アキラのランド節

もう始まっているからね [12/31/2005]


「もう始まっているからね」といっても、脳萎縮の話ではないです。まずは今日にいたるまでの、ずっとずっとずっとくたびれていた日々のメモから書きます。

12月20日に冬期休暇前の最後のクラスがあり、21日と22日に補講を終え、やっと2005年の桃山での仕事をすませた。翌日の23日は疲労困憊して寝込んだ。24日は、何とか部屋を掃除して、夜は焼肉屋に行って上塩タンと上カルビと石焼ビビンバを食った。なにが、みんなクリスマス・イヴだ。クリスチャンでもないくせに。

25日にやっと名古屋に帰ってきた。翌日の26日に鶴舞公園(つるま・こうえん)に行って、気ままにほっつき歩いた。ぼんやりと漂っていたかったから歩いた。JR鶴舞駅となりのラーメン屋「一刻屋」で甘い玉ねぎスープを利かした中華そばを食った。うまかった。

27日は、私にとっての「緊張解除サイン」である「花粉症風鼻炎」が出てきて、それに必ず伴う急性アトピー風症状が顔に出てきたんで、くしゃみしまくり、鼻をかきむしり、顔をかきむしりながら、家にこもっていた。レンタルのビデオでハリウッド映画2本(『フォーガットン』と『ターミナル』)を観て、BS再放送の『チャングムの誓い』第50回&51回に涙した。

28日になっても、まだまだくたびれていた。レンタルのビデオで『亡国のイージス』を観て、これならば夏にわざわざ映画館に行かなくてよかったわいと思った。またもBS再放送の『チャングムの誓い』第52回&53回に涙した。朝鮮王朝の中宗という王様と、科挙の試験を首席で合格した最高級官僚ミン・ジョンホ(朝鮮王朝の近代化を図り失脚した実在の人物だったらしいね)のどちらからも愛される医女チャングムという、究極のロマンチックなる物語設定は、これ『アーサー王と円卓の騎士』から拝借したんかな、それともジョルジョ・サンドの『愛の妖精』からかいなと思いつつ、ミン・ジョンホ役の俳優チ・ジニさんは、あまりに清涼な美貌だから若死にするんじゃないかと余計な心配をした。

29日になっても、体調はすぐれず。それでも、BS再放送の『チャングムの誓い』最終回は、ちゃんと観た。ハッピーエンドっていいよね。こんな骨太なフェミニズム・ドラマを韓国が作ったのか。韓国というのは、男が威張っていると聞いていたが、今や、不細工な馬鹿男が無意味に無駄に生ゴミみたいに威張って許されているのは、日本だけだったりして。

30日になっても、何もやる気出ず。年賀状なんか一枚も書いてない。暮れの墓参りもしていない。正月用の食料品の買い出しもしていない。大阪から持ってきた採点用紙とかも全く片付けていない。年末が締め切りの論文なんか、資料の1ページすら読んでいない。翻訳もまったくやっていない。読むつもりだった本も1冊も読み通せない。な〜んも、な〜んも、できていない。最低の年末である。

ほんとに今年は無駄に無意味に忙しかった。

今の大学って、多分、日本中の大学がそうなんだろうけれども、「形式と体裁だけ整えて、実情はいい加減に手抜いてやること」が暗黙の前提となって、物事が決定、運営されている。「教育」と「研究」と「学内行政」と「地域コミュニティへの貢献」だってさ。バッカじゃないの。みんな、きちんとできるはずない。そんなこと全部できる能力があるなら、教師になんかなるか。しかたないから、一番手を抜きやすくて「ばれない」ところから手を抜くしかなくて、つまり学生相手の授業から手を抜くはめになる。次に手を抜くのは研究ということになる。研究や教育は資質や努力がいるけれども、学内行政は、ほとんどが会議だから時間さえ無駄使いできるならば、誰にでも勤まる。失敗しても責任は問われないし、数字で成果を示さなければならないほど「ビジネス」に徹していないから、無能でも勤まる。

