アキラのランド節

酷暑にはサブライム [8/12/2005]


酷暑、お見舞い申し上げます。ほんの短い時間でも太陽に照射されると、頭が痛くなりますね。それほどの、ふざけまくった暑さであります。

春学期が終わったから、さあ映画でも見ようかなと思っていたけれども、授業や会議がないのだから、今のうちに、家中の整理整頓しておこう、うんと読んでおこう、翻訳もやっておこう、年末に提出する論文の準備もしておかないと、とりあえず9月の始めに締め切りの短い論文があるけど、何を書くかな・・・とかいろいろ思うと、映画館に行く時間はないね、やっぱり。

やる気になるために景気をつけようと、最近になって(遅ればせながら)発見した伊福部昭(いふくべ・あきら)さん作曲の「SF交響ファンタジー第一番」を、ガンガン鳴らす。指揮者のつもりになって手や腕を大きくドラマティックに振りまくる。やはり、「アキラ」って名前の人は天才だなあ。

「SF交響ファンタジー第一番」と呼ばれてはいるが、要するに伊福部昭さんが作曲した「ゴジラの動機」(動機って、appearanceの意味の方ね)とか「ゴジラ」のタイトル・テーマとか、「キングコング対ゴジラ」とか「宇宙大戦争の夜曲」とか「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴンの恐怖」のテーマとか、「三大怪獣地球最大の決戦」とか「怪獣総進撃マーチ」とか、懐かしの東宝映画の怪獣もの映画のメロディをつないだものです。これが、いいのであります。聴けばわかるよ。黙って聴いてよ、2分だけでいいからさ。

特に、ロシアの交響楽団が演奏したやつ(NAXOS版)がいいです。日本フィルハーモニー交響楽団の演奏のもありますが、気のせいか、なんかかったるい。演奏者たちが、「ゴジラの曲や・・・」と、つい気を緩めているのかもしれん。聴いていても、交響曲らしい大きくて広く深い時空が出現しない(いっぺん、こういうキザなこと言ってみたかった)。その点、ロシアの演奏者たちは、ゴジラなんか知らんから、真剣に演奏しているみたい。

日本歌謡曲ならば小林旭さん、文学ならばアイン・ランド、絵画ならばカンディンスキー、風景ならばニューヨークの摩天楼かゴビ砂漠か天山回廊・・・という具合に、自分にとってはこれ!と偏愛するものが誰にとっても、各分野各ジャンルにあるものだけれども、私にとっては、これ!というものが、クラッシック音楽の分野では、長い間、見つけられなかった。まあ、見つからなくても、なんも困らないので、どうでもよかったのだが。

しかし、やっと見つかったのであります。めでたい。1914年生まれで、まだご存命の伊福部昭さん(超ハンサムです。端正ながら怪異な。木枯らし紋次郎の中村敦夫さんと阿藤快を混ぜたようなお顔です。サブライム系美男だね)が作曲した、20世紀後半の日本の怪獣系映画のメロディをつなげた「SF交響ファンタジー」を、「クラシック音楽」と呼んでいいのかどうかわからないけれども、まあ、いいではないの。 伊福部さんは、釧路の北海道開拓民の家庭に生まれて、日本中からやって来た開拓民の故郷の民謡に触れ、十勝原野の開拓村の村長さんがお父さんだったものだから、そのコネで、アイヌの居住地にも出入りして、アイヌの音楽にも馴染み、長じてはロシアやスペインのフォークロア音楽にも馴染んだ。だから、この方の音楽には、日本の土着の音楽のみならず、日本を越えた北アジアや中央アジアやトルコを含めたユーラシア大陸の土着の音楽の響きと趣がある(とCDの解説には書いてあった)。

だけど、この方は、音楽はまるっきり独学なんだよね。楽器も独習。すごいよね。誰に教わっただけでもなく、できてしまうというのが天才よね。2005年2月のニューヨーク・ゼミ旅行のメンバーであった、例の社会人聴講生のA画伯も、「独自の画風を育むことを教師に邪魔されるから芸大には進学しないほうがいい」とプロの画家の方に助言されて、あえて在学していた高校の付属の短大に進学なさって、芸大には進学なさらずに、好きにマイペースに描いてきたと、おっしゃっておられた。なるほど。伊福部さんも、うっかり音大になんか行っていたら、凡庸な「秀才教授」に邪魔されていたかもね。

