アキラのランド節

佐藤優氏の『国家の自縛』に教えられたネオコンとアイン・ランドの関係(その1) [11/06/2005]


なかなか、ロシア旅行の続編が書けません。すみません。ヴァージニア工科大学の先生で、比較文学専攻(英米文学&ロシア文学&フランス文学)で、現在は、アイン・ランドの伝記を執筆中のショシャーナ・ミルグラム教授(Dr. Shoshana Milgram Knapp)に、「サンクト・ペテルブルクには、いっぱいアトラス像がありました。ニューヨークのロックフェラーセンターのアトラス像ではなくて、あの美青年アトラスたちが、Atlas Shruggedを書かせたんだと確信しました。ロシアに行くべきです!」とメイルに書いたら、教授は、本気で行くことに決めたようである。そうですよ、あのアトラスを見たら、アイン・ランドの心の中に、いっきょに入り込んだ気がするんだから。ちゃんとランドの伝記に書いていただきたいよ。ちゃんと英語圏のアイン・ランド愛読者に知らしめてもらいたいよ。世界中のランディアンにあの北の古都を見てもらいたいよ。

4月にニューヨークで開かれた「アイン・ランド生誕100年記念会議」に行ったのだけれども、その見学記を一度書いただけで、それ以上書かなかったのには、わけがある。あのとき、The Ayn Rand Institute(以後ARIと記す)の活動方針や政治的立場も報告されたのだが、その内容がずっと気になっていて、つまり理解できなくて、あれ以上の見学記を書く気にならなかったのだ。

The Ayn Rand Instituteの方針は、明らかにネオコンだった。アメリカ的価値観を世界に広めることこそが善であり、環境保護主義(ecology)と 多文化主義(multiculturalism)を推進することは間違っていると、ARIの会長は演説したんだから。「これは、明らかにネオコンだ。なんで、アイン・ランドの愛読者のメッカみたいなARIがネオコンなんだろうか?アイン・ランドはアメリカの建国の理念を寿ぎ、自主独立の精神を祝福し、その精神がもっとも発揮される体制が個人の責任ある選択の自由を認める自由主義であり、自由市場の資本主義であると言ったけれども、外国までアメリカになれとは言わなかったし、そもそも、なんで環境保全に反対しなければならないんだ?なんで、多文化主義がいけないんだ?それぞれの文化と民族性と価値観を認め合いながら、干渉しあわず、共栄共存をはかるしかないじゃないか・・・」と、私は、わけがわからないまま日本に帰った。

で、ARI系ではないアイン・ランド研究者にメイルで「ARIは明らかにネオコンだと思うが、その理解で妥当か?」と質問したら、「そのとおり」と返事が来た。私は、「アイン・ランドの思想が、なんでネオコンと結びつくのか?」とは質問できなかった。アホで幼稚な学生じゃないんだから、甘ったれて気楽に素朴に質問してはいけないからね(私は、このことを副島隆彦氏から教えていただいた。感謝)。他人の時間を奪うことになるし、自分で調べられることは、とことん自分で調べないとね。質問というのは、即座に答えられる程度のことしか質問してはいけないのだ。自分でろくに調べもしないで、簡単には説明できないことを気楽に質問してくる手紙やメイルは、私はいっさい無視する。だいたい、そんなこと書いて質問してくる人間って暇なんよ。自分が暇だから、忙しい人間のことがわからないんだ。学会でも、長々としょうもないこと質問している奴って、業績はない暇人だもん。だいたい、学会に出かけること自体が暇人の証みたいな気もするが・・・最近は、調べればすぐわかることを訊いて来る学生のコメントペーパーにも「そんなことぐらい自分で調べなさい」と書いて返却する。

ともあれ、「アイン・ランド生誕100年記念会議」の後は、勤務先の怒涛の労働でくたびれっぱなしで、「ARIとネオコンの関連」に関する疑問は放置されたままになっていた。たかがあんな程度の労働でくたびれっぱなしなのは、我ながら、ほんとうに情けないと思うが、しかたない。

