アキラのランド節

ネオコンとアイン・ランドの関係(その2)&近況&告白&「法の支配」だから、長い! [11/27/2005]


ずっと、11月に入って以来、授業と会議は機械的にこなしつつ、そのすきに、ひたすら読書しております。その合間に暖冬なのにネットの通販で冬物衣料を買い込み、減量用「こんにゃくラーメン」を買い込みました。効果なさそう。

例の外国人留学生対象(だけど、ほとんど日本人受講生ばかり)の「日本アニメの諸相」のクラスは、やはり例によって例の脱線ばかりの私のいい加減さのために、わけがわからんことになりつつあります。シラバスでは、手塚治虫が終わったら、次は宮崎駿で、次は大友克洋で、最後に押井守のつもりが、ついつい宮崎駿が高校生の頃に見て感動してアニメーションに興味を持ったという、懐かしき東映動画の傑作『白蛇伝』を見せてしまったり、宮崎駿の初期のテレビアニメの『パンダコパンダ』や『狼少年ケン』を見せてしまったりで、ついでに宮崎駿が学習院大学時代に見たソ連のアニメ『雪の女王』も、見せたいな〜とか、いっそのこと、戦前のアニメ『海の神兵桃太郎』なんかも見せたい〜とか、宮崎さんのアニメは『天空の城ラピュタ』だけでいいじゃない〜〜あそこに全部凝縮されているんだからとか・・・どんどんおかしくなりそうです。こんなことしていたら、押井守まで辿り着けません。軌道修正しないと、また授業評価で書かれます。「シラバスどおりじゃなかった。気まぐれすぎる」とか何とか。

やはり、ガキのころ漫画家になりたくて、なりたくて、しかしその才能がなくて、夢を断念した奴が、50歳過ぎて、上司に「フジモリさん、来年アニメやってよ、何でもいいから話せばいいのよ」と言われて、その嬉しさのあまり、趣味に溺れてしまったようです。

みなさん、夢は心の奥底に潜ませて、ついには忘れてしまったときに、妙な形で実現するもんでありますね・・・。実現してよかったかどうかは別問題にせよ。夢が変な形で、思いもかけないときにかなってしまった経験は、私には、もうひとつあります。

実は初めて告白しますが、私は高校生の頃から30代の最初あたりぐらいまで、中村敦夫さんという俳優さんの超大ファンだったんです。この方は、1972年の1月2日に放映が始まった『木枯らし紋次郎』という市川昆監督のマカロニウエスタン風時代劇でブレイクして、後に参議院議員になった方であります。私が高校生の頃は、中村氏は、まだ俳優座の無名の俳優さんで、脇役ばかりやっておられました。私は生意気にもオマセにも、「このヒトは絶対に出てくる!」と思って、ひそかにスクラップブックなんか作って、コツコツとこの方に関する記事や写真なんか集めていたんですよ・・・60年代後半あたりから、大島渚の映画とか、テレビドラマの『氷壁』(井上靖の小説ね)とかに、中村さんは出演なさっていました。だから、『木枯らし紋次郎』でブレイクしたときは、「今頃何を言っとんじゃ、遅いんじゃ!あたいって見る目あるよね〜〜」とか思って秘かに優越感にひたっておりましたです。

まあ、そういう感情も忘れ、俳優さんの演技力とかにも何がしかの批評眼を蓄えてきた30代の終わりごろに(1990年代には入っていたと思いますが)、なんと〜〜!!私は、中村敦夫さんの講演会の司会をすることになったんですね!!当時、私が所属していたAmnesty Internationalという団体(今は単なる個人会員。この団体が死刑廃止キャンペーンを始めたので活動は辞めた)の名古屋支部が講演会を開催するというわけで、講師として「アムネスティの活動に協力してくださっているリベラルなインテリ大物俳優」を呼ぶことになりまして、その講師が中村さんだったのでありますね。中村さんの事務所との交渉&送り迎え&接待&司会を、たまたま私が担当することになったんです。びっくりしましたよ、ほんと。夢はキレイサッパリ忘れた頃にかなう!

