アキラのランド節

ロシア旅行:サンクト・ペテルブルク編(その2) [10/1/2005]


9月半ばから秋学期の怒涛の労働が始まって、ドタバタしているうちに、なんとロシアに出かけてから、はや1ヵ月が過ぎてしまったではないですか。西原理恵子風に言えば、私は鳥頭(3歩歩くと忘れるぐらい記憶力がない)なので、大丈夫であろうか。

さてさて、サンクト・ペテルブルクへの慕情は、手の届かない美しいはかないものへの諦念に限りなく似た憧憬に変わり、今や心の奥底で哀しみのようなものとなって沈殿しております・・・

あああ〜〜教務委員としての、来年度の開講科目と担当教員を決める仕事なんか、本音としては、どうでもいいもんだから、ついつい放置してしまって、なかなか片付けられない。まあ、明日の日曜日に出勤して処理してくるか。これが、私の現実で日常だよね。生活費獲得の労働なんて、つまらんもんよ。しかし、あの晩夏のサンクト・ペテルブルクの憂愁をたたえる清涼な青空と再会するためには金(かね)がいる。働こう。会議はやっぱり大嫌いだから、某委員会の委員辞退を学部長に打診中。学内行政しかやることのない暇なジイサンたちの無駄口たたきの会議なんかには、ほんとにつきあってられないよ。

ところで、秋学期から週1回開講で「日本アニメの諸相」というクラスが始まった。これは留学生用のクラスなんで、英語で講義しなければならない。その点に関しては、「要するに英語みたいなもんでいいんでしょ?」と、恥を忘れてプライド捨てまくって開き直ればいいのであるが、日本アニメに関してのまとまった勉強を、夏季休暇のときに、全くできなかったので、大あわてで文献を読みまくり、あらためてアニメを見まくる日々であります。ただでさえ忙しいのに、さらにさらに余裕がないです。

留学生は、ほとんどが日本経営を学ぶみたいな目的の経営学部の学生です。なかには、何を勘違いしたか、ウイーン大学みたいな名門大学から来たポルトガル語も英語も日本語もフランス語もできるドイツ語が母語の美人のオーストリア人女子学生もいます。なんで、こういう西欧の秀才が、ニッポンの南大阪を、うろちょろしているのでしょうか?時間の無駄のような気がするが・・・日本人受講生も多いです。ほとんどが、英語のシラバス読まずに登録してしまった学生のようです。始業のチャイムが鳴り終わり、私がNow, let’s get started, shall we?!と発声した瞬間から、彼らは呆然としております。

全15回しかないクラスだから、手塚治虫と宮崎駿と大友克洋と押井守の4人のアニメーターの作品しか扱えない(要するに、私の好みだ!)。第1回目は、アニメの元祖たる日本漫画と漫画雑誌のルーツたる「鳥獣人物戯画」と「黄表紙」に関して話したが、調べていると、なんで日本人の大昔の視覚的認識は、細部はリアリズムで全体の把握は印象派みたいなんだろう?これ「近視のガキ」みたいな視点じゃない?とか、江戸期の日本人の識字率はどれくらいだったんだろう?とか、識字率の男女差は大きかったのだろうか?とか、この種の「草双紙」の流通はどうなっていたんだろう?とか、疑問がいくらでも出てきて、きりがないね。ほんと、きりがないよ、もう。

実は、さしものアニメ大国の日本も、若いクリエイターが育たなくて、凋落傾向にあるらしいが、「昔の名前で出ています」傾向にあるらしいが、大正期から戦前の日本のアニメーターの草分けの人々のことなど知ると、まあ、クリエイターなんて育てられるものではなくて、自分で勝手に人知れず、やむくもに育つもんなのだから、必ずまた、何もないような所から、思いもしない所から、天才たちが出現するさ、と思ったりする。守られなければ育たないひ弱な個性や才能なんて、個性でも才能でもないんだから。

それは、さておき、ロシア旅行記の続きであります。いよいよ、サンクト・ペテルブルク市を、アイン・ランドの足跡を求めて、うろちょろいたします。

9月2日(金曜日)