というわけで、伊福部さんは北海道大学農学部で林学を修めて、林務官(官有林の監督ね)を長く努めた。戦時中は木製飛行機(!)開発に従事する戦時科学研究員だった。で、戦後になって、職業作曲家に転進して、北海道から東京に出てきて、あの名曲「ゴジラのテーマ」を始めとした膨大な数の映画音楽を作曲なさったのだ。私が、大学時代に3回観に行った『サンダカン八番娼館』(シンガポールに娼婦として出稼ぎに行った島原の貧農の女性の生涯の物語ね。リバタリアンの女性の話ですね)の音楽も担当したし、大映が生んだ傑作時代怪奇(?)映画『大魔神』のテーマも作った。 

『ゴジラ』は、日本が誇る、日本にはめったにない崇高系(サブライム!sublime!)映画であるけれども、この伊福部さんの曲がなかったら、あの映画の凄みは半減していたよね、きっと。私なんか、ゴジラに追いかけられて必死で逃げる夢を、けっこういい年になるまで見たことが何度もあるが、その夢の背景には、あの曲が流れていた(ような気がする)。プールの水にもぐって身を隠しつつ、水底から見上げた空を背景に聳え立つゴジラのぼやけたシルエットは、今でも忘れられない。夢というには、あまりに生々しく、しかしシュールといえばシュールな「怒りの神」の姿だった。

サブライム(sublime)とは、何か? これについては、大昔の「ランド節」にも書いたことがある。英語の「美」には、beautifulとsublimeの2種類がある。以下は、2002年2月14日版の「ランド節」からのコピペです。

<以下コピペ>

18世紀の英国で、文人ジャーナリストとして、『フランス革命の省察』(Reflections on the Revolution in France)とか、数々の政治討論集みたいなの書いて活躍したエドマンド・バーク(Edmund Burke)という人は、今でも政治思想や哲学の分野では、超ビッグな人らしいです。でも、英文科においては、この人は「美」というものが、どういうものであるか説明しつくして、美には二種類あるということを、つまりbeautifulとsublimeは違う!ということをきちんと指摘した人、ということで有名なのであります。『崇高と美の観念の起源』(中野好之訳・みすず書房・1999年刊・これは、全集の訳に入って1973年に出たものの再出版。A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful,1757)という本は、英文科では、必読書ということになっているのであります。実は、この本のおかげで、スティーヴン・キング(Stephen King)は、ホラー作家として食っていけるようになったのであります。いや、ほんと。これは、また別の話で、ここには書きませんが。

このバークという人は、どういうようなものに人間が「美しい=beautiful」と感じるかについてこう説明しています。簡単に言いますと、次の5条件。(1)小さい(2)滑らかな(3)漸進的変化をしている(=ゴツゴツしていなくて、急に形が変化していないこと)(4)繊細(5)色彩が明るく澄んでいる。つまり、顔が小さくて、肌がすべすべと綺麗で、顔の造作の芸が細かくて、肌が白くて透明感があって明るい感じで、首から肩の線、肩から胴体、胴体から手脚という線が自然にくぼみと隆起と線を形成している女性は、「美しい」のであります。こういうことは、大昔に、すでにエドマンド・バークという人が、言っていたのであります。だから、「片桐はいり」より、「神田うの」が美人だと、私たちは感じるのであります。こういう形状のものに、人間は愛情を感じ、「親切にしたいな〜〜〜」と感じるようにできている、ともバークさんは語っております。だから、「赤ちゃん」と「美女」「美男子」は、形態的特徴を多く共有するのですね。

ところが、同じく心動かされるといっても、愛や親切が沸き起こるのではなくて、「や、やばい!」と恐怖と危険を感じて、とっさに身を守ろうと、我知らず緊張して苦痛を感じさせられるような対象に出くわすことがあると。しかしその対象によって、直接暴力を受けたりするわけではない場合は、その緊張や苦しみには、その対象に対する驚愕、感嘆、畏怖がまじりあった喜悦へと、変換されると。そういう対象が「崇高=the sublime」だと、バークさんは言うのです。だから、崇高とは、(1)でっかい(2)ごつごつして野放図・直線的・とんでもない変化をする(3)暗く陰鬱(4)堅固(5)量感たっぷり、ということになります。

