アキラのランド節

ニューヨーク・ゼミ研修旅行覚え書き(その2) [3/22/2005]


2月20日(日曜日)
 今日は、夕食だけ全員集合ということにして、それまでは自由行動とした。早朝から、ウッドベリー・コモンとかいう郊外にあるアウトレットのショッピング・モール(時期はずれのブランド品を安く売るらしい)に出かけた学生たちもいたし、A画伯とそのお友だちは、ハーレムのゴスペル・ツアーに参加しに出かけた。みんな、朝から超元気である。

 私は、ブルックリン・ハイツに行きたくなって、地下鉄に乗ったのだけど、なにゆえか目当ての駅のハイ・ストリートに止まらずに、電車はわけのわからない方向に進んでいるようだ。車両に張ってある掲示を読むと、週末は路線の修理中で、ハイ・ストリートには止まらないそうだ。週日もラッシュ・アワーしか、そこには止まらないとか。なんだ。

 地下鉄でマンハッタンに戻り、チャイナタウンのあるカナル・ストリートで降りる。茶坊で、タピオカ入り&蜂蜜入りの熱い緑茶を飲む。チャイナタウンは10日間ほどの旧正月の祭りの真っ最中で、すごい混雑。爆竹が鳴り、紙ふぶきが空を飛ぶ。シンバルというか、銅鑼が派手にたたかれ、アコーディオンのような変な楽器の音がブカブカ鳴り、縫いぐるみみたいなくせに胴がやたら長い赤や黄色の布製の獅子が通りを練り歩き、店に入っては出てくる。あれって、獅子ではなくて龍なのかな?龍のわりには丸顔である。

それらの長いくねくねした胴体付き獅子を白人や黒人の人たちが棒で支えているのは、なんで?銅鑼たたいている人も、必ずしも中国系だけではない。中年の白人のオッサンがドンジャンドンジャン鳴らしている。あの人々は、町起こしのボランティアでしょうかねえ?オリエンタリズムでしょうかねえ?白人社会に疲れて癒しを求めているのでしょうかねえ?

午後6時にホテルのロビーで全員集合。グランド・セントラル駅まで地下鉄のシャトルで行き、そこから歩いて、国連から遠くない40丁目にある私が大好きな中華料理店に行く。ちゃんと予約しておいたから、多人数でも大丈夫。一行のなかに、たまたま今日の2月20日が誕生日の学生と25日が誕生日の学生がいるので、急遽、二人分の誕生日パーティの真似事をすることになったのだ。

2003年の暮れ以来2年ぶりにその店に入ったが、連休の日曜日の夕暮れということもあり、はや店は満員で盛況である。前にはなかったが、奥の中二階にも座席を広げたらしくて、そこに14名の席と大きな円卓がしつらえてあった。

いつもこの店に出ているオーナーの品のいい中国人のオジサマも、アグネス・チャンを老けさせて、もっと強引にした感じのハンパじゃなく気の強そうな奥方もいなくて、ニュージャージーでレストランをやっているはずの長男と日本に3年間いたという、日本語の達者な次男の人が、店を仕切っていた。なんか雰囲気が違っているなあ・・・ニュージャージーのレストランはつぶれたのかなあ。

この次男さんが、温厚な紳士のお父さんに似ず、やたら強引に売りつけるんだよね。「フカひれのスープいいですよ!」「牡蠣食べましょう!」「蟹食べましょう!」とか言って。日本人が牡蠣や蟹が好きなことをよく知っている。なんか、どこでこういう押し付けがましい商売覚えたのかなあ?東洋人らしくないぞ。程度の低い白人の真似するなって。まあ、いいや。フカひれのスープも牡蠣も蟹も北京ダックも注文した。にら餃子に海老餃子に蟹の爪の揚げ物に海老の塩味揚げに、蟹のあんかけチャーハンも注文した。海鮮ビーフンも注文したいところだけど、いくら14人でも食べきれないかな。

「私は前に近所に住んでいたことがあって、あなたのお父さんが素敵な紳士で好きなんだけど、お父さんはお元気ですか?まさか亡くなったとか?」と聞いたら、「死んでない!今日はお休み!」と日本語で返ってきた。よかった、よかった!

