アキラのランド節 |
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南大阪八尾市のロークとドミニク [01/26/2006]1月も終わりに近い今頃になって何を言っとんじゃ、ではありますが、みなさま、明けましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。 不調のまま年を越え、不調のまま正月を無為に過ごし、不調のまま怒涛の労働が再開し、不調のうえに更に疲れが重なる日々を送りまして、やっと先週の金曜日の1月20日に2005年度の授業を全部すませることができました。その日の夕方の7時から、難波の高島屋近くの鳥鍋屋さんで4年と3年の合同ゼミの4年生送別会を兼ねたコンパがありまして、大いに食ったあと、その帰りの電車の中で、私は、ふわ〜〜と解放感と安堵感に包まれました。終わった、終わった、ともかく授業準備からは、しばし解放されたわい〜という喜びを噛み締めました。 夏季休暇中に準備できなかったために自転車操業せざるをえず、毎週の講義準備に常時追い立てられていた英語による日本アニメに関するクラスも、やっと終わりました。最後の講義の後にオーストリア人留学生とフランス人留学生が教壇にやってきて、「ここで英語によるコース(course)はいくつも受けたが、このコースは他のコースと比較すれば水準が高かった。面白かった」と言ってくれたんで、苦労した甲斐があったなと、少し嬉しかったです。「絶対的に面白かった」ではなく、「他のコースと比較して」だから、基本的には、どうでもいいような講義だったということでありますが。 ところで、先日の今年度最後のゼミの時間に、ゼミ生のひとりが、「このゼミに出て、僕は思想的に大転換しました。僕は共産党に入っていたんですが、今は、真性保守主義者になりました。自民党支持になりました」と言ったのには、驚いた。資本主義国家ニッポンの税金で運営される役所や大学に寄生しているくせに、心情左翼でいることが良心の証みたいなつもりでいる「心情左翼、実は単なる怠惰な伝統主義者の甘ったれ」なんていう、いい加減な「ヌエ」みたいな大学教授や公務員と違って、ストレートに左翼であったとは、実に立派である。そして、ダラダラと同じ場所にいないで、現実を直視して、その場所から抜けたのも立派である。そうか〜〜私自身が、去年の秋から、真性保守主義者、つまり「リアリスト」たらんと決めてしまったからなあ。心情と心構えはリバタリアン&考え方は真性保守。こういうのは、保守系リバタリアンとでも呼ぶのかしらん? ただねえ・・・今の日本の自民党は、本当の意味での保守でもないよ。「我々日本人は、祖国なくして世界を放浪せざるをえなかったユダヤ人じゃないんだから、この日本列島で、変えるべきものと変えてもいいものの見極めをつけながら、変えるべきことは勇気を持って変えながら、変える必要もないものはいじくらずに、日本人の美意識にかなった行儀を守りつつ大人の日本人を粘り強くやってゆきます!」という姿勢でいるのが、「自由民主党」であるべきなんだけど。まあ、こんな姿勢をはっきり打ち出していたら、何されるかわからないけどね。うっかり目立つと、どうでもいいような女性問題スキャンダルとか、ちまちまとした金銭問題スキャンダルとかで、失脚させられるしさあ。自分の立場がもてない属国には、「政党」も「政権」も「国策」も「政治家」も「憂国の士」も生存できないのかも。ましてや「国益」など。ホリエモンさんがどういう事情で、失脚させられたのかは、わからないけどさあ。 ゼミの終わったあとに、ゼミの別の男子学生が、ハンサムな友だちをふたり、私の研究室に連れてきて、こいつら『水源』読みたいって言うんです、こいつらにも『水源』売ってやってくださいと、言ったのも嬉しかった。