アキラのランド節 |
---|
ロシア旅行:サンクト・ペテルブルク編(その1) [9/9/2005]初めてのロシアは魅力的でした。美しい国でした。期待をはるかに上回る充実した旅をすることができました。やはり、アイン・ランド゙が生まれた国です。偉大でないはずがなかった!アメリカしか知らない作家に、あんな物語が書けるはずがなかった! みなさん、観光客が行くような場所ならば、トイレはそこそこ綺麗ですし、英語も通用しますし、普通に用心していれば治安も大丈夫です!ロシアの人たちも、ソ連時代の習慣からか、引き締まった顔つきで、愛嬌は薄く無駄口はたたかないけれども、自然で素朴な情があっていいです!女性はおおむね美人(化粧っ気はないのにね)だし、食べ物はうまいし(おかげで、また太った)、音楽はいいし(クラッシック音楽や民謡だけでなく、ポップスもいいんですよ!オレーク・ガズマーノフという男性歌手が素晴らしい!)、自然は広大で豊かで美しく、夏でも涼しく快適だし、帝政時代の遺産は素晴らしい(民主主義では壮麗なるサブライムなるものは、何も遺せないみたい・・・)し。 もう〜〜サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館を見たら・・・ここの郊外のプーシキン市にあるエカテリーナ宮殿を見たら・・・フィンランド湾に面したピョートル大帝の夏の噴水宮殿を見たら・・・天国とは、こういう場所かと思わされました。私、死んだらあそこに飛んでいきます。あの街に行きます。決めました。 みなさん!!サンクト・ペテルブルクを見ずして、死ぬのはやめましょう!! 街に恋したことなどない私でしたが(ニューヨークは大好きだけど、恋すると言うほどのもんではない)、あの古都には、すっかり魅了されました!少女のように、少年のように、今でも、ぼ〜〜としております。モスクワの土産物屋で買った安いオルゴールの「カチューシャ」かけて聴きながら、はるかな北国に思いをはせております。このオルゴール、すぐ壊れるんですが、たたくとまた鳴ります・・・ 私は、アイン・ランド(アリッサ・ロウゼンバウム)が、ニューヨークを愛した理由が、サンクト・ペテルブルクに行って、より深く理解できるような気がしました。このふたつの街は本質的に良く似ています。ランドは、ニューヨークを描いているようで、実は故郷のサンクト・ペテルブルクを描いていたのではないか?『水源』や『肩をすくめるアトラス』に描かれているニュー・ヨークには、サンクト・ペテルブルクの残影が色濃くあります。この街を眺めながら、私はランドが最初に書いた小説で、1938年に発表されたサンクト・ペテルブルクが舞台である『我ら、生きる者』(We, the Living)の場面のあちこちを思い出していました。と、同時に私は、『水源』や『肩をすくめるアトラス』のいろいろな場面を思い出してもいました。ハワード・ロークやダグニーがこの街の石畳の白夜の歩道を闊歩していても、全くおかしくないのです。 さて、サンクト・ペテルブルクとニュー・ヨークのどこが似ているか?それを、これから、ゆっくりゆっくりお話しいたしましょう・・・
9月1日(木曜日) ところで、ここから、650キロ北西にあるサンクト・ペテルブルクに行くためには、自動車で15分の距離にある国内線用空港の第1ターミナルに行かなければならない。ロシア語は、33語のアルファビート(アルファベットのこと)と簡単な単語と挨拶しか知らないので、日本の旅行会社に、ちゃんと第1ターミナルへ送ってくれる車と日本語ガイドを頼んでおいたけれども、なぜか来ていない。出迎えの人々の中に、それらしき人はいない。じゃあ、自分で行くしかないよね。 