アキラのランド節

若い人にうつ病が増えているってね? [6/12/2005]


先日の6月8日の水曜日は、勤務先から歩いて5分くらい先の場所に借りている部屋を朝の7時に出て京都に出かけて、「国際ジョン・スタインベック学会」に少しだけ出席した。アメリカ人の比較文学研究者で、The Ayn Rand InstituteのメンバーでもあるShoshana Milgram Knappさんによる、スタインベックのEast of Eden(『エデンの東』)がアイン・ランドのThe Fountainheadから影響を受けていると論じる発表を聴くためだ。説得力ある根拠がいくつか提示された明快な発表だった。

『エデンの東』においては、「人間の自由意志による選択の自由を旧約聖書の神は認めている」と主要な登場人物(トラスク家の中国人の下男リー。このリーは下男ながら大学出で有能聡明で教養も豊かであるが、映画版ではこのキャラクターは影も形もなかった。人種差別だ!)が語るシーンが重要だ。だから、私は「スタインベックは、ランドばかりではなくて、ハイエクやミルトン・フリードマンの本からも影響を受けているのではないか?」と質問した。「付け焼刃の根の深くない影響だから、テーマと人物造形やプロットが、うまく結びついていないのではないか?だから、結局、極めて面白くはあるが、何が伝えたいかは不明曖昧な小説になっているのではないか?」とは質問しなかった。そんなこと、ジョン・スタインベック学会で言えません。

数年前に「日本ウイリアム・フォークナー協会」ってとこのシンポジウムで「フォークナーは大衆が嫌い」って当たり前のことを言ったときに、そのフォークナー学会の会員の方に「いやあ、素人(=フォークナー研究者じゃないってこと)だから言えますよね〜」と言われたし、「フォークナーが大衆が嫌いだなんてそんなことない!」とブチブチ言っているオッサンもいたな。「大衆が嫌い」だと悪いの?南部の故郷の郵便局に勤めながら、帰宅したらセッセと小説書き溜めていた旧家出身の誇りはあるが金のない男が、大衆を愛しているはずがないでしょう〜が。世間とか大衆に対して相当な恨みつらみがないと作家になんかなれるもんか。

いや、みなさん、『エデンの東』を読めば、『水源』の影響下にあるということはすぐわかりますよ。だって、かなり唐突に作品中に、アイン・ランドが書きそうなことが長々と書かれているんだから。この唐突さに、借り物性が露呈しているのです。

午後に教授会とか他の会議もいろいろあったので、やはりさぼれなくて、Milgram教授とは休憩時間と短い昼食のときだけしか話せなかった。そしたら、彼女が13日の月曜日に愛知県の「明治村」にフランク・ロイド・ライトの建てた「帝国ホテル」を見に出かけると言った。ひとりで。私は、月曜日に予定していた八尾市にある教育実習校訪問を翌日の火曜日午後に延期して、彼女を明治村まで案内することにした。私も、ひさしぶりに明治村見たいしなあ。しかしひとりで行くなんて冗談じゃないよ。まったく日本をなめているな、アメリカ人って。英語の標識なんか、あたりまえみたいに、「どこでも」わかりやすく用意されていると思っているんじゃないの?「どこでも」英語で話してナントカなると思っているんじゃないの?まあ、実際には何とでもなるんだろうけどさ。

あ、今日はこのことを書くわけではないのであります。その国際学会が開催されていた京都に行くまでに車中で読んでいたThe Big Issue(『大きな出来事』とでも訳すのか?大事件?大問題?特別号?)というホームレスの人々の支援雑誌に書いてあった記事のことに触れたいのであります。

この雑誌は、東京圏や関西圏の大きな駅とか繁華街で立っている販売員から購入する(名古屋では見たことない)。一冊200円のうち110円が販売員(=経済的に自立したいホームレスの人)のものになるので、買えば、自動的にホームレス問題解決のささやかな一助になる(かもしれない)ので、買ったほうがいいよ。内容も面白いし。イギリスの同名雑誌の記事からの翻訳もあるけれども、日本の国内問題の特集もあります。で、6月1日号(29号)の特集は「若者は没落するか」だった。

要するに、英国でも日本でも、20代や30代の失業率が高くて、運がいいはずの「正社員」はものすごく仕事がきつくて、健康を害して「うつ病」になっている人々が多い(英国の20代の3人にひとりは、うつ病だとか)し、経済的な理由で結婚生活がうまくいってない人々も多いのだそうだ。で、なんで今の若い人たちが、うつ病になりやすいかというと、Help-Seeking Behaviorが下手なんだそうだ。「他愛のないことを話せる友達はいるけれど、悩みを打ち明けたり、人生を語るような友達がいない」んだそうだ。

そうかなあ。そんなことが理由かなあ?