ところが!!先日の金曜日の仕事が終わって帰宅して、ダレダレ休息して、おもむろに読み始めた、『国家の自縛』(発行は産経新聞社 発売は扶桑社、2005)が、その問題に答えてくれたのだ!この本は、例の名著『国家の罠』の著者である佐藤優氏へのインタビューで構成されている。インタヴューアーは、産経新聞社の斉藤勉氏だ。聞き手が優れていないと、話し手も話が弾まない。これだけの貴重な話を、いっぱい聞き出せた斉藤勉氏もすごい。

出版不況とはいうけれども、この本は売れている。ほんとうに価値ある情報や洞察や見識を伝える本は、売れるのだ。読者は、ものすごく飢えているんだから。人文書が売れないというのは、いつまでたっても、1980年代のニュー・アカデミズムの残滓みたいなものしか発想できないからだ。それこそ、ネオコンが軽蔑する「知識人」の発想なんだな(このことは後に記します)。

みなさん、この本は、私が2005年に読んだもののなかでも最高の一冊です!早々と11月にして、そう確信できます!名著『国家の罠』に勝るとも劣らないです。いや、今の日本が背負っている外交問題の俯瞰図と個別の対処法を提示しているという点においては、前著以上であります。しかも、それらの個別の対処法は、哲学的考察と洞察に裏打ちされているのであります。佐藤氏が、日本人には稀有なほど、欧米の知識人と同じ水準の宗教的哲学的思考ができるのは、西欧の大学のもとの形=神父や牧師の養成所=神学部(同志社大学)で学んだ素養があるからでありましょう。

ちなみに、佐藤氏によると、神学部がない大学を、西欧ではuniversityとは呼ばないそうですよ。確かに、聖書読解と解釈がすべての学問の始めだもんね。自然科学だって、神が創造した世界の構造を明らかにする神学の一分野だったんだから、科学者とは聖職者でもあったんだから、確かに神学部がない大学というのは、西欧的意味ではuniversityじゃないのだろうなあ。でも、「大学」なんて、universityなんて、そもそも日本にあるのかな?

理系のことは知らないが、日本の大学の人文系学部や学科を出ても、系統だっていないバランバランな知識が頭に雑然と入るだけで、ものを考える素養なんて、普通は身につかない。私なんて、50歳過ぎてもなお、それで四苦八苦している。実質的には、私は小学校卒だと思う。それ以後は、小学校の先生が教えてくださった「辞書の引き方、辞典の調べ方」に頼って、なんとか独学してきたようなもんだ。私は、「学問的知的恩師」と掛け値なしに言える方々というのは、書物を通して以外に出会ったことはない。

こういう問題に関して、日本の中等教育機関や高等教育機関を責めてもしかたない。事実と評価は違う、現実と希望は違う、善悪と正邪は違う、人の意見と自分の意見は違う、違ってあたりまえ、人の意見を自分の意見だと錯覚しないこととか、そういう基本的なことを、教師自体が教えられてきていない。文部科学省自体が見識なんかないのだし。ほんと、私が100歳まで生きて勉強し続けても、西欧のできのいい大学生の水準にまでさえも至れないのではないかと、暗澹とした思いになるよ。ま、他に興味があることもないんで、諦めずに、わかるまでやり続けるしかないが。

そう、だから自分で読書しない日本人は、自分で勉強しない日本人は、極東の黄色い猿の土人のままなのだ、永遠に。よほど特別に優秀な人でないと、日本では大学院に進んでも、根本的には何もわからない「物知り」になるだけのことだ。