「授業評価」なんかしたって、アンケート結果を製本にするだけでのことで、何かの役に立てるわけでもなく、ただただ形式でしかない。「業績報告」なんかしたって、これも製本にするだけのことで、すべてが補助金を出してくれる文部科学省がうるさいから、そうするだけのこと。すべて形だけ。しょうもな。

あ、旧帝国陸軍の「員数主義」という言葉を思い出すな。

この言葉は、山本七平さんが『一下級将校の見た帝国陸軍』(下巻だったかなあ)で書いていらした言葉です。どういうことかというと、旧日本帝国陸軍は、武器や兵士が、もう機能しないほど損傷を受けていても、戦力には実質的にはならなくても、数がそろっていれば、それでよしとして、その空虚な数字を、そのまんま実数の軍力として「上に」報告していたんだそうです。で、参謀本部とかは、その空虚な数字を「実力」と計算して、戦略を考えたんだそうです。戦闘機がぶっ壊れていて飛べなかろうが、大砲の照準がおかしくて砲弾がきちんと敵陣に届かなかろうが、戦車のキャタピラがジャングルなぞ切り拓き進むことなどできない状態であろうが、連隊が怪我人と病人(戦争神経症なんかも含めて)ばかりであろうが、「数」だけそろっていれば、有効な実働戦力として「計算」して、作戦を考えたんだそうだ。。さしずめ、参謀本部とは文部科学省のことだね。ば〜か。

陸軍に比較すると、海軍は合理的だったみたいな「神話」があるが、そんなことあるはずない。同じ日本人で、そんな差があるもんか。海軍だって「員数主義」だったに決まっている。映画『男たちの大和』なんかに騙されないように。

要するに、「員数主義」とは「粉飾決算」みたいなもんよ。帳簿だけ数字あわせて健全経営に見えるけれど、借金ばっかりで倒産必死なんだけど、ひたすら誤魔化して見て見ないふりしているということよ。形骸化していて、実用には全くならないとわかっているのに、徹底的に治すのが面倒で、構築しなおすのが面倒で、形骸をやりとおすってことですね。それも確信犯的にではなくて、「だって、しかたないよね〜」と流される感じ。必ず来る破綻に向かって、ゆっくりゆっくり流される感じ。

なんで、こういうことになるかというと、本質的に「より良い自分や、より良い人生や、自分が生きていくより良い世界」を作ろうとも、作れるとも信じていないからですね。つまり、本気で「より良い自分や、より良い人生や、自分が生きていくより良い世界」を欲望はしていないってことですね。本気で欲望したら、現実を見るからね。現実に実現させるためには、現実を、その実質を変えないといけないからね。

現実を見ないってことは、だから、ほんとうには生きる充実や幸福を望んでいないっていうことですね。つまり、自分を全く大切に思っていないということですね。「真の自己愛の欠如」ですね〜自分を守るという素朴なエゴイズムすら、ないってことですね。自分を大事にしていない奴が、他人なんか大事にするはずないじゃん。ましてや、国とか公共とか社会なんぞ。

この酔生夢死みたいな、リアリティから離れた形式主義といいますか、粉飾決算といいますか、いわゆる「員数主義」は、ひいては「真の自己愛の欠如」は、今の日本に、さらに根深くさらに認識不能なほどに巣くっているけれども、今の大学の状況も同じことであります。これが、私が生きる現実です。矛盾だらけのクソ現実。くたびれるはずだ。でも給与は支払われているから我慢する。仕事は空虚だが、金は実質だもん。

さて、やっと、「もう始まっているからね」の話に入ります。この言葉は、ご存知、大友克洋のアニメ『AKIRA』の中の超能力少女の台詞です。「まだ今の人類には無理なの。アキラの力は、今の私たちには使いこなせないの。でも、いつかは私たちだって、きっと・・・もう始まっているからね!」とか何とか・・・

ああ、もう始まっているんだなと、いや、とっくに始まっていたんだなと、私は思った。ハリウッド映画の『フォーガットン』(The Forgotten, 2004)を、観終わったときに、そう思った。

