アキラのランド節

不食希望 [5/14/2005]


すみません。まだ「アイン・ランド生誕100年祝賀会議」報告を書いてないです。

昨日の13日の金曜日も朝から忙しかったな。夕方からのゼミコンパでは、よそのゼミの連中も飛び入りして、みんなで飲んで食って、カラオケで懐かしの「セーラー服を脱がさないで」を合唱した。よそのゼミの可愛い女子学生が、振りをまじえて歌のリードをとってくれた。そういえば、このHPの管理人をしてくれている「たけぞう」氏も、私のゼミ生ではなくて、コンパや合宿や旅行のときだけ参加する他のゼミ生であったな。

私は、バッハもモーツアルトも小林旭さんも加山雄三も山崎まさよしもパク・ヨンハも薬師丸ひろ子も好きだが、この歌だって実に名曲である。

ところで、連休の4月29日から5月5日は、ニューヨークから帰った時差ボケのために生活リズムが滅茶苦茶になって無為極まりない日々となった。思えば、去年の連休は、『クィア批評』の序文書きと、『リバタリアニズム読本』の担当項目書きをしていていたな。一昨年の連休は、『水源』の翻訳の最終章を訳していたな。その前の年の連休は・・・忘れた。

無為なる連休は、ひたすら雑読だった。その中の一冊が、散歩がてら立ち寄った近所のBook Offで見つけた山田鷹夫さん著『不食---人は食べなくても生きられる』(三五館、2004年)だった。この本について、私は何も知らなかったのだが、アマゾンで調べたら、けっこう知られざるベスト・セラーみたいです。船井幸雄さんのウエッブサイトでも紹介されていたので驚いた。

内容は、要するに「食わないと駄目というのは思い込みである。人間は、宇宙のエネルギーを摂取すれば、わざわざ食わんでも生きていける。食のために人間は膨大なエネルギーと時間と金銭を費やすが、食わんでもいいとわかれば、どれだけ自由になれることか。覚醒せよ、人間はもっと大きな可能性豊かな存在なのだ」というもんである(ただし、この著者は少しは食っているので、この本のタイトルは「微食のススメ」とするのが厳密には正しい)。

あ、あなたは、アホな本だと思う?トンデモナイ本だと思う?いや、私はそう思わなかった。

「食わんでもいい」・・・・そういうことは、ありえるのかもしれないよ。食わないといけない!と思い込んでしまって、「食こそ命の源」を絶対の真理と決めつけてしまって、他の可能性があることなど思いもしないってこと、人間には多いのかもしれないよ。

この『不食』の中に、食べないで生きている女性(修道女だったかな)の例が紹介されていて、その女性は「人間は霊的な存在だから、食べなくても本当は生きていけるのです。でもこの世の中で修行をして、いろいろなことを体験して学ぶために、食べなければいけないと思い込まされているのです」みたいなことを発言したらしい。つまり、人間の水準が上がれば、食べなくてもすむようになるということらしい。いろんなことをこの地上で学ぶためには、食うために働き苦労するのが一番効果的なので、食わないといけないと思い込まされているのであって、それもこれも人間の水準が霊的に低いから、ということらしい。

じゃあ、餓死ってのは、「食わないと人は死ぬ」という思い込みと恐怖から死ぬということであって、「べ〜つに〜」と思っていれば、生き延びられるってことか?!とすると、将来の食糧危機も心配することないのかも。いや、な〜んも心配することはなくなる気がする。食わなくてもいいなら、金のためにしたくもないことしなくてすむし。必要もないのに食うから、体に負担がかかって、無駄な細胞ができるから、その無駄な細胞が必要な細胞を食い散らかして病気になるんだとか。食わなければ、無駄な細胞ができないから、病気にならないんだって。ほんまかいな。