ひっきりなしに簡単な英語で話しかけてくる白タクの運転手たちを、「ニエット!ニエット!」と振り切りつつも、その中でも人相の良いオジサンと交渉して37ドルで手をうとうとしたら、Official Taxiというカードをぶらさげたお兄さんが強引に割り込んできて、「うちは30ドルでいい!」と言う。そいつの人相が悪いから、「いや、私は、もうこのオジサンに頼んだから、いらない」と私が答えたら、そいつがギャアギャアと、そのオジサンに食ってかかり始めて口論が始まった。人だかりがして、警官まで来てしまった。オジサンはしかたないから離れていく。私も、しかたないんで、その人相の悪いお兄さんに頼むことにする。くそ。 しかし、実はそのお兄さんは、「公的タクシー」の従業員でありながら、白タクも斡旋して、白タクからピンハネするグループの客引き担当だった。私と夫は、そのお兄さんから、大昔の日活アクション映画に出てきそうな感じの無線機を持って背広を着た手配師みたいなデッカイお兄さんを紹介されて、そいつに案内されて、戸外のタクシー乗り場に出た。外は、涼しいのを通り越して肌寒い。夕暮れの遅いロシアの夏の空は、まだあくまでも青く明るい。 やって来たのはタクシーではなく、普通の乗用車。しかも、30ドル前払いしてくれと、そのロシア版日活アクション映画風スーツ男が言うんで、私はムカッと憮然とする。そしたら、「ちゃんと30ドルの領収書を、前もって出すから!サインするから!」と、そのスーツ男が言うんで、そうしてもらう。ちゃんと公的なレシートみたいでした。 「公的タクシーの客引き係が斡旋する白タク運転手さん」は、くたびれた感じのお兄さんだった。15分ほど、いかにも北国らしい風景の中を走って、シュレメチェヴォ空港第1ターミナルに着く。ロシアは、チップ制ではないけれども、夫が5ドルのチップを運転手さんに出したら、それまで一言も話さなかった運転手さんが、Thank you very much !と笑って答えた。この人は、あの30ドルのうち、どれだけピンハネされるんだろうか?のっけから、なんかロシア的光景を見たような気がする。 シュレメチェヴォ空港第1ターミナルの建物に入る前に、すべての持ち物は機械に通して検査されなければならない。建物に入ってから、50ドルをルーブルに両替する。トイレに入りたいけれども、有料だとルーブルが必要だし、お腹もすいたからどこかに入りたいし。1ドルは、29ルーブルと28ルーブルの間くらい。1000ルーブル札を渡されたんで、もっと細かい札に替えてもらう。『地球の歩き方』に、高額な札は使い辛くて、お釣り出してくれない店も多いと書いてあったから(実際はそうでもなかったが)。両替所の若い女性は美人。ロシアの女性って、だいたい綺麗ですよ〜 「汚いかも・・・」と覚悟して入った空港内のトイレは古いけれども、まともに綺麗。便座の枠の幅が狭いから、お尻の小さい細い人は、便器にはまってしまうかもしれないけれども。もちろん無料だし、手洗い後に手を乾かす温風器もついていた。掃除婦のオバサンが素朴でいい感じ。こっちも年配ながら美人で色白。あたり前か。 サンクト・ペテルブルク行きの飛行機は午後8時20分発だけど、その便のチェック・インの始まる時間は6時20分と決まっていて、それまではチェック・インできないと、インフォメーションのお姉さん(感じは悪いが、そこそこ美人)が言うので、ただひたすら待つ。待合室のコーナーの椅子がみなふさがっているので、私はスーツケースの上に腰を下ろす。座るのに飽きると、空港内を見物がてら散歩。 ちゃんとドラッグストアには生理用ナプキンも売っている。ストッキングも売っている。コカ・コーラもある。インスタント・カメラもある。なぜか、プロザイックというアメリカで有名な「うつ病」の薬も売っている。