アキラのランド節 |
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閑話休題--アイン・ランドが結んだ二つの御縁 [10/23/2005]あの不快でおぞましい高温多湿の長い長い夏が終わって、やれやれ、やっと少しは秋っぽくなってきたなあと思ったら、昨日あたりからは、いっきょに晩秋だ。サンクト・ペテルブルクの街角には、すでに冷たい風が吹いていることだろう。 う〜〜くたびれる毎日であります。大学の仕事だけやっていると、ドンドン馬鹿になりそうであります。たかが生活費を得るための労働ごときに、単なる「黒板土方」(副島隆彦氏の言葉を借用させていただく)の労働と意味のない会議奴隷の仕事なんかに消耗してなるものかと思いつつ、金曜日の最後のクラスが終わるとフラフラであります。だから、金曜日の夕食は大学の近所のレストランで食うことが多くなる。私は、この店の名前を長い間「多国籍料理」と思いこんでいたのだが、実は「無国籍料理」だと、やっと先日気がついた。ははは。 それにしても、私は、いつから、独りでレストランで長々と食事して平気になったのか?若い頃は、「女がひとりで外食なんて・・・イヤッ!」と思っていたのだけど、最近じゃ、どこでも平気で入って、ひとりで食ってる。近くの席のカップルなんか羨ましくも何ともないです。「けっ、食べ方の汚い貧相な男にサゲマン顔の女か、ぴったしやんけ」なんて悪態を心の中でついたりなどしません。無関心にひたすら味わいつつ静かに食う。年取ると、平気になることが増えていいよね。オバサンであることの自由と解放って、こういうところにもあるよ。むふふ。 昨日の土曜日の朝は、桃山学院大学がある大阪府和泉市の市民講座で、「英米の読者は政治小説が好き」というタイトルで、『指輪物語』と『肩をすくめるアトラス』について90分ほどしゃべってきた。聴講者は27名と多くはなかったが、やはり、まっとうな大人の方々の前で話すのは、ラクですね。日本語が通用しますからね。教養が共有されていますからね。だから疲れきってはいたが、気分よく帰ることができた。おひとりくらいは、『肩をすくめるアトラス』読んでくださいますかね・・・ アイン・ランドの小説は、「まっとうな、社会の木鐸たる中産階級の倫理観」を祝福する「修身の教科書」みたいなものだからなあ、斜に構えた小利口な駄文書いたり、しょうもないテレビに出てるエセ・インテリ知識人芸者には、まぶしすぎて、健康すぎて、まっとうすぎて、誠実すぎて、直視できないみたいだけど、まっとうな市井の人々が集まる市民講座系だとけっこう受け入れられるかもなあ・・・「もう絶対にやるか、高校の出張講義なんか、たたでさえ疲れているのに」・・・と思っていたが、アイン・ランドの話をさせてくれるのならば、高校にも行こうかな・・・と思い直した10月下旬の雨降る土曜日でありました。 ところで、例の「今学期の頭痛の種のひとつ」の英語で講義しなければならない留学生対象の「日本アニメの諸相」の授業も、少しは調子がつかめてきた。しかし、授業を始めてみて、私が驚いたことは、日本人のくせに、学生たちは『鉄腕アトム』も『リボンの騎士』も『ジャングル大帝』も知らないってことだった。1980年代の『アキラ』も、90年代の『攻殻機動隊』すらも、知らないってことだった。「手塚治虫」なんて、彼らにとっては「歴史的人物」でしかないということだった。1963年に初めてテレビ放映されたときの第1回の『鉄腕アトム』のビデオを授業で見せたら、反応が良かった。「白黒のアニメ」は初めてで新鮮だったようだ。アニメ技術は拙いのに実に面白いってことにも驚いたらしい。そうだよ、60年代の手塚治虫は良かったんだぞ!アニメだって、要は魂なんだぞ!人間の知恵なんだぞ!愛なんだぞ!