<以上コピペ終わり>

要するに、怖くて不快で危険で緊張させられるんだけど、矮小で卑小な自分を超えるような、なにか自分をもっともっと大きくて広い深い世界にひきずりこむような、そんな威力を感じさせるようなものが、「崇高なるもの」なんでありますね。だから一般的には、ガキには崇高の美はわかりません。ある程度、成熟しないとわかりません。なにもない茫漠とした砂漠や、人間を拒絶するような山岳地帯の絵とか写真の前で、うっとりしているガキなんて、めったにいないでしょう。ガキは、ふつうの美人画とか、犬か猫かリスかタンポポの絵でも、眺めていればよろしい。いちごやキティちゃんのついたバッグに、きゃあきゃあ言っていればよろしい。

このネタは、高校への出張講義なんかでも何度も使ったことがある。そうすると、できのいい女子高校生なんかが、「日本は、どっちかというと、ビューティフルが好きみたいですが、日本でサブライムって、どんなのがありますか」と質問してくる。私は、「ゴジラなんか、日本が生んだサブライムですね。だから、ゴジラというあだ名のヤンキーズの松井選手も、日本人には珍しいサブライム系美男子です。でも、日本人がサブライムの美を発見したのは、西洋とぶつかった幕末や明治だったんじゃないでしょうか」といい加減なことを答えておく。ほんとにいい加減だな。

私は、いい加減に答えておきながらも、ハッとするんだよね。たとえば、戦艦大和。なんか、巨砲巨艦時代はもう終わったと、これからは潜水艦であり、爆撃機や戦闘機を発着させる空母の時代だと言われていたのに、わざわざ「大和」は作られて、案の定、まともに戦いもしないで撃沈されてしまった。靖国神社にある遊就館という博物館には、戦艦大和の模型と、録音されていた戦艦大和の大砲の音を聴くことができるコーナーがある。私は、ヘッドフォンを耳にあてながら、その音を聴くのが好きだ。単なる長い長いドドーンとした重低音です。しかし、耳をすませて聴くと、当時の日本人の、「巨砲巨艦」への尽きぬ憧れが、理解できるような気がする。小さな島国を越えて飛翔する祖国という幻想に酔いたかった気持ちが、わかるような気がする。

もう時代遅れでも、実戦では無用の長物かもしれない・・・とわかっていても、日本人は「戦艦大和」を、どうしても作りたかったんじゃないのかな。自分たちの手で、美しい美しい大きな大きなサブライムを具現したかったのではないかな。

銃とか大砲とか鉄船とか戦国時代からあったけれども、日本人が本格的に「兵器」という機能と力強さと美を備えた「マシンのサブライム」に出会ったのは、やはり幕末の内戦のときや明治以降だろう。日本の刀剣や鎧兜はビューティフルではあってもサブライムではない。当時の日本人の中には、黒光りした大きな機械を見て、その異形の禍々しい美しさに新鮮な畏怖を感じた人々も、そこに大いなる危険な魅力を感じた人々も多かったのではないか。巨大なる西洋列強のシンボルたるサブライムな魅力と威力を発散するマシーンを愛するということは、偉大なる巨大なる日本を夢想し欲望することでもあったんだよね。

日本人が出会ったサブライムが、たまたま帝国主義時代の兵器というマシーンだったのは、不幸なことだったけれども、日本人がサブライムの魅力を発見したことは、良いことだったと私は思う。だって、少なくとも、小さな狭い自分と自分の生活を超える何かへの憧憬を、日本人が持ったということだもの。ビューティフルだけでは、自分を超えることはできない。自分の感性を甘やかして耽溺させるだけだ。自己反復でしかないんだよね。

とはいえ、サブライムなるものへの嗜好/志向を持った日本人は歴史上少なくなかったとは思う。仏教という先端知識の吸収のために日本海の荒波越えて隋や唐に行くとか、宣教師からの貢物の地球儀回してまだ見ぬ世界を夢見るとか、倭寇として東アジアや東南アジアの海や海岸を回り略奪の限りを尽くすとか、猟師とかの山の民とか、漁民(鯨取り!)とかの海の民とか、熊野水軍とか村上水軍とか、大自然相手にサバイバルしなければならない人々に、サブライム嗜好/志向はエトスとしてあったろう。でも、ふつうの日本人の庶民が、サブライムに目覚めるには、サブライムを具現する物がないといけない。大方の人間の想像力には限界があるんだから。帝国主義時代の産業革命を経た西洋との出会いは、大方の日本人にとっては、サブライムのシンボルたる事物との出会いでもあったんだよね。