ここは、ほんとうにロシア?見渡すと、日本人なんかいない。だいたい東洋系がいない。空港は、古いけれども静か。ロシアの人々は、物静か。表情もあまり変えない。話すときの声も大きくない。 そろそろ6時近くなった。ガラスの壁の向こうのチェック・イン・カウンター(ここが、日本やアメリカとはシステムが違う)に行く前に、また関門があり、また荷物の検査。今度は、上着から携帯電話、靴まで調べられる。何回調べるんかなあ。ギャアギャアうるさい声が聞こえたんで、振り返ったら日本人の団体旅行。ご老体が多い。若い女性添乗員が世話していた。ロシア人の年配の男性が日本語ガイドを努め、しょうもない下品な冗談を言って、オバハンたちを笑わせていた。幸いなことに、その団体は、行き先は同じだが、乗る便は違っていた。よかったなあ。うるさいのは嫌いだ。こうして眺めると日本人って、男女ともブスが多いなあと思ってしまう。年齢のせいだけではない気がする。緩んでいるんだよ。精神が弛緩している感じ。 チェック・イン・カウンターでチェック・インが始まるまで、また待つ。ビジネス・マンらしき大柄の男性が、こっそり空港の男性職員にお札を数枚握らせて、なにかチェック・イン・カウンターで操作してもらうのを目撃する。20年前に、ソ連のアエロフロートでモスクワ乗換えでイギリスに行ったとき、中年の女性がニナ・リッチの香水を紙で包んで、スチュワーデスにこっそり渡して、座席を替えてもらったのを目撃したことを、思い出す。あの当時のアエロフロートのスチュワーデスのお姉さんは、ほんとうに感じが悪かった。トイレも紙が切れても補充していなかった。いくらなんでも、今のアエロフロートはサーヴィスも格段に向上したに違いない(かなあ?)。 チェック・インをすませて、搭乗口まで行き、そこの待合室でまた待つ。お腹がすいたから、ラウンジみたいなカフェテリア形式の店でポテトサラダとハム&チーズのサンドイッチにコーヒーとミネラル・ウオーターを注文したけれども、綺麗な女性の店員さんは英語がわからない。身振り手振りで注文し、二人分で値段は900ルーブル以上。30ドル以上でっせ。高いなあ。周りを見渡すと、身なりのいい人たちばかり。どうも私たちは値段の高い店に入り込んでしまったらしい。ロシア最初の食い物はうまい! やっとアナウンスが始まり、搭乗口を通過し、外に出て、バスに乗り込む。バスはエグゼクティヴ・クラスと、エコノミー・クラスに分かれている。エグゼクティヴ・クラスには数人の客しか乗っていないが、私たちの乗った方のバスはいっぱい。飛行機のタラップを上る前に、西の空が紫色に少しだけ染まりかけて光が弱まっているのを確認。夕暮れにはまだ少し間があるようだ。気温は摂氏10度ほど。コート着ている女性もいたよ。 空港職員は、女性が多い。みな、きびきび動き実直に職務をこなしていて、無駄に笑わず、媚がない。同僚とベラベラ私語もない。これは、相互監視のソ連時代からの保身の習慣なのか、それともロシア人の真面目さなのか?アイン・ランド゙が描くヒロインを思わせるような硬派の美人ばかり。いいなあ〜フライト・アテンダントの女性も綺麗でした。 なんか、アメリカを旅行しているよりも、ロシアの方が違和感がないのは、なんでだろう?いつもは神経質な私がすごく落ち着いていられる。不思議。アイン・ランドの霊がそばについていてくれるのだろうか。 やっと、古都サンクト・ペテルブルク近郊のプルコヴォ空港に午後10時ごろ到着。飛行機の窓から見ると、日がやっと暮れていて暗くなっている。旅行会社に頼んでおいた日本語ガイドさんは出迎えに来ているかな?来ないならば来なくていいよ。