この映画の趣旨は、人間ではないほぼ無敵でほぼ万能の存在の力によって、人間が好きにされているけど、負けてないでちゃんと抵抗せいということです。ヒロインは息子がいたはずなのに、そんな息子は初めから現実にはいなかったと夫からも精神分析医からも隣人からも言われて、精神病者にされているが、どうもこれは人類の記憶を管理して実験して脳を好きに操作したい存在のしわざらしいと気がついたヒロインが、絶対に息子への愛=記憶を失わなかったことで、この存在は人類への実験をひとまず諦め、時間はヒロインが息子を失う前にもどるというストーリー展開です。かなりいい加減な展開ですが。

この存在というのは、いつもどこかから人間を観察しいていて、その不気味な存在は、何らかの意志をもってうごめく黒い雲とかの形で表現されている。カメラは、人類を見下ろして観察しているかのように、上からニューヨークの事物を映し出す。上からの視線っていたって、宮崎駿のアニメみたいな幸福な飛翔感ではなくて、ただただジト〜〜と悪意をもって見下ろしている趣の陰湿な軽蔑的まなざしです。

この存在とは何か?これは、宇宙人とか、人間が神と呼んできた何らかの存在とか、悪魔とか、そういう感じで解釈するべきものらしいけれども、要するにこの映画の内容は、「世界を自分たちの好きなように管理し続け、儲け続けるために、いろんな事件や紛争や戦争や金融危機を計画し引き起こす、国際銀行家のネットワークだか何だかによって翻弄されている我々の無知で哀れな世界のありよう」の比喩なんじゃなかろうか。

前は、SFじみた陰謀論の類だって思っていたけれども、なんか、最近は、やっぱり、これって、まるっきりの妄想ではないんじゃないかと思い始めてきたよ、私も。

ほら、だっていまどき、あの「9.11のテロ」がアルカイーダによって起こされたなんて、本気で信じている人って少ないのではないの?「やらせだったかも・・・」だって、みんな、ほんとは、どこかで疑っているでしょう?つまり、あれぐらいのメチャクチャ非道な大掛かりなショーを企画して実行するぐらいの、ろくでもない連中は、ちゃんといるだろうと私たちは、どこかで思っているわけですよ。

もちろん、真珠湾奇襲が「奇襲」だったなんて信じている人間も少ないはずだ。ルーズベルト大統領とその側近たちは、日本軍がハワイに来るって知っていた。反戦ムードのアメリカ人たちを戦争に駆り立てるためには、アメリカ人の戦闘意欲に火をつけるには何かショッキングな仕掛けが必要だったから、真珠湾が奇襲されることを知っていながら、FDRは黙っていた。ロバート・B・スティネット(Robert B. Stinett)って人が書いて妹尾作太男氏が訳した『真珠湾の真実---ルーズベルト欺瞞の日々』(文藝春秋社、2001年)を読んでね。原題は、Day of Deceit: The Truth about FDR and Pearl Harborね。

なんと、最近じゃあ、この奇襲作戦を日本海軍が考えたこと事態が、より大きな勢力の謀略によるものであり、その勢力の「ぱしり」となった日本海軍の中枢の連中が、太平洋戦争に日本を引きずり込んだと、告発する本も出ているそうだ。三村文男氏の『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉論」の虚妄を糺す』(テーミス、2002年)のことです。この本は、今は入手が難しくて、私はいまだに読めていない。残念。

それから、ほら、あの『ワイルド・スワンズ』(Wild Swans: Three Daughters of China)で激動の現代中国の動乱と悲劇を女3代の家族史を通して描いたユン・チアン(Jung Chang)が『マオ』(Mao: The Unknown Story)っていう毛沢東のことを書いた本を最近発表して、その翻訳も講談社から出て売れているでしょう。太平洋戦争末期に日本軍が敗退した後に、蒋介石率いる国民党が中国を治めるのかな〜と思ったら、毛沢東率いる共産軍が勝って、中国は中華人民共和国という社会主義国家になった。ということに一応はなっているが、『マオ』に描かれる毛沢東は、もうろくでもない亜人間だ。どう見ても、アメリカが後ろ盾だった蒋介石を蹴散らして中国を「統一」することができたほどの救国の英雄ではない。

