アキラのランド節

「教養」は21世紀の庶民の唯一安全安価なオモチャである [7/19/2005]


暑い。朝の8時前あたりから、すでにガンガンと陽が照りつけている。くたびれきっているので、3連休を一度も戸外に出ずに、『岩石図鑑』なんかを読んで過ごす。毎回の小テストの採点たまっているなあ・・・授業と補講は、やっと26日で終わるが、気分はすでに勝手に終わっている。

『水源』において、アイン・ランドがハワード・ロークの象徴として描いた「花崗岩」がどういう石であるのか、やっとわかったぞ。マグマが地中深くゆっくり冷却されてできた結晶の大きな火成岩のことを花崗岩と呼ぶんだそうだ。「地中の深いところで、ゆっくり冷える」ってのが、なんとなく、ハワード・ロークっぽいよね。そのへんの石ころより、奥ゆかしくてカッコいい感じだ。

花崗岩がどんな石かなんてこと、小学生でも知っているんだろうけれども、私は小学生の頃は教室でセンセイの話なんかなんも聴いてなかったんで、ぼんやりと窓の外ばかり眺めていたんで、つまり一般基礎教養が極端に欠落しているんで、こんな常識的なことを今頃知るだけでも、むやみに嬉しい。

先週末は、いろんな岩石の実物を、名古屋郊外の森林公園内にある岩石園で確認もしてきた。花崗岩も大いにナデナデしてきた。楽しかった。やっぱり、アイン・ランドのお墓は花崗岩だ。手触りいっしょ。

最近の私は、自然の事物のほうに関心が行き、朝の通勤で歩いていても空の具合や雲や樹とか、葉っぱとかばかり眺めている。でもさ、せっかくいい気分で、早朝のキャンパスを歩いているのに、どこかのジジイが犬の散歩を、桃山のキャンパス内で傍若無人にも厚かましくもしていて、その飼い犬の肛門が目に入ったりするんだよね。尻尾で隠すこともできないなんて、リボンつけていたって、しょせんケモノはケモノじゃ。「ペットに癒される」なんて、よほどしょうもない人生を送ってきたんだろう。ちゃんとあんたの馬鹿犬の糞の始末はしていってよ、オッサン。早朝に桃山のキャンパスを犬連れて散歩して、しょうもない置き土産なんかしておかないでよ。犬並みの人間のくせに、えらそうに私を睨むな、馬鹿。私も、殺気をしっかり送ってやった。

それはさておき、岩石が終わったら、今度は樹木図鑑とか読み始めるのではないかな。でも当分は、岩石だな。地球上で一番長生きの生き物が岩石だもんね。あの石の中には、何億年かが詰まっている。何万年かがつまっている。こんなロマンチックなことはないよね。今、一番欲しいものは、巨大な原石水晶のクラスター。高いんだよね〜〜買えません〜〜♪どこに行けば、掘れるのか?

博物学って面白いよね。ニューヨークでも、今の私は自然史博物館の方が、メトロポリタン博物館よりも好きだもんね。あそこの石のコレクションは楽しい。あそこのジオラマも見飽きない。生き物の進化の歴史をたどる展示物は圧巻です。

で、驚くんだよね、こういう自分の変化に。なんの役にも立たないし、実利に結びつくこともないのに、ただなんとなく楽しいからという理由だけで、石の成分の元素記号なんかを暗記している自分に。アキシナイトという石は、カルシウムと鉄とアルミニウムとホウ素と酸素と珪素でできているんだ〜〜と、意味もなく喜んでいる自分に。私も、やっと、目的なんかないけれども、ただただ楽しいから学ぶという、「消費のための勉強」を享楽できるようになったんだなあと、感心してしまう。

ここまで来たら大丈夫。何が大丈夫かと言うと、まあどんな境遇になっても、消費のための勉強をして、一生楽しく誰にも迷惑かけずに、ひとり遊びしていられるってこと。空の色見て、雲の形眺めて、風の音を聴いて(どこかで見たような台詞)、おにぎり齧りながら、幸福でいられるってこと。誰に見せびらかすでもなく、誰に褒められたいわけでもなく、ただただ自分の心が充足すればそれでいいという勉強のありようにたどり着いたってことに、なんかホッとしているんだよね。