技術がすべてじゃないんだぞ!何が3Dアニメだ。CGアニメだ。わかったか、ざまみろ。 それはさておき、私が特にびっくりしたのは、『鉄腕アトム』の主題歌を、学生の誰も知らないし歌えないってことだった。声高らかに合唱しようとおもっていたのに(どういう授業だ)。みなさん、「空を超えて〜〜ラララ〜〜星のかなた〜〜行くぞ〜〜アトム〜〜ジェットの限り〜〜心優し〜〜ラララ〜〜科学の子おおお〜〜♪」という、あの名曲を歌えない日本人がいるなんて、信じられますか??少なくとも、1960年代のガキにとっては、『鉄腕アトム』の主題歌は、「君が代」よりも、はるかに“national anthem”であったのに。今でも、私はあの歌をよく口ずさむ。あの歌を歌うと、心の奥が、じんわり温かくなるしね。人類と地球を救うために太陽に向かって飛んでいったアトムの後姿を、最終回のあの姿を思い出すと、今でも私は涙が出てくるのでありますよ。 いや〜〜しかし、「昭和は遠くなりにけり」ですね。というわけで、留学生対象の「日本アニメの諸相」というクラスは、日本人学生にとっては、「大昔の伝説のアニメ」を見せてくれるお気楽なクラスみたいです。せっかく作った英語のハンドアウトなんか無視されております。ちゃんと読め! さて、今日は、ロシア旅行---サンクト・ペテルブルク編(その3)ではなく、閑話休題として、「アイン・ランドが結んだふたつの御縁の話」をさせていただきます。
<御縁その1> 佐々木さんのサイトのテーマは、アイン・ランドの人間観や世界観を、武術家であり運動研究家(スポーツ評論家では断じてないよ)高岡英夫氏が提唱する身体と心のコントロールという意味での「極意」から考察するという、型破りなものです。そうか!そういう観点がありうるか!とびっくりするような視点からのアイン・ランド研究の試みです。 私自身、アイン・ランドの小説、特に『水源』なんか読んでいて、アイン・ランドには独特な身体感覚があるみたいだな〜〜ということは感じてはいた。たとえば、『水源』の冒頭に、「男は厳粛に立っている。肩甲骨が強くひっぱられるのを、首の曲線を、手に満ちる血の重さを、彼は感じている。風を背後に感じる。背のくぼみに感じる」(『水源』p.6)っていう記述がある。ハワード・ロークが全裸で湖に面した崖の上に立っている場面なんだけれど、私は訳していたときに、「こんなこと感じるかなあ?」と不思議に思ったものだ。体の各パーツが感じることを心が感じていること、そのように心が感じていることを意識すること、というのは、かなり奇妙なことであるような気がしたのだ。特に、ぶらさげた手に「血の重みを感じる」なんて記述は、ずっとずっと私の心にひっかかっていた。みなさん、手に指先に血の満ちる感じなんか意識したことが、ありますか? また、アイン・ランドは人間の姿勢に関する描写も独特なところがある。たとえば、ゲイル・ワイナンドのことを、ランドは次のように描写している。 「硬質な印象を与えようと、わざわざ、あえてまっすぐ立つ必要など彼にはない。 高価な鋼鉄のように彼は身体を曲げる。前かがみになる。彼のそうした動作を見る者は、彼の前かがみの姿勢の背後に、前かがみになった彼の体の奥深くに、いつでも彼の姿勢を直立にもどそうとする凶暴なバネが密かに存在していると感じてしまうから。こうした印象こそ、彼が必要とするものだ。彼は、まっすぐに立つことなどほとんどしない。彼はぶらぶらと歩く。彼が何を身につけていようと、彼が与える印象のために、彼の立ち居振る舞いには、あふれるような優雅さが漂う」(『水源』p.555) この描写は、ゲイル・ワイナンドというゴージャスな男性の「凄みのある優雅さ」を良く伝えると同時に、「そんな強靭な優雅さを漂わせることができる人間しか持てない傷つくことができる能力」というものを予言している。