前日が疲れきっていたんで、今日の朝は遅めの10時から活動開始。天気は快晴。バイキングのホテルの朝食もおいしかった。客たちは、ホテルの従業員に英語でしゃべりかけていたから、みな外国人観光客なんだろうな。日本人観光客かな〜〜と思った人たちは、韓国人観光客だった。

まずは、サンクト・ペテルブルクにやってくる観光客のお約束のエルミタージュ美術館見学。このコースは、本当はホテルから歩いて行くコースなんだけど、私たちは、それが終わったら、ランドゆかりの建物を探し、サンクト・ペテルブルク大学訪問の予定なんで、ガイドのサンクト・ペテルブルク大学の助教授のアレクサンドルさんの自動車に乗せていただいて、美術館に向かう。車に乗り込む前に、2日分のガイド料金+αの紙幣を入れて、「謝礼」と書いた封筒を、礼儀正しくうやうやしくアレクサンドルさんに私は手渡す。何度か学生たちをニューヨークに連れて行った経験から言うが、チップや謝礼は、ガイドさんには仕事の始めに渡すのが一番であります。学生の面倒よく見てくれます。旅で頼りになるのは、胃腸の強さと金(かね)。カネは優しいと、旅に行くたびに思うね。

  ロシアには駐車場なんてものはなくて、停められるスペースがあれば、どこにでも駐車していいみたいで、運河沿いの道路や、大通り沿いにも、やたら自動車が駐車されている。それも日本みたいな止め方じゃなくて、歩道から道路に向かって突き出でる形で停めている。歩道に向かってほぼ直角に停められた車もある。むちゃくちゃである。いいんか・・・?しかし、アレクサンドルさんは、車を運河沿いの歩道沿いに行儀よく日本式に駐車。そこから少し歩くと、ネヴァ川の河畔に立つ壮麗なる冬宮(今はエルミタージュ美術館の一部)の前に広がる宮殿広場に出る。

冬宮もさることながら、ここから観る街の風景の素晴らしいこと。うわ〜〜ああ〜〜と、広場の真ん中で歓声が出てしまう。広場中央には、1812年の対ナポレオン戦争で勝ってロシアを守ったアレクサンドル一世の記念柱もある。広場は、この冬宮と旧参謀本部の弓なりに湾曲した威厳ある建物に囲まれている。この旧参謀本部の凱旋門の上には、「栄光」の擬人像がある。「かっこいい!かっこいい!」と語彙の乏しいアホな大学生みたいに、私は騒ぐ。

この街があるネヴァ川河口周辺地域というのは、バルト海に通じる水路の要所で、ロシアにとっては大昔から世界と結びつく交易の場所だったんだけど、北方戦争で北の強国スウェーデンに敗北してしまって、ロシアはここを1617年に取られてしまった。スウェーデンに併合されていたこの地域を奪回すべく、身長が2メートル以上あったという怪人(?)ピョートル大帝は、スウェーデンがポーランドと戦争している隙に、1703年に、この河口に要塞や港湾を建設した。

ついでに、ピョートル大帝は、「自分ではヨーロッパのつもりなんだけど、どうにも遅れていたロシア」を近代化したくて、ヨーロッパのどこの都にも負けない都を作りたくて、モスクワから600キロ離れた、そのネヴァ川河口周辺地域に新しい都を作ることにした。イタリアやフランスの建築家を呼んで、壮大華麗なる都市計画を立てた。国内からは4万人の農奴や5000人の職人を集めて、沼地を埋め立てさせ、森林を切り開き、運河を整備して、広い道路を放射状に作らせ、バンバンとヨーロッパの建築様式の建物を作らせた。それから、ピョートル大帝は、自分の守護聖人聖ペテロの名にちなんで(自分の名にちなんでということだろーが)、この街にサンクト・ペテルブルク(St.Petersburg)と名づけた。

要するに、ひとりの皇帝の負けん気と誇大妄想と夢と虚栄が、この街を無理強いに創ったのであります。その皇帝や、その継承者の女帝たちに仕事を全面的に託された天才的建築家たちが、資金と労力を潤沢に使わせてもらって、何もない空間に思いっきり自由に想像力を駆使して、徹底的に計算して、完璧をめざして、設計したのが、この街なんであります。だから、古くなっても、300年以上たっても、この街は、美しいというには、あまりに壮麗で、スケールの大きなサブライムの光芒を放っているのであります。