連れてこられた友だちのひとりというのは、図書館で借りて『水源』を読んでいたのだけれども、300ページまで読んだところで返却日になってしまったんで、やはり買おうと思ったそうで、僕はドミニク・フランコンが好きです〜〜とのことだった。そう〜〜ドミニクが好きなの〜〜もちろん、もちろん、桃山の学生には税込み5250円の『水源』を1000円で販売しますからね〜〜いつでも数冊は用意しているからね〜〜あ、ごめんね〜今ね〜『肩をすくめるアトラス』は切らしてるんよ〜〜そっちは、定価税込み6300円のところ、藤森価格桃山学院大生限定で2000円ね〜〜国公立大学の学生ならば、しょうもない嘘っぱちや偽善を信じても食ってゆけるかもしれないけれども、私やみんなは違うからね〜〜ちゃんとアイン・ランド読もうね〜〜読まないと世間に騙されるぞ〜〜ついでに、うちのゼミ・コンパにおいでよ〜〜払わなくていいからさあ〜いいじゃないの〜〜可愛い女の子いるからさ〜〜というわけで、彼らもその後のゼミ・コンパに強引に参加させた。ははは。 しかし、体調の悪さは続いております。私の年齢だと、更年期障害まっただ中のホルモンのアンバランスで、鬱だのイライラだの、寝汗だの情緒不安定だの、ヒステリーだの八つ当たりだのが多い状態のはずですが、精神的にはどうってことないです。ありがたいことであります。人間相手の商売なんで、精神的に不調になるよりは、体調が悪い方が、はるかにましですわ。 昔、勤務していた名古屋の女子大の年上の女性の同僚たちが、更年期障害の時期に、私を、八つ当たりの対象によくしてくれたものだが、ああはなりたくないよ。あなた、「学会の中では」とか、「女教師としては」美人という程度の貧乏くさい中途半端な美人で小賢しくて要領だけで世の中渡ってきたような女が中年にいたって、更年期なんかになると、ほんとみっともないからね。その手が通用しないオバハンになっても、大昔の流儀を通そうとして、それが通らないと、身近な年下の(情緒が安定した)女性の同僚に嫌がらせして、うっぷんを晴らすんだからね、たまらんよ。「厚化粧のアカデミック・ホステスは駄目だなあ」と、私は内心辟易していたものだったが、喩えに使っては、プロのホステスさんに失礼でありますね。皺だらけの顔に化粧して、ベタッと赤く塗たくった口からタバコ臭い息を吐いて無駄口たたいている暇があったら、ちゃんと地道な勉強せい。同僚や学会の「おじいさん殺し」やっていても、しかたないよ。ほんと、あそこの同僚たちは、男女問わず、しょうもない奴が多かった。あの悲惨な日々を耐えたおかげで、今の私の幸せがあるんだわん。ほほほ。 それはさておき、今日は、ハワード・ロークとかドミニク・フランコンが、今のところ、あんまり日本の一般読者受けしないとしたら、それは、彼と彼女が、東野圭吾さんの日本ノワール小説の傑作『白夜行』(集英社文庫、2002)の「桐原亮司」と「西本(唐沢)雪穂」に似ていて、しかも亮司と雪穂みたいに不幸ではないからなんだろうなあと、あらためて私は思った、という話を書きます。 立場上、あんまり大きな声では言えませんが、ここだけの話にしておいていただきたいのですが、若い頃から、私は、あんまり小説というものを読みません。小説が嫌いなわけではないですよ、もちろん。ただ、フィクション系よりは、事実系のほうに目線が行ってしまうだけなのです。とりわけ日本の純文学には縁がないです。芥川賞受賞作なんて読んだことないです。ちょっと昔のことですが、同じ学会の年上の女性が、私が謹呈した共著本のお礼として、読んで感動したという純文学の古本2冊を送ってきたことがありましたが、サッサと読んだら、やっぱり送り主のキャラと同じくらいにくだらない内容だったので、サッサとBook Offに売ったことがありますな。 