ひょっとして、こういう状態こそが、人知れずさりげなく勝手に贅沢に「教養人」なんかもしれんと、うすらぼんやり思ったりもする。ただの「オタク」のような気もするが。

なんでこんなこと考えたかといえば、同僚の高田里恵子氏(『文学部をめぐる病--教養主義・ナチス・旧制高校』の著者ね!)が6月に出版した『グロテスクな教養』(ちくま新書、2005年、740円+TAX)を読んだから。評判になった前著の『文学部をめぐる病』も、東大出のエリートに代表される人文系知識人の内実の知的情緒的貧困、思想と生活の乖離などを、著者いわく「近親憎悪的な」辛らつさで抉り出していたが、今度は、明治から大正、昭和の戦争、戦後、そして1980年代のニュー・アカデミズムを経過しての現代の教養崩壊にいたる軌跡を、教養言説の変遷という文脈から整理している。面白くて一気に読める。

新書なんだけど、書かれていることは多岐に渡っていて、たとえば、人文系エリートたちが秘かに持つ「出版流通システムにおける成功(教養主義的立身出世)」への憧れと、その憧れを実現してしまった人々、たとえば「ジャーナリズムで活躍する大学教授」に対するアカデミズムからの軽蔑=嫉妬などについても、容赦なく書いてあるし、日本の代表的教養系出版社〔岩波書店、中央公論社、みすず書房、筑摩書房、勁草書房とか青土社とか・・・〕の「編集者」という日本の人文系教養の風土を作る影の権力者への言及も、しっかりある(ということは、今の出版業界の不況は、編集者が人材不足ってことなのかな?読者の心と時代を読み間違えているってことかな?老舗の大出版社だとコネで採用するから、なおさら人材が払拭してんじゃないの?どうせ編集の仕事も下請けにさせてるんだよ)。

日本のインテリは、欧米のインテリに比較すると、自分の専門分野以外には何も知らないから、会話の内容も貧しくて、教養の厚みがなくてペラペラとは、よく指摘されることだけど、これは要するに日本近代の問題らしいよ。

『グロテスクな教養』によると、日本が近代化しようと、ひたすら西欧の真似して、高等教育機関を整えようとしたときは、すでに本家本元の西洋で、「教養の地盤が崩れはじめていた」そうだ。ちょっと引用してみるね。

「科学史家の中山茂氏が指摘しているように(『帝国大学の誕生』)、1886年創立の帝国大学がドイツの大学を真似てつくられたというのは誤解であり、日本がドイツ帝国から輸入したのは、大学の理念ではなく、国家が官僚や人材を養成するという考え方だけであった。日本が帝国大学をつくろうとしたときには、欧米諸国ではすでに工業化がすすみ産業資本社会・大衆社会となりつつあったわけで、焦る日本としても、いまさら、人文的教養を主眼とするドイツのエリート教育システムを真似てもいられなかったのだ。いや、そもそも本家本元のドイツ帝国でも、大英帝国を抜かんとしている工業生産力をさらにアップさせるために、ギムナージウムに実学教育を導入しようと改革がすすめられていた。」(『グロテスクな教養』pp.102-103)

高田氏が引用する教育社会学者の苅谷剛彦氏は、「教育が直接的に職業的能力にかかわらなくても、それが教養を高めるものであるという点に照らして、高度な教育を受けた人々は十分尊敬に値するとみる教養主義的な見方が強い社会もある」と指摘して、西欧はだいたいそうだし、韓国もそうだと述べているそうだが、その西欧自体が、教養主義ではやっていられなくなった頃に、日本がノコノコと、ドイツだの英国だのの内情の変化もわからずに、真似したんで、実は「戦前日本の旧制高校・帝国大学という高等教育システムも結局は、理念に基づいてエリート教養人を育てるようなことはしなかった」(p.101)とか。