もう〜〜その講演会を成功させるために、私はほんといろいろな方に連絡しまくって、お願いして、来ていただきました!同僚から昔の同級生からゼミ生から、行きつけのブティックのママから、もうありとあらゆる方に講演会に来てくださるようお願いしました。

春のある夕暮れ、私は当時勤務していた名古屋の女子大の短大部での仕事をすませて緊張して、名古屋駅まで中村さんをお出迎えに行きました。胸を高鳴らせて頬を染めながら。気分は、「トレンチコート着て襟を立てて、スクリと立ち、長い髪を風にたなびかせて駅のホームで、結ばれずして別れた恋人を待つヒロイン」でした。実際は、地味な「センセイ風」スーツ着た小太りのショートカットのオバハンが花冷えの寒さに震えて立っていただけだったんですが。

当時、中村さんは50歳過ぎた頃だったと思いますが、とても若々しかったです。「さすが見てくれがなんぼの俳優さんというものは、綺麗なもんであるなあ〜〜」と、まじまじと見つめ感心するくらいの美男子でした。お肌もつるつる。もう、50代で、あれだけ美男なのだから、お若い頃は、ほれぼれするような美しさだったんじゃないのかなあ。そんな男子学生が桃山にいれば、私も出勤するのが一層に楽しくなるのになあ。偏差値が55を切ると、学生は男女ともに、とたんにブスが増えるからね。ブスを増やさないために、桃山学院大学よ、頑張れ!何の話か。

講演会は成功しました。大盛況でした。また、かつての「我が憧れの男優さん」は、ほんとうにいい方でした。「リベラル」を、そのまんま信じて疑わず、あくまでも良心的で、威張らないし、気さくだし、Amnesty International名古屋支部からの講演謝礼金10万円は、そのまま支部に寄付してくださいました。風のように会場を去って行ったその後姿の痩身の長身の爽やかさ。

しかし・・・私は、「会わなければよかった・・・」と思いました。理由は詳しくは書きません。

俳優さんは、やはり俳優さんなんです。俳優という言葉の前につく「インテリ」という形容詞は「俳優やっている人々の中では相対的に知識がある」というだけのことなのです。みなさん、知力を磨くためには、本気で勉強するには、金になるほどの美しさや他人が放置できないような美しさは、邪魔です。つくづく、あのとき、思い知りました。

ともあれ、この遅すぎた(?)出会いのために、私は、以後、世に言う「タレント議員」というものに、いっさい期待しなくなりました。「勉強が足りない」以前の問題です。政治をなめてはいけないです。その後、その「タレント議員」に、ほんとうに中村さんがなってしまったときは、すでに私は自分が中村さんの大ファンであったことを忘れて久しくなっていました。あの「青春の敦夫さんスクラップブック」は、大掃除のついでに廃棄したようであります。どうしたのか、もう記憶にありません。

なんと、先日、白髪染めに出かけた美容院で、『サライ』だったか『一個人』だったか、なんだったかの、「金持ってて引退生活エンジョイしてる人間向け雑誌」の中で、中村敦夫さんが奥様と「高級クルーズの旅」をしている写真と紀行文が載っているのを、見つけました。「へ〜〜このヒトが奥さんかああ〜〜私の恋敵だった人かあ〜〜確か早稲田出の昭和20年生まれの奥さんだったよなあ〜〜吉永小百合と同年かあ〜〜背が高いなあ〜〜昔は美人だったんだろうなあ〜〜」と、久方ぶりに「昔の恋人&その奥様」に出会いまして、感慨が深かったです。美容院の鏡の前で、昔を思い出してしまって、私はひとりで照れてしまい、「佐藤珠緒」みたいな仕種をしてしまいました。ククク。鏡に写ったその姿は、我ながら気持ち悪かったです。

ところで、私は手帳もつけないし、日記も書かないので、11月の経緯を、ちゃんとここに記録しておこうと思います。

(1)11月の10日から14日は、学園祭があったんで授業がなくて、秋学期始まって以来久しぶりに名古屋で5泊できた。今池の春岡一丁目にあるラーメン店「茂一」(もいち)で「ゆで卵&韓国のりつき辛口油そば&焼きワンタン&スープ(少)」を食い、熱田神宮の「宮きしめん」で「卵きしめん」を食い、昭和郵便局隣の「山本屋本店」(総本家山本屋ではない!)で「牡蠣入り味噌煮込みうどん」を食った。お墓参りもした。大いに満足して、これで暮れまで大阪で頑張れる「気力の貯金」ができた。

