アキラのランド節

学恩とお金の話 [8/20/2005]


必要があったんで、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の大昔版の訳の岩波文庫(梶山力、大塚久雄訳)を読み直した。同じ本だけど新訳のワイド版岩波文庫(大塚久雄訳)の方も読み直した。同じテーマの関連でヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』(金森誠也訳・講談社学術文庫)と『ブルジョワ---近代経済人の精神史』(金森誠也訳・中央公論社)もザザッと読み直した。なんか、マックス・ヴェーバーの方が面白いような気がする。なんか、ヴェーバー先生の方が、不幸そうだけれども頭がいいような気がする。なんて、勝手なこと言ってます。

若い頃は、岩波文庫の白い帯のやつなど、読んでもわかんなくて、だから全然楽しくなくて、苛々してきて、「あたいは文盲だ!」と暗〜い寂し〜い凶暴な気持ちになったものだった。しかし、最近は、やっと、だいたいのところは、日本語が読めて理解できるようになってきたので嬉しい。思えば、私の文盲時代は長かった・・・理解できないということは辛くて寂しいもんよね。

同じ岩波文庫のヴェーバー先生の『職業としての学問』(尾高邦雄訳)なんか、ほんと教師である人間ならば、見解はいろいろであろうとも、読んでおいたほうがいい本だと思うけれども、若い頃はなんか、よくわからなかった。今は、とても心に沁みます。

私が、学生に「暴論が多い」とか「偏っている」とか言われるのは、結局は、私がまだまだ『職業としての学問』に書かれている教師の心得=「予言者や煽動家は教室の演壇に立つべき人ではない」(p.50)を、厳しく実践できていないということもあるんだろう、と思う。ヴェーバー先生に言わせると、教師の仕事とは、指導者では断じてなくて、事実をきちんと提示することなんだ。うっかり、自分の立場とか思想信条なんか開陳してはいけないんだ。教師は一種の「通訳」なんだから、自分は出しちゃいけないらしいよ、ヴェーバー先生によれば。なぜかというと、教室では学生は表立って「批判者」になれないから。単位取るために、そこで黙って聴いていなければいけないから、そういう立場の相手に、教師は予言者や煽動家や指導者になってはいけないわけです。なるほど。

ほんと最近、「学恩」という言葉の意味がしみじみわかる。「学恩」ね。が・く・お・ん。

ドイツ語できないし、ドイツ語勉強する気もないし、頭も記憶力も悪い私でも、梶山力氏とか大塚久雄氏とか、金森誠也氏とか、岡崎次郎氏とか、尾高邦雄氏とか、脇圭平氏とかの翻訳のおかげで、マックス・ヴェーバーやヴェルナー・ゾンバルトの本が読める。ありがたいではないですか。ヘブライ語やラテン語ではなくて、各国の普通の人間でも読める言葉に訳された聖書ってものが、宗教革命を引き起こしたとか、いや、その翻訳された聖書が印刷されて多く出回ったからこその宗教革命で、一番の功績は印刷技術の発明だとか、どこかに書いてあったけれども、いや、翻訳ってのは、研究者の業績としては、ほとんど重視されないのだけれども、だけど、可能な限り丁寧で誠実なるまっとうな翻訳って、これやはり人助けになりますね。私も、ちゃんとアイン・ランドを訳していきたいと思います。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に関しては、数年前にちょっとした論争がありましたね。つまり、マックス・ヴェーバーが資料を自説の展開に都合よく使って、ほんとうには資料をきちんと扱っていないということを、羽入辰郎氏が『マックス・ヴェーバーの犯罪---『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房、2002)で、綿密に検証して発表した。この本は、一時大いに評判になった。2003年度第12回山本七平賞も受賞した。

この本への批判として、折原浩氏の『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、2003)というものが出版された。私自身は、どちらも読んでみて、折原氏の方が、きわめてまっとうであるし、品位があると感じた。ヴェーバー学として、どっちが学問的に正しいかなんて、私には判断がつきません。研究者としては、ただ折原さんの方がカッコいいなと感じただけだ(このサイトでリンクはられている経済学者の北海道大学助教授の橋本努氏のサイトに、この点に関する学問的論争が紹介されていますんで、ご興味のある方はどうぞ)。