いや、はっきり言って、この街は「西欧の都のまがいもん」に徹して、西欧の都以上の都になってしまった、「西欧の都テーマパーク」みたいなきっちりとした端正さもありまして、西欧の古都の持つ美しさのエッセンスを体現しているのであります。むふふ。どうですか?サンクト・ペテルブルクに行きたくなったでしょう?けけけ。

まさに、この街は、『水源』のハワード・ロークを思い出させるのであります。アイン・ランドは、ほんとうに美しい全体=均整と一貫性があり、調和と機能と美が一体となった全体性というものは、まずは卓越したプロの頭脳の中から生まれるってことを、故郷の街の誕生の歴史から知っていたのですね。話し合って、互いの面子を立てあってみたいな人間関係を気にしていたら、統一感のある美都なんて創造できなかっただろう。

会議という、しょうもない話し合いの末に、結局は、トヨタのカローラ80点みたいな無難なデザインの建物が、オデキみたいに立ち並ぶはめになるのが日本の都市の風景。貧乏民主主義では、サンクト・ペテルブルクのような壮麗華麗な街はできません。

私の中学からの親友のご主人は、主に公共の建物を設計する建築設計事務所に勤務する建築家なのでありますが、その方が「いくらいいデザインを考えても、役人たちが、しょうもない平凡なデザインを多数決で選ぶ。役人は、どうでもいいことにもすぐ口を出すし」と、おっしゃったそうであります。役人なんて、勉強だけは真面目にしたけれども、美しいものを見る余裕はなく育ったというセンスの悪い奴が多いんだからさ、税金使って海外に視察に行っても、育ちの悪さがたたって物見遊山&飲み食いだけして帰ってくるのが関の山なんだからさ、黙ってプロに任せればいいのにね。まあ、それができないから、「小役人」なんだよね。

バロック様式の冬宮と呼ばれる宮殿(イタリアの建築家ラストレリの設計)に入ると、そこは、もうエルミタージュ美術館であります。私たちは、ここで3時間ほど使って、至宝の美術品(ほんの一部だけど)を見学した。はっきり言って・・・ニューヨークのメトロポリタン美術館なんて目じゃなかった・・・財閥っていっても、たかが財閥なんだよね。しょせん、大帝国の皇帝や女帝たちにはかなわない。とんでもないですよ、ロシアのロマノフ王朝の歴代の皇帝や女帝たちの奢侈というのは。空前絶後。美術品のコレクション欲というものも凄まじい。しかし、まあ、ここは省略ね。いくらでもガイド本があるからね。特におすすめは、富田知佐子さん著の『エルミタージュとサンクト・ペテルブルク』(ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会編)です。600円の小冊子ですが、きちんとした記述で、情報豊かで、実にいいです。

このエルミタージュ美術館で、私はすごい発見をしました!!エルミタージュ美術館の旧館から新館に入ったところで、ふと大きな扉みたいなガラス窓から外を見ると、何かを支えている若い男性の大きな彫像が、いくつか見えたのであります。あれは、何かとガイドのアレクサンドルさんにうかがいましたら、「アトラスです」と答えるではありませんか!「天球を支えるギリシア神話のアトラスですか!?」と興奮して確かめる私。「そうですよ。サンクト・ペテルブルクには、建物を支えるアトラス像が、あちこちにあります」と、私の興奮に不思議そうなアレクサンドルさん。私は、美術品見学が終わったら、是非、あのアトラス像を見たいとアレクサンドルさんに申し出た。だから、エルミタージュ美術館の最後は、外に出て新館の玄関見学ということになった。

私が目にしたアトラス像とは、エルミタージュ新館の玄関の屋根を支える「12人のアトラス」だったのであります。巨大な花崗岩を使った彫刻の「12人のアトラス」だったのであります。エルミタージュ美術館の新館というのは、代々の皇帝や女帝が集めた美術品を保管展示するための場所が不足してきたので、1839年にドイツからクレンツエという建築家を招いて、建設されたものだ。当時は、古代ギリシア様式再評価の時代で、クレンツエも新古典主義様式の建築家だった。だから、古代ギリシアの神殿建築のアトラス像を真似て、玄関の屋根も、巨大な花崗岩を使った彫刻のアトラス12人が支えているという形にした。、(このアトラス像の写真は表紙にUPされています。どうぞご覧ください!)