こういうこと言うと、うちの学生の中には、少数ではあるが、「日本人を馬鹿にしてる!」とか、「教養によって人間の価値は決まらない」とか、無記名のコメントにこそこそと書く奴がいる。こういう「悪平等主義の大衆迎合教育」に汚染されて、頭グチャグチャにされてきたガキを相手にするのは、ほんとにいやだよ。こういうのが、年々歳々増加しつつあるのですよ。ものすっごく頭も心も体もガチガチに硬くて、自分のチンケなプライドばかり守ろうとする気の小さい偏狭なモグラみたいに上目遣いの学生が。や〜な感じ。不吉な予感。低体温と口呼吸のために黴菌が喉から腸へ、腸から血液へ、ついには脳細胞へ至り、そこに日本の教育の不備が重なり、彼らは20歳前にして、すでにして老いている。若いジジイなんかキモイわ。おむつでもしているのかも。

最近の私は、学生の(直視されないがゆえに克服されるための努力もされない)劣等感をうっかり刺激してしまう言葉を発しないために、授業は全部英語でやったほうがいいかもしれないと思い始めている。そうすれば、私は英語で話すのにせいいっぱいになるから、「暴言」と呼ばれるような迫力ある真摯な発言をする余裕がなくなるし、どっちみち、日本語が通用しない学生には何語で話しても同じではないか、いっそパントマイムでもいいかもしれないと思い始めている。ははは。でも、今のところは、まだまだ向上心のある学生もいるからな、やはり日本語で話そう。

それはさておき、佐藤優氏によるネオコンとは何かに関する記述を見てみましょう。まず、ネオコンの基本的発想、世界観について、佐藤さんは以下のように、わかりやすく説明してくださいます。

ネオコンの思想は、唯物論的です。唯物論は、通常、無神論と神話的なのですが、ネオコンの唯物論は神を認める構成になっています。
ここではユダヤ思想の「カバラの知恵」が利用されています。神学的な細かい説明はわかりにくいので、単純化すると、当初、神は全世界を覆っていますが、あるときに自発的に収縮して、隙間ができます。
この隙間が自然です。通常の神学では、神が自然を創造したと考えますが、「カバラの知恵」では、「神の収縮」つまり自然を人間が「神によって追加的に創造されたもの」と勘違いしていることになります。
この隙間、つまり自然の世界には神がいないので、唯物論的な世界なのです。ですから、神の意思が自然に直接反映されることはありません。それだから自然の世界には悪が実在します。ただし、この唯物論的な自然界の悪に対しては神は責任を負わないのです。
「神の収縮」によって自然が生まれたことを知っているネオコン思想家は、神の存在は認めるが、同時にこの世界は唯物論的だということについても確信する、有神論的唯物論という論理構成をとるのです。
以上のことから、唯物論者であるネオコンにとって、宗教右派と手を握ることは自己の世界観と矛盾しません。
(佐藤優『国家の自縛』pp.164-65)

以上のような、「神の収縮によってできた神なき真空地帯=自然が発生させる悪」という自然観、世界観について、私は佐藤氏によって初めて教えられた。みなさん、ご存知でしたか?ここまで、きっちりネオコンの思想的前提を紹介した日本人はいなかったのではないでしょうか?ネオコンとは、「人権外交だの社会福祉だのという民主党のやり方に手ぬるさを感じて、このまんまでは共産主義にやられるぞと、甘い民主党を捨て去って、共和党に入り込み、世界をアメリカ的やり方で管理することを目指すエリート集団」という乱暴雑駁な理解しか、私にはなかったのであるが、こんな理解では、何もわからないはずである。いわんや、ARIの姿勢の根底にあるものなど。