ところで、今日は「お金」の話を少ししたいです。じゃあ、なんでヴェーバー先生の話なんかで始めたかというと、ヴェーバー先生とかゾンバルト先生とかの本を読んでいると、本文や注にやたら「ブレンターノ」っていう同時代の経済学者の名前が出てくる。どこかで聞いたような名前だなあ・・・・と思ったら、本多静六氏の『人生と財産』(日本経営合理化協会出版局、1999)の中で出てきた名前だと思い出した。この本は、1950年と51年と78年に実業之日本社から出たものを再編集したもので、その中の最初の章の「私の財産告白」に出てきた「ミュンヘン大学の財政経済学の教授」の名前がブレンターノ。

ちなみに、本多静六(1866-1952)氏とは、日比谷公園や明治神宮とかを設計したり、奈良公園や広島の宮島公園や鹿児島の霧島公園など、日本国内のさまざまな国立公園の創設、整備に尽力した造園家、設計者、林業家であり、東京帝国大学農学部の林学教授であった方です。私のお気に入り散歩コースである名古屋の鶴舞公園も本多氏の設計です。太閤通りのつきあたりの中村公園(太閤豊臣秀吉の生誕の地であります)も、本多氏の設計だそうです。鶴舞公園の中にある1930年(昭和5年)に完成した名古屋市公会堂の正面にあるキッチュなわけのわからん噴水塔は、1910年(明治43年)に建てられたものだけど、本多氏の案によるものだろうか?明治の人って面白い・・・

明治の田んぼと畑と雑木林ばかりの風景の中に、建設された公共の開かれた場&公衆トイレありの「公園」は、さぞハイカラだったろうなあ・・・日本って、ほんとうに素直に西洋の真似して大急ぎでいろいろ整備したんだ。散策とか、散歩とか、遊歩道とか、行楽とか、公的なリクリエイションとか、こういう「習慣」が庶民の暮らしの中に、なんとかかろうじて入ってきたのは、明治以降だろう。今の人間は、「公園」なんてありがたいとも素晴らしいとも、何とも思っていないみたいだけども、徳川時代の日本にはそんなものはなかったんだからさ。先人の努力のおかげで、私らは「公園」ってものを、空気みたいな当たり前のものと思っていられるんだぞ。私なんか、狭いマンション暮らしだけど、庭欲しいと思わんよ(食糧危機に備えて畑は欲しい)。広い公園に行って、ほっつき歩いていればいいんだからさ。ホームレスの方々も静かに木陰で瞑想しておられます。

ぶっちゃけて言うと、この本多静六氏の『人生と財産』は、私が繰り返し読む愛読書の一冊です。私は、3B(馬鹿・ブス・貧乏)だから、この恐るべき3B状態から脱すべく、いろんな本を読んできたのですが、だから、「億万長者になる方法・・・」の類の本とか、「金持ち父さん、貧乏父さん・・・」とか「ユダヤ人の大富豪がどうのこうの」とかいう類の本だって、ちゃんと読み漁ってきたのですよ。で、いろいろさんざん読んできて、この本多静六氏の『人生と財産』が、もっとも適切に、もっとも志高く、もっとも現実的に、もっとも厳しく、もっとも真情あふれて、「金と人生にまつわる問題に関する対処法」を伝授しているとの結論に達したわけですよ、最近。あとの「金持ちになりたければ・・」類の本は、みなBook Offに売ったけれども、本多先生の御本だけは大事にしております!

先に言っておきますが、お金のことに関して、えらそうに語るべき実績など、私にはいっさいありません。私は貧乏です。貯金ないです。専門書だろうが雑本だろうが古書だろうが、本は見境なく買うし、大阪と名古屋の二重生活だから、大事な本だと大阪用と名古屋用で2冊は買うし(アイン・ランドの本なんか、研究室用にもあって、それぞれ3冊だわさ)、聴きたいCDも、観たいDVDも見境なく買うし、名古屋の自宅のマンションのローンはまだ残っているし、大阪で借りて住んでいる場所は3LDKの分譲マンションの賃貸物件だし(賃貸用マンションは設備や管理が悪いし、住居者も柄が悪くてゴミの出し方もひどいし・・・)、大阪と名古屋間の交通費は全額私費負担だし、いまどきの細身の衣服ばかり陳列しているブティックなんか、いくら探しても私のサイズなんかないし、その屈辱を乗り越えて細身になる予定は全くないし、しかたないから仕事柄最低限必要なスーツはオーダーで作っちゃうし(最近、安いイージー・オーダーの店を見つけた。有名デパートのオーダーは高くてダサいね)、国内国外問わず旅行は行っちゃうし。こんなんで金が貯まるはずないよ。ほんとに大運天中殺ですわ。