しかし、毛沢東には強力なパトロンがついていたらしいです。つまり、中国を共産化して、世界を自由主義世界と社会主義世界に分裂させて戦わせといたほうが都合がいい連中の資金と武器援助によって、毛沢東は蒋介石に勝ったという説があります。ジョゼフ・マッカーシーって人が書いて、監修が,副島隆彦氏で、訳者が本原俊裕氏の『共産中国はアメリカがつくった--G・マーシャルの背信外交』(成甲書房、2005年)に書いてありました。同じようなことが、『世界の歴史をカネで動かす男たち』(W・クレオン・スクーセン著, 太田龍訳、成甲書房、2005年)って本にも書いてありました。これらの本のタネ本とされるCarroll Quigleyっていう人が書いたTragedy & Hope: A History of the World in Our Time(1975)という本を最近注文した。もうすぐカナダの古書店から届くことになっている。

私は、これは、ホントのことだろうな〜と直観的に思った。私も50年以上生きてきて、世間も人間もある程度は見てきたので、生意気にもこう言ってしまうのだが、世間というものが、人間ってものが、「革命」とか「イデオロギー闘争」とかを、まともにできるとは、とうてい思えない。大義とか正義とかの実体のないものが勝つとは、とうてい思えない。勝つのは武器であり、軍事力であり、資金であり、兵站だと思う。「大義によって革命が成就して人間が解放される」のではなくて、「何らかの計算から供与されたより強力な軍事力と資金と兵站を確保した側」が勝ったのちに、自己の正当化をするために、ほどこされた化粧が、「革命の理念」という大義=美辞麗句だと思う。いくら何でもむきだしの横暴狼藉は通用しないから、大義はあとから捏造される。確かに大義なるものがあったとしても、勝利を作用するのは言葉という虚数ではなく、あくまでも軍事力というモノの実数だ。

ロシア革命も辛亥革命も、もっと昔のフランス革命もアメリカ独立革命も、ひいては、これらの革命の理念であるリベラリズムや自由主義や民主主義や人権思想らの啓蒙思想やマルキシズムも、何らかの勝った連中の正当化のために使われる言葉か、もしくは血塗られた騒動を美化するための「言の葉」にしか過ぎないかもしれない。

末期の帝政ロシアに日本が勝った日露戦争も、実は、影の「援軍」があったのかもしれない。国民の知らないパトロンがいたんじゃないの?日清戦争の勝利なんて、さらに疑う。明治維新だって、日本人の力によって成し遂げられた革命ではなく、英国のロスチャイルド配下の「長崎のグラバーさん」を通じて薩長に渡された、ヨーロッパの武器商人が売りたがっていた武器&弾薬&大砲(の在庫)が治めた内乱だった。ならば、日清戦争も日露戦争も「できレース」であった可能性は高いでしょう。そうか・・・日本という国自体が何らかの「ぱしり」をやらされていたのかもしれないな。

ロシアが共産化するのが都合がよく、中国が共産化するのが都合が良く、そうやって世界に対立と戦争の種をまき育てておくほうが儲かるし、自分たちを頂点とする階級社会を絶対確実に維持・強化するには、そういう対立構造が必要と考えた人々は、今は、西と東の対立ではなく、イスラム圏とキリスト教圏の対立とか、人権国家(欧米)対非人権国家(イスラム、アジア)の対立という構図を、でっちあげているみたいだけれども。

ところで、私は、前から不思議だった。アメリカの文化左翼みたいな人々の研究や創作に、フォード財団だのグッゲンハイム財団だのカーネギー財団だのが、基金を出してきたのが。この種の研究者は、彼らが憎んで批判して蛇蝎視してやまない大企業家、財閥から金もらって、資本主義体制を批判し、保守を批判し、伝統を批判する。自分たちを批判する連中に、なんでアメリカの財閥の財団は金を出すんだろう?アメリカの代表的左翼雑誌のPartisan Reviewの論客であるメアリー・マッカーシーはグッゲンハイム家のお嬢さんと仲がよかったし、グッゲンハイム財団から基金もらって出世作The Group(1963)を書いた。この種の左翼系文芸雑誌の資金元も、実際のところは誰だったのやら。財閥をパトロンにした左翼文化人なんて・・・ふざけてるよね?