乾杯が終わったら、A画伯が誕生日のプレゼントの写真立てを、誕生日を祝われている学生二人に手渡してくれた。一気に宴は盛り上がる。料理はみんな全部ほんとにおいしい。ウエイターたちが、こんがりこうばしく焼けた北京ダックの皮を切り分けて野菜といっしょにカオヤーピン(包餅)に包んでくれている間、学生たちは写真を取りまくる。若い彼らや彼女らは、北京ダックなんて初めてだから大いに喜ぶ(私だって初めて食べたのは40代だったけど)。しかし、あいつらも強引だ。中国人のウエイターに「お兄さん、動かないで!じっとして!」と日本語で言ってる。

やはり、人間はいっしょに飯を食うというのが、一番仲が良くなれるんだよね。

元教え子の美人で明るいB嬢は、疲れ気味の私のかわりに、大いに座を盛り上げてくれる。彼女のおかげで笑い声が絶えない。絵画ばかりでなく、料理の達人でもあるA画伯は、おいしいものにもきわめて敏感である。この方は、すでに60代なのであるが、一番元気なんである。すでにスケッチ旅行で55回は海外旅行に出かけてきた海外旅行の達人でもある。ニューヨークも大いに気に入ったようである。

デザートは杏仁豆腐かマンゴープリン。しかし、14人がこれだけ食いまくって、チップ込みで710ドルなのだ。安い!あの強引な次男さんは、計算間違いをしたんじゃないだろうか?まあ、いいけど。請求書にサーヴィス・チャージ18パーセントと書いて数字が記入してあったけど、あの数字が書いてなかったら25パーセントのチップ払ったのになあ〜♪ 

お腹いっぱいになった私たちが、その中華料理店を出たら、外は雪が降っていた。グランド・セントラル駅まで歩いて、そこから地下鉄のシャトルでタイムズ・スクエアに行き、外に出たら吹雪だった。北国ロシアの女性みたいにショールで頭を包んで、「アイン・ランドです〜〜」とか言いながら、ホテルまで歩く。

翌日は、自由の女神像と移民博物館のエリス島に行くつもりなんだけど、このぶんだと明日は雪か雨みたいだから、明日は自由行動にしよう。私は、かなり疲れていた。私の様子を心配してくれたB嬢が漢方薬をホテルの部屋まで持ってきてくれる。黒い大きな丸薬で、少しづつ歯で噛み砕きながら、唾液で溶かして飲むんだそうだ。いかにも効きそう。ありがたくいただいて飲んで寝る。

2月21日(月曜日)
夜が明けても外は暗い。やはり雨と雪まじりの天気。今日の予定は明日に延期して、私は、一日中ホテルの部屋で眠ることにした。しかし、あとのメンバーはみな極めて元気で、予定の延期にもめげずに、悪天候にもめげずに、街に飛び出していったらしい。

日本一元気な60代のA画伯とお友だちは、自然史博物館へ。5番街に買い物に出かけた学生や、前からの予定で、「ナイアガラの滝」見物ツアーに早朝から出かけた連中もいる。

しかし、このA画伯には驚かされるばかりだった。昨夜の中華料理店で食べ過ぎて、ホテルに帰ってから下痢をおこした「普段は小食の」女子学生ふたり(胃腸がびっくりしたんだそうである)に、A画伯はお粥まで作ってくださったのだ。美人でファッショナブルではあるが体力はなさそうな、そのふたりの女子学生にマッサージまでして下さったのだ。60代の方にマッサージしてもらうとは、とんでもなく厚かましい20代である。

で、そのA画伯は、私にも「ビタミンCがいっぱいですから、お抹茶立てましょうか?」と申し出てくださったのである。湯沸し器に鍋はもちろん、抹茶茶碗まで用意しているのである。抹茶に添える和菓子も、めざしも、生姜湯の粉末も、温めれば食べることのできるご飯に、そのご飯に混ぜる五目御飯の素も、きつねうどんも持参しているのである。A画伯のスーツケースは、ドラエもんの扉らしいのである。朝食でも夕食でも、パリだろうが、ローマだろうが、ニューヨークだろうが、ホテルの部屋で、鍋ひとつで、おいしいものを作ってしまうらしいのである。