そう、つまり、今の日本の教養崩壊の原因たる日本の高等教育機関の教養軽視は、高田氏が書いているように、「急激な近代化の過程で、教養への東洋型尊厳の伝統も失い、しかし西洋型尊敬のかたちも獲得しなかった我が国の悲しい特徴の一つ」(p.101)なんだ。

だいたいさあ、私が勝手に思うには、大学の学部というのは、みんなほんとは「文学部」であるべきなんだよね。リベラル・アーツ(Liberal Arts)ってのは、中世では「文法、論理、修辞、算術、幾何、音楽、天文」の自由7科目のことを意味した。現代では、一般教養科目、つまり「語学、文学、自然科学、哲学、歴史」などの「自由人にふさわしい教養」を意味する。文学部っていうのは、基礎なんよ、基礎!

アメリカでは、リベラル・アーツ教育では定評のある私立のカレッジを卒業して、大学院はアイヴィー・リーグ系の私立の総合大学に進学するというのが、エリートのコースのひとつだ。ヒラリー・クリントンはウエズリー・カレッジという「東部の七名門女子大学」(Seven Sisters!)のひとつであるリベラル・アーツ大学を出て、イエール大学のロー・スクールに行った。カリフォルニア州のクレアモント・カレッジとか、アトランタ郊外にあるアグネス・スコット・カレッジとか、マサチューセッツ州のアマースト・カレッジとか、私立の名門大学院に卒業生を送り出す名門私立リベラル・アーツ大学は、日本人はあまり知らなくても、アメリカ人のインテリならば、よく知っている。

この種の大学を出てから、金持ちの子弟(年間授業料が4万5千ドルだからねえ・・・・)とか、奨学金もらえる優秀な奴は、メディカル・スクールやロー・スクールやビジネス・スクールに進学して学位を取って「専門職」に就く。だから、この種のエリートは、一般教養もハンパじゃないし、趣味も豊かということになっている。

日本みたいに、高校出て、いきなり法学部だの医学部だの経済学部だのに進学して、専門教育受ければ、専門馬鹿ばかりの「教養」のないプロ(?)が生産されてしまって、大学卒業後は雑誌ぐらいしか読まずに、夏の夜はビール片手にテレビの野球中継ばかり見ています〜という、いびつな似非インテリばかりということになる。

まあ、それだけ日本が貧乏だったんだよね。高等教育機関は、有利な就職への近道でないといけないんだよね。すぐ食ってゆかなければならないくらいに、日本のエリートは貧乏なわけよ。リベラル・アーツしっかりやってから、教養を幅広く身につけてから専門教育なんて、悠長なこと言っていられないんだよね。稼ぎながら働きながらの付け焼刃ってのが、日本の現実なんだよね。余裕と遊び心がない「苦学生」が日本近代だったんだ。

みんなまずは「文学部」に来るというのが理想なんだよね、ほんとうは。高等ヨタ話をいろいろ聞きまくって、そのイケスの中で泳ぎながら、余分な無駄な知識を身に浴びつつ、どう生きるかとか、選び方間違えると人生そのものを浪費しかねない「職業」として何を選ぶかとか、つらつらじっくり考えてから、社会という大海に乗り出すなり、専門教育を受けるべく大学院に進学するというのが、あるべき姿なんよ。

ともかく、こういう日本の高等教育における教養軽視の理由は、日本の近代化の中途半端な西洋の真似と、たまたまその本家本元の西洋も教養教育の曲がり角に来ていて、モデルとしては、これもまた中途半端だったということなのだろう。

それに加えて、高田氏は、「日本の世間そのものが実は異様なまでに反教養主義的」(p.100)と指摘しておられる。日本人は、「『世渡りの道』には教養なぞ必要ないし役にも立たない」(p.100)と考えていると。「学校を経ずして、しかし実用に優れた田中角栄的人物への称賛と、高学歴者の無能、無節操ぶりへの揶揄(やゆ)は、大衆的人気を保っていると言えるかもしれない」(p.100)と。