でも私は反省していません。反省しようがないのです。だって、どう考えたって、私は「浪費」はしていませんから。「虚栄心」や「見栄」で買っているものなどないですから。みな私にとっては、切実に必要なものばかりですから。

だいたい図書館で本探す時間なんかないよ。公費つまり研究費で買った本なんか、滅茶苦茶に線引いたり書き込みできないでしょう。勤務先のすぐ近くに快適な部屋を借りているからこそ、仕事にも集中できるし、会議がどれだけ長引いても平気なんだから。乳幼児かかえているわけでもないのに、「住居が遠いから」とか「家庭があるから」とか言って、教授会の途中で「必ず」帰る女性の教員が複数いるが、どうかしてるよ。こういうスタッフが多いから、英語英米文学科はつぶされるんだ。あんたら、もう「エリザベス朝の演劇」だの「ロマン派詩人」なんかのクラスはできないからね。自業自得だからね。だいたい専門職に男も女もあるか。家庭優先ならば、家庭に入って専業主婦してればいいんだよ。ブスのくせに甘ったれやがって。美人ならば甘えていいのか?はい、そうです。いやいや、美人ならば真の自尊心があるから、甘えない(と思う)。被害妄想の僻んだブスこそが、厚かましく寄生虫的に甘えるんだ。何の話か。

だいたいね、小金持ちになって年取って引退して海外に行ってもしかたないの。物見遊山のパック旅行なんか、何回してもしかたないの。海外の空港なんかで、日本人の老人の集団旅行の一行によく出くわすが、つるんで傍若無人に、落ち着きなく、くっだらない事を声高に言い合って騒いでいるだけで、てめ〜ら、外国に恥をさらしに来たのか?!と頭にくる。どんな国だって、ちゃんとその国の歴史や文化や政治や文学をある程度勉強してから行かないと、そりゃ行っても静かに楽しむなんてことはできないよ。旅によって広めた見聞を、仕事や人生に生かせてこそ、なんだから、若い頃や現役時代に行かないと無意味です。はっきり残酷に言い切る。無意味。む・い・み。ぎゃあぎゃあ日本人同士で騒ぐことしかできないのならば、国内の温泉にでも行って、ゆかた着て卓球でもしてろ。ミネラル・ウオーターのペットボトルだけ持って、近場の町をスニーカーで歩き回れば古墳だってけっこう見つかるし、金もかからんのにね〜

それはさておき、私に貯金がないのは、私が「無駄使い」するからではなくて、私が稼ぐ貨幣の量が絶対的に少ないからなんであって、やっぱり、どうにもしかたない。どう考えても、私は「浪費」はしていないです。また自分が稼ぐ収入以上は、使えないんで使っていません。収支トントン「その月暮らし」です。実に爽やか。実に馬鹿。しかたないよ、今は。私は、人生の実質的スタートが遅かったので、30歳までは亜人間だったので、まだまだ自分への教育に金がかかる。私は、当分は「その月暮らし」をしなければならないのであります。それでも、いつかは飛ぶんだ大空を。100歳の白鳥になって・・・羽のはげた翼広げて、よたよたと・・・

しかしですね、やはり本来は、本多静六氏が身をもって実践し、かつ正直率直に書き残してくださった財産形成法&財産処理法が一番まっとうで確実で信頼できます。私も実践しないとなあ!と日々何年も思いつつ実践できていませんが。「収入の25パーセントは絶対に絶対に預金し続けて、ある程度たまったら気長に投資して、大きく資産を形成し、財政的独立(=知的独立でもあるね)を獲得し、金のために働くのではなく、道楽で働ける境遇となり、ついには資産を社会に還元し寄付して、世を去る」という生き方こそが、ほんとうに理想ですねえ!

最後に寄付して死ぬのならば、なんのための財産形成か?といぶかしむ方もおられるでしょうが、財産を自力で形成するという過程の中で、人間は努力し知恵を出し粘り忍耐し自らを鍛える・・・それが貴重なんじゃないでしょうか?それが面白いのではないでしょうか?それが、まっとうで堅実なる人生ってもんじゃないでしょうか?自力で努力して作った財産だからこそ、逆説的に、惜しげもなく寄付もできるのではないでしょうか?