この「神の収縮」概念について、もう少し詳しく、佐藤さんは以下のように説明してくださっている。

「神の収縮」概念と言われるとイメージが湧きませんが、ユダヤ・キリスト教文化圏では、「善である神が世界を創造したのに、現実世界には悪が存在する。仮に神が悪を創造したとするのならば、神に悪という概念が内在していることになる。しかし、神は悪ではない。それならば、現実世界に悪が存在することをどう説明するか」という深刻な疑問(神義論あるいは弁神論)が存在します。これに対する理論的整合的な回答の試みが「神の収縮」なのです。(略)
 ちなみに、神が収縮した「この世界」において、悪を放逐することにより、神が収縮する以前の世界を回復することも理論的には可能となります。トロッキズムの世界革命の思想構造は「カバラの知恵」で考えられている神の国の実現に非常に近いのです。
(略)
 そして、ネオコンの思想は、この世は「悪」なのだから、「悪」の中で「正しい理念」を実現するためには、暴力の行使や殺人を含む措置は一定の条件下では「悪」と言えなくなるという社会理論と結び付きます。もちろん「善」として積極的に是認することはできないので単純な聖戦論にはならないのですがね。文学の世界で言うならばドストエフスキーが『カラマゾフの兄弟』の中で描いた「大審問官」の問題ですよ。
(pp.176-78)

  つまり、ネオコンは神を信じてはいるが、「善なる完全な世界は彼岸にある」という神秘主義は採らない。人間には原罪があるから、人間が作為で何したって、不完全なんだから、全能の神の意思など忖度せずに、福音書の教えに従い生きるしかないのであって、たまたまうまくいっても、それは神からのお恵み=恩寵なのだから、えらそうに人間が自分が何かできるなんて思うな、人間の自由意志なんかあるかいな、みんな神が決めるんじゃ、というのが、基本的にはカトリックだろうが、プロテスタントだろうが、正統キリスト教の教え(イエス・キリストの教えかどうかはわからないが)だけど、ネオコンは、そういう考え方はしない。

カトリックは、修道院を作ったりしたくらいで、努力して勤勉に生きてこそ神の意志にかなう、という人間の努力の価値みたいなものを認めて、ともかく地上にあるものは、みんな神が創りたもうたものだから、いらない存在はないんだという、「有機的世界観」を採っている。プロテスタントみたいに厳格に「決定論」の立場はとっていない。救われる人間は、あらかじめ決まっている。人間の運命は決まっている。小賢しく人間が何したって駄目というのが、決定論。予定説。実は、本家本元みたいな顔しているカトリックのほうが、かなり異端なんだそうです(小室直樹氏の『世紀末・戦争の構造---国際法知らずの日本人へ』を参照してね)。確かに、カトリックは、教会に行って告解すれば、罪はチャラになるみたいだし、大昔は免罪符なんか発行したりして、かなりアバウトだ。広く普及させるために、アバウトにならざるをえなかったのでありましょう。

だって、「マリア信仰」なんて、正統キリスト教から出てくるはずないもんね。アニミズム的な地母神信仰に便乗しないと、一般大衆には広められなかったのでありますね。「神であり人間であるイエス・キリスト」は理解できなくても、「キリストのお母ちゃん」なら、誰にでもわかる。「十字架」を崇めるというのも、変だよね。モノに神が宿るわけはないんだからさ、神道の「寄り代」じゃあるまいし。だけど、大衆には観念がわからない。抽象はわからない。だから、十字架とかマリア像とか。「お守り」なんか持っているクリスチャンなんて(偶像崇拝は異教だよ)、地面に唾を吐く神主さん(だって、大地には神々が宿るんだから、地面にそういうことするなんておかしいでしょ?)みたいなもんだ。「幽霊」信じているクリスチャンなんて(人間は<最後の審判>のラッパが鳴るまで地下で待ってるの!化けて出ないの!)、ゴミは分別せずにやたらいっぱい出して、アイドリングで排気ガスはドンドンふかすくせに、レストランでもやたら無駄に注文し残すくせに、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のエコロジー思想を賞賛する馬鹿知識人みたいなもんだ。

ともかく、このような差はあるにせよ、「神なき世界に生じた悪を駆逐し、この世界を人間の手で改良する」という発想は、カトリックにせよプロテスタントにせよ、存在しない。なるほど、ユダヤ教の「カバラの知恵」か。カバラかデバラか知らんが、「神の収縮」とは面白い発想である。なんちゅう発想かと思う。しかし、なんで収縮するんだろう?神の手抜きか?神からの人類への課題か?「あんたら、ちゃんと自分たちでできるかな〜〜?」という神の「お試し」か?