高田氏指摘するところの、この「日本の世間の反教養主義」っていうのは、単なる事実として観察として、「教養」というものの実用性のなさそのものに対する批判なのかなあ?それならば、「反」教養主義なんて、明確な侮蔑の形はとらないよねえ?アホか〜と無視すればいいだけのことなんだから。単純に、実利主義100パーセントで世間が動いているのならば、教養主義なんて軽蔑するにも値しない無なんだから。別に、わざわざ侮蔑することなんかないんで、ほっておけばいいのだから。

つまり、日本の世間の反教養主義感情は、逆説的に、「教養」というものが、まごうことなき「実用性」を持っているということの証左なんじゃないだろうか。「教養」がある人間とは、はっきりと上位の階級に属しているということを明示しているからね。ジャニーズ系しか聴かない女の子と、モーツアルトが好きだという女の子では、はっきり生育歴は違うだろう。その持っている教養とは、モノでない分だけに、知能とか感覚の洗練とかを必要とするんで、一朝一夕に獲得できるものではないからね。ちゃんと人間の選別、序列の機能を持っているという点で、しっかり実用的。世間は、そこを直視するのが、辛いのかもしれない。自分一代の努力じゃなんともならんという認識は痛いよ。DNAの問題だからね、痛いよ。この痛みは、「ふん、気取りやがって!何にもできやしないくせに」という侮蔑にすり替えられるんだろう。

つまり、教養というものが、「上位の階級であることの表示」でなくなれば、なんか特別な立場でないと身につけられない贅沢な何かでなくなれば、けっこう入手可能な気楽なものになれば、誰でもアクセス可能なものになれば、日本における世間の反教養主義も消えることになる。

そろそろ、今の状況って、「教養」なるものが、努力とか鍛錬とか家庭の文化的資本の蓄積とかなしで、アクセス可能になってきているのではないの?

貧乏で、親が馬鹿で、本なんか一冊もない家庭に育ったガキでも、公立図書館とか学校の図書館で本は読めるし、難解なものを易しく説明、解説する工夫は出版界も教育界もメディアもセッセと、やっているし。NHKなんかは、やはりいい番組作っているんで、視聴料はちゃんと払おう。料理番組も充実しているし、PC操作法とか運転方法まで、教育テレビでは教えてくれる。民放の番組だって、前みたいなくだらないバラエティ・ショーばかりでなく、知識人呼んで面白い授業やらせるとか、まっとうなクイズ番組とか、知能訓練みたいな番組とか放送しだして、傾向が変わってきた。良質のコミックは、情報の宝庫だし、コミックをドラマ化したもの(阿部君の『ドラゴン桜』とか深キョンの『幸せになりたい』とか)は、だから面白い。私なんか、『マンガ・アメリカ史』とか『マンガ・西洋美術史』には、いろいろお世話になった。映画だって、『アマデウス』みたいなもの観れば、オペラ入門にもなる。

馬鹿やっているのは気楽だけれども、やっぱり飽きてくるんだよ。人間って、内在的に、勉強したい生き物なんだよ。知りたい生き物なんだよ。肛門さらして歩いて平気なケモノじゃないんだよ。

ルイ・ヴィトンのバッグが上流階級の持ち物から、普通のOLのものになったように、有閑階級の優雅なスポーツだったゴルフを、会社員ならば誰もが嗜むようになったように、「教養」という文化商品も、受験エリートとか裕福な家庭で育った人間とかにだけ許された贅沢品ではなくなった状況は、もっともっと拡大して浸透していくと、私は思う。

あなた、時代は何のかんの言っても、テロがあろうが、内乱があろうが、地震はあろうが、秘密結社スカル&ボーンが何を企もうが、金融危機があろうが、一時の停滞はあっても、どんどん進むんだ。科学はやはり発展し続けて、ロボットはますます改良開発され、機械がブルーカラーや単純事務労働者や家事労働者の仕事のかなりの部分をこなしつつあるように、今はまだ人間の力に依存しなければならない介護仕事なども、機械化されていくに違いない。つまり、人間は、ますます余暇を持て余すようになる。栄養学も医学も、よりまっとうな予防医学として進化していくから、長生きするはめになる。未来においては、ほとんどの人間にとっての最大重要課題は、最初から老後みたいな日々の暇を、どうつぶすかってことになる。