しかし、このアトラスたちは、筋骨たくましい美丈夫な若者が、健やかにまっすぐに立ち、頭の上に建物をいただいている姿の像をしている。それが12人いるんである。ニューヨークのロックフェラー・センターの前で、かがんで地球を支えている、ひとりの暗いオッサンみたいな、なんか「しんどそうですなあ」という感じの悲壮なアトラスではないんである。青春のアトラスなんである。

そうか!!アイン・ランドの心の中にあったアトラス像とは、このようなまっすぐに立って支える若々しい美青年のアトラスだったのだ!それも何人かのアトラス。まさに、『肩をすくめるアトラス』の「新世界」を建設する、ジョン・ゴールトやフランシスコ・ダンコニアやラグネル・ダナショールドのような美青年たちだったのだ!このアトラスたちこそが、アイン・ランドが心に描いたアトラスだったのだ!

うちの学生が、『肩をすくめるアトラス』を読み出したけれども、途中でこけて読み終えることができなかったと言うから、なんで?と聞いたら、「男がキャラ立ちしてないですよねえ。誰が誰だかよくわからないです」と答えた・・・う〜ん、ジョン・ゴールトとフランシスコ・ダンコニアとラグネル・ダナショールドは、あの同じ顔と姿をした美青年12人のアトラスの分身だからなあ、キャラがかぶっているのも、しかたないんだよね。同僚の年配の小説の読み巧者の方に、『水源』と『肩をすくめるアトラス』を進呈したのだが、「フジモリさん、小説としてはThe Fountainheadの方ができがいいね。あれは、なかなか面白かった。アトラスの方は、360ページくらい読んだところで、挫折した」とおっしゃって、その挫折理由のひとつが、それだったが・・・(しかしさあ、普通さあ、小説ならば360ページまで読んだら、最後まで読む気にならないか??)

うん・・・まあ、ジョン・ゴールトとフランシスコ・ダンコニアとラグネル・ダナショールドが何人束になってかかっても、確かに、「私のハワード・ローク」ほどの、キャラ立ちしたいい男にはなりませんが。3人のアトラスよりも、ひとりのハワード・ロークよ。ははは。何の話か?

いや〜〜しかし、やはり作家の故郷というものには、足を運ばねばなりませんね!足を運んでこそ、目で直に見てこそ、わかる真実というものが、やはりあるのですね!

私は、かねがね、Atlas Shruggedという作品のタイトルは実に卓抜秀抜奇抜なもんだと思ってきた。よくぞ考えついたもんだと思ってきた。しかし、アリッサ・ロウゼンバウムだったアイン・ランドにとっては、「アトラス」とは、ものすっごく日常的な風景だったのだ(このときから、私は、アレクサンドルさんの自動車の車窓から見る建物の玄関に、また翌日の夕暮れのネヴァ川クルーズの船から眺める建物の玄関に、まっすぐに立つ青年アトラスの彫像を、たびたび何人も何人も見つけることになった)。

ところで、ロシアでは、結婚式が終わると、わざわざ街の名所までやって来て、写真を撮る習慣があるらしい。私たちが、アトラス像を見物して、写真を撮りまくっている最中にも、ひっきりなしに花を屋根に飾った自動車が止まり、そこから婚礼衣装のカップルが降りてきて、後続の自動車からは礼装した友人たちが降りてきて、みなでアトラス像の前でポーズをとり出して、プロのカメラマンたちがフラッシュたいていた。真っ白なウエディング・ドレスを着て晴れやかに花嫁は微笑んでいた。結婚式はいいね、やっぱり。