世の中には凄い人がいるものだと感心しつつ、私はハウス・キーピングも断り、爆睡した。

2月22日(火曜日)
 昨日とはうってかわって快晴である。連日の寒さがゆるんでいる。朝、A画伯がほんとうに、和菓子のふたをお盆代わりにして、お抹茶と和菓子を運んできてくださった。ありがたくいただく。おいしいもんですな、朝のお抹茶というのは。

9時にロビーに集合して、地下鉄で終点のサウス・フェリーまで行く。昨日はたっぷり休養したので、私は気分が良かった。他のメンバーは休養しなくても、しっかり元気であるが。

フェリー乗り場には恐怖の長蛇の列。しかし、ニューヨークに来たら、自由の女神像でしょーが。アメリカ研究ならば、エリス島博物館は見逃せないでしょーが。行くしかない。さすが海の上、フェリーの最上階は寒い!しかし、そこから眺めるマンハッタンの高層ビル群の景色は、やはり素晴らしい。「見て!あれが、The Fountainheadで、ハワード・ロークが愛した摩天楼よ!」と私が言っても、学生は全く聴いていない。くっそ。

何回もこのフェリーには乗って、間近で自由の女神像も見たことも何回もあるのだが、あの像って、右足を後ろに引いて、右手を伸ばして松明掲げている。初めて気がついた。なんか不安定な不自然な姿勢である。あんな姿勢とらないよ、ふつうは。

自由の女神像の島をめぐり歩きながら、私はひさしぶりにB嬢とゆっくり話した。私が30代半ばの頃に教えた学生と、17年ぶりに、いろいろゆっくり話した。彼女にもいろいろあったが、私にもいろいろあったからなあ。

大西洋からアメリカに渡ってきた移民たちが、徹底的に病歴や犯罪歴などを調べられた移民局があったエリス島は、その廃墟跡が改修されて1990年代には移民博物館としてオープンしたのであるが、寄付金も少なくなっているのか、展示物が貧相になっていて、カフェテリアも冴えなかった。前は、熱くておいしいピッツアを売っていたのに。

午後4時に移民博物館のロビーに集合して、マンハッタンに帰るフェリーに乗り込む。さすがみんな疲れているようだから、ピアまで歩いていくのはやめて、地下鉄で新しくできたばかりのタイム・ウォーナー・センターに行くことにする。コロンバス・サークル近くに出来上がった大ショッピング・モールである。ここならば各自食事を取るのも簡単だし。

 A画伯とそのお友だちとB嬢と、ゼミ生とそのお母さんと私と夫は、近くのリンカーン・センターの前にあるイタリアン・レストランで夕食を取ることにする。その前に、メトロポリタン歌劇場の前の噴水前で記念写真。今回は、オペラは観れないなあ。

しかし、このあたりのアッパー・ウエストの洒落たレストランで、予約もなく7人で入るのは危険だ。しかし、週末でもないから大丈夫だろう。少々待たされるのは、しかたない。四人席と三人席に分かれて、やっと座ることができた。たまたまシティ・バレーの講演が始まる前だったから、開演前に軽く食事をすまそうとする客で混雑していたのだが、開場の8時近くになると、店内も少し空いてきた。

ここのムール貝のトマトソース蒸しは、にんにくやその他のスパイスが効いていて、メチャメチャおいしいのだ。あと、インゲン豆のそばパスタとクリームチーズで和えたバジリコソースのスパゲティを注文して、小皿に取り分けていただき、紅茶で閉める。たったこれだけの料理数で、チップ込みで270ドル。高い!A画伯がごちそうしてくださった。ありがとうございます。

ところで、アイン・ランドが愛して、よく通っていたラッシャン・ティールームというロシア料理店は消えていた。カーネギー・ホールの隣にあったのだが。

観光客も多くて、賑やかで華やかなニューヨークだけれども、ビルの空室は多いし、前にはあった店は、けっこう消えているし、ジワジワと不況に染まりつつあるようだ。一時期は消えていた地下鉄の中の物乞いも増えている。街角の乞食も増えている。

ホテルまで帰るのは、ぶらりぶらり歩きながら。途中で白馬に乗った女性警官に出会う。明日は、いよいよニューヨーク滞在も最後の日である。ともかく、ここまで来た。あとは無事に終わらせたい。

2月23日(水曜日)
 今日は、ゆっくり10時半にロビーに集合。ブランチをチャイナタウンのGolden Unicornの飲茶にする。これは、前に書いたよね。テーブルの間を巡回(?)してくるカートから、好きに小皿料理を選んで食うのだ。私は、ここのお粥が好きだ!14人が食いまくって、チップ込みで250ドル。安い!