そりゃ、余暇なんて関係なく稼動し続ける人々もいるだろう。この人たちは、時代をリードできるようなわくわくするような仕事をして、いつだって忙しくて、いつだって充実して、いつだって待ち望まれるんだろう。だけど、その他の圧倒的多数の中途半端な能力の人間は、こういう才能ある人間の生み出すものに、ただただ感心し、その生産物の消費者になるしかなくて、あとは暇を持て余すしかない。

だから、本気で真剣に、「暇つぶし」の方法をいっぱい知っていないと、とんでもないことになる。それを知らない人間は、自分で自分をもて余して、しょうもない犯罪とかに走って社会から排除されていくか、他人に自分を押し付けて、遊び相手を求めるあまりに迷惑人種となり、これも排除されていく。ストーカーとか性犯罪者とかさ、こいつら、ほんとに「ひとり遊び」の技術を知らんよ。文化資本の蓄積のない家庭に育っても、今ならば、何とでもなるのにねえ(まあ、こういう学習不能の不良品は必ず生まれてきてしまうから、この種の人間向け暇つぶし法を誰か考えてよ)。

人類最大の暇つぶしだった色恋沙汰も、相手がいることでは、自分のペースで好きにはできない活動だから、これも飽きられていくと思う。家庭とか家族とかと言っても、子どもが成長すれば、うまく解散しないと、家庭や家族そのものが抑圧となる。成長した子どもにとって、必要なのは親の金であって、親の愛情じゃないんだよ、ぶっちゃけて言えば。愛情とかいっても、抑圧的なものになるのならば、そんなもん邪魔なだけだ。

となると、残るのは何か?究極の飽きない、金もあんまりかからない、ひとり遊びとは何か?実利に結びつかない勉強だ。教養という奴だ。実利に結びつけなくていいから、責任が伴わないから、無能でOKだし、高度な訓練も熟練もいらない。誰にでもアクセス可能な下級学問こそ、教養なんだから。

私自身は、教養というものを、「安全で人畜無害な金もかからない手ごろな一人遊びができる暇つぶし」活動として、庶民が消費する状況が、つまり「大衆社会の成熟」というものが、日本には今世紀に実現すると思う。いや、すでに実現しているのかも。

こういう具合に、教養というものが、ほんとうに庶民の娯楽=安価なオモチャになるときこそ、教養主義が真に実現されるときだし、それこそ高度で平和な文化的社会っていうもんだろう。

ほんとうはねえ、エリートには教養などなくていいのよ。高学歴と専門知識と高技術で頑張ってください。立身出世主義と実利主義で進んでください。それができるんだから、それでいいのですよ。もっとも「教養」が必要なのは、庶民なんだ。だって、金もなければ才能もない庶民にたっぷりとあるのは、退屈な日常という暇だけ、なんだから。「貧乏、暇あり」が、21世紀の庶民の現実よ。でも、貧乏でも「教養」を消費できるような社会的文化的資本は、整備されている社会なんだ。

そうか、「オタク」って、21世紀的庶民の「教養」という文化商品の消費のありようの先駆なのかも。一億総オタクというのは、文化国家の別名なのかも。

ここなんだよね、私が21世紀にこそ、「脳活性化系暇つぶし一人遊び伝授学部」としての文学部的一般教養学部が、実はいよいよ本格的に必要になると確信するゆえんは。どっかの時間ばかりはいっぱいあるオッサンが桃山学院大の社会人聴講生になって下らない質問のための質問をしても、冷たい視線を投げかけるのはやめよう。肛門さらしているケモノの従僕やっている人間に比較すれば、まだ「教養」を消費する練習をしに来るだけ、ましなんだ。21世紀の大衆として、望ましきありようを学んでいると思えばいいんだ。

さて、また岩石図鑑を眺めよう。アゲート、つまり日本名で言う「メノウ」は、なんで「瑪瑙」と書くかっていうと、その産状が、馬の脳みたいだったからだとか。だけど、馬の脳なんかの形を、大昔の日本人は、なんで知っていたのか?ヘラかなんかで、すくって食っていたのかな?うまいかもしれん。