(2)11月12日の土曜日と日曜日の13日には、母校の南山大学で日本法哲学学会があった。統一テーマは、「現代日本社会における法の支配--理念・現実・展望」だった。面白かった。「前提がわからんわ。それが何だって言うの?何のために?方向はどこ?」とつっこみたくなるばかりの文学系の学会とは大違いです。退屈することは全くないです。文系においては、頭が一番いいのは、日本では東京大学法学部なんでしょ?で、日本法哲学学会ってのは、その東京大学法学部出身者がメインの集団なわけですよ。ほんとうに時間を無駄にしたくないならば、そういう一番頭のいい連中がやっている学会を聴講するべきなんですよ。「日本」の文系学術の「最高水準」というものが、そこで覗き見できるわけだから。

「法治」と「法の支配」は、全く違う。法治ってのは、国民は法を守るのが義務ですよ〜〜、そのかわりに法を守る国民は国民としての権利がありますよ〜ってことで、誰にもわかる普通のこと。「法の支配」ってのは、法の上に位置する<法>による法に対する制御のことです。

三権分立のシステム上、立法権があるのは議会だけだが、「その議会が手続きにそって多数決で決めたんだから、そこで法として決まったんだから、何でもいいから守れ〜〜〜」というのは、具合が悪い。それでは、悪法を通過させる議会の暴走を止めることができなくなる。だから、法令の上位にある「法」というものが必要になる。それが「法の支配」。「法の支配」がないシステムは全体主義になる。

しかし、なんか、あの学会では、その「法の上にある法」を、憲法だけに限定していたような感じだった。また、国民に対し守らせるのではなく、政府もまた守らなければならない法の状態を、「法の支配」と考えているみたいだった(そんなもん、あたりまえだろーが)。もしくは、内閣とかの最高行政機構を抑制するものとしての「違憲立法審査権」みたいなものだけを想定している感じだった。「議会が馬鹿やったら、どうするんか?誰も違憲立法審査権を要求しない場合はどうするんだ?」ということは論議しないみたいだった。私が読んで調べていた「法の支配」とは、なんか、問題点が違っていた。私が、法哲学学会に行く前に参考にし読んだ本は、中川八洋(やつひろ)氏の『保守主義の哲学』(PHP)だったんだけどね。どっちが本当なのかなあ??

だいたいさあ、憲法が「最高の法」なんかしらね?憲法だって、人定法(positive law)にしかすぎないのにね。人間が勝手に恣意的に時代状況に応じて決める法律が、「法の上にある法」になりうるのかしらんね?「法の上にある法」とは、やはり古今東西の人類に共通する「普遍の道徳」なんじゃなかろうかと思うけれども。だって、ドイツのナチスがしたホロコーストだって、ドイツの人定法ではOKだったんでしょ?あ〜た、ある民族集団の虐殺なんて、どう見たって道徳的に悪いことでしょーが。議会が満場一致で可決したって、そんなもん「法」にしてはいけないでしょーが?そういうアホな人定法を制御する法って、何よ?

そうなると、「自然法」みたいになって、どうしても宗教がからんでくる。

だって、どう見たって、人間の道徳感覚は、宗教が育むんだもん。はっきり、そうでしょう?大いなる存在への畏敬なくして、畏怖なくして、人間は自分の中の悪を制御できないでしょう?怖いものは、ひとつはあるってのが、まっとうな人間のありようよ。

しかし、宗教と政治の関連なんて、政教分離が建前になって久しい現代に、議論できないよねえ。

それから、国民の選挙で選ばれた議会の水準が低いときはどうするの?立法権のある議会は、誰が制御できるの?という問題も、「民主主義」「民の声は天の声」が前提では、語れないよねえ。投票に行くのは、暇な老人か利益団体の圧力団体の組織員(&馬鹿浮動票)ばっかりなのに、選挙結果を国民の選択として、神聖化できるんかしらん。大多数が賛成したからといっても、その選択は信頼できるような聡明なもんかしらんねえ?うちの文学部の教授会も、いかがわしいことを多数決できめてまっせ。知らんよ、結果がどうなっても。

