アキラのランド節 |
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あれから1年が経った [7/2/2005]7月が来た。あってもなくてもどっちでもいい役所である文部科学省がグチャグチャと干渉するので、私立大学も年間最低30週は授業をしなければならなくなって、今年度から7月下旬まで授業はある。夏季休暇に入るのは8月上旬で、秋学期は9月半ばに始まる。夏季休暇中にAO入試のような「愛嬌はあるがIQはないみたいな高校生」向け入試や、オープンキャンパスなんていう一種の「内覧会」も何回も開かれる。その日は、チア・ガールのパーフォーマンスも何回も披露される。若い女の子の軍団の健康的な白い太ももが大空に向かって高く上がるのを見物できる。 どうせ、アメリカの真似するのならば、冬休みも春休みもやめて、9月新学年始まりで、6月&7月&8月は完全休暇にして、教職員はその間に入試作業をするなり研究するなりして、学生はインターンで教育自習なり、企業実習なり、資格取得学習をみっちり行うということにすればいいのに。日本の夏なんか、悪い頭が余計に悪くなるような類の高温多湿のしょうもない気候ではないか。もうこの点においてだけでも夏でも快適な北欧や北米北部に負けている。エアコンなんか、冷えすぎるか暖かくなりすぎるか、どっちかではないか。こんな時期に、面白くも何ともない授業を、じっと腰掛けて耐えるとは、学生も迷惑なことである。しかし、その忍耐力こそが、社会の現場に出て役に立つ資質なのかもしれないが。 まあ、教師は(というか私は)、金にさえなるのならば、酷暑だろうが、厳寒だろうが、地震だろうが、授業しますけどね。 ところで6月は、いろいろ忙しかった・・・・先週末の6月25日は京都・滋賀地区の某ホテルで、6月26日は金沢・北陸地区の某ホテルで、教育後援会(父母会ですわ、つまりは)があったので、泊りがけで出張してきた。私の担当は、カリキュラムと単位履修と成績表の説明だ。要するに、「大学なんてところは、長々といてもしかたないので、サッサと4年間で必要単位を取って卒業するよう、ちゃんと<お子さん>に真剣に申し渡してください。卒業に必要な単位数は124単位です。1年生終了時に最低33単位、2年生終了時に最低66単位、3年生終了時に最低100単位とっていないと、卒業は難しいし、就職活動に集中できません。留年率は19パーセントですから、甘く見ないでください。留年が伸びるほど卒業率は低下します」ということを、話すのである。 もちろん、大学の父母会の出席者の数は少ない。たたでさえ少ないのに、年々歳々、さらにその数も減りつつある。せいぜい集まっても30名にも満たない。それでも、「学費出資者へのサーヴィス」として毎年実施する。 こういう父母会に出席する類の親御さんというのは、大学生にもなった子どもが気にかかってしかたないタイプの方々だ。「口うるさく干渉する」タイプか、「ついつい甘やかしてしまって、子どもの尻拭いをしてしまう」タイプかどちらかであり、どちらかといえば子どもになめられている親御さんである。子どもとは共依存の関係にある親御さんである。自分の人生に忙しくてガキのことなど構っていられないという方々とか、もしくは、金も余裕もあるから、ガキなんか遊ばせておいても構わないという剛毅な方々とか、「今後は、自分の老後の準備をしたいから、もう子どもに構っていられないから、4年間の学費は出すが、あとは自活するように」と迫力を持って、子どもにキッパリと言い渡し、かつ実行できる方々とかは、大学の父母会にやって来ない。 だからこそ、3年生終了時に100単位取得していないガキは責めまくらないと、非難しまくらないと、ヤバイということを話すのである。学費出資者なんだから、注文する権利と義務がある。ガキから搾取されるがままになっていてはいけないのだ。 だけどさ、出席者の父母の方々の質問に、内心むかっとくることもある。 たとえばさ、「うちの娘は文学部の国際文化学科っていうところの学生なんですが、この国際文化学科って何するところでしょうか?就職はどういうこところがあるんでしょうか?」って聞かれるとさ、「それほどに就職が気になるんだったら、なんで子どもが文学部に行くことなんか許したんだ!?」と怒鳴りたくなるんだよね。 