悩み打ち明けて人生を語って共感してくれるような親友なんて、若い頃にはいないほうが普通じゃないの? 若い頃なんて、たとえ知能指数は高くても、情緒指数は低いし、頭でっかちで経験はないし、自分も同世代の友人も「余裕のない馬鹿」どうしっていうのが、自然でしょ?「ひとりでいられないんで、つるんでいるだけ」っていうのが実情でしょう?友人たって、単なる利便的な情報伝達機能だったりするじゃない?ありていに言えば、そんなもんじゃない?だんだん年を経て経験も重ねて、他人に共感性も出てきて、結果的に親友ができていた・・・・というのが現実でしょ?できないならばできないでも、どうってこともないし。

地方の父母会の集まり(こういう仕事もあるんだよ)に出席すると、学生の母親で「うちの子は友達が多くていつも仲間といっしょで・・・」とダラダラ自慢するのがいる。私は、「それはいいですねえ!」と答えるが、内心は、「おたくのガキは単に孤独に弱いだけ。回りの学友なんか内心では馬鹿にして、こんな連中とつるんでいても向上はないんだ!と思っているくらいの男の子でなければ、見込みはないよ〜」と思っている。また反対に、「いつも図書館にばかりいるみたいなんです。友達いないみたいで心配です」と言う親御さんには、「ご子息は、健全な学生生活を過ごしておられますね」と、私は答える。「10人の馬鹿友よりも1冊の良書」というのも真理である。

それはさておき、今の若い人にうつ病が多い理由は、単に野菜不足で朝早く起きないということだけが理由かもしれない。早起きで健康だと、しょうもないこと考えているよりも外に出たくなるし、何かしたくなるし。健康ならば、どうしたって体を動かしていたくなるから、賃金の安いアルバイトでもいいから、したくなるだろうし。 私は、若い人にうつ病が増えている大きな理由のひとつは、若い人が相対的に「優等生」傾向が強くなっているからだと思う。かっこ悪い駄目な自分を受け入れられずに、許せずに、きちんと「優等生」やってしまうからだと思う。そういう心性を培う文化の中に育ってきちゃったもんねえ。

うつ病というのは、能力の高い人がなるらしい。責任感が強くて、努力家で生真面目な人がかかりやすいらしい。ということは、うつ病が若い人に増加しているというのは、否定的なことではなくて、今の若い人たちのまっとうさの表れである。人類の進化の顕われでもある。ただし、嘘のうつ病患者も多いらしいけれど。またそれを見抜けない間の抜けた医者も多いようで、こういう「嘘うつ病患者」は、他人を責めて、厚かましくも家族や同僚に自分への理解とか奉仕とか忍耐を強いる。あ、うちの同僚にもいますわ、こういうの。しかし、真性うつ病患者は、ちゃんと自分を責める。それだけ良心的な人、無謬完璧な人でありたい向上心のある人がなるのが、ほんとうのうつ病。

今の20代や30代って、家庭でも教育現場でも、表面的には優しい人権に配慮した平和的な「話し合いましょう〜」みたいな学級会的民主的ムードが横溢した環境で育っている。私の同僚でも、30代あたりの人って、けっこう教条的で真面目で、会議でも「正論」を述べる。昔の男みたいに、「まあまあ、なあなあ」みたいな融通無碍のいい加減さが希薄だ。セクハラ問題でも本気で怒っている。すっごくいい人たちです。清潔感あふれる好男子ばかりなんよ。女性を馬鹿にもしないし。私なんかは、「あほらしい。男なんか半分は痴漢に決まっているんだから、ぼんやりした女なんか、ろくでもない目にあうに決まっている。オッパイ大きく見せるブラジャーしておきながら中学生の女の子みたいな気分でいるんじゃないよ。いちいち、そんなことで傷ついている暇があったら、怪文書でも流してその男に復讐してやれ。<2ちゃんねる>に書いてやれ」と思っているくらいで、実は正義感もないし、被害者に同情心もないし、差別意識丸出しです。ましてや正論を理路整然と述べる頭もないし、清潔感なんて身辺に漂わせる気なんか全くないです。

