アキラのランド節

精神は腸に宿る [10/31/2005]


前回の続編です。また西原克成医師の本の話です。

『究極の免疫力』(講談社インタナショナル、2004年)を読んで以来、何冊か、ずっと西原医師の本を取り寄せて読んでいるのだが、面白くて、ついつい読みふけって真夜中になってしまい、翌朝の仕事に差し支えそうになる。さっそく、先週の「日本アニメの諸相」のクラスでも、西原克成医師の『内臓が生みだす心』(NHKブックス、2002年)で知ったことを使わせていただいた。この本も、本ウエッブサイトの掲示板登録者BBKさんに教えていただいた。BBKさん、ほんとうにありがとうございます。『内臓が生みだす心』に記述されていた「勾玉」(まがたま)に関することを、授業ですぐに使わせていただきましたよ。

勾玉って、ほら、あのカシューナッツの形をしたやつね。道教の陰陽の組み合わせの、おたまじゃくしみたいな形をしたやつね。勾玉に関する記述は、『究極の免疫力』にも少しあったけれどね。

先週の「日本アニメの諸相」のクラスでは、手塚治虫の60年代までと70年代以降の変化と、ピノコ(『ブラック・ジャック』に出てくる、あの可愛い舌足らずの女の子ね)と手塚治虫のピグマリオン・コンプレックス(Pygmalion complex)の関係と、哲学的宗教的志向に関する話をして、『ブラック・ジャック』と『火の鳥』の「ヤマト編」の一部を見せた。このアニメは、古代の日本が舞台で、『古事記』のヤマトタケルノミコトの神話をもとに創作されたものなので、登場人物が勾玉のネックレスをしている。で、外国人留学生(および私にとっては、同じくガイジンである日本人学生)に、『古事記』とか、輪廻とかカルマ(業)の説明をするついでに、勾玉が何の象徴か話したら、けっこう反応があった。教師というのは、学生の反応があると嬉しいものなのでありますよ。それだけで、一日中浮き浮きできるんでありますよ。恵まれない教師に愛の手はいらないから、せめて反応を。今週は、手塚治虫の1984年制作の実験作アニメの『Jumping』を見せる予定だ。これもいいぞ〜〜跳んでいる女の子の視点から世界が展開し描かれるアニメ(だから女の子は登場しない)だが、アニメという表現の可能性と世界への愛情と幸福感が伸びやかに発散されている傑作なのだ。5分間くらいのアニメでしかないが何度見ても飽きない。何の話か?

また話が逸れています。勾玉の話です。みなさんは、ご存知でしたか?勾玉って、「胎芽」「胚」、つまりembryoの形なんだそうですね。「固体発生は系統発生を繰り返す」という言葉があるように、妊婦の体の中では、生命が誕生して進化して人間にいたるまでの5億年の変化を約10ヶ月で反復する。みなさんも、私も、母親の子宮内で卵子と精子が合体して子宮に定着した時点から、細胞分裂して、ホヤみたいなもんになり、魚になり両生類になり爬虫類になり哺乳類になり人類となり、この世界に押し出されたわけであります。私たちは、意識せずに、生命の進化過程をちゃんと体験してきたわけであります。つまり、すべての生き物は、最初は、あの勾玉の形である「胚」なのでありますね。この「胚」が細胞分裂して手足ができて人類の形になると、「胎児」となり英語ではfetusとなります。こうなってからは、もう中絶なんかできません。はっきり殺人になります。男性の方々、殺人に加担しないように。子孫にたたるぞ〜〜

勾玉は、朝鮮とエジプトと日本しか出土しないそうだ。勾玉がすべての生命の根源の形相を表現したものであり、「生命のシンボル」だなんてことを、古代の日本人は知っていたのでしょうかね?もし知っていたとしたら、不思議なことでありますね。まさか、かたはしから妊娠中の生き物を解剖したとか、そんなことはありえなかったはずなのに。私は、意味も知らずに、この勾玉がなにゆえか好きだったのですが、その意味を知って、なお好きになった。そうか〜〜生命の原初の形であるか・・・5億年の生命の歴史がここから始まったのであるか・・・私のもとの形であるか・・・

しかし、ネットで検索しても、なかなかほんとうの貴石で作られた大きな勾玉って売ってないです。今、私が太い喜平型の金のチェーンを通してペンダントにして愛用している勾玉は、出雲大社近くの「玉造」(文字通りだな)っていう町にあるお店の緑色の瑪瑙(めのう)製だ。赤い瑪瑙のものが欲しいけれども、いい感じの赤いのって売ってない。いずれ、ニューヨークのチャイナ・タウンで探してこようかな。風水関係であるかもしれない。ないかな。