こういう基金(fund)って、財閥系財団が、自分たちが支配する体制の中で、知識人たちを飼って遊ばせておくための餌なんかしらん?一種のガス抜き装置かしらん?アホな知識人たちに書かせて対立をあおり、かつ「その対立は是正されつつあるし、社会の不公正是正のための戦いはちゃんと起きているんですよ〜〜」という「空気」を蔓延させることによって、金輪際そんな正義の戦いに勝ち目はない!という冷酷な事実を、人々から隠蔽するのが、目的なんかしらん?

アメリカの左翼系のきちんとした学者のクリストファー・ラッシュ(Christopher Lasch)という人は、アメリカの大学や研究者や作家を管理囲い込むために、財閥系から金が出ていると指摘した(Toward a New Past: Dissenting Essays in American History<Pantheon Books,1968>収録の“The Cultural Cold War: A Short History of The Congress for Cultural Freedom”)。冷戦期の、知識人の文化左翼研究言論闘争(ごっこ)というのは、「ロシアが共産化するのが都合がよく、中国が共産化するのが都合が良く、そうやって世界に対立と戦争の種をまき育てておくほうが儲かるし、自分たちを頂点とする階級社会を絶対確実に維持・強化するには、そういう対立構造が必要と考えた人々」の深謀遠慮による文化パフォーマンスだったのかも。

それはさておき、こういう「ロシアが共産化するのが都合がよく、中国が共産化するのが都合が良く、そうやって世界に対立と戦争の種をまき育てておくほうが儲かるし、自分たちを頂点とする階級社会を絶対確実に維持・強化するには、そういう対立構造が必要と考えた人々」で、かつ今は「イスラム圏とキリスト教圏の対立とか、人権国家(欧米)対非人権国家(イスラム、アジア)の対立という構図を、でっちあげている人々」は、世界を意のままにしておくために、一般ピープルを、頭が悪いまんまの奴隷にし続けるために、情報操作しやすい単純頭にしておくために、バランバランで孤立して共闘なんかできないようにしておくために、国家とか民族とか伝統とかぶっ壊して、家族とか信義とかぶっこわしておくのが必要なので、なるたけ、国家解体、民族分裂、結婚制度崩壊、家族崩壊を推進するような思想をばらまいているんだと、しきりに書きまくっているウエッブサイトが日本にもあります。

ただし、このウエッブサイトが、その「世界人類牧場化計画」を推進する思想とは、コスモポリタンとか世界連邦とかを妄想させる類のグローバリズムだと言うのはわかるにしても、「フェミニズム」も「同性愛解放運動」も、家族崩壊を促進して、人間を原子化させて孤独な奴隷にするための思想だと言うのには、呆れる。ほんとにもう、「武勇伝、武勇伝、デンデンデデンデン」と踊りたくなる。

現行の文化における家族というものが、女への搾取の上にしか成立しないものなのならば、そういうものが家族というものなのならば、そんな家族ならば崩壊していい。誰かが不幸にならなければ成立しない制度なんか、壊れていい。そんな理不尽がいつまでも通用するはずないではないの。だいたい、人口の3%とか4%しかいないゲイが、家族制度の崩壊の元凶のひとつになるはずないだろーが。

話が錯綜してきました。ともかく、これだけは言えるのではないかなあ。つまり、世界史で起きたことは、世界史の時間にならったような原因によって起きたのではなくて、どうもある種の私利私欲・利害を一致させた人々とその走狗の連中の作為だった側面も大きいということは。そして、もうすでに多くの人々は、そのことに気がついているということは。

そういう認識が、ある種の人々に共有されているからこそ、『マトリックス』とか『フォーガットン』とか、『スカルズ』のような、この世界は何ものかに仕組まれたものだとか、実は私たちが生きる世界はヴァーチャル・リアリティみたいなもんだとか、世界は影の勢力に操作されているとかいうことを暗に伝える映画が作られるんだろうなあ。メディアや政治家自身が走狗であり、メディアや政治家に受けがいい知識人なんて、実は「走狗の走狗」「ぱしりのぱしり」に過ぎないということは、もう実は、ある種の賢明な人々にとっては世界の大前提なんだろうなあ。