で、思い出したのが、George OrwellのAnimal Farm。今年度の春学期は、週2回開講の「英米小説研究」というクラスで、この小説を読んでいるのだけれども、学生は週2回のクラスで毎回実施される小テストにも慣れてきた。朝一限開講ではあるが、快適な緊張感もある、なかなかいいムードのクラスになってきた。ただし、できのいい学生は、私の不注意な誤訳やミスを手を挙げて指摘するのに熱心なようではあるが。テストで連続5回満点を達成すると、賞品として『水源』を進呈することになっている。連続10回満点達成の場合は、『肩をすくめるアトラス』を進呈することになっている。誰も欲しくはないようである。

ところで、この寓話の内容と『不食』が、私にとっては、シンクロしてしまったのであります。

この有名な中篇小説の内容は、牧場の家畜が人間に反乱を起こして、動物だけの独立国家ならぬ独立農場を作ったのだけれども、指導者の裏切りによって、この動物革命は失敗に終わったというもので、1945年の作品だから、ソ連の共産主義体制やナチスの全体主義などの圧制と抑圧を風刺したものということになっている。

「人間というのは消費するだけで生産しない唯一の生き物だ。卵も産めないし、ミルクも出せないし、ウサギを捕まえるほど早く走れないし、鋤を動かすほどの力はないし、動物の労力がすべてを生み出しているのに、取り分のほとんどを人間が持っていく。人間さえいなければ、この世界は今生きている動物よりもはるかに多くの動物に豊かな食料を与える余裕があるのに。この世界は決して貧しくはない。人間さえ排除すれば、この世界は素晴らしくなれるのだ」という動物革命を示唆することばを残して死んでいく老いた雄豚の演説内容は、今までは、資本家と労働者の対立構図を人間と動物の対立構図に置き換えたのだと解釈されていたけれども、今の21世紀の文脈で読むと、寓話ではなく、もろ文字通りに読める。

授業の準備のために、ひさしぶりにAnimal Farmを読み直して、私はびっくりしてしまった。あれれ、えらく今日的な作品ではないの!作者のGeorge Orwellは、ほんとうは文字通りの意味でこの物語を書いたのかもしれない。それに時代がやっと追いついて、読者はストレートにそのメッセージを受け止めることができるようになったのかもしれない。

人間が霊的な存在であり、かつ生き物すべても霊的な存在であり、動物に何がしかの意識があるとしたら、豚肉や牛肉は殺された豚や牛の怨念のかたまりということになる。そんなもん体内に入れれば、それは毒だろうなあ。人間は、さんざん動物を殺して食ってきた。感謝も鎮魂もなく食ってきた。殺した以上は無駄なくきちんと食うことが殺された動物への、せめてもの礼儀なのに、食い散らかして残して捨ててもきた。

動物にも霊があり、人間が霊的存在ならば、家畜文化が始まって以来の動物たちの何千年分かの怨念の蓄積が、人間の細胞のみならず霊体を、代々侵食してきているにちがいない。つまり「霊障」ってやつね。その霊障のために、人間の病気は増加するばかりで、人間の劣化はとどまらないと。食われた動物たちの怨念が人間を攻撃的にして、だから、いつまでたっても人間は性懲りもなく戦争を重ね、わけのわからん犯罪は増えるばかりと。人災による事故は絶えないと。で、その被害者の怨念がまた凝り固まって人類を不幸に誘うと。もう、地球は、理不尽に殺された動物と人類の怨念の厚い層に包囲されてしまっていると。あとは、破滅を待つばかりと。