何とでもなるわさ、と思って、荷物を受け取って、ゲートを出たら、背の高いやせた40代最初くらいの知的なロシア人男性が「フジモトさんですね?」と話かけてきた。あ、このガイドさんなら安心だ。よかった、よかった。お名前はアレクサンドルさんとおっしゃる。あの『シンドラーのリスト』でシンドラーに扮したアイルランド系俳優のリーアム・ニーソンをうんと細くして、うんとインテリっぽくした風貌の方です。ショーケン(ってわかるかな?)を小顔にして白系ロシア人にしてインテリにしたような感じでもある。 アレクサンドルさんは、日本人(というか、日本人のトイレの近さ)には慣れているらしく、「ここから、ホテルまで時間がかかりますから、この下でおトイレすませてください。すませておいた方がいいです」と、断固としておっしゃる。素直にそうする。 運転手さんつき迎えの車にスーツケース類を運び入れて、ホテルに向かう。平坦な広大な野原の中に森があちこちにあるような土地にバ〜ンとまっすぐに作られた道路を車は、ひたすら走る。私は、車窓から見える看板のキリル文字の解読に忙しい。日本の外来語みたいなもんで、英語の発音をロシア語表記にしたものが結構多いので、なんとか意味の見当がつく看板が多い。コカコーラもシティー・バンクもあるし、マグドナルドもあるしフォードもあるし、トヨタもホンダもニッサンもミツビシもあるよ。
途中に、戦士たちの大きな像の建つ広場があった。何かのモニュメントのようだ。ここはサンクト・ペテルブルクの入り口で、このモニュメントは第2次大戦のレニングラード攻防戦(サンクト・ペテルブルクはソ連時代はレニングラードという名前だった)の記念碑だと、ガイドさんが説明してくれる。そうだ、900日もドイツ軍はこの街を封鎖して、兵糧攻めにしたのだ。900日でっせ・・・ 第2次世界大戦の連合軍の勝利は、実は、ドイツにソ連が絶対に屈しなかったことによってもたらされたものであって、ノルマンディー上陸作戦のせいではない。だいたい、「史上最大の作戦」とアメリカが言ったノルマンディー上陸作戦だって、最前線で戦っておびただしく戦死したのは、ポーランド兵だったんだぞ。ハリウッド映画に騙されないようにしましょう〜 ここから、この街一番の大通りであるモスクワ通り(モスクワ・プロスペクトと発音する)に入る。4車線の広さの道路である。土地が広大なせいか、なんか何でも大きい。とっても資本主義的なブランド店などが立ち並ぶこの大通りを車は走り、しばらくしてから、運河沿いの細い道路に入る。運河沿いに立つ建物の素敵なこと。18世紀に建てられたビルも多いそうだ。夫が、「変だなあ・・・なんかニューヨークに似てない?まるで違うのに、なんで似てると思うんだろう?」と、私が感じていたのと同じことを言う。「この街は、沼地だったところに、1703年にピョートル大帝が徹底的な都市計画を練って、運河めぐらせて、できた人工都市だから、そこが似ているんだと思う。なんもない場所にヨーロッパから建築家呼んで作らせた。マンハッタンもヨーロッパからの植民者が作ったし。どちらも人間の脳が作った街だから。自然発生的にできたムラから発展したんじゃないから」と、私はお勉強の成果を披露する。 運河沿いの道をあちこち曲がり、車はこの街一番の繁華街であるネフスキー通りに出て、私たちの宿泊先のネフスキー・パレスに到着。ガイドのアレクサンドルさんは、心細やかで優しい方です。「運転手さんの今日の仕事はこれで終わりですから、運転手さんにチップ出していただけませんか」と言うので、ロシアではチップ不要と聞いていたが、やっぱりこういうこともアメリカ化しているんだなと思って、10ドル渡す。運転手さんは嬉しそうだった。ガイドさんにとっても、運転手さんにいい気持ちで仕事してもらいたいよね。ちなみに、チップは、ユーロかドルで払ったほうがいいそうだ。