明治期の誇大妄想狂的なサブライム嗜好/志向は、太平洋戦争というボロ負け悲劇とアジア諸国への大大迷惑と、現在にいたるその後遺症に帰結したけれども、でも、明治から戦前の日本人のその「志」っていうものには、私は素直に感動する。明治にはいってから、すぐにシェークスピアほとんど訳しているし、古本屋から取り寄せたヴェルナー・ゾンバルトの『近世資本主義』全訳全2巻本(昭和18年!1943年刊なんだ)なんか眺めていると、日本人の知識欲というのは、めちゃめちゃ無謀ですごいなあと思う。西洋の科学技術を学び始めて、さほど年月も経っていないのに、自前で、世界最高の巨砲巨艦も作ったんだからなあ。零戦闘機(ゼロ戦)も作ってしまったしなあ。なんか、アメリカが本気で戦後日本の魂抜き戦略をめぐらしたのも無理はないくらいに、日本人って獰猛なところあるなあ、知識欲においても獲得欲においても。けっこうサブライムの資質あるんだよね。

では、今の時代はどうか?現在の日本人には、サブライム嗜好/志向が脈々と息づいているのかなあ。

昨日さあ、お盆のお墓参りに行ったあとに、名古屋では、ちょっと知られたお蕎麦屋さんに入ったのですよ。名古屋では、比較的高級住宅街にある店である。昼時だったから混んでいたんだけど、私は、蕎麦の待ち時間に、その店に置いてあった雑誌をパラパラめくっていた。『大人の週末』という雑誌だった。「大人の週末」かあ、へえ〜何が書いてあるんだろうと思ったら、レストランの食い物情報ばかりだ。何が大人の週末だ。くっだらない・・・食うことしかやることないんかいな、金持っている大人は?・・・と思っていたら、近くの席に初老の60代半ばくらいのご夫妻が座った。なんとはなしに、その会話が耳に入ったのだけれども、なんかそのご主人が細かいんだよね。エアコンの風があたって冷えるから、別の席に移動したいとか、テーブル席よりも座敷席がいいとか、冷えるからトイレに行きたいとか、ブチブチグジグジ言って落ち着きがない。座敷席は、奥さんが膝が痛くて座れないから困ると何度も言っているのに、無視してグダグダとコップとお絞り持って、うろうろし始める。ボケとるんか?

なんなんかね??日本の夏のレストランの内部が冷えすぎるくらいに冷房しているのは常識なんだからさ、初老の男が、Tシャツ一枚にショートパンツ姿でやって来れば冷えるに決まっているだろう。だいたい、まともな大人が、なんでそんな格好で外をウロウロできるんだ?日本は、南太平洋の島じゃないんだよ。先進国なんだ。家の中と外の区別がつかないのか?そんなことは、ガキにしか許されないことだ。だいたい、テーブル席だろうが、座敷席だろうが、どっちでもいいだろう。何を、ケチなわがままを言い張っているのか?黙って食ってろ。無駄口たたくな。冷房で寒くたって死ぬことはないよ。いっそ、死んでも、いいんじゃないの。

(あ、こういうこと、つい言ってしまうから、うちの学生の中でも、くだらない類の<お馬鹿優等生>さんたちに「暴言が過ぎる。もっと学生の心を気遣って欲しい」とか、授業評価シートに書かれるんだろうな。あんたたちさあ、お利口さんなんだからさあ、そんな貧乏くさいコメント書いていないでさあ、公務員試験合格めざして、ひたすら勉強してなって。未来はリストラで暗いだろうけどさあ)

私は、ちらりと、その初老ご夫妻の小うるさい亭主の方の顔を見た。そいつは、現役を終えたが、かつてはいい会社に勤めていたか、公務員かなんかであったろうと思われるような感じの、長年の間比較的楽してきたことがわかるような、締まりがなく、職場でも家庭でも、いかにも甘やかされてきたといった感じの、人は悪くはないが、矮小で幼稚な顔つきをしていた。奥さんは、そういうご主人を長年の間お守りしては来たが、最近はそれもうんざりしつつあるという風情である。ご主人の姿のだらしなさとは違って、奥さんの方は、衣服の冷房対策も怠りなく、きちんとしていて、眼鏡のフレームからもセンスの良さがうかがわれ、ご主人の小うるささについて回りの客に謝っていたから、まっとうなご婦人である。また、美人でもある。美人でおしゃれができる女房を持つ男の社会的地位は低くなかったはずだ。だからこそ、美人と結婚できたのであろう。こういう資質のある女性でも、自分で食っていけないと、こういう男の女房やって、こういう男のお守りを長年の間してきて、今やこういう男の乳母さんやるしかないんだ。いやだなあ・・・