しかし、「国民主権」が神聖なる前提の今の日本で、そんなことは、論議できないよねえ。

だから、先日の日本法哲学学会では、問題を、東大教授の井上達夫氏が指摘するところの「多元的社会における法の正統性の解明理論の適格性条件」と「権力の答責性保証」に限定していたみたいでした。

つまり、人々の自由を尊重しあう多元的社会では、各自の正義がぶつかりあうのだけれども、そういう場合、えてしてvictor’s justiceがまかりとおると。つまり「法の正統性」ではなくて、法を自らの正当性に利用できる「勝った奴の正義」がまかりとおると。それでは真の「法の支配」にならないと。法は、被統治者ばかりでなく、統治者を抑制拘束するものでなければ、法ではないと。

だから、権力を持つ人々や集団は、自らの行為が合法かどうか問われて、ちゃんと答える責任を担わなければならないが、そうさせるには、どうしたらいいのか?また、法の支配を逃れるような非公式の権力を、どうやって排除できるか?非公開で非公式の権力に対して、応答の責任を課すことはできんからね、見えないって利点をフルに使って、やりたい放題するから、非公式の権力は絶対に排除しないといけない!ということが問題らしいんであります。

まあ、しかし、その「権力の答責性保証」を「誰が」「どうやってさせる」のか?つまり、保証なんてできるのか?非公式の権力は絶対に排除しないといけないって言うけれども、見えない非公式の権力をどうやって排除できるんかしらん。うちの教授会の「根回し」すら、あなた排除できないのに。

やはりvictor’s justiceがまかりとおるのではないの?「むきだしの確信犯的暴力」に、どう対処できるの?という肝心要の一番大事な問題への回答は、12日の午後には出されなかった。

「権力の答責性保証」の主体について質問した人がいたんだけれども、作為なのか偶然なのか、その質問に対してきちんと応答されなかった。「学会」という場所は、あまりにベタに核心を突いた質問はしてはいけない場所であり、した場合は黙殺される傾向がある場所なのだけれども、日本法哲学学会もそうなのかな?

この問題は、翌日の13日には論議されたのかもしれないけれども、私は、13日は、もう聴講に行かなかった。やっぱり、文学系だろうが法哲学学会だろうが、私が知りたいようなことは、「学会」という場所では論議されそうもないってことが確信できたからだ。

「権力の答責性保証」っていっても、権力を行使できる側に答える気なんかサラサラなかったら、で、ついでにその「権力」を選ぶ議会政治に議員を送り込む国民が馬鹿で、その権力が行使することの非合法性を気にもしなかったなら、どうなるんだろう。そういう事態に警鐘を鳴らす木鐸たるメディアが、また権力とつるんでいたらどうなるんだろう?

結局は、ごり押しのvictor’s justiceが法になりかねない。テロリズムは、追い詰められた無辜の庶民から生まれるだけでなく、権力から国民へのテロもある。この「暴力」にどう対処するんだろうか?ほんとうに「法の支配」を機能させるには、実は人定法を超えた=人間を超えた存在を想定して、それを信じないと駄目なんじゃないの?つまり人間のできの悪さを徹底的に直視しないと、つまり人間ってものが生み出すものを疑うことに基づいたシステムが必要なんじゃないの?人間の愚かな「善意からくる暴走」の歯止めになる「法の上にある法」は、人間の「主権」なんかを前提としたものでは、いけないんじゃないの?(あ〜〜私は、かなり危険なこと言っていますね〜〜中川八洋氏の影響がちょっと強いかな〜〜)

しかし、こんなこと、リベラリズムが主流の日本法哲学学会で論議するはずないもんね。リベラリズムってのは、基本的には「人間はこの社会を改良できる!構築できる!人間の計算どおりに社会は作り直せる!」っていう社会科学的発想、もしくは社会工学的発想を前提としている。だからさあ、(人間の構築する力を信頼する)リベラリズムと(人定法を制御する)「法の支配」なんて、両立しないですよねえ?

アイン・ランドに関して、私が大いに悩むところも、そこなんですよ・・・

リベラリズムに半分かぶっているわけですからリバタリアニズムも、人間の理性を信じている。個人の自由を守って、互いの自由な生き方を尊重して、というのは理性ある人間は実践できるが、互いの自由なんか尊重する気がさらさらない目先の利害だけに走る非合理的人々にはどう対処するのか?夜警国家??それって、国家の警察力だけが、また対外的には軍事力だけが肥大するはめにならないか?自由社会を作るつもりが、実に不自由な全体主義体制を、心ならずも招いてしまうのではないか?