ルーブルで払ってもしかたないんだそうだ。自国の通貨の変動が激しいのも辛いね。 ネフスキー・パレスは5つ星ホテルだから綺麗で、従業員のマナーもいいです。気持ちのいいホテルです。壁や床の大理石がピカピカ光っています。 チェック・インをすませてから、ロビーでガイドさんと明日とあさっての日程を打ち合せる。このガイドさんならば、大丈夫だと確信して、私は実は観光に来たのではなくて、こういうわけで・・・とアイン・ランドのこととか事情を話し始める。アメリカで出版されたランドの伝記を見せながら、私が行きたいのは、ランドの生まれたアパートメントの建物、少女期に住んでいた建物(1917年の2月に、ここのバルコニーからすぐに見えるズナメンスカヤ広場に赤旗を振った革命支持の群集が集り、警察がそこに突入するのを、12歳のランドは見た)と、通っていた女学校と、母校のサンクト・ペテルブルク大学であり、できればこの大学の図書館にランドの本があるかどうか調べたいし、できればランドの小説の原書や日本語訳を寄贈したい、私は彼女の小説のひとつを翻訳もしたし、ご協力していただけないか、もちろんお礼はさせていただくと、私はガイドさんに説明し、依頼する。 すると、おもむろにガイドさんは、「私はこういう者です」と名刺を私に渡す。そこには、日本語で「サンクト・ペテルブルク国立大学 東洋学部極東諸国史科 フィリッポフ・アレクサンドル 助教授 専門:近世日本史」とある。お〜〜なんとおお〜〜この方は、私にとっては「ネギしょった鴨」でした!「飛んでアイン・ランド熱に入る晩夏の虫」でした!これは、どう考えても、アイン・ランド゙がセッティングしてくれた出会いに違いない。友人から、サンクト・ペテルブルク大学の教員や学生が、アルバイトで夏休みには観光客のガイドを勤めるとは聞いていたのですが。また、ロシアで一番最初に日本語学校ができたのは、このサンクト・ペテルブルクであり、エカテリーナ2世に大黒屋光太夫が謁見を許されて以来の、日本語教育の伝統があるのがこの街だということは知ってはいたのですが。まさか、ドンぴしゃりの方が、たまたまガイドさんだったとは!なんと、なんと、なんと。 これ以降は、アレクサンドルさんから聞いたお話です。ソ連時代は大学は国立だけだったが、ロシア連邦になってから私立大学も増えてきたそうだ。しかし、ロシアにおける国立モスクワ大学と国立サンクト・ペテルブルク大学のダントツの高いステイタスは不動だ。しかし、ソ連時代に比較すると国立大学教員の暮らしは楽ではなく、大学教授も副業をしないと食べてゆけないそうで、語学を生かして観光客相手のガイドをしている教員や学部学生や大学院生は多いのだそうだ。ガイドの仕事の都合のために、ときには授業を同僚に代わってしてもらったり、お返しに代わりにしてあげたりもするのだそうだ。日本で国立大学の教員が、どこかに正式に勤めたりする副業は禁止されているが、ロシアでは構わないそうだ。副業認めないと、教員が食ってゆけないから、大学は黙認だそうです。「せめて、ドルで言えば、2000ドルぐらいの給料が出れば、ガイドもしなくてすみますが」とのこと。厳しい・・・ なにゆえか、今年は日本人観光客が例年の3分の1くらいしか来なかったそうだ。だから、あまりガイド業が忙しくはなかったそうだ。なんでかな? アイン・ランドのゆかりの場所探しのために、アレクサンドルさんはご自身で車を運転して回ってくださるとのこと。また、大学の図書館には寄贈するのは無理かもしれないが(本の置き場所がないって)、日本語学科に寄贈できるように話してみると、約束してくださった。ありがたいことです。そうした案内料として一日分の謝礼額(ドル建て)を提示していただいて(私はその2倍お礼することを心に決めた)、取引成立。