いや、このオバハンは、ほんとうにくだらない奴でさ。こいつの大学院の後輩が、10年以上も前のこと、私が発題・司会の学会のシンポジウムの発表者のひとりだったことがありまして、で、そのシンポジウムが開かれる前日に、そのオバハンが私に電話してきた。打ち合わせのときに司会の私が、発表内容にいろいろ注文つけたから、そいつの後輩が、なんかえらくナーヴァスになっていて悩んでいるとか何とか、グチャグチャダラダラと一方的にしゃべりだした。あげくのはてには、そのオバハンは「みんながみんな、あなたみたいに強くないのよ!」と叫んで電話を切りやがった。 私は「女性の紳士」だから、以下のことは思っただけで、口には出しませんでした。「余計なお節介を焼いてんじゃないよ!あんたがいい年こいて、学会でなんもさせてもらえないのは、顔もブスで性格もブスで頭もブスだからであって、あたいのせいじゃないよ。学会発表前は誰だってナーヴァスになるんじゃ。あんたの後輩だけが特別に繊細なわけじゃないよ。だいたい、30歳とっくに過ぎた後輩の世話なんか親切そうな顔してやってんじゃないよ。ババアがババアの世話してんじゃないよ。こんな電話してくるのも、単なる支配欲と嫉妬からだろーが。あんたは文学研究者のくせに、自分の心理分析もできんのか、あらかじめ脳萎縮の更年期障害が!だからベビー・ブーマーって嫌いなんだよ。いつまでたってもお仲間ごっこしやがって。あんたなんか、田舎の公立大学で、真面目なだけが取り柄の奨学金少年でも相手にしていればいいんだよ!」とは、その「ニッポン純文学大好き」オバハンには、言いませんでした。 だって、あまりに正確な事実の指摘は、「紳士」として、はしたないですからね。また、「紳士」は美人には、あえて冷たくしても、ブスには親切で寛大なものです。うちの大学も、仕事しない厚かましいブスの女性教員に、男性教員は親切で優しくて寛大です。いやあ、ほんと、みなさん「紳士」です。私には言いたいこと言いやがるくせに。 というわけで、私が、たまに読む小説は、ほとんどがエンターテインメントということになりまして、先日の1月20日に2005年度の授業が終わり、ゼミ・コンパも終えた記念すべき日の深夜から、読み出したのが、授業が終わったら読もうと買っておいた東野圭吾さん作の『白夜行』(びゃくやこう)でありました。1月に入って、テレビドラマ化の初回を見て(木曜日の夜に放映。何時からか忘れた)、「おお〜〜これは、面白い!原作を読まねば!」と思って、アマゾンに注文しておいたのだ。 言うまでもないですが、原作とテレビドラマは全く別物です。そりゃ、原作のほうが、はるかに面白いです。お茶の間に届けるテレビドラマだと、どうしても、ああいうお涙頂戴の甘甘なものにするしかありません。キャスティングも糖衣錠です。少し釣り上がったアーモンド形で、上品で知的で優しげなのに、得体の知れない卑しい光を放つ瞳を持った原作のヒロインと違って、遥ちゃん(フルネーム知らない。世界の中心で愛を叫ばれていた女の子を演じていました)は目が少したれていて愛くるしく可憐です。原作の(ダーク)ヒーローと違って、山田孝之君(世界の中心で愛を叫んだ男の子を演じていました)も、爽やかで健康的なハンサムで、暗くもないし凄みもないです。かえって、可哀想なぐらいに健気な感じです。ほんとは、善良な可愛いふたりが、やむにやまれず、かわいそうに犯罪を重ねることになってしまいました、みんな世の中が悪いんだ!汚いオトナが悪いんだ!というメロドラマが、テレビ版『白夜行』です。しかし、それでも、脚本家(最近いいシナリオ・ライターはみな女性みたいだから、きっと女性)の方は、原作を実に巧みにリライトなさっていると思います。