ともあれ、ネオコンにユダヤ人が多いと言われるのは、こういうユダヤ教の秘儀から端を発した神学的前提に立っているのだから、当然であったか。

言うまでもなく「神なき世界に生じた悪を駆逐し、この世界を人間の手で改良する」、という発想は、「理念は現実になってこそ意味がある」という発想は、社会科学的思考だ。現実の問題を人間の手では防ぎようもない自然災害とか宿命として考えて、社会を所与のものと考えずに、社会は、人間の意志によって合目的に変えることができるもの、作為によって変革できるもの(小室直樹氏の『危機の構造?-日本社会崩壊のモデル』を参照してね)と考えるのが、社会科学的思考だ。こういう発想があること自体が近代人であり、市民革命とはこういう発想なくしては成就できなかった。「世の中って、そういうものなのだから、あがいたってしかたないよ」という発想では革命は起きない。だから、日本では革命は起きませんし、社会科学的思考もほんとうには根付いていないということですね。

え?!ということは、ひょっとして、市民革命とか、近代とか、社会科学とか、これも「神なき世界に生じた悪を駆逐し、この世界を人間の手で改良する」と提唱するユダヤ教の「カバラの知恵」を前提としているの?!もしかしたら、市民革命とか、近代とか、社会科学というのは、ユダヤ人が立ち上げたの?もしくは、ユダヤ人に教えを受けた人々が立ち上げたの?

確かに、仏教徒とか神道とかカトリックとかプロテスタントとかイスラム教徒とかだけでは、なんも社会は変わらないという感じがする・・・・

それはさておき、ネオコンが何を危惧し、どう改良したいかというと、佐藤さんは以下のように説明してくださいます。引用が長くなりますが、みなさん、とても面白いので読んでみてください!

ネオコンの危機分析によれば、ニューディール政策以後、政府が社会への介入を強めることになった結果、米国人が政府に対して依存する心構えが生まれ、拡大していった。別の言い方をするならば、文化が変化してしまったのです。まずできることは自分でやってから、どうしようもないときに政府にお願いするという米国文化が変化してしまった。一九三〇年代以降、福祉国家的概念に自由主義が転換した後、まず政府からとれるだけのものをとってやろうという、高い税金を払っているんだから、とり返すことを考えるのが当たり前だというように米国文化が変化してしまったのだとネオコンは考えます。 このような心構えを背景に、政党、マスメディア、多様化した圧力団体が期待と要求のインフレーションを引き起こした。このインフレ圧力によって政府の負担が急増しました。政府の活動が法的手続きを経た議会のみならず、議会外のマスメディア、圧力団体の影響力によって事実上規制され、国民の忠誠心が物質的保証を確保する団体に対して向けられ、国民が経済的ツケを政府にまわすような状況では正統性システムの危機、つまり、制度化された政治の権威喪失が始まるわけです。(略) この問題を解決するためには「自分のことは自分でやる」という米国の建国時からの伝統であった自助努力の倫理を回復し、要求のインフレーションの連鎖を切断しなくてはならないと。(略) 要求のインフレ圧力を政治的に強化するために、ネオコンは政府の自主性を強化し、民主主義的手続きや世論の圧力から、政府を切り離そうとする。この前提には、政府は知的能力においても倫理性においても、一般の国民大衆よりは水準の高いエリートにより構成されているというプラトン流「哲人政治」も構えがあります。
民主主義の文化的資源、平たく言えば、国民が政府に突き付けてもよい「お願い」の範囲には限界があるはずです。エリートはそのことを自覚しているけれど、大衆には理解できないか、理解しても自己の個別利益を優先する行動を選好する。
国民に対し、文化的資源が稀少財であるとの思想的誘導をしなくてはならないにもかかわらず、逆に文化的資源の過剰消費を常に教唆する勢力が存在するんです。これが知識人という「新しい階級」です。 環境問題、フェミニズム、人種差別撤廃運動、平和運動など文化的資源の過剰消費を行う人々は知識人によって生み出されてきましたし、一方ではヒッピー、同性愛者など国家的統合に逆行する人々も知識人により生み出されてきた。
従って、知識人を統制することがネオコンの重要な課題となるわけです。ネオコンが一級の知識人であるにもかかわらず、自由主義的な知識人、日本に引き寄せると左翼・市民派系知識人に対して闘争的になるのは、このような思考回路を経るからなんですよ。
(pp.167-70)