つまり、ある程度の水準の人間ばかりでないと、リバタリアンな社会なんて維持できない。そして、現実の社会は、ある程度の水準以下の人間が多いではないですか。新聞読めば、くだらない犯罪が多いではないですか。簡単に守れる程度の職務規定だって、守れない連中多いよ〜〜うちの大学でもさあ。

「一種のエリート」でないとアイン・ランド的人生は実践できないということは、潜在的にはアイン・ランドはエリート主義だってことになりますね。アイン・ランドは、責任持ったエリートがちゃんと管理しないと、自由な社会は維持できないと考えているってことになりますね。つまり、責任感と当時者意識のある人々は、この社会の運営は、やはり能力のある人々がやるしかないと知っているから、結果的に実質的エリート主義にならざるをえないんだよね。いくら善意でも頭が悪くて怠惰なのが何万人集まっても、なんもできんのよ・・・つまり、腐敗していくアメリカを捨てて、コロラドのロッキー山脈の広大な峡谷に、「新しいアメリカ」を創るべくはせ参じた人々は、いわゆる金も地位もある「特権的エリート」ではないにせよ、みなそれぞれの分野で有能な人々であり、志も人格も高潔な人々ばかりであり、「一種のエリート」です。旧き良き19世紀的中産階級の美徳を体現した人々ばかりです。

ぶっちゃけていえば、私は、ここではっきり認めざるをえないです。少なくとも、『肩をすくめるアトラス』を書いたアイン・ランドの前提とする思想は、親ネオコンです。

しかし、このネオコンすら、やはりもとが民主党から出てきた人々、もとがリベラルからの脱退組の思想だから、人間存在に対して、まだまだ楽観的だ。「真のエリートに世界管理は任せよ」という発想自体すら、かなり甘いでしょうーが?そのエリートだって、人間である以上は、間違えるでしょう?ならば、彼らの善意と使命感から来る暴走を(今の世界ならば、アメリカを)制御できるものは何??

つまりさあ、今年の日本法哲学学会の統一テーマの「法の支配」は、私のアイン・ランドに関して考えていた問題と、微妙にリンクしてしまったのですよ・・・・

リバタリアニズムにせよ、ネオコンにせよ、アイン・ランドの思想では、ほんとうは自由な社会、まっとうな社会は維持できない。人間の合理性を、そこまで信用していいのだろうか?人間の「完璧なつもりでいて穴の多い政策」を、普遍的な道徳の見地から常に牽制するような何かがないと、やはりまずいんじゃないか?「思想」ならいいけれども、「政治」という現実の集団的営みというものと、その影響の大きさ重大さを鑑みると、アイン・ランドの提唱することは、実に危なっかしい。アイン・ランドの描く小説世界は魅力的ではあるけれども、その清冽な過激さは、個人の生き方の参考になったり、力にはなる。しかし、政治という分野では、現実の社会的場では、やはり「ブンガク」でしかない。

リベラリズムが「ブンガク」であるように、リバタリアニズムも「ブンガク」であり、ネオコンも「ブンガク」なんだよね。人間の妄想でしかない。じゃあ、真に現実主義的な実践可能で実現可能で維持可能なスタンスとは何か?そういう政治思想とは何か?

私は、どうも、人生最大の思想的大転向をしつつあるみたいなんです・・・まあ、みなさんには、どうでもいいようなことではありますが。まあ、これは別の機会に、論文の形で書くしかないかな。

ともあれ、勉強にはなったので、来年も「日本法哲学学会」を聴講しに行こう。

(3)最近、体調がいいです。と、こんなふうにハッキリ言えるなんて、何十年ぶりかしらん。思えば、中学生の頃にはすでにして、いつも体調不良だったから。これもあれも、寝転がりながらできる「ゆる体操」のおかげなんですよ〜〜

高岡英夫氏の近著『「身体経営術」入門 仕事力が倍増するゆる体操 超基本9メソッド』(現代書林、2005年9月1300円+TAX)は、高岡氏の「ゆる体操」シリーズのなかでも出色の面白さです。ほんとに、眠る寸前に寝たままにできる効果絶大な体操を紹介しておられます。この「効果絶大」という言葉に嘘はありません。私自身が試みて実験済みであります。この体操して眠ると、朝起きた時に体が強張っていないです。とっても楽です。また、高岡氏の理論の基本たる「身体のセンター」概念についても、非常にわかりやすく書いてあります。お薦めの一冊です!