最高。 アレクサンドルさんの日本語は、私の日本語より立派です。サンクト・ペテルブルク大学助教授っていえば、日本でいえば、京都大学の教授みたいな感じでしょう?教えるのは、日本の原始時代から現代に至るまでの歴史ですが、研究分野は徳川時代の三大改革だそうです。例の享保の改革とか寛政の改革とか天保の改革って奴ね。なんでロシアのインテリが日本の徳川時代に関心があるのでしょうか?『大日本資料史』が愛読書のロシア人なんて、ほんとうに不思議。あれ、漢語で書いてある部分が多くなかったっけ?日本近世の資料なんて、古文書でしょ?そんなもん、なんで読めるのかしらんね?このアレクサンドルさんは、世が世ならば、私なんか口もきけないくらいのエリートなのであります。学究なのであります。 しかし、付け焼刃だけれども、ロシアと日本の交流史に関して勉強しておいて良かったと、私はつくづく思ったよ。徳川時代の初期あたりから、日本の漁船や商船が、漂流してカムチャッカあたりに流れ着いて、ロシア人に助けられたとか、漂流中にロシアの船に救助されたっていう例は多くて、日本人が思っている以上に、ロシアは日本のことを知っていたし、研究もしていたのだ。日露辞書作成も徳川時代中期には試みられていた。明治になると例の函館五稜郭の生き残りの榎本武揚なんかロシアに渡って、シベリア900キロを馬車で踏破しているし、アレクサンドルさんの教え子の大学院生は、この榎本武揚が博士論文のテーマなんだそうだ・・・アレクサンドルさんは、徳富蘆花(蘇峰の弟?兄?)の話もなさっていた・・・私、読んだことないよ。 かくのごとく博学な日本史学者のアレクサンドルさんは、その一方で、旅行会社に登録している正式の許可証を持った観光ガイドなので、その立場から事も進めなければならない。旅行会社がすすめるような観光も通りいっぺんは、私たちにしてもらいたいと言う。運転手さんとか車の手配もすませているので、それを私が断ると、運転手さんの仕事もなくなるし、旅行会社に金も落ちないし、旅行会社から出るガイド料も出ないし(とまではアレクサンドルさんは言わなかったが)、土産物店に観光客を連れて行って、客が買えば客の購入額に応じてキャッシュバックが旅行会社とかガイドにもあるが、それも不可能になるし(とまではアレクサンドルさんは言わなかったが)というわけで、それもごもっともと私は納得した。 日本だろうがロシアだろうが、みな生活がかかっています。そのきつさは私にもわかる。生きて働いて食っていくのは、どこの国でも大変だ。では明日のエルミタージュ美術館と、あさっての郊外のプーシキン市にあるエカテリーナ宮殿と、これもまた郊外にあるピョートル大帝の夏の噴水宮殿と、ネヴァ河クルーズのガイドをお願いすることにする。勧められたがバレエ鑑賞はお断りする。だって、ニューヨークでいっぱい見たバレエのプリマドンナはみなロシア人でしたからね〜〜。あれだけ跳躍して踊って飛んでも舞台の床が鳴らないほどの軽やかさ。優雅さ。ほんとうに妖精のような美しさ。バレエは、もういいよ・・・バレエ見ると、いっこうに痩せない自分が情けなくなるもんな・・・なんで、サンクト・ペテルブルクにまで来て、体重を思い出さないといけないか? さてさて、やっとホテルの部屋にはいって、時計を見たら午前12時近く。日本時間でいえば、9月2日の午前5時ほどだ。打ち合わせが長引いたからだな。長い長い長い一日だった。持参した湯沸かし器で湯を沸かし、ニューヨークで買ったマグカップに熱い湯を満たし、ティーパックのほうじ茶を入れて飲んで、ほっと一息。やっと、ほんとうにロシアに来たんだなあ。明日は強行軍だ。入浴したら、さっさと寝よう。眠い・・・ |