アキラのランド節

ニラ汁の週末 [4/17/2005]


ひさしぶりに、のんびりとした週末を送った。のんびりせざるをえなかった。ニューヨークで研修していた2000年の晩秋の初体験以来4年半ぶりに痔になってしまって、デスクワークが長時間できないので、寝転がって本を読んでいるしかなかったのだ。

なんで、こういうはめになったかと言えば、3月末締め切りの論文を3月末から書き出して、なんとか提出したとたんに新年度が本格的に始まり、会議続きで座りっぱなしの状態が続き、お尻が鬱血し、そこに花冷えと疲労が加わったからだ。今年度は、私は担当委員会が11あり(じゅういち、Eleven!)、そのうち5つは会議も作業量も多い誰もが嫌がる類のものが占めていて、新年度に突入してから、いつもいつも会議みたいな感じなのだ。で、痔になったんである。

にんじんジュースを毎朝作って飲み、生姜湯をちゃんと作って飲み、奇跡のサプリメント「カリカセラピPS501」も毎日食していたのに、痔になったんである。ネット通販「楽天」で、お尻に優しく姿勢も良くなるという「知恵まっと」というものを注文したが、これは腰痛には効くようで姿勢を良く保てるし、とてもいい商品なのだが、痔には効かない。で、このランド節も書けなかったのだ。授業は立ちっぱなしでできるからいいけど、ほんと会議の後は辛いんだよね。

今年度の私の担当委員会のひとつに「文学部長補佐」というものもある。これになると隔週の「文学部執行部会」というのに出席しなければならない(手当てはつかない。会議が夜の8時近くに始まっても、残業手当は出ない)。この会では学部長会だの評議会だので論議され決定されたことが報告される。それに基づいて各学部の教授会で何を審議して、どう行うかを、学部長と補佐3名が話し合うんである。だから、否が応でも勤務先の大学の中で何が起きているか、わかるはめとなる。各教員への管理職の評価も、うっかり知るはめとなる。私は、「組織の老一OL」として、「生涯二軍選手」として、金だけもらって最低限の仕事をして、好きに研究していようと目論んでいたのだが、そのスタンスを取り続けることは、少なくともこの2年間は、あえなく夢と消えた。世の中は甘くない。

天中殺も大殺界も過ぎたはずだが、難儀は続くよ、どこまでも。

しかし、まあ、別にこんな程度のこと、ガダルカナルやアッツ島の兵隊さんがさせられたご苦労に比べれば、どうということはない。パイみたいに簡単。As easy as pieとなぜ、英語では言うのかな?授業と研究と学内雑務と、どこまでガンガンやれるか試してみるわさ。どっちみち中年過ぎると、仕事しか面白いものはなくなる。テレビはくだらんし、愛知万博は行く気にならんし、新聞はどうせ事実は報道しない。

ローマ法王が亡くなったから、ベスビオス火山が噴火してヨーロッパに大地震や洪水が起きるかもしれないし、砂漠の中近東でも大洪水が起きるかもしれないし、アメリカもあれだけ好き勝手なことしていると天罰が下るぞ、中国政府も学生たきつけて反日デモなんかしたって国内の不満を抑えきれない日も近いうちに来るぞよ、石油なんか足りなくても本当は人類は困らないはずなのに、石油製品なんか、みんな大麻(hemp)で作れるし、人体にも害はないのに、なんで大麻解禁しないのか?どうしてそういう情報を誰が隠すのか?石油資本の陰謀か?というわけで、いずれ地球人は、みな退屈などしていられなくなるだろうけど。しかし、やはり痔は痛い。でも、医者には行かない。

私は、13年前に父が癌で死んで以来、「医者というのは、外科医と歯科医と産科医だけいればいい。あとは病人をさらに病気にするだけで無用である」という認識に達している。医者の親のコネ使って、某製薬会社の営業職に内定が決まったゼミの女子学生に、「飲まないほうがいいような薬品を医者に売りつけて、国の医療費の負担を増やすような類の職業は、まずいんじゃないの?職業の選択の自由はあるが、できれば、もう少し人様の役にたつような方向にあるものにしたらどうか?」と、余計なおせっかいを本気で焼いているぐらいである。ともあれ、私は医者には行かない。副作用ばかりの薬を大量に渡されたってしかたない。医者に病気にされてたまるか。