こういう正論というのは、前は女の専売特許だった。最近は男も言う。これは、明らかに男性の進歩である。ただし、正論を滔滔と述べるのだから、自分が責任を持ってその正論を実現するべく動くのかなあと思えば、要求するばかり、批判するばかりで、泥をかぶる気はないし、「じゃあ僕がやります」ということでもない。ここあたりも、かつての女みたいだね。そういう自分たちの「常時評論家」みたいな姿勢に対する自覚がない。やはり、こんな男では、教師になるしかないよなあと、この種の「清潔感あふれる正論を明確に言うが、現実にはその正論を実践するには泥かぶるはめになるけれども、それはしたくないご清潔な優等生」を、私は内心では、はっきり馬鹿にしている。本人たちが、ほんとうに善意で真面目であるから、余計アホらしい。皇太子でもあるまいし。グダグダといつまでもサボって仕事しない女房なんか怒鳴りつけてやればいいのに。何の話か?

ところで、ともかく、この種の良心的な人間は、うつ病にかかりやすいだろうなあ〜と思う。だって、いくら論評したって、批判したって、現実はえげつないし、人権も正義も平和も言論の自由もない。男女共同参画もないし、民主主義もないし、大学は本気で学生の教育などする気はなくて改革ごっこやっているだけだ。教育も研究も学内行政も本気でしないで、60パーセントくらいで誤魔化して、器用に改革芝居を演じとおすことが定年まで働き続けるということなのだ。それでも、数センチずつは向上している。いろいろ批判はあるけれど、30年前と比較すれば、大学の学生に対する教育サーヴィスは向上している。昔は、もうほんとうに、もっといい加減でデタラメだった。セクハラなんかし放題の馬鹿大学教授はざらにいた。

まあ、かくのごとく、少しずつではあるが、まっとうになりつつある世間でも、世間は世間だ。やっぱりろくでもないです。こういう「世間の現実」に曝されながら、その現実を受け入れず、悶々と無謬完璧な自分でいたいと思えば、うつ病になるよね。

私が大学院生のころに、セクハラし放題みたいな教授がいたが、当時はセクハラという言葉もなくて、こいつの顔色を伺って、大学院生はヒヤヒヤしていた。別に殺されるわけでもないのに、恐れてご機嫌をとりまくっていた。こいつは、ほんとうにしょうもない人品卑しい奴ではあったが、保身には狡猾で、かつ人の論文や発表の不備をつくことだけは悪魔的に鋭く有能だったので、その点においては、私はいい訓練を受けることができたと思う。感謝&多謝。まあ、知能は高いので、教員養成所としては日本最高の東京の有名国立の大学院を出たのに、田舎の私立大学に流されて、とうとう東京にもどれなかったから、鬱屈・鬱憤が多かったんだろうなあ。あの教授と同じ年頃に自分がなってみて、いかに彼が「幼稚」で「未成熟」であったか、よ〜くしみじみわかる。あんなんでも世の中渡ってゆけるのだから、人生を怖がる必要など全くないよなあと、妙な安心もする。

大学院生のときに、この種の人間をしっかりとっくり観察できたので、その後に就職して、ろくでもない同僚にどれだけ大量に遭遇しても、私はびっくりしないですんだ。例の教授のおかげで、自分の業界の人間に対する期待値が正常に正当に低くなっていたからだ。感謝&多謝。

根に持ちやすい私は、今でも、この教授と、こいつに媚びへつらっていた連中が嫌いだ。「お前らの人間は見たぞ」という気分だ。私は、こいつなんぞの世話にならなくても専任の職は見つかるし、こいつの還暦記念出版の論集になんぞ書かなくてもいい、威張りくさってはいてもたかが田舎の私立大学の教授なんだから、なにもできやしないと思って、礼儀は保持しつつ無視していた。他には私みたいな「いい加減で傲慢で自信過剰で傍若無人な」院生はいなくて、当の教授はもちろんのこと、先輩や同輩や後輩や他の教授たちからも、私は、しっかり影で嘲笑されていた。