 で、この後に解散してから、例のオーラ写真の風水のお店に入り込み、3時間もそこで話し込んでしまったのであります。ニューヨークで買ったのは、だから水晶だけ。

 最後の晩餐は5人で。B嬢が最初の晩餐のときのお店の隣の隣のコアな韓国料理店に連れて行ってくれた。A画伯とそのお友だちと夫と私を招待してくれたのだ。日本でも食べられるような韓国料理ではなくて、ほんとうの韓国料理の野菜料理を食べましょう〜というわけである。ありがとうござます〜韓国のお味噌汁は、豆豆(まめまめ)していてコクがある。チゲ鍋も、味が違う。地味だけど濃厚。なんと表現すればいいのか。いためた辛い野菜とご飯をレタスで包んで食べるのは、特においしかった。隣の国なのに、なんでこうも料理法が違うんだ?

 前のテーブルにいる女性客が、チェ・ジュウ(冬ソナのヒロイン女優ね)に良く似た美人だったので、「うわあ〜美人」と私が言ったら、B嬢は「ああ、整形しまくり顔のところが似てますね」と言った。えっ?そうなの?

食後は、夜のマンハッタンに別れを惜しみながら、歩いてホテルまで帰る。8時から、前にチケットを買っておいたTwelve Angry Menが始まるから、あんまりのんびりと歩いてもいられない。

日本でも陪審員じゃない「裁判員」制度が導入されるし、前にシナリオを読んだことがあるし、映画も観たことあるし、名古屋の女子大の短大部ではゼミでこの劇を上演(といっても、朗読劇の形式を採ったけれど)したこともあるし、台詞劇でも大丈夫だろうと思ったのだけど、Twelve Angry Menはつまらなかった。結構、有名な俳優も多く出ているのだけれど、こんな映画版をなぞったような劇にするのならば、「今」上演する意味なんてないのに。

市民が社会を生成する主体という建前がアメリカに生きていた1950年代の陪審員劇を、なぜ2005年に上演するのか?その意味が見えてこない劇だった。消滅してしまった何かへの郷愁なのか?というより、あらかじめ前提として存在しなかったが、存在すると信じていた時代への、もしくは、かつての自分への郷愁なのか?それとも、アメリカ人にとっては、筋も展開も先刻ご存知の「忠臣蔵」か?こんな劇は嫌いだ。活力がない劇なんて、再解釈がない劇なんて、アメリカらしくないじゃないか。あ、でも、これが今のアメリカなのか?

2月24日(木曜日)
 早朝3時半に起きて、スーツケースに荷物を収める。みやげ物も買い物のなかったので、持ってきたものを、また詰め直すだけだ。5時になったので、一行の各部屋に電話しまくり、6時にロビーに集合すること、その前にチェック・アウトして精算しておくことと、伝える。

 6時のロビーにはさすがに他の客はいない。最初の2日間にお世話になったガイドさんがまた登場。ラ・ガーディア空港までのバスの中で、おにぎりが並んだ箱が回覧されていく。なんとA画伯が、早朝出発で朝食抜きだろうと配慮してくださり、おにぎりを作ってくださっていたのだ。みんな喜んで、ひとつずつ手に取り、いただく。私は、ふたついただく。

 空港でのチェック・インは機械化されていて、クレジットカードとパスポートで登録して、コンピューターをいじくれば、ペラペラの搭乗券が発行されるという仕組みになっていた。クレジットカードを所持しない客はどうなるの?機械の操作の要領がわかったので、学生のチェック・インを手伝う搭乗員に変身する私。アメリカ人客たちもとまどって、ジタバタしている。だから、前よりも、時間がかかり、混雑は増すばかり。人件費の削減をねらった機械化のせいで、リストラされたはずの人々がいるはずだが、機械に慣れない客につきっきりで指示している人たちの人件費はどうなっているのか?