そういうことは言えるかもしれないよね。

ところで、人間は、いつから動物殺して食うこと覚えたのかなあ。人類は当然のことながら食料が手に入るところにしか住めない。だから森とか海辺で暮らすのが普通だ。植物とか海産物が食えるから。でも内陸地で緑も豊かでないところにも人類が行ったということは、要するになんらかの理由で追放されて、そういう場所に住むはめになったんじゃないの。その追放された人間が、ユーラシア大陸の中央部かなんかに行って、食うものがなくて、試しにというか、切羽詰って、そのへんの動物食ったら、滅茶苦茶にうまかったので(肉ってうまいもんねえ)、食い続けることにして家畜文化が始まったということなのだろう。家畜文化のために、人間がいっぱい食えるようになったんで、なおさら人間が増えて、食料が必要になって、もっと効率的に動物を育てて殺して、今や、おかげで農業も牧畜も工場生産みたいになったと。わけのわからん遺伝子組み換えの食料も出てきたと。食料保存のために、めいっぱい保存料もはいってしまって、いまや死体は土葬にしてもなかなか綺麗には腐らないと。

ということは、人間が仲間から追放されるということ、仲間を追放してしまうという邪気そのものが、家畜文化という邪気の再生産装置を作ってしまったということになる。人類の発祥の地はもちろんアフリカで、西洋白人って、アフリカで生まれた白子(しらこ)で、そのときアフリカの黒人に苛められて、現在の南欧のみならず、不毛な寒冷地の中部ヨーロッパまで逃げて、それがトラウマになり、時代が下ってからは、思いっきり黒人虐めとアフリカ虐めになったという仮説を、岸田秀さんがどこかで書いておられましたねえ。そうか、もとはアフリカの原初的人類が白子を気色悪がって寒冷地のヨーロッパに追い出したのが諸悪の根源か・・・と、勝手に決めつけるな。

あまり大きな声では言えませんが、豚や牛があれだけうまいのだから、きっと人間の肉はもう絶対にはるかにおいしいだろうね。一度食べたら、やみつきになるほど、麻薬的にうまいだろうね。それほどにもうまいということが、まずいんだよね、きっと。肉の激しい美味というのは悪魔の罠なんだよ。怨念という邪気って激しく魅力的なんだ。悪魔が憑いてしまっているから、うまいんだ。あ、焼肉食いたくなってきた。上カルビとか。

ただし、私は菜食主義者でもないし、環境保護論者でもないし、動物愛護活動家でもないです。こんな西洋社会が生んだegg-headedな連中は、とっくの大昔に神道や仏教が理解して実践していたことを、遅ればせながら気づいているだけの遅れてきた連中であって、自分たちの文明の野蛮極まりない残酷さに自覚も反省もなく、えらそうに御託並べているだけだ。こいつらは、今までどおり腐った肉でも食ってればいいんだよ。そうやってさっさと滅びろ。

さて、いつもながらの大人気ない悪態はさておき、なんか、『不食』といいAnimal Farmといい、私は、最近「人間の霊性」ってことを考えさせられるはめになっているのでありますよ。ほんとうに人間が霊的存在だと、あなた、やばいですよ。こんな恐ろしい事実はないですよ。第3次世界大戦なんか怖くないよ。天変地異なんか怖くないよ。北朝鮮の核兵器なんか、どうでもいいよ。

ということは、こういうことですよ。人間が霊的な存在だとしたら、出世したって、金儲けしたって、知識や技能を獲得したって、幸福になれないということなんだから。空虚さがずっとつきまとうということなんだから。霊的に向上して、その状態を維持し高めてなければ、本当には満たされないというのは、怖いことですね。

だって、ちょっと想像すればわかるではありませんか。敏腕俊英の官僚になるよりも、無名の志の高い篤農家として人生をまっとうするほうが、はるかに難しいってことは。誰も幸せにしないし、誰の認識も広げない駄文書き散らしている文化人になるよりも、日々の家事をこなして誰にも迷惑をかけず静かに自立している主婦として人生をまっとうするほうが、はるかに難しいってことは。賢しらに批判ばかりしているよりも、感謝して満足して無駄口たたかず生きるほうが、はるかに難しいってことは。それも努力してそうなったのではなくてさ、楽しく自然にそうなっていなきゃいけなんだから、こんな難しいことないです。