それは、さておき、西原克成医師の『内臓が生みだす心』を読んで、私は生まれて初めて、自分のガキの頃からの出腹状態(下腹が出ている幼児体型そのまんまに大人になり、中年にいたった。細かった若い頃も下腹はしっかりポッコリ)に、肯定的気持ちを持つことができた。だってですねえ、若い頃から、私はよく席を譲られてきたのですよ。日本でもニューヨークでもアトランタでもフィラデルフィアでも。バスの中でも地下鉄でも。女性からも男性からも。日本でもアメリカでも親切な方は多いですよ、ほんと。今まで、多くの人々をだまくらかして、譲られた席に座ってしまってごめんなさい。

つまり妊婦と間違えられてきたのですよ。ジャンパースカートなんてもの着用したら、「あ、フジモリさん、おめでたですか?」と必ず声をかけられた。「いえ肥満です」と答えるのも面倒くさくなるくらいに。学生からも、「センセイ、ひょっとして?」なんて授業後言われても、傷つくことなく「単なる部分的肥満なんよ」と平静に答えられようになるくらいに。やっと、ここ5年間くらいは、いくらなんでも、もう妊婦適齢期ではないだろうということで、そういうことも言われなくなった。部分的肥満は目につくが、全体的肥満は目立たないですからね。

若い頃は、「常時妊婦体型」にくよくよ悩んだが、悩んだとて、出ているものがひっこむわけでもなく、私は胸に繊細な鬱屈をかかえたまま、姿勢はおなか突き出して偉そうに歩く年月を過ごしてきたのであります(当然私は胃腸は丈夫です)。ところが!!みなさん、以下の西原医師の言葉をお読みください!

「生命現象とは外界から消化吸収した栄養と酸素を反応させて、エネルギーの渦をめぐらせながら旧くなった細胞を新しくつくりかえ、これによりエイジングを克服するシステムです。生命の本質のリモデリングは、まず腸からの酸素と栄養の吸収がなければ何事も始まりません。この吸収能力がリモデリングの能力つまり欲求となります。腸の消化・吸収の能力と好き・嫌いが、とりもなおさず五欲の源です。つまり、腸の能力が心を表すのです。それゆえ、腸を移植するとドナーの欲望が移植されるのです。欲望が心の源なのです。(中略)
 何よりも今のアメリカ医学の困ることは、生命の本質の心や魂が腸管内臓系五臓六腑に存在するとなれば、心臓が生きていても脳の機能が止まっていれば脳死、つまりヒトとしての死とする臓器移植の条件がご破算になってしまうことです。実際、生命は腸から発生しますから、腸が生きているかぎり、そのヒトは生きているのです。この事実が明るみに出れば、臓器移植は自然法に従えば殺人罪をおかしたことになりますから、もはや実施することが出来なくなってしまうのです」
(西原克成『内臓が生みだす心』pp.28-29)

西原医師によると、心臓とか肺とかその他の内臓というのは、腸が分岐したものらしいです。ホヤのような原生生物が海の中で泳いでいるうちに、腸が伸びて、伸びた部分が別の臓器になったそうだ。確かに、口と肛門と腸があれば、生物は生けてゆけるだろう。栄養を吸収する口と、栄養素を吸収する器官と、不要なものを排出する口さえあればいいよね。入り口と台所とトイレさえあれば、最低限「家」になるもんなあ。

乱暴雑駁な私は、この本を読んで、「そうか!生命の要は腸なのか!ということは、腸が長くしっかりしていて下腹が出ているということは、これは生きる欲望が旺盛で心が大きくて豊かであるということを意味している(かもしれない)のだ!」と、ひとりで納得してしまった。だって、布袋様とか出腹です。泰西名画の裸婦なんて、みなお腹がしっかりとふっくらしています。ミロのヴィーナス像だって、しっかりした体つきであり、いまどきのモデルさんみたいなペチャンコのお腹などしていません。「美人に徳なし」とは、『菜根譚』にあった言葉だが、痩身美女というのは、腸が弱いから、生命力が弱いから、心もチマチマとなりがちで、無駄に悲観的になりがちで、目先の計算に走り、墓穴を堀り、美人薄命ということになるのでありましょうか。

で、ここで思い出してしまった。例の佐々木一郎氏のウエッブサイトに紹介されている高岡英夫氏が書いていたことを。高岡氏の著書はすべて名古屋の自宅に置いてあるので、正確な引用などができないのだが、高岡氏によると、「妊婦はみな妊婦である期間だけ天才である」そうだ。

高岡英夫氏の理論によると、科学であれ、芸術であれ、スポーツであれ、世に天才といわれる人々に共通する身体のありようがあるそうだ。そのありようは、高岡氏には計測可能なのだが、妊婦に関しては、これ全員が天才と同じ身体のありようになるのだそうだ。ただし、赤ちゃんを産んでしまうと、もとの凡人にもどる。通常の人間では、なかなか得がたいが天才は意識できる「下丹田」というものを妊婦は獲得し、意識できる状態なのだそうだ。確かに、妊婦さんは堂々と自足している趣で、「人生の達人」の風格があります。