私は、こんな魅力的な姿勢の描写なんか、それまで読んだことがなかったぞ。なんと、かっこいい・・・なんと(潜在的に)悲劇的な・・・この短い一文に、ゲイル・ワイナンドの人生と彼の魅力が全て凝縮されているではありませんか。 世間を眺めていると、傷つく能力のない人間が多いよね。「蛙の面にナントカ」みたいな人間が多いよ、男女問わず。若くても、そういう資質の人間は存在する。そういう人間は強いというより、根本的に知性がない。感受性がない。そういう連中って、死ぬまで亜人間。死んでも亜人間。何度生まれ変わっても亜人間。9月11日の衆議院選挙には、この種の人間がしょっちゅうテレビに映っていたね。この前は、その代表みたいな奴が、靖国神社の賽銭箱に下司な動作で貨幣を放り投げていた。二礼二拍手一礼の日本人の常識みたいな作法も知らん奴が参拝するな!あの人、ほんとに日本人?わが故郷の尾張名古屋が生んだ英雄、織田信長のファンだなんて、チャンチャラ可笑しいわ。日本近代の礎を作った(小室直樹氏『信長の呪い』の説です)稀代の天才への冒涜だ。お前みたいな気持ち悪い顔した亡国首相なんか、性器みたいな顔した女性国会議員連中とチイチイパッパ遊んでりゃいいんだよ!まったく靖国神社が穢れるわ! 話を戻します。ともあれ、身体や姿勢に関する独特な描写は、『水源』の中にけっこう見つかる。『水源』の中には、食べ物や料理の描写はほとんどない。「子ども」が描写されることもない。女性の作家のわりには、服装も丹念には描写しない(三島由紀夫なんか、衣服の布地の種類や質までちゃんと書くぞ)。化粧の具合も描かない。ランドはあまり食い物に関心がなかったし、ガキにも関心がなかったし、服装にも化粧にも関心はなかったということが、これでわかる。人間は関心のないものは書けないからね。しかし、登場人物の姿勢や体の微妙な動きは、『水源』においては、よく描写されている。『水源』においては、どんな体つきか、姿勢か、どんな身のこなしをするかを描くことによって、その人物の人格のありようが伝えられる。 だから、佐々木一郎氏の目的が、アイン・ランドと高岡英夫氏の「身体と心の関連に関する」理論から考察することだと知ったときは、「あ、なるほど!」とすんなり理解できた。ただし、理解できたのは、そこまでで、いろいろ高岡氏の著作を読んではみても、高岡氏の理論は私にはよくわからない。だから、ここでもわかりやすく説明できないです。高岡英夫氏は、明治に入るまでの日本人が持っていたが、その後なぜか喪失されてしまった優れた身体感覚が、21世紀になって若き天才たちの出現(イチローとか)という現象により、日本人に蘇ることを予言し、論じている方です。ご自身が天才的武術家なんであります。へえ〜〜こんな人が日本にいるんだと驚く。こういう研究領域があるんだと驚く。まあ、ともかく、みなさん佐々木さんのサイトを訪問してみてください。 私にとっては、物心ついて以来、自分の身体というものは、みっともなくて不自由なものでしかなく、おぞましく呪わしいものであったので、身体と心の関係に関して考えたことなどなかった。また女性は、身体を「見てくれ」の観点からしか判断しない傾向があるんで、私もそういう見方しかできなくて、「何で私の身体はこうもみっともないのか?なんちゅう醜い身体じゃ。鏡なんか見たくもないわ」という調子で来て、自分の身体なのに、自分のものではないような、うるさい異物みたいに邪険に扱ってきた。はっきり言って、綺麗じゃない自分の身体を憎んできた。つまり、長年の間、私の身体は私自身から疎外されてきた。私は、自分の身体を仲間はずれにしてきた。「こういう身体は、神様が私につけ間違えたもんである」と思ってきた。