平たく乱暴に言えば、アメリカ合衆国のネオコン=新保守主義者とは、「建国の理念を忘れて、国の金という他人の金に寄生したがる奴ばかりが増え、自分の人生の不如意はすべて政府が責任を持って何とかすべきだと甘ったれる被害妄想の奴ばかりが増え、物書きだの有名大学エリート教授だの、そういった連中は、大衆の不心得をたしなめもせずに、そいつらに迎合したことばかり言って、いい子ぶりっ子ばかりして、アホな大衆を煽った責任はいっさいとらず、国家の弱体化を促進するばかりで、それだけではなくて、責任を持って国を立て直そうとする政府のエリートたちになんも協力しようとしない無責任な嫉妬深い輩である。てめえら、国を否定しているが、国家がなかったら、なんもできないんだぞ、国家に守ってもらいながらの国家の悪口をばら撒いて、国家統合の邪魔ばかりして、寄生虫の風上にも置けないんだな、ほんとに。だいたい、宿主を殺してしまっては、おめえら寄生虫だって死んでしまうだろうが、そこんとこの道理もわからずに、まだ目覚めないの?パスポート発行してやらないぞ〜〜」と考えているらしい。

あれ?ということは、ネオコンって、ものすごく、まともな人々ではありませんか・・・??

もし、そのネオコンなる人々の憂国の志と国への責任感が本物であるのならば、もし、このネオコンなる人々が、倫理的にも実践上でも、ほんとうにエリートたる責任を果たそうとしている人々であるのならば、日本も嫌米反米感情なんかにふりまわされないで、この人々から学ぶべきことが、いっぱいあるのではないでしょうか?だって、ほんとうに「政府のことを金を隠し持っている親だと勘違いして文句ばかり言っている一般大衆」と「言葉で煽るだけで、その結果は引き受けない口舌の徒=知識人」だけでは、社会は成り立たないもの。日本なんか、そのうえ「責任感あるエリート」っていうのも形成しそこなっているようだし。

しかしねえ、一般大衆と口ばかり達者な知識人にはできないことを、きちんと黙々と実践する「真のエリート」のイメージが、『国家の自縛』の著者の佐藤優さん=「外務省を東大出の外務官僚の虚偽の証言によって追われたノン・キャリア」に具現されているなんて、皮肉だよね・・・佐藤さん、いろいろ教えてくださって、ありがとうございます。

今日は、ここまでにします。今日は、ネオコンのことだけでしたが、次回はアイン・ランドとネオコンの関連について書きます。もう日曜日の夕暮れだ。アニメのクラスの準備をしないといけないし、その前に採点しないといけないテストもあるし。チェックしなければならないコメントペーパーもあるし。生活費獲得のための労働は、なるたけ合理的に無駄な労力は使わないようにしたいのですが、頭が悪いんで、そのあたり、なかなかうまく処理できません。と愚痴っているうちに、11月となり、あっというまに12月となり、2005年も終わるのかな。サンクト・ペテルブルクでは、すでに雪が降ったのかな。