まさか、これは、4月23日と24日にニューヨークはマンハッタンの高級ホテルで開かれる「アイン・ランド生誕100年記念会議」(Ayn Rand Centenary Celebration Conference)に出席するつもりの私への警告であろうか?ニューヨークで再びテロか?それとも、マンハッタンの真ん中でお尻が破けることにならないように前もって破いておくという神様のご配慮でしょうか?そんな暇な神様はいないか。

私は、体調がよければ無駄に動きすぎるというか少しばかり躁病的傾向があるんで、ニューヨークに行く前に、ちゃんと休息しておけという天界からのメッセージでしょうか。多分そういうことなんだろうと思って、昨日の土曜日は、珍しく午前中はまるまる寝床にいた。めったに見ない夢も見た。変な夢だった。

私は、死んだはずの母が「引っ越した家」を訪問しているのである。その家は、レンガ造りの洋風長屋であって(ほら、イギリスのセミ・デタッチドハウスみたいな)、内部は、小さな台所と、洋間と廊下の中間みたいな広い縁側みたいな感じの板の間と、10畳ぐらいの和室の居間と、狭い仏間があるといった3DKの家だった。仏間には、なぜか仏壇が3つ置いてあって、ひとつの小さな仏壇には、なにゆえか母の好きだった日本人形が飾られていた。板の間にはテーブルが置いてあって、そこに私が見たことがないような父の写真が何枚も飾られていた。母は太陽の光がさんさんと注ぐ明るい居間で、静かに座っている。いかにも、寛いでのんびりしている。私は、その母を眺めながら、台所のゴミなんかを片付けている。家の中は、引っ越したばかりという様子ではなく、かなりの時間は経過している様子で、落ち着いている。ダンボール箱なんか、どこにもない。部屋は綺麗に掃除も行き届いている。畳にはまだ真新しい青みの色合いが残っている。テレビとかは置いてなかった。狭いながらも、いかにも居心地のよさそうな家だった。

その洋風長屋の外に出ると、階段がついていて、その階段の下に広い道路があって、その道路をスキン・ヘッドの男性が赤いスポーツ・カーで走り去るのが見える。その道には、また水色のコートを着た母ぐらいの年配の女性がひとりゆっくり歩いている。外も明るい日差しである。その日差しの中で、私は、「引っ越したっていうけど、なんで私は母の引っ越しを手伝わなかったんだろう?おかしいなあ?」といぶかしんでいる。母は、一人でテキパキと何でもこなすというタイプでは全くない。「なんで私はここに、今まで一度も来なかったんだろう?電話もしたことなかったんじゃないか?」と、不思議な思いで、私はそこに突っ立っていた。

そこで目が覚めた。妙に生々しくもくっきりした夢だった。多分、あの「引っ越した家」は、死後の母が住んでいる家なんだろうな。あそこで、ほんとうにのんびりとマイペースに住んでいるのだろうな。そういえば、生前の母が、あんな穏やかな落ち着いた顔をしていたことは、めったになかった。

だいたい、あの仏壇にあった日本人形は、母が1998年に亡くなったあと、実家の中身ごと全部を解体業者に任せて処分してもらったときに、廃棄されたはずだから。思い出に浸って悲しんでいる暇はなかったし、一戸建ての常で捨てられもせずに何十年と蓄積されてきた不要物の山をいちいち片付けるのも面倒くさくて、私は先祖の位牌と父の位牌と美術全集と、父が好きだった山本七平さんの本とか絵画以外は、実家の中にあった物は、いっさいがっさい業者に任せて、全部片付けてもらったのだ。

「この冷蔵庫もらっていいですか?」「どうぞ〜」「このテレビもらっていいですか?」「どうぞ〜」という調子で、学校の卒業アルバムの類から、私がガキの頃から大事にして押入れにしまっておいた何十冊かの『少年マガジン』も、母が訪問販売で買った贋物の宝石類=ガラス類とかも(一人暮らしの老人ねらっていい加減な物を高額で売りつける訪問販売業者って確実に地獄行き&子々孫々ろくなことはないよ)、みんな処分してもらったのだ。

そうか、母は、あの家から引っ越して、こじんまりと気楽な暮らしをしているんだな。口うるさい隣近所も親類もいないし、暇にまかせてしょうもないことしゃべりまくる邪気あふれる類の専業主婦ばかりの住宅街ではなく、しつこくやってくる訪問販売もない世界で、のんびり暮らしているんだな。母があの世界で父と暮らしていないということは、精神レヴェルというか霊的レヴェルの違いなんだろうな。ときどきは父も訪問しているかもしれないな。