テレビドラマ版は、テレビドラマ版で、実に面白いです。あ、今夜放送だな。忘れないようにしなきゃ。 要するに『白夜行』は、貧しさゆえに母親から売られて、幼女や少女相手の猥褻行為にふけるゴミ男の相手をすることになった美少女と、その美少女に恋した少年が、彼女を買った客が自分の父親であることを知って父親殺しをしたが、その犯罪の隠蔽のために、ふたりは犯罪の数々を重ねることになるという話です。その美少女には構築したい人生のヴィジョンが強烈にあり、少年は少女の夢の実現に奉仕して知能犯の限りを尽くしていきます。物語は、ふたりの重ねる完全犯罪的犯罪に狂わされて行く人々の人生模様を、1970年代から90年代にかけての日本の世相と変動を背景に描いたピカレスク物語です。 ただし、主人公たちの内面はいっさい記述されません。ただ彼女と彼をめぐる人々の視点からのみ、彼女と彼は描写されるのであります。加えて、彼女と彼が出会うとか言葉をかわす場面も小説中にはいっさいないです。この犯罪者たちの心理描写の欠如と主人公たちの奇妙で切実で絶対的に秘密の共生関係の設定が、この小説の湿度を低くしていると同時に、明度も低くしておりまして、それがために、まさにノワール=アメリカのパルプ・フィクションの暗黒小説の寒々しく乾いてはいるが、秘めたる熱いパッションを充填させているかのような不穏な空気を、この小説は、濃厚に漂わせているのであります。 この『白夜行』の舞台は南大阪であります。八尾市であります。時々は東京。才能のある作家の手にかかると、日本の地方都市によくあるロマンのロの字もない、くそリアルな生活感だけある町並みも人々も、モダン・ゴシック小説の趣を漂わせることができるのですね。あ、南大阪さん&八尾市さん、ごめんなさい。まあ、名古屋も似たようなもんですから。名古屋の大須とか金山とか今池をテクノ・ゴシック小説の舞台にできる作家がいたら、尊敬しますわ。 油断なく念入りに計画を練って、自らの望む人生を切り拓くための障害は、ためらうことなく排除していく雪穂という美貌のヒロインのクールさは、『水源』のドミニク・フランコンを、思い出させます。小学生のときの雪穂は、母親を事故(あるいは自殺)と偽装して殺害し、中学生のときの雪穂は、彼女に嫉妬して彼女の過去を暴露する同級生を性犯罪事件の被害者に仕立て上げ黙らせ、大学生のときの雪穂は、自分が密かに恋する上級生と交際を始めた「親友」の仲を、親友を性犯罪事件の被害者に仕立て上げることで、引き裂きます。長じては資産家の息子である婚約者の電話には盗聴器をしかけ、婚約者と彼の恋する女の出会いを阻止します。それからまだまだ悪事は続き・・・いや、いや、これ以上は、もう書きません。東野圭吾氏への営業妨害になりますから。ともあれ、美貌の確信犯的悪女のピカレスク・ストーリーというのは、読んでいて楽しいよね。ちなみに、雪穂が少女時代に憧れたヒロインは、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラです。ここらあたりは、ちょっとベタな設定。 しかし、雪穂みたいに頭がいいならば、犯罪なんか実際は重ねないよね。みんながみんな、ちゃんと「損得」を考える聡明な人間たちならば、事件は起きない。ほんとうに損得考えたら、戦争なんて起きない。