奥さん、ご主人の世話なんか、あまりしないほうがいいよ、ご主人は、奥さんが世話すればするほど、どんどんボケまくってセコイわがままを言い募るようになるよ。まあ、奥さんも、他に暇つぶしもないから、してもしかたない世話焼きをしているんだろうけどさあ、なるべく亭主には関わらないほうがいいよ、アホが伝染するから。認知症男の影に良妻あり。

日本の歴史上、もっとも繁栄し、年金制度や健康保険制度も整い、凶悪犯罪は多くともおおむね平和な、この時代だからこそ、できることはいっぱいあるはずなのに、「大人」が週末や休日にやることとして、うまいもん食わせるレストラン探訪しかなくて、感覚の快楽だけ執拗に求めるケチなわがまま言い募るだけしかないなくて、また、そういう瑣末なことしか関心のない男のお守りをすることしか女にはやることがないなんて・・・しょうもない。なんちゅう「世界内存在」か。

今かまびすしい郵政民営化問題に関して、いろんな意見がある。民営化されると郵便貯金として蓄積されてきた国民の金融資産をアメリカに取られる(=民営化して普通の銀行になったら、アメリカのユダヤ金融資本から買収されて、日本人の虎の子の預金が好きに使われる、アメリカの資金にされてしまうということ)から、民営化は阻止しなければならないという意見もあれば、公社のままだと、郵便貯金も役人に好きに無駄に使われるだけだから、官僚支配を脱するためには民営化をしなければならないという意見もある(「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき」無料版の684番をお読みください!http://www.soejima.to/)。

どっちみち、一般庶民の国民は、外資からにせよ、政府からにせよ、コケにされるんだよね。虎の子の預金は、どっちみち詐取される運命にある。うっかり信用してぼけっと安心して託してなんかいるとさ、そういう目にあうの。それぐらいに、庶民にとっては、今までだって、今だって、これからだって、十分しっかり危険な時代だし、世界なんだ。今や未来の世界や時代が、気楽で快適なビューティフルな暮らしの中に埋没していられるような類のものであるはずがない。

みなさん、ビューティフルよりもサブライムであります。キティちゃんより、隣の美人より、韓流美男子よりもゴジラであります。モーツアルトの優雅軽妙なる交響曲より、伊福部昭さんの『SF交響ファンタジー』であります。ただただ食って寝て、日常の快適さや気楽さや安寧に埋没して一歩も出ない退屈ではあるが優雅でビューティフルなおいしい生活ではなくて、リラックスしながらも緊張し、自分に満足なんかしないで、ひたすら世界をウオッチングしてハンティングして油断怠らず、退屈も退廃にも縁のない全く優雅じゃない危機感に満ち満ちたサブライムな日々であります。

どうも、戦後の平和の中で、日本人は徳川時代にもどってしまって、サブライムを忘れて、ビューティフルに逃げ込んでいるという感じ。それで幸福で楽しければいいんだけど、そうでもなさそう。虚ろな目で、街をうろつき、レストランのエアコンが効きすぎるとか瑣末なこと気にしてしゃべって、空しく暇つぶしするしかないんだよね。せっかくの繁栄と平和なんだから、人生のグレード・アップめざして、サブライムなる生き方に挑戦してみればいいのに。暇つぶしには最高なのに。退屈しないのに。

さて、もう一度「SF交響ファンタジー第一番」を聴きまして、「指揮者」やってから、翻訳始めようかな。指揮棒がわりに菜箸もって、ついつい陶酔してしまって14分間を本気で指揮すると、汗をかいてしまう。肩や腕ばかりでなく全身を動かすんで、いい体操になります。肩こりにも効くし。

しかし・・・やはり『亡国のイージス』だけでも観に行こうかなあ・・・ああいうのは、やはり大きなスクリーンで見ないとなあ・・・悶々とする酷暑の昼下がり。