痔になってしまったために、私が休養せざるをえなくて、ぐっすり本当にリラックスして眠ったから、私の脳が4次元世界か5次元世界かなんかにリンクして、死後の母を訪ねたんだな、と私は勝手に思い込んだ。まあ、そういうことにしておこう。

で、「ひさしぶりに母に会えたなあ、よかったなあ〜」としみじみした思いで、土曜日のお昼ごろに起きた。そのとき、ふと頭に浮かんだのが、石原結實医師の『血液の汚れをとれば病気は治る』(宝島社)だった。その本は、病気や体調の不良をクスリではなくて、食べ物で治す例が紹介されていて、確か「痔」もあったはずだった。それを思い出したのだ。台所の棚にその薄い本はあった。

その本には、痔には「ニラの汁を湿布すればいい」と書いてあった。私は、その日の夕食では韓国風お好み焼きのちぢみを作るつもりだったから、ニラをお尻にあてるわけにはいかない、食うほう大事だ!と思いつつ冷蔵庫を調べたら、なんと1把だけ買ったつもりのニラが2把あった。安売りで2把束ねて売っていたのを気がつかずに買っていたのだ。これは天意に違いない、天意としか考えられない。私は、喜んでニラをジューサーでしぼり、その液を布につけて「治療」しましたです。ちぢみもちゃんと食べることができました。

みなさん、痔には「ニラ」です。効きます。おかげで、今日の日曜日は、こうして書いていられるようになったのです。なんとか、ニラ汁のおかげで、ニューヨークにも行けます。

私は、アイン・ランドが好きだが、その思想に100パーセント同意する者ではない。でも、今度の「アイン・ランド生誕100年記念会議」は楽しみにしてきた。アイン・ランドの小説世界は、素直に受け取れば、どうということはないが、なんか誤解もされやすいものでもある。私なんか同僚に言われたんである。「『水源』は最後まで読み通せなかった。他者との関係をどう考えているのか?ひとりで生きているわけではないのだ、人間は」みたいなことを言われた。あたりまえじゃないか、そんなこと。なんで、いい年して、そんな当たり前の感想しか出ないのかね?ひとりだけで生きているなどと、『水源』のどこに書いてあるか?ば〜か。だから、教師とか学者って嫌い。頭が悪いから。頭悪いくせにえらそうな顔ができる状態への感謝もないし。ば〜か。

まあ、どう読もうが、読者の勝手だから、私は何も言い返さないし、わかんない人はわかんなくていいよ、の姿勢ではあるが、やはりどこか寂しいもんである。

今度のニューヨークで開かれる「アイン・ランド生誕100年記念会議」は、どんな思想信条であれ、ランドの小説に感動したばかりの人間が集まる(はずだ)。そういう人々の間に、しばらく混じっていられるのが、私は嬉しいのだ。

参加費は$235である。この値段では、学生とか若い読者は参加できなくて、オジンオバンばかりだろうなあ。「祝賀会の晩餐」というのもあって、これは$285であるが、私はこれには参加しない。好きな中華レストランに行くほうが絶対にうまい(で、安い)!当日気が向いたら出るかも。当日飛び入り可なんてことはないか。学会の貧乏くさい立食懇親会とは違うな。24日の日曜日朝にあるGuide to Ayn Rand Sites in Manhattanには参加する。$25だって。いつか、「アイン・ランド文学の旅」なんて企画を日本の旅行会社が出すかもしれないから、そのためにもリサーチしておこう。

去年の暮れにネットで参加を申し込んで、クレジットカードで参加費を振り込んで以来、Eメイルの受け取りが送信されただけで、いまだに音沙汰ない。ふつうは参加許可証とか、そういう実質的な形を送ってくるもんじゃないの?主催者のThe Ayn Rand Instituteという組織の事務能力はかなり低いらしい。ふん、師匠の遺産に寄生して生きている連中だもん、そんなところだろう。そこんところも、しっかり見物してこよう。

今度は、「アイン・ランド生誕100年記念会議」見物報告を書きます。

では、また念には念をいれて、ニラ汁を作ります。明日の某高校での出張講義では、アメリカ映画の『キューティ・ブロンド2』(Legally Blonde 2)を使って、アメリカ社会の深部を見る!という授業をするのだ。これから、そのハンドアウトを作る。むふふ。