私は高校での出張講義では、いつも最初に次のように言う。「文学部に進学するのは、よほど考えてからにしましょう。文学部を出ても食ってゆけません。家が金持ちとか、親の遺産が転がり込むのは確実とか、金持っている男の妻になる予定が確実とか、そういう食っていくための手段が確保されている方々は、どうぞ心置きなく文学部に進学してください。文学部とは、かつて夏目漱石が言った<高等遊民>向き学部(ここで黒板に高等遊民と書く)です。自分でも何がしたいのか、何が好きなのかわからないし、数学ができない人は、文学部に行くしかありませんが、せめてなにか外国語を徹底的にやっておきましょう。でないと、ほんとうに食えません。ガッコウのセンセイになるぐらいしか食う手段はありません。しかし、センセイという仕事は、労多くして報われることが少ない職種です。努力すれば努力するほど負担が大きくなる仕事でもあります。金にもなりません。欲も夢もある方々には、あまりお薦めできません」と私は高校生に話す。監督の高校の先生は顔を引きつらせている。しかたないよ。若い人には、事実を伝えなければ。 まあ、文学部の他に社会学部の社会学科というのも、かなり文学部とかぶっていて、わけのわからん学問分野である。だから、「社会学部の社会学科の3年生なんですけど、社会福祉学科は何やるかわかるんですが、社会学科って何するんでしょうか?就職先はどういうところでしょうか?」という質問にも、切れそうになるな。やはり、「就職が気になるんだったら、なんで子どもが社会学科に行くことなんか許したんだ!?」と怒鳴りたくなる。 まあ、実際のところは、企業はどこの学科所属かなんてことは気にしない。有名大学在学生だと就職に有利なのは、受験勉強という忍耐と根気が必要とされる作業ができることが証明済みで、つまりそれは組織の中でもちゃんと理不尽に耐えられるし、自分の欲望に正直に生きるなんて冒険も無駄もしないということを明示しているからね。 私の勤務先の大学の学生ならば、特技を持つ学生以外は、社会性(=明るく大きな声で挨拶ができる&<ありがとうございます!>と咄嗟に応答できる&むかつくような質問されても感情を顔に出さずに自然な微笑を浮かべていられる&反応が素直で屈折がなくて、理屈っぽくなくて、上から使いやすい)が、特に要求される。だから、男子学生ならば、いかにも要領のよさそうな学生から就職は決まるし、女子学生ならば、ズバリ綺麗で利発そうな感じの陽気な学生から内定は決まる。また、いかにもオジサンやオバサンに好かれる類の学生から内定が決まる。「何考えているんだからわからないような得体の知れない感じの子」とか、「なんか変な子」は、教師の目から見れば面白いが、企業から見ればアウトだ。 店頭か窓口で、すぐに使えるタイプの学生でありさえすれば、どの学科卒業かなんか企業は気にしない。 しかし、それも今のうちかなあ。経済状況がもっと厳しくなれば、それもかなわなくなるかなあ。専門的特技がない社員なんて派遣でいいもんなあ。 わけがわからん学部とか学科とかは、いずれは、かなりの大学から消滅する運命にある。日本の大学は、旧七帝大系の「大学院大学」(研究大学)か、偏差値60以上のリベラル・アーツ大学か、様々な専門学校が集積した職業訓練学校になるか、どちらかになる。アメリカの大学に敵対的買収(?)される大学も増えるだろう。中国も噛んでくるかもしれない。 私が失業する日も遠くないな。 このHPをお読みの方で、お子さんが高校生ぐらいの方々をお持ちの方へ!もし、ご子息やお嬢さんが、「文学部に行きたい」とか口走ったら、アイン・ランドの『水源』や『肩をすくめるアトラス』を読むようにご助言ください。読み通したら、「文学部に行きたい」という錯誤は、必ず確実に治ります。そんなところに行くのは「カッコ悪い」と思うこと確実です。「きちんと現実の世の中で、何か実際にできないのは、カッコ悪い」と思うこと確実です。「きちんと、学問内容とその意義と機能を明々白々に説明できない学部や学科は、カッコ悪い」と思うこと確実です。「わけのわからん学部や学科に学費出してもらいのは、カッコ悪いな」と思うこと確実です。 あ、アイン・ランドみたいな骨太な物語を書く小説家になりたいと思ったら、藪蛇かな?