なんか、昔、「赤い〜〜サラファン縫うたとて〜〜楽しい昔は帰りゃせぬ〜〜♪」っていうロシア民謡聞いたことない?ロシアの花嫁って、赤いサラファン着るんじゃないの?こういう白いウエディング・ドレス着るのは、これは、ペレストロイカ以降の習慣かと、アレクサンドルさんに私は訊ねる。アレクサンドルさんは、結婚式で「赤いサラファン」着るなんて聞いたことない、ソ連時代でも、結婚式は教会(ロシア正教会=ハリストス正教会)で、真っ白なウエディング・ドレス姿でしていましたよ、と答える。そうか、てっきりソ連時代は、市役所に行って登録するだけなんかいなと、私は勝手に想像していたが。いくら社会主義国でも、そんな散文的なことはなかったか(この点に関しては、サンクト・ペテルブルクは何につけてもヨーロッパ風で、モスクワとは違うということを、後で知った。サンクト・ペテルブルクはロシアであってロシアでないんである)。

午後も3時くらいに、かなり遅めの昼食を、ピョートル大帝騎馬像(青銅の騎士像)がある旧元老院広場のそばの、旧元老院の建物の中にあるSenateというレストランでとる。きちんとしたロシア料理が食べたいという私たちの希望にそって、アレクサンドルさんが選んだお店であります。入り口の台に分厚いノートが置いてあって、それは客が署名してなんか書いておくゲスト・ブックだった。日本人観光客のサインも多かった。確かに、小うるさい日本人観光客を連れてくるのに都合のいい綺麗な落ち着いたレストランである。ペラペラめくったら、「日本国首相 小泉純一郎」と、やたらでっかい字で書いてあるのを見つけた。え?あの人、プーチン大統領に会うために、モスクワのクレムリンにだけ行ったのではなかったの?字からしても、いかにも幼稚なしょうもない感じであった。

ロシアに入って初めて食べる本格的ロシア料理ということで、まずは、美術館歩きでくたびれていた私は甘いものが欲しくて、「紅茶にジャム入れたラッシャン・ティー」を注文したいと言ったら、「ラッシャン・ティーなんてありません。紅茶にジャム入れる習慣なんかロシアにありません」とアレクサンドルさん。そうかなあ・・・名古屋のロゴスキーというロシア料理店にはあったけどなあ・・・極東カムチャッカあたりの習慣なんだろうか?

ロシア料理はおいしいです(その後に食べたロシア料理も、みなおいしかった)!自然な味付けで、とても日本人の口にあいます。洋ナシのジュースも、赤カブのスープのボルシチも、魚と野菜のスープ(名前忘れた、有名なスープなのに。ウーハーだったか、そんな変な名前)も、ビーフ・ストロガノフも、おいしかったです!私としましては、ピロシキもロシア風水餃子も、つぼ焼きも食べたかったのでありますが、いかんせん一皿の量が多くて、いろいろ注文できなかった。残念。若い頃は、よく食えたのになあ。最近は、あんまり大食いできなくなった。残念。比較的高級なレストランで3人食って、100ドルちょっとだから、安いよねえ(ミネラル・ウォーターは500mlでも日本円換算で600円くらいするのにねえ・・・日用品が高いみたいだ)。マナーのいい気の利く可愛いウエイトレスさんには20ドルのチップ。

ゆっくりと食事を楽しんだのはいいが、帰り際に入ったレストランの綺麗な大理石のトイレで、食べ過ぎたせいか、私は下痢気味になってしまって、トイレに入っている時間が長くなってしまって、夫とアレクサンドルさんを待たせてしまった。トイレから出たら、夫が「あなたはウンコビッチ・ナガイノスキーか」と言いやがった。くそ〜〜(文字通りだな)。しかし、私は照れ隠しにヘラヘラと笑うしかない。

レストランから出たところから見える旧元老院広場にも、結婚式後の花嫁さん花婿さんが、何組も写真撮影していた。まだまだ明るい白夜の夏の昼下がりである。

食事のあとの目的は、旧元老院広場からは、ネヴァ川の対岸に見えるサンクト・ペテルブルク大学訪問。すみません、今日はここまでです。なかなか本題に入れないなあ・・・まあ、ゆっくりとお話させてください。10月最初の日が暮れてゆきます。ああ・・・サンクト・ペテルブルクでは、今頃、秋の紅葉が始まっているのだろうか・・・