「お勉強はすっごくできるけれども、とりあえずの仕事能力はあるんだけど、人柄はすっごく他愛なくて浅はか」って例は、履いて捨てるほどあるという事実から考えても、霊的な向上というものの実現の困難さがわかる。

何か事件が起きて、当事者の会社とか組織の長がテレビで映し出されると、「へ〜〜こんな、人品卑しい顔した人が、社長?会長?こんなんがトップなのお?とことん当事者意識のない顔だよねえ!というか自分のほうが被害者だとふてくされて思っている顔だよねえ!」と思うこと多いじゃないの。そういえば、テレビに映っていたあの花束持ってウロウロしていた鉄道会社の社長さんの顔は、かつての勤務先の女子大の学長だった奴の顔を思い出させた。その学長というのは、東大の教育学部出てハーバードで学んで、かつてはICUの教授だったとかいうクリスチャンの教育哲学者であったが、この人物は私がいままで出会った人間の中でも最悪最低のひとりだったな。あ〜思い出すだけでもおぞましい。

大友克洋の名作コミック『AKIRA』の内容は、簡単に言えば、人間の潜在能力はすごいのだけれども、超能力というのは人間の内部にあるものなのだけれども、人間の精神が、その能力に追いついていないから、その能力を覚醒させてもしかたないんだ、どうせ悪用しかできないんだ、というようなものだった。だから、絶対的超能力者AKIRAは封印される、というようなものだった。

実は、『AKIRA』の内容は転倒しているんじゃなかろうか。超能力に人間の精神が追いついていないということではなくて、人間の精神が本当に覚醒して、霊的に飛躍的に向上したら、超能力は人間の内部から自然に出てくるのではないの。つまり、食べなくてもよくなるんじゃないの。食わんでも生きていけるのではないの。AKIRAは、十字架にかけられなかったキリストとか、曼荼羅に描かれなかった釈迦みたいなもんかもしれん。

そういえば、『水源』のハワード・ロークは水は良く飲むが、あんまり食べないと、第2部の冒頭あたりに書いてあった。だいたいあの小説には、あまり食の場面は出てこない。主要な登場人物たちは、みな痩せている。肥満は堕落とか衰退の記号みたいだった。あの小説の主人公たちの激越さって、実は無神論者アイン・ランドの自覚せざる「霊的なる存在としての人間」観の表れかもしれない。この人、自分では気がついていないのだけれども、因果論者でもある。「私は何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな不幸な目にあうの!」と嘆く人間の不幸は、かつて無自覚にその人間が犯した罪と搾取の結果であるという発想をしている。『肩をすくめるアトラス』の中でね。そのへんのところは、次の機会に書きます。

私は、はっきり希望します。食わなくても生きていけるようになりたい。

「運動会すわり」して腰を下ろして脚を曲げると、出腹がつかえて苦しい、という理由もあるのだけれども、食わないで生きていけるのならば、働かなくてもいいもんな。働かなくていいのならば、時間があるから、いくらでも本は読めるし、本は図書館で借りるか、古書店回りすればいいしさ。食料買出しの買い物にも行かなくてすむしさ。

食わなくてすむから働かなくていいのならば、今みたいにさ、しょうもない瑣末なことをめぐって夜遅くまで会議開いて平気な学内行政しか関心のないオッサン教授たちの邪気を浴びなくてもすむじゃない。オッサンたちの邪気を浴びるもんだから、私の邪気まで誘発されてしまって、足でグイグイガンガンそいつらの頭を踏んづけたくなって悶々とするということもなくなるしさ。会議室に向かってマシンガンで撃ち込みたくなるということもないしさ。

食わなくてすむから働かなくていいのならば、「授業終わってから飛行機で高知に飛んで翌朝そこの高校で講義して、また帰ってこい、ただし航空券やホテルの手配は自分でしてくれ、費用はあとで清算するから」という、事務職員からの出張講義の依頼(指令)に対して、「いい加減にしろ!他の暇な奴を使え!人のいい奴ばかりこき使うな!馬鹿もん!」と啖呵きって、乱暴に電話の受話器をたたき置きたいところを、クールに「わかりました。高校に関する資料はメイル・ボックスに入れておいてください」と言わなくてもすむしさ。