ほんとうに頭がよくて、とことん損得つきつめて考えることができるのならば、美女をはべらせて遊ぶために金はやったら使いたいが金の稼ぎ方は知らない貴族に金を貸して、さんざん贅沢させて、その贅沢品生産のために商業や工業を起こさせ、資本主義を生み出し、国の中枢に食い込み、金融業を制覇し、税金徴収権を手にして、国家財政を牛耳り(ここまではヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』の説)、ついには宿主であるところのよそ様の国で寄生虫の仁義に反するほどに独り勝ちやりすぎて、宿主の息を止める寄生虫みたいな、もともこもないことして、反感と偏見と憎悪をかき集めてしまい、あげくのはてに、自分の同胞が強制収容所に送り込まれて大量虐殺されるといった巨大なドジを踏むはめになった「ユダヤ人」には、ならないんじゃないの?「ユダヤ人」は優秀だそうだが、こういう類の優秀さは、誰も幸福にしないみたいで、あほらしい。 あの、これもここだけの話なんですが、世間で「頭がいい人」とされている人を眺めても、「ほんと、頭がいいね」と私は思ったためしがない。「びっくりするくらいに他愛がない奴・・・」と感じてしまう。そう思うのは、きっと私が馬鹿なせい。私、馬鹿よね〜〜お馬鹿さんよね〜〜♪べつに、馬鹿でいいけど。 『白夜行』の話にもどります。一方、頭脳明晰な少年の亮司は、長じては独学で工学を学び、コンピューター系犯罪のプロとなり、キャッシュ・カードの偽造で金を稼ぎ、ハッカーとなって企業秘密を盗み出し、金を稼ぎます。やっていることは犯罪ではありますが、この彼の冷徹さと非情さと独立不遜さが、またハワード・ロークを思い出させます。亮司がコンピューターを駆使して得た資金は、雪穂の事業資金となり、雪穂は自分が経営者となった有名外国ブランドものばかりを売る最高級ブティックを「R&Y」と名づけ、支店を増やしていきます。そうですね〜「R&Y」とはふたりの名前のイニシャルですね〜。 最終的には、亮司は、成功者となった雪穂をかばうために自滅しますが、その死体を見ても雪穂は眉ひとつ動かしません。亮司のほうも、彼女に助けを求めることなどしません。雪穂には、自分にとって唯一心をゆるせる相手だった亮司の死体を乗り越えてでも、生きたい人生があるし、亮司は亮司で自己完結しています。ふたりは、ふたり以外の誰も関与できない絆で結ばれながら、徹底的に見知らぬ他人どうしとして生きて別れるのです。ハード・ボイルドですね〜〜 このあたりの、それぞれの「シングル・セル」(single cell)ぶりが、またドミニクとロークです。会う必要もないほど互いの愛情関係に確信があり、どちらかが消えても、その絆は、互いにとっての唯一の光源であり続けることには揺るぎがないが、あくまでも独りと独りの関係というのが、雪穂と亮司のそれです。だから、片方がこけたら、もう片方もつきあっていっしょにこけるみたいな、心中みたいな気持ちの悪い滅び方はしないのですよ(心中なんてあり得るのかなあ?みんな、ほんとは無理心中の殺人なんじゃないの?)。生まれるときも死ぬときもひとり、自分の人生は自分が背負うしかないと意識化言語化する必要もないほどに自立した人間どうししか築けない絆についての物語という意味では、『白夜行』は究極の純愛物語でもあります。完璧なる「自立」という状態が、現実にありえるかどうか、またどういう状態を意味するかの問題はさておき、ともかく、こういう恋愛関係は、ドミニク&ローク的ではありませんか〜〜 といいましても、もちろん雪穂はドミニクとは違います。雪穂が自分にとって唯一心をゆるせる相手だった亮司を見捨ててでも手に入れたい人生の中身が、世俗的な金と地位と体裁と形式でしかないという点においては、「南大阪のドミニク・フランコン」は、他愛ないです。俗物です。成功してから、「こんなもん、なんぼのもんじゃ」と思い至るほどには、雪穂は、自分の育ちの悪さを超越することができません。『水源』のドミニク・フランコンならば、犯罪に手を染めずとも、裏切りと嘘を重ねずとも、自分の望む人生を獲得できると、信じて揺るがないでしょうから。しかし、いかにもお嬢さま育ち的な優雅