 9時初のデトロイト行きに無事に乗る。デトロイト国際空港の免税店でゴディヴァのチョコレートだけ買った。自分が食うんだよ。デトロイトから関西空港までのジャンボに乗って、ほっと一息。ここまで来たら、安心だ。

 帰りの飛行機では、偶然元教え子のB嬢が隣の席だったのだが、私はかつての教え子から説教された。

「センセイ、もっと学生たちと話さないといけないですよ。学生たちは、センセイともっと話したいんですよ。でも、センセイはいつも忙しそうだし」とB嬢。「え?ガキとしゃべっても面白くないよ。だいたい、そんなこと学生は思っていないよ」と私。「いやいや、もっと話さなきゃ」とB嬢。

「センセイ、厳しくするならば、男女公平にしなきゃ。センセイは女の子に甘いんですよ。女子大にいたから、甘いんですよ。男の子には厳しいくせに、女の子は甘やかすんですよ」とB嬢。「そうかなあ・・・」と納得できない私。

ここで私が、「だってさ、女の子は出来が悪くたって、やれることはあるよ。子どもたくさん生んでくれれば、社会に貢献できるんだよ。アホな女の子は、男だまくらかして結婚して、子ども産んでくれればいいのよ。寄生虫でいいんだよ。だけど、男の子は、しっかり立って、この社会を支えてくれないと困るよ。出来の悪い男は使い道がないよ。消耗品の兵隊にもなれんじゃないの」とうっかり本音を言ったら、彼女がカンカンに怒るだろうから、それが怖くて私は黙っていた・・・

 飛行機の中では、会話しているか眠っているか本でも読んでいるしかないので、私とB嬢は、また延々としゃべり始めた。彼女とこんなに長時間を話して過ごすのも、これが最初で最後だろう。こんな旅を、かつての教え子とできるなんて幸福は、最初で最後だろう。思えば、短くはあるが幸福な旅だった。私は感慨に浸りながら、韓国でのアイン・ランドの翻訳事情とか、日本の大学の機能不全の問題とか、B嬢の将来の夢とか、今の彼女が従事している活動のこととか、話し合った。そう言えば、打てば響くような学生と話す喜びなんて、最近の私は、あまり経験していなかった・・・だから、私はこんなにしゃべり倒しているのかもしれないと、心の隅で寂しく感じながら。

 通路をへだてた席に座っているA画伯は、相変わらず元気である。今回の旅は、A画伯やB嬢によって、ほんとうに助けられた。私が不調でテンションが低くなっている分を、補ってもらい、学生たちの面倒も良く見てもらった。私自身も、細やかな気遣いをしてもらった。

群れから離れる羊も、ほっておけばいいさ、勝手にやるさ、戻りたくなれば戻るわさ、というのが私の姿勢であるのだが、どうも最近の学生は、そういう「放し飼い」では駄目らしい。まめに見守っていないといけないらしい。困ったときは、自分から教師に言ってくるだろうと思っている私には、想像もつかないぐらいに、心はナイーヴな「中学生」らしい。察してもらいたいらしい。そうか、これからは、もう少しまめに観察して声をかけてみよう。個人的にも話してみよう。

彼女たちや彼らは、私が生まれて育った、まだ荒っぽさの残る時代なんて観たことも触ったこともないものなあ。最初から、ブランド品があふれ、サラ金のCMばかりのテレビを見て育った世代だものなあ。最初から、水洗トイレで育っているものなあ。オムライスかお子様ランチがご馳走のガキ時代なんて通過していないものなあ。飼い主に面倒見てもらわないと生きていけないのに、飼い主の主人のつもりのペットみたいに育っているものなあ。皇室みたいなもんか。愛子ちゃんか。腹立ててもしかたないな。

ともあれ、必要なときには、誰かの手助けがあるものなんだ、他の人の知恵を借りていいんだ、独りで抱え込まなくたっていいんだと、当たり前のことをあらためて感じながら、ありがたいなあ・・・と感じながら、あ、例の書評用の本は全然読めなかったなあ・・・などと思い出しながら、またあのチャイナタウンのうさんくさい風水のお店に行こう・・・と心に決めながら、そういえば、男子学生が自由の女神像眺めながら、こう言っていたな、「センセイ、やっぱり実際に自分の目で見てよかったです。やっぱり、アメリカってすごい。こんな国と戦争したことがある日本人もすごいですね!」とか何とか・・・まったく、もう男の子ってこういう発想するからなあ、いいんだか悪いんだか・・・とため息つきながら、私はいつしか眠りこんでいた。