashで、トム・ハンクスが住んでいたアパートメントもそこ。ダリル・ハンナが人魚を演じた映画ね。二コール・キッドマンが携帯の核弾頭を持ったテロリストからマンハッタンを守るアクション映画のPeace Makerは、私がそこの一部屋だけのstudioに住んでいたときに撮影されていた。ロケ隊のバスが何台もアパートの前に止まっていた。私は、その部屋を、たまたま日系の不動産会社のサイトを検索して決めた。そこが1924年に建設された「歴史的建造物」とは全く知らなかったのでありますが。 観劇前の軽い食事をと思って、42丁目のYoshinoyaでBeef BowlとMiso Soupをカウンターで注文する。お肉たっぷり玉葱ちょっぴりで2ドル99セント。Vegetable Bowlもおいしそうだなあ。私は、日本の吉野家には入ったことがない。夫は、「つゆだくない。だくだくない」とか、わけのわからんことを言っていた。 午後7時半にロビーに再集合して、意気揚々と劇場へ歩く。観劇だからね、みな小奇麗な格好をしてきたのであります。華やぐ気分。しかし、まあ・・・ミュージカルのできはよくなかった。どんなミュージカルでも、オリジナル・キャストでないならば、できは悪いけどね。それに、ここ数年のブロードウェイ・ミュージカルは意欲的で野心的な新作がないから。リバイバルばかりだから。それかアニメの舞台版とか。ニューヨークって、すでに晩年にさしかかっている街だから。それでも、最後の光芒だから、ネオンは一層美しくキラキラと輝いている。 |