そういえば、くだんの教授に気を使うあまりにノイローゼみたいになって(今で言えばうつ病かな)、自殺した女子院生もいたよ。この人は、私なんかより、ずっと優秀で真面目で純な女性だった。この人は、「人の悪口は言ってはいけないわ。先生は学生のことを思って言ってくれるのだし」と、あくまでも優等生だった。私は、平気で悪口いいまくりだったけれども。

うつ病を治すには、ひとえに「いい加減に傲慢に自信過剰に傍若無人になる」ことにつきますね。黙って静かに無抵抗に「いい加減に傲慢に自信過剰に傍若無人になる」ことですね。で、世間をあまりに大きく考えないことですね。怖がらないことですね。世間って、どうしようもなくいい加減ですが、意外と公平だったり温かかったりもしますから。捨てる神あれば拾う神ありですから。何とでもなりますから。

私は、ほんとうは、資質的には「うつ病」にかかりやすい人間だと思う。かなり神経質で不器用で要領が悪くて物覚えが悪くてひ弱だ。ついでに善良である。自分を責めやすいし、向上心が強いから、自分に対して見栄っ張りだから、自分のアホ無能な状態が辛い。劣等感は大量だ。こういう資質は、世間のなかに、そのまんま、放り込まれたら、かなり不幸になりやすい。もし、「良心的で常識ある立派な」親に育てられていたら、この資質が増幅して、ろくでもないことになっていたのではないかと思う。私が、なんとかこの年までやってこれたのは、ひとえに私の「育ちの悪さ」のおかげである。

私の親はふたりとも、まったく模範的な人間ではなかった。よきにつけ悪しきにつけ、ふたりとも、あまりに正直な人たちだった。結果として、私の「神経質で不器用で要領が悪くて物覚えが悪くてひ弱で、ついでに善良」な資質は、人生の最初の段階から、親の矛盾むき出しの正直さに翻弄されて、素直に大事にスクスク育まれることには、ならなかった。

私が学校の教師の理不尽な態度に対する不満を家で話すと、父親は「教師なんか、まともに相手にするな。教師なんてものは気の小さい奴がなる。その程度のもんだ!ほっとけ!」と言った。それで終わりである。慰めてくれるわけでも、かばってくれるわけでもない。私は「そうか、センセイなんて、まともに相手にするようなもんじゃないのか。ならば親に言ってもしかたないなあ」と思うしかない。学校生活の悩みなんか、それ以降は、親に言うことはなかった。

そのくせ、この父親は、ちゃんと私の担任の教師に中元や歳暮は贈るように手配する。「こういうことはしておくもんだ」と言う。そのくせ、父親は担任教師の名前も性別も知らない。だから、私は「まともに相手にしてもしかたない人間にも、一応は敬意を払うふりはするもんなんだな。形だけで心がこもっていなくてもOKなんだ」と思うしかない。

大学生のとき、教員免許取得のために教育実習に出かけた高校の男子学生の猥雑さ、卑猥さを私が愚痴ったとき、父親は、「男なんて、ろくでもないことしか考えていない。ほとんどが痴漢みたいなもんだ。まともに相手にするな!」と言う。「夜遅く帰るときは、いくらかかってもいいからタクシーで帰れ」と言う。だから、私は「そうか、男のほとんどは痴漢か。そんなもんに時間使っても気を使ってもしかたないな。タクシー代もったいないから、早くさっさと帰ろう」と思うしかない。帰宅して親の顔見ていてもしかたないんで、だから家で本でも読んでいるしかなくなった。

また、父親は、「ホステスや飲み屋の女じゃあるまいし、愛嬌なんか女の子にいらない。色気なんかいらない。殺気で十分。ツンツンしているくらいで丁度いい。男にお茶なんか煎れなくていい」とも言った。だから、私はすこぶる愛想の悪い女の子になってしまって、もてることはなかったが、セクハラにもあわず、男に人生を狂わされることもなく、貴重なる時間を侵食されることもなかった。ついでにお茶は自分が飲むついでにしか煎れない人間にもなった。こういう人間だから、自分が基準になっているから、他人にサーヴスされると、ありがたくて、嬉しくて、びっくりして、サーヴィスされるがままになる。細木数子流に言えば、私は「最低の女」であります。