小説家ではなくて、漫画家ならば、稼げる可能性あり、かもしれません・・・・ 2001年の早春に、北の窓から国連ビルが見えるマンハッタンは41丁目の一部屋しかない狭いアパートメントで、The FountainheadとAtlas Shruggedを読んだとき、私はつくづくと思ったのです。「なんで、1960年代か70年代に誰かこの本を翻訳してくれなかったんだ?高校生のときに、この小説を読んでいたのならば、私の人生は違っていたのに!こんなものの役に立たない人間にはならずにすんだのに!いつまでたっても3B(馬鹿でブスで貧乏)なんて、しゃれにもなんないよ!」と。その認識は、苦いものでありましたよ・・・ そうです。『水源』が出版されてから一年が経ちました。今までのところ、売れ行きがいいとか、話題になったとかそういうことは全くないのだけれども、私は、アイン・ランドの著作が、深く読まれる現象が日本に浸透していくのを信じて待っています。 ところで、ディズニーの子会社のピクサー製作のアニメのMr.Incredibleの製作者とか脚本家ってさ、絶対にアイン・ランドの愛読者だね。あのアニメって、まるっきり、『水源』か『肩をすくめるアトラス』のコンセプトじゃないの。特に、『肩をすくめるアトラス』のコンセプトじゃないの。 あのアニメを楽しめない人は、アイン・ランドの世界に縁がない人よ。比喩的にせよ文字通りにせよ、「カトリック」か「共産主義者」なんじゃないの?つまり、何よりも自由になるのが怖い人々だと思う。 多国籍宗教組織「カトリック」と多国籍政治組織「共産主義」って、竹内靖雄さんに言わせると同じなんだって。「共産主義はローマ・カトリックの世俗版」なんだって。竹内氏は、1992年に『正義と嫉妬の経済学』(講談社)で第一回山本七平賞受賞した方だ。『国家と神の資本論』(講談社、1995年)とか『国家という迷信』(日本経済新聞社、2000年)とかも発表している。日本における先駆的リバタリアン経済学者ですが、この方が、『世界名作の経済倫理学』(PHP新書、1997年)で、このように書いておられます。 「中世のローマ・カトリック教会は、自由と引き換えに精神を管理し、「精神安全保障」を提供した点では偉大な「精神の警備保障会社」の役割を演じた。やがて、この独占に異を唱えるプロテスタントが出てきたのはよく知られている通りである。 のちの共産党もローマ・カトリックと同じことをめざしたが、こちらはもっと端的に、平等にパンを配給することを約束し、ある程度はそれを果たした。それとともに、自由も私有財産も「回収」したことはいうまでもない。個人の政治的権利も「回収」した。この体制が崩壊したのは、人々が肝心のパンの配給が十分でも平等でもないことに気がついて、それなら供出した自由を返してもらいたい、と騒ぎ出したからである。」(『世界名作の経済倫理学』、pp147−48) また、竹内氏は、次のようにも書いておられます。「もともとマルクスもキリストも、人間の解放や救済を考えたが、共産主義の下で、あるいは神の下で、他の階級や他人に苦しめられることからは解放されて自由になったとしても、共産党や神からも解放されて自由になるということは許されないはずである。それなら自由など最初から与えることはないではないか。共産党もローマ・カトリック教会もそれに気がついたことで成功のチャンスをつかんだのである」(『世界名作の経済倫理学』、p.148)と。 私は、うちの大学の授業でアイン・ランドを読むのを諦めつつある。だって、「今の世の中は、選択肢が多すぎる。自分で考えて選ぶのは面倒くさい。三択ぐらいが一番いい」と言う中学校教師希望の男子学生がいるし、「うちは、国が守ってくれるから絶対に倒産しないからって、先輩が言うんで、そんないい会社でみなさんについてやってゆけるのか、今からわたし心配なんです〜〜〜」と言う内定した企業が(もと公社系)会社であることを、まだ内定のひとつももらっていない他の学生たちの前で自慢する女子学生がいるし。正直といえば、正直なんだろうなあ。 自由よりも、奴隷の気楽さと安定と保護を求めるのが、大多数の日本人の本音なんだろうなあ。「カトリック」は根強い。その世俗版「共産主義者」も根強い。『水源』や『肩をすくめるアトラス』が増刷されるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。 |