同様に逆説的に、天下り役人の退職金みたいな「詐取金」とか、親とはいえ他人が作った金である遺産とかの「棚からぼた餅金」だと、かえって執着が出るのではないでしょうか?寄付して次代の人々に役立てたいなんて絶対に思わなくて、訪問販売とか怪しい投資話とか振り込み詐欺かなんかに消えていくのではないでしょうか?もしくは郵便局に任せたあげく政府に好きに使われてしまうとか、もしくは郵政民営化以後はアメリカの金融資本に盗られるとか・・・ほんとうに本気で知恵を尽くし苦労して貯めた、まっとうな金ならば、他愛なく詐取されないでしょう?他人任せになんかできないでしょう?だからこそ、寄付する場合でも、どこに寄付するか必死で考え調べるでしょう。わけのわからん団体の街頭募金なんて、何に使われているんだか。そういう団体の会計報告書なんて発表されてんの?

うちの死んだおっかさんも、かなり悪質な訪問販売に、かなり騙されていた。「たまたま男運が良くて楽してきたからなあ、自分を鍛えてきていないから、老いてこういうことになるんだなあ・・・買い物すればチヤホヤしてくれるもんなあ・・・子どもはチヤホヤなんかしてくれないもんなあ・・・老いたことの寂しさなんか誰も埋めてはくれないからなあ・・・人生って自業自得だもんなあ・・・禁治産者にするわけにもいかないし、まあ気がすむまで騙されていればよろし。いい亭主だったからなあ、死なれたら、もう寂しくてどうしようもないよねえ・・・まあ、私の金じゃないから、使える間は好きなだけ使えばいいよ。金がなくなれば訪問販売も来なくなるさ。しょせん、愚かな弱い人間はカモにされるんだ、この世の中では。騙されるほうが悪いんじゃ」と思って見物していた。まあ、だんだん母親が私に金を無心するようになったんで、ついに私も切れて訪問販売会社に片端から電話して怒鳴るはめになったけれどね。最近、大いに話題になった悪質詐欺リフォーム会社なんて、10年前からいたよ。「騙せるカモ」リストも、しっかり出回っていた。うちの母親んところにも、ひっきりなしに来たもん。あいつらの人生は、過去世も現世も来世も暗くて悲惨だ、間違いない。

だいたい、何のための金か?何で財産が必要か?食ってゆくのに必要な額を超えた金が、なぜ必要か?それは、「自由」になりたいからでしょう。金のためにしたくもない仕事をすること、金のために軽蔑している人間に頭を下げること、金のために思想信条とは違ったことをすること(戦時中の作家みたいにさ)、金のために人をも自分をも裏切るはめになること、こういうことから解放されるために、金は必要でしょう。だから、「あ、私はもう自由だ!」と、わかったら、「私はすでに金からも自由だ!」と納得できたら、金を手放すこともできるわけですよ。

ああ・・・そんな解放を味わってみたい。味あわねば、いったい何のための人生か。

いやあ・・・金って、金銭って偉大なる教育装置ですね。人格陶冶、徳育、知能訓練、体力増強、ボケ防止に、これほど使える教材もない。金を得るために働くから苦労せざるをえなくて、その体験から人間は学ばざるをえなくて、限られた金をどう有効に使うかと考えざるをえないから、自分の欲望を突き詰めなければならなくなる。人生の優先順位を決めなければならなくなる。自分がどういう人生を送りたいのか、そのときはっきり自覚することになる。だから、金銭の取り扱い法とは、神様が人間に与えた必修科目なのでありますね。

うちの学生にもさあ、ステレオタイプな物の見方をして、「金は汚い!人間は自分のことしか考えていない!」とか言う奴がいるんだけど、「金が汚いんじゃないの!金は道具なの!人間が馬鹿で使いこなせないの!自分のことしか考えないのは、人間の基本なの!心優しく思いやり深いけど、自分では食っていけない人間になるよりは、自分のことしか考えずに自立している人間の方が、偉いの!」と私は答える。

あ、この学生はアルバイトで引越し作業員やっているからさ、だから私は前から疑問に思っていたことを彼に訊ねてみた。「作業員さんのチップってさあ、それぞれの人にポチ袋に入れて渡したほうがいい?責任者の人にまとめて渡したほうがいい?」と。なんと、「ペリカンさん」(日本通運)の責任者は、アルバイトの人にも、ちゃんとチップを分けてくれるんだけど、「アート引越しセンター」の責任者は、アルバイトには分けてくれないんだって。だから、やはりチップは、それぞれに渡してもらいたいって。

そうかあ〜〜もう、私は、金輪際、「アート引越しセンター」には頼まない。うちの学生を搾取しやがって! みなさん、チップはそれぞれの人に渡しましょうね。責任者らしき人に全額を渡すと、みんな持っていかれる場合もあるようですから。何の話か?