母親は、「嫌い!」という理由で、父親の親戚と付き合わない。実の母親(私の祖母)が入院しても、「病院って臭いから嫌い!」とめったに見舞いにも行かない。近所付き合いも最低限しかせず、他人には無関心だった。手紙もらっても、面倒だからと言って返事は書かない。私は見かねて、中元とか歳暮の礼状とか、年賀状くらいは書くべきだろうと、母の代筆をしていたくらいだ。法事に親類の家に出かけても、「面倒くさい」という理由で、な〜んも手伝わない。専業主婦なのに、今日は作りたくないからという理由で、夕食が店屋物になることは少なくなかった。お弁当は作ってくれたが、メニューに多様性は全くない。4パターンぐらいの反復である。一度でも褒めると、そのメニューが毎日続くんで、うっかり褒めることができない。「なんで女が働かないといけないの?男が働いて女の面倒見るのは世界の前提。責任はみんな男がとって女は気楽に遊んでいるのが世界の前提」ということで、亭主に感謝するような殊勝なところは、さらさらなかった。掃除や洗濯は生理的に好きだったようで、せっせとやっていたが、四角い部屋を丸く掃くという趣で整理整頓はしなかった。化粧はやたら熱心で時間をかけて身奇麗にしていたが、センスははっきりと悪かった。センスがいいか悪いかよりも、似合うとか似合わないよりも、自分が着たいものを頑固にも愚かにも着る。厚化粧はしまくる。テレビは、一日中つけっぱなしである。ただし、亭主や子どもに干渉することはない。なんか、軽度の知的障害者かもなあ〜と、私は思っていたくらいである。

これくらいに「できの悪い無関心な軽度の知的障害者的母親」のほうが、子どもにとっては気楽である。あんまり健気に頑張ってもらっても、うざいだけだ。重いよ。赤ん坊や幼児の頃はいざしらず、それ以上の年齢のガキに手をかけてもしかたないよ。

うちの父親は、子どもの頃に実の母親を亡くしているし、継母さんと相性が悪かったので、女に対する期待値が低かったのか、世間一般の伝統的女性像に無知だったのか、こういう女房に文句を言うこともなく、「機嫌さえ良ければけっこう」という感じだった。つまり、父親は「家庭」というものに固定したイメージがなかったようで、家族の成員が「健康で食べて眠って好きにして笑っていればそれでよし」という、雑駁で単純な把握しかしていなかったようなのだ。よその親みたいに家族写真も撮らないし、家族旅行もしないし、家族団らんも気にかけないし、子どもの進路にも、親としての希望とかイメージとかもなかったみたいだ。「金は出すから、好きにしたら」という感じだった。子どもの結婚とか結婚相手にも関心がなかったみたいだ。ただ結婚というものは、しておいてあたりまえの行事だから「28歳までにはしておくもの」で、してしまえば結婚生活の内実は問わないという考え方なんである。フェミニズムへの理解とか、そんなものさらさらないのだが、私にも妹にも好きにさせてくれた。私が結婚するとか言ったら、「お前の腹は決まっているのか。ならばそれでいい」と言うだけで反対も賛成もしない。結婚相手やその実家のことを、とやかく論評することもない。「家族が増えた!」なんて感動はさらさらない。

私の両親は、一見ものすごく平凡な、もの静かな人々だったけれども、はっきり言って、そのキャラは変人奇人の類だった。「異常に正直」であるということだけで、この世の中では、十分に変人奇人ですわ。

母は、「ほんとは子ども欲しくなかったんだけど、できちゃんたんで」と平気で私に話し、私や妹が生まれた時間も覚えていなかった。父は、「息子でなくてよかった。女の子だから頭悪くても生きていけるし」と言って、かなり早くから私と妹のできの悪さを人生の現実として受容し、それは遺伝子の問題であるからしかたないと諦めていたようだ。父は大正生まれで、母は昭和一桁生まれだったが、なんかいまどきの若い親にもないような、ケロッとした、あっけらかんとした明るいドライな感じがあった。