よくわからないながらも、しかし、5億年の生命の進化の歴史という壮大なるドラマをお腹の中で展開している妊婦さんが「天才」ということに、私は大いに納得しました。みなさん、妊婦さんには席を譲りましょう。妊婦を足蹴にするようなDV男は死刑にしましょう。学生にしっかり言っておこう。「妊娠中に、アイスクリームなんか食べてはいけません。酒タバコもってのほかです。薬品会社が営利目的だけで売っているような薬なんか飲んではいけません。風邪薬だって信用できない。あなたの肉体で進行している5億年の生命の進化の歴史に穴があきます。爬虫類みたいな人類を産む羽目になります」と。

この「妊婦みんな天才」という高岡説と、「腸が大事。下腹こそが人間の生命の要、心の源」という西原医師説が私の中でリンクしてしまいまして、「出腹=心が強く広い(かもしれない)」説を、「出腹は腹が座っている天才かもしれない」説を、私は勝手に独りよがりに立ち上げてしまいつつあります。ははは。

そういえば、空襲でお腹をやられると、腸が出てしまうと、助からないということを、亡き父が言っていたな。手足ちぎれても頭怪我しても助かる可能性はあるけれども、どうしてだか、お腹に被弾を受けて腸が出ると必ず死ぬんだそうだ。頭よりも腹をかばわないといけないのだそうだ、空襲にあった時は。

西原医師によると、「切腹」というのは、だから「切腹」なんだそうだ。切腹とは、腸を切ることであり、これは心を切ることであり、精神を持つ人間としての死を自らに下す行為なのだそうだ。あまりの憤怒ゆえに切腹するときは、首を切る介錯も断るのだそうだ。腹を切り、腸を長々と自分でたぐり出して、8時間ぐらい苦しんで、それでやっと怒りがおさまり、死ねるのだそうだ。サブライムである・・・凄いことである・・・

日本の切腹という武士の慣習は、そういう意味合いのものだったのか・・・知らなかった。極東の島国の土人のプロの戦闘集団の奇妙な風習ではなかったのだ。三島由紀夫氏も、介錯した奴の腕が悪くて首が切られずに非常に苦しんで亡くなったそうだが、そんな下手な介錯などされなかったほうが、かえって、空虚な日本への怒り、彼を裏切った政治家たちへの怒りがおさまって、さっさと早く成仏できたのかもしれない。霊能者の美輪明宏氏のエッセイによると、長い間、三島氏は成仏できずにいたそうだから。

ところで、やっと美輪明宏さんと江原啓之氏の『オーラの泉』も全国ネットで放映されるようになり、めでたいですね(なのに、くそ、先週は阪神がロッテに負けたんで、その敗戦記念番組のせいで放映されなかった。プロ野球なんかどうでもいいわ!)。先々週のゲストの女優の飯島直子さんは、霊能力のある方で、サイパンにロケに行ったときに、日本兵の亡霊がわんさかホテルの彼女の部屋に出現したんだそうです。飯島さんは、「ならば、裸になって踊ってあげれば、みなさんを慰められるかな」と思って、日本兵の霊のために、裸になって踊ってさしあげたそうである。飯島さんは、なんと心優しい女性であろうか。涙が出てくるではないか。ただ、900人くらいの日本兵の不成仏霊が、帰国する飯島さんに着いて(憑いて)来てしまったそうではあるが・・・あの日本兵のみなさま、お疲れ様でした。やっと帰国できたのですから、あなた方を戦争に狩り出しておいて、あなた方の屍を戦地に野ざらしにして逃げた連中とか、その連中の子孫のほうに化けて出ることを、是非ともお奨めいたします。

しかし、飯島直子さんは偉い!大らかである!現代のアメノウズメノミコトである!いちいちもったいぶらずに、減るもんじゃないんだから、美しい裸体で霊を慰めるぐらいのことは、やはり一級の美女たるものは、すべきでありますね。美女と生まれたならば、それくらいの覚悟で望んで欲しいものでありますね。美というパワーを活用していただきたいものでありますね。私は美人コンテスト賛成である。何の話か。

高岡英夫氏の下丹田に関する身体と心と「極意」といい、西原克成医師の「腸と心」の話といい、確かに21世紀は、古代から明治維新までの日本人が知っていた真実、明治維新以来日本人が忘却してきた身体と精神に関する観察と洞察の蓄積が、また再発見される時代なのかもしれません。みなさん、お腹は大切にしましょう。幸福な人生は腸から。頭脳明晰は腸から。広く強い心は腸から。輝く21世紀は腸から。