また話が逸れました。そうです、ブレンターノさんの話でした。あの、ブレンターノといっても、文学のクレメンス・ブレンターノさんとか、現象学のフランツ・ブレンターノさんではなくて、経済学のルヨ・ブレンターノさんですからね。

本多静六氏は後に林学博士になったけれども、ドイツに留学したとき(明治23年!1890年)は、財政経済学を専攻し、そのルヨ・ブレンターノ博士に学んだ。本多氏が、赤裸々に率直に「私の財産告白」という名文を残せたのも、もとはと言えば、帰国直前の本多氏が、師のブレンターノ博士が言った言葉に触発されたからだった。以下は、『人生と財産』からの引用です。ブレンターノではなく、「ブレンタノ」と本多氏は表記しておられます。

<引用始め>

そのブレンタノ博士が、私の卒業帰国に際して、「お前もよく勉強するが、今後、今までのような貧乏生活をつづけていては仕方がない。いかに学者でもまず優に独立生活ができるだけの財産を拵(こしら)えなければ駄目だ。そうしなければ常に金のために自由を制せられ、心にもない屈従を強いられることになる。学者の権威もあったものではない。帰朝したらその辺のことからぜひしっかり努力してかかることだよ」といましめられた。

ところで、当のブレンタノ博士自らは、どうであるかというに、大学の経済学教授として立派な地位を保たれていたばかりでなく、その説くところをすでに実行して、40際歳で早くも数百万円(注約百億円前後)の資産家になっていた人なので、私はこの訓言を身にしみて有難く拝聴してきたわけである。

いったい何事でもそうであるが、口先や筆先ばかりで人にすすめるよりは、自らまず実践してみせ、しかるのちに人に勧めてこそ大いに効果があるものである。

<引用終わり 本多静六『人生と財産』pp.12-13より>

いや〜〜こういう、切実な助言を極東の後進国の日本から来た留学生に与えた先進国の先生って、立派ですね〜〜二重の学恩ではないですか。だいたい、学校というところは、人生のサヴァイバルにもっとも重要な「金とセックス」に関しては、まともに教えない迂闊なところではありますが(まあ教えようもないよなあ)、このブレンターノ先生は、きちんと金のことを、教えてくれたわけです。偉いなあ〜〜

で、今では忘れ去られたような感じのブレンターノ博士の本を古書店ネットで探しました。で、1941年(昭和16年)に有斐閣(この出版社は戦前からあったんだ〜〜)から出版された『近世資本主義の起源』(原書は1923年に出版)を入手しました。訳者は当時の中央大学の講師であった田中善治郎氏です。絶版本で新訳も出ていない本なんだから、2万円でも安いはずだけれども、福島県の古書店で4000円ほどで売っていました。冒頭で言及しましたヴェルナー・ゾンバルトの絶版本の全2巻『近世資本主義』(生活社、昭和18年、1943年)は、某古書店では18000円で売っていたけれども、大阪の某古書店では4500円だった。いや〜〜こういう絶版本を安く販売してくれる古書店にも、私は「学恩」を感じます。ありがとうございます。

さて、学者でありつつ、現実から逃げず、生活を軽視せず、「坊さん」やらず、「金はないけど精神的貴族だもん、僕は」という錯誤に溺れず、しっかり財産形成して、社会にも貢献したブレンターノ先生(私が尊敬する本多静六先生の恩師ならば、私にとっても恩師だと勝手に決めた)の本をこれから読みます。だけど・・・この紙、この読みにくい活字、旧漢字・・・読んでいると、どこやら痒くなる感じ・・・あの、ドイツ系の近代経済学の学究の方にお願いいたします。ブレンターノ先生の新訳出していただけませんか・・・

やっぱり、映画版『亡国のイージス』は観に行けないね。暑い暑い残暑の不快な日々を、地味に地道に私は生息しております。