ところで、なんだ、『声に出して読みたい日本語』の著者である明治大学教授の斎藤孝氏って、「呼吸」とか「丹田」とか「体操」とか、いろいろ高岡氏みたいなこと書いた本を出版してきていますが、そのネタは実は高岡英夫氏のようです。高岡氏は斎藤氏の師匠だったらしいです。なのに、どうして斎藤氏は、高岡氏について言及しないのでしょうね?かなり不思議で奇妙です。研究論文じゃないんだから、出典やネタを明らかにしなくてもいいということかな?そういうもんなんかしら?

(4)現在ソウルで研修中の、言語教育の実態について調査している同僚が、11月27日の朝〔再放送は深夜です)にBSで放送された『週刊ブックレヴュー』という番組で、都築響一さんが、なん〜〜と、『水源』を紹介してくださったという嬉しいニュースを知らせてくれました。なんで、ソウルにいる同僚が、日本のテレビ放送について、私に知らせてくれたのかといえば、ソウルでは、日本のNHKもBSも、日本のときのまんま視聴することができるんだそうですね。私たちが思っている以上に、韓国と日本は近いみたいです。

そのあと、なんと〜なんと〜、同じ内容のお知らせを、桃山学院大学の社会人聴講生の方からメイルをいただきました!!その方は、「『水源』が紹介されていましたよ〜〜番組を録画したものを、DVDにコピーして差し上げますね〜〜」とのこと。もう〜〜ありがたいではありませんか!いただいて、観るのが楽しみだわん。

 ちなみに、うちの大学の社会人聴講生の方って、女性はみなさん素晴らしいです。例のニューヨークゼミ旅行に参加してくださったA画伯(今週末は東京で個展だそうですよ)はもちろんのこと、私に、昼食や夕食のおいしい「差し入れ」をしてくださる方もいらっしゃるし、私の好きな「山崎まさよし」のCDをダビングして下さる方もいらっしゃいます。美味なるチョコレートを拝領することもあります。前は、「冬のソナタ」の挿入曲のピアノ演奏用の楽譜を下さった方もおられます(私は、ピアノなんか弾けないのでありますが・・・バイエル40番でこけた音痴です)。みなさん、ありがとうございます。「差し入れ」は、いつでも受け付けておりますので、ご遠慮なく。

話を戻します。『水源』の紹介をテレビでして下さった都築響一さんは、高名な写真家です。高名な編集者でもある方だそうです。『TOKYO STYLE』とか『日本珍紀行』とかの作品集がよく知られた方です。さっそく、私は都築さんの写真集を3冊ほど注文しました!都築さんは、原書でThe Fountainheadを読まれたことがあるそうです。私が大阪で借りているアパートメントに置いてあるテレビは、衛星放送が映らない(24時間お買い物のShop Channelは映る)ので、私はその『週刊ブックレヴュー』という番組は見たことがないけれども、嬉しいではありませんか!!都築響一さん、ありがとうございました。

そうですよ・・・私は確信しています。将来の日本で、日本人が一番影響を受けるアメリカの作家はアイン・ランドとなり、日本人が一番愛読するアメリカ小説は『水源』になることを。学会で「研究」される作品なんか、誰が愛読しているんだ?日本中で30人すらも読んでないんじゃないの〜図書館に保管されているだけではないの?そんな小説なんてミイラじゃないの〜?「ミイラ」ばかり扱う学会誌なんて、学会員だって読まない。あんなもん読んでいると、気力が萎えて髪も腰も抜けますわ。

それにしても・・・プロの建築家で、大学で建築を教えていらっしゃる方からも、つい最近、メイルでお叱りを受けました。建築関係の用語とかについては、ハチャメチャ間違いが多いのですよ、私の訳は・・・みなさん、すみません。申し訳ないです。

誤訳を直す機会となる増刷の知らせが出版社から来るのを信じて待っている、静かな日曜日の初冬の夕暮れであります。と思ったら、もう外は真っ暗でした・・・