男の子の青い心臓と女の子のピンクの心臓をどちらも飲まされたしまったサファイヤ(『リボンの騎士』のヒロインの名前)ならぬ、もっと綺麗な肉体が私の意識に接合されるはずだったのに、なんかの手違いがあったのだと思ってきた。 その私の身体感覚が、高岡英夫氏の理論はわからないままに、ともかく高岡氏が薦める「ゆる体操」を、毎朝この1ヶ月ほどやってきたことによって、変わってきた。はっきり変わってきた。なんと、私の心が私の身体と仲良くなりつつあるのだ。「今日も、まあよくやったよね」と、私の心が私の身体に語りかけるようになり、前は呪うばかりだった短くて太くて毛深くて曲がっている脚を、「何だよ馬鹿、なんで痛くなるんだ、さっさと歩け!のろいんだよ!」と扱うのではなくて「そこが痛いよねえ?なんでかなあ。温かいお風呂に入ればいいかなあ」と、少しは優しく扱うようになってきたのだ。これは、私的にはものすごい大変化なのであります。私は、私の身体を「友」としつつあるのであります。生まれて以来50年以上たって、初めて、私は私自分の身体を受け入れ始めているのだ。 「ゆる体操」ってのは、頭蓋骨から首の骨、鎖骨や肩甲骨、腕の骨、手の骨、指の骨、肋骨、背骨、骨盤、股関節、脚の骨、最後は足や足の指の骨と、上から順番に体を揺らしながら骨を緩める「ほゆる体操」と、脳から胃腸まで内臓をゆらす「ぞゆる体操」と、全身の筋肉をゆらす「きゆる体操」の総称であります。私は、まだ骨をゆらすことしかイメージできなくて、もっぱら骨をゆらす「ほゆる体操」しかしていないのだけれども、これが気持ちいい。グラグラと20分くらい揺れていると、だんだん体のこわばりが取れて、肩や背中の痛みも取れて、体全体がリラックスしてきて、顔の筋肉までリラックスしてきて、表情が柔和になる感じ。なんか幸福感もあるし、快活になれる感じ。学生のだらしなさにも、ムカッとすることが減ってきて、怒鳴らなくなってきた。同僚に対しても、ムカッとして蹴りをバンバンいれたくなることも、少し減ってきたような気がする。 自分の骨なんか意識したのは初めてだが、体をゆらしていて骨が鳴ると、ささやかな感動がありますよ。あ、ほんとに骨がある!という実感。最近では、自分の骸骨の形が想像できるようになってきた。私の骸骨は、しっかり骨太で、なかなかに清廉実直な趣を漂わせております。やはり人柄が骨にも現れるようでありますね。「人品骨柄」とはよく言ったものだ。 いや〜〜しかし、佐々木一郎氏のサイトで教えてもらえなければ、私はこういう感覚を生涯知らずに過ごすはめになっただろう。自分の身体を親しい友として、人生の最良最高の同伴者として、愛と友情と感謝をこめて把握するなんてことを味わうことなく、自分の身体にずっと違和感を持ち続けていたことだろう。佐々木さん、ありがとうございます。 しかし、これもあれも、アイン・ランドが結んだご縁であります。いや、私にとって、アイン・ランドとの出会いは、いろいろな人々との出会いを運んでくれたのですが、なんと「自分自身の身体との出会い」というご縁も運んでくれたのであります。
<御縁その2> この本は「救世の警世の良書」です。「無駄医療費過多国家予算圧迫亡国日本」を覚醒する21世紀の『菜根譚』です。西原克成先生、ありがとうございます。断言します。『究極の免疫力』を読まないことは、生涯の損失です。読まない人は、運が悪いです。悪霊に取り憑かれて、悪運から逃げられないです。祖先の余徳がないです。子孫に災いが及びます。お肌が荒れます。虫歯が増えます。歯槽膿漏になります。 なんでこうも、最近の若い日本人(ガキから40歳始めあたりまで)の顔は貧相なんだろうか?なんで顎が後退しているんだろうか?なんで哺乳類離れした爬虫類みたいな、活力のない生気のない顔をしているのだろうか?なんで、こうも姿勢が悪くて疲れているように見えるのだろうか?なんで腰痛の子が多いのだろうか?