私は結婚して初めて、結婚相手の実家を見ることによって、世間一般の家庭というものを知ったのである。普通の家族は、「家族ごっこ」を努力して演じているらしいと知ったのである。普通の日本の父親とか母親というものを見たのである。心優しく細やかに気を使いあって暮らしているのが家族だと知ったのである。優しくはあるが、干渉がましく押し付けがましく余計なお世話みたいなことも多いのが家族だということも知ったのである。一家の主婦という存在は、親戚縁者近隣との交際の要となって気を配る者であるし、日本の夫というのが、かなり妻に心理的に依存した存在であるということも知ったのである。親が子どもを褒めるというか、親は自分の子どもを「できがいい」と本気で思っているのが普通だということも知ったのである。

いわゆる良心的なまともな自覚的な教育熱心な心優しい気遣いの多い親に育てられていたら、私の資質は優等生的なものになっていた可能性が高い。生来の私の資質からすれば、私は、かなり人に気を使い、世間のことを思い煩い、人様にサーヴィスすることに気を取られて、自分のことはおろそかになりやすい生真面目な努力家の心優しい健気な女性になるはずであった(と思う)。しかし、父親と母親の「意図せざる(無)教育」のおかげで、私は、「最低限の世間体は維持しながらも、あとは、適当に好きなことだけしていよう。自分が気分が良くて無理しないのが一番大事。あとのことはどうでもよろしい。どうせ世間なんか滅茶苦茶でろくなもんじゃないんだから、本気でつきあうことなし」という乱暴な「ひねくれた」世界観を持つズボラな人間になったのである。

うつ病にならないために、みなさん、「いい加減に傲慢に自信過剰に傍若無人」になりましょう。あなたがいなくても世の中は何とでもなります。だから世の中のことは気にかけることないです。しかし、あなたがいなくては、あなた自身の生はまっとうできません。あなたは、あなた自身の人生にだけ全面的責任があるのです。他には、誰もあなたの人生には責任がありません。あなたは、どうしたって、いい気分で楽しくなければいけません。他人を楽しい気分にさせるのは、ついでに、気が向いたら、そうすればいいのであって、まず自分がいい気分でなければしかたないです。

今の若い人たちは、あんまりほんとうには自分のことを大切にしていないんだよね。偽善的な心優しい教育なんかを、家庭でも学校でも真に受けてきたからね。他人の期待に沿うことばかりしてきて、モデルとかお手本に自分を合わせてきちゃったんだよね。素直というか、疑わないというか、心清らかというか。そのくせ、あんまり自分の人生を信じていないよね。情報化社会だと、情報に自分を合わせてしまうんだよね。それだけ、ほんとうにいい人たちなんだよね。自分の存在の小ささを、もろ謙虚に直視して受け入れてしまうんだよね。直視して受容するだけでは、現実は乗り越えられないんだって。それでは、単なる「世界内存在」で終わるの。その先は、確信犯的に自己欺瞞を行使して、飛翔しないとさあ。

つまり、世界の中の宇宙の中の卑小なる自分を直視できた自分の大きさに感心するべきなの。感心していいの。直視できた自分の心は、世間や家族やクニやカイシャやガッコウ全部に独りで対峙しているんだから、実は世間や家族やクニやカイシャやガッコウ全部あわせたよりも大きいと思っていいの。私の心は宇宙よりも大きいんだあ〜〜!という具合に、ここで華麗なる自己欺瞞に陶酔していいの。そんな大きい自分が、この世の中のややこしさと不如意に負けるはずがない。そう思っていいの。思っても、無料だし、税金もかからないし。

「いい加減に傲慢に自信過剰に傍若無人」でいることの結果は、全部自分が負うんだから、時々は、自分の負える量を測っていれば、暴走することもない。一人で静かに「いい加減に傲慢に自信過剰に傍若無人」でいたって、意外と実質的には人様の迷惑にもならない。嫌われたって、ひとりやふたりは好いてくれる人が出てくる。だって、よくこんな奴の女房とか亭主をやる奇特な人間がいるなあ〜重度のマゾヒストなんかなあ、こいつの遠い先祖で世のために尽くした人がいて、その先祖の遺徳が、わずかにまだ残っているのかねえ?〜〜とか思わされるようなことは多いではないですか。

だって、さっき書いた、私が大学院生のころに遭遇するはめになった例のアホ馬鹿不細工下司セクハラ教授だって、少数ながらも学生のなかに信奉者はいましたからねえ。ほんと、どこにでも誰にでも、アホ馬鹿不細工下司セクハラ教授にも、光はあたる。神様はいますよ、ほんと。ラーメン。