食わなくてすむから働かなくていいのならば、男の教師には低姿勢なのに、女性教師相手だとなぜか邪険に慇懃無礼になる生協の売店で働くパートの奥さんに、「あんたが低収入のパート勤務なのは、若い頃に勉強しなかったからだよ。しょうもない化粧や遊びなんかにうつつをぬかしていたからであって、私のせいじゃないよ!八つ当たりするな!」と言いたいのを我慢することもないしさ。

食わなくてすむから働かなくていいのならば、就職活動で忙しいという理由から授業は無断欠席続きのくせに、たまに出席かと思えば遅刻で、それでも便宜を教師が図って当たり前だという感じの厚かましい学生に、「あんた、4年生は就職活動で忙しくなるとわかっているくせに、なんでこんな出席が大事なクラスに登録しているんだ?必要単位は3年生修了時までに取っておいて当然だろうが?馬鹿じゃないの?そんな馬鹿を雇う会社がどこにあるか?ヘラヘラ愛想笑いしたって気色悪いだけなんだよ!」と言いたいのを我慢しなくてすむしなあ。

食わなくてすむから働かなくていいのならば、笑顔と返事の良さと要領だけで、面接官のオッサン教授だまくらかしてAO入試で入学した厚化粧の学生に、「あんたは、卒業したら本など一冊も読まずに何も考えずに、携帯電話とテレビで暮らしていく人間ですから、つまり内面とか精神性のない人ですから、ほんとはここにいてもしかたないんだけど、暇をつぶすだけの知恵も行動力もないのだから、ここに籍を置いているだけであって、暇つぶし場所確保代金としてここに授業料は払っているのだから、それは私の生活費にもなっているわけですから、私としても一応は最低の成績で単位を出しますんで、あとは静かに黙ってひっそり世界の片隅で生きながら死んでなさい。いっさい世間に迷惑はかけないようにね。あんたは、あくまでもゾンビーなんだから」と言いたいのを我慢できるしなあ。

そうだ。食わなくてすむのならば、働かなくてすむんだし、働かなくてすむのならば、こんな悪態つかなくてすむんだ。食わなくても生きていけるようになるためには、霊的に向上しなくてはいけない。 

ああ〜〜これは、あなた難しいですよ。人生最大の難関であります。そうか、私は、人生最大の難関にさしかかってしまったのだ。だから、最近の私は、浮かないのか。これは、私の人生で最後の最大の難関なんだ。ここを通過しないと、私はほんとうには幸福になれないんだ。ここを、誤魔化して逃げると、私が足でその頭を踏んづけてやりたい連中と同じような、邪気を振りまいているだけの、生きているだけで迷惑な年寄りになるしかないのだ。意味のない論文書いて意味のあるようなことしている気分になっている、悲鳴を上げたくなるほどの馬鹿学者やっているしかないのだ。これから、じょじょに壊れていくしかないのだ。

いや、あなた・・・壊れている人って多いですね・・・ねえ?

しかし、きちんとやり通せば、食わなくても生きていけるような解放と自由が手に入るんだな。死ぬときは仙人ぐらいになっていないと面白くないよね。

あ、若い人は「人間は食わなくても生きていける」なんて本気にしては駄目ですよ。若い人は、とことん実社会で苦労しなければ、いろんなことが学べません。まず食ってください。大いに食ってください。食うために働いてください。そうして苦労してください。苦労して学習してください。苦労して学ぶために、大いに食うのです。腐った肉でも、添加物でも何でも食ってください。どんどん動物の怨念を溜め込んで頭も心も病気になってください。それが、学ぶことにつながります。

といいながら、昨夜のゼミコンパで、私は食いすぎたようである。霊的な向上への道は遠いようである。