なんで、こうも肌が荒れているのか?なんで、若いのにこうも髪の量が少なめなのか?なんで、こうも不吉な感じなんだろうか?若い子ってのは輝いていているはずなのに、なんでこいつらを見ていても全くまぶしくないんだろうか?なんで、いつもボケッと口開けているんだろうか?なんで、やたら座りたがるんだろうか?人間のくせに立っていられんのか、こいつら? これらの私の日常の疑問に対する納得ゆく説明にやっと出会いました!そして、私自身のガキの頃から最近までの長い長い体調不良の原因が、やっとわかったのであります。西原克成先生の『究極の免疫力』によって、やっとわかったのであります。 妊娠中の方、健康な赤ちゃんを出産したい方は、母子手帳なんか読まずに、『究極の免疫力』を読まなければいけません。赤ちゃんを出産して、そろそろ離乳食を与えてくださいと小児科の医者が言っても、絶対に真に受けてはいけません!!2歳半までは、母乳か粉ミルクでいいんです。おしゃぶりは、取り上げてはいけません。4、5歳くらいまでは、おしゃぶりしていてもいいんです。いや、しているべきなのかも。お子さんの身体も脳も心も健やかに育てたいと本気で思っている方、お子さんを猫背や出っ歯や乱杭歯や、昭和天皇みたいな「あご後退顔」にしたくないとお思いの方は、絶対にお読み下さい。 お子さんや御自分のアトピーや食品アレルギーやその他各種アレルギーや、うつ病や引きこもりや便秘や反対に下痢に悩む方は、絶対にお読みください。癌になりたくない方、認知症になりたくない方、糖尿病とかいろいろその他の各種内科系の病気になりたくない方、絶対にお読みください。 女性のみなさん、アイスクリームなんか毎日食べていると、冷たい清涼飲料水とか毎日何回も飲んでいると、ブスになり、生まれた赤ちゃんはろくでもないことになり、生理不順で、更年期も早く来て、子宮系の病気にもなりやすいし、いつもいつもしょうもないことしゃべって口をあけている度合いが高いと、虫歯や口内炎や歯周病になって口臭も出てきて、どんなにお化粧しても駄目ですよ〜〜そうなる前に、必ず『究極の免疫力』を読みましょう。 すでにして癌と宣告された方も、特に白血病だと診断された方は特に絶対にお読みください。医者に殺されたくないならば、人体実験の材料にされたくないのならば、読まなければ駄目です。 スポーツやって体を悪くなさっている方、もう直視しましょうよ。スポーツは健康に悪いってことを。毎日スポーツジムに通うような不健康なことはやめましょうよ。強迫観念でやめられないのならば、せめて『究極の免疫力』を読みましょう。 日本を、このまま衰退するがままにさせて、「馬鹿と病人ばかりのだらしのない国」にしたくないとお思いの方は、絶対にお読みください。 すでにして、日本の医療は信用できないから、病気にならないためにはまず病院には行かないこと、医者には接近しないこと、という良識を身につけてはいるが、さてどうやって自分の身を自分で守るかについての良き指針がないことにお悩みの聡明な方々は、絶対にお読みください。 あのね、ここで『究極の免疫力』の内容紹介はしませんよ。ここには長々と書きませんよ。だって、こうまで私が薦めているのに、こうまで私が真情をたぎらせて、言葉を尽くして薦めているのに、この本を読まない人は、私とは縁なき人だもん。日本の医療の後進性と詐欺の犠牲者となって、悲惨な人生を送ればいいんだよ。知らんよ、もう。 ともあれ、アイン・ランドが結んだ二つのご縁により、「ゆる体操」と「脱低体温・脱口呼吸・脱重力ストレス」により、私は輝かしき健康体となりつつあります。霊能者さんが私に言ったように、ほんとうに私は100歳ぐらいまで健康に生き切るかもしれない。若い頃は、「かよちゃんは、美人薄命型ね」と言われたものだったが・・・ほほほ。 |