虚偽は、いつかは露見する。人を足蹴にしてコケにして利用だけして、それで逃げ切れると思うなよ。この世だけが、この世だと思ったら大間違いだ。その悪行の搾取の寄生の全部が暴露されることはなくとも、かなりの部分は、いつかは必ず暴露される。人間は馬鹿だけど、永遠に馬鹿じゃない。少しずつは、賢くなるんだ。歴史ってのは、そのゆっくりとしたプロセスなんだから。これからは、今までの世界史の欺瞞がじょじょに明らかにされるようになっていくんじゃないかな。

先日さあ、「副島隆彦の学問道場」(http://www.soejima.to/)から、注文していた副島隆彦氏による講演会のビデオが届いたんで、そのビデオ『大波乱の時代を読み解く--「戦争への道」を歩み始めた日本』147分(6000円会員は5000円)を観たんだけどさ、副島氏によると、2005年は「昭和5年」だそうだ。となると、「昭和20年敗戦」まで、あと15年ということになるな。

みなさん、これから、ろくでもない時代が15年は続くということらしいですよ。

反戦活動なんか私はしませんよ。そんなもんいくらしたって、戦争は起きる。一般ピープルがいくらデモやっても、戦争は起きる。これ冷酷な事実。だって、戦争したくない人々よりも、戦争したい人々の方が圧倒的にパワーがあるし、圧倒的に冷酷で頭脳明晰だもん。信じやすい頭の悪い一般ピープルなんか何億人集まっても翻弄されるだけ。騙されるだけ。うっかり、メディアにたきつけられて、志に燃えて、大義なんか文字通り大義だと信じちゃって、兵士志願して殺されちゃうぐらい人がいいからこそ、一般ピープルなんだから。何でも疑わないといけないのに、疑うというストレスに耐えられないような、性悪説に耐えられないような中途半端に気の優しいのが、一般ピープルなんだから。

「おっかしいなあ・・・」と直観的に思ったのならば、その直観を信じて、動かないこと。動かされないこと。私たちにできることは、面従腹背で、積極的には協力しないということだけ。黙って、抵抗せず、しかし絶対に協力はしないということだけ。15年間、絶対に騙されずに待ち続けること。

15年なんか、すぐ過ぎる。黒船が来てから明治維新まで15年かかっている。時代が変わるのには15年くらいはかかる。猛威をふるったナチスだって、12年でこけた。永遠に続く悪い時代なんてありゃしない。騙されたふりはしても、ほんとうには騙されないように、じっと眺めていよう。

副島氏の予測によると、2006年あたりに、京都駅あたりで(イスラム教徒がやったと見せかけた)新幹線テロが起き、数年後には(北朝鮮が放ったと見せかけた)ミサイルが新潟あたりで炸裂するかもしれないんだそうです。ともかく、それに類したような事件が仕組まれて、否が応でも、日本は戦争に引きずり込まれるんだそうです。これは、もう所定のコースだそうです。副島氏のいいところは、気休めは言わない点です。希望なんて、弱者のごまかしは提供しないところです。

そういえば、あのJR京都駅の建物って、「巨大な棺おけ」みたいだな。不吉といえば不吉なデザイン。だいたいさあ、あのJR京都駅って表側(北口)も裏側(南口)も暗いしなあ。でも、JR京都駅近くの東本願寺の納骨堂には、私の両親のお骨の一部もあるからなあ。東本願寺系の浄土真宗の信者のお骨はお墓と東本願寺の納骨堂に納めるのが慣習だからさあ。だから、京都にテロはいやだなあ。新潟は、田中角栄氏の霊力の結界が破れたのか、ここのところずっと災難続きだから、その上にミサイルとは、いくら何でも・・・魚沼産のコシヒカリはどうなるんだ?

さあ明日から2006年です。さあ激動の15年間が始まります。15年の迷走と迷妄と混乱を通しての人類の修行と、その果ての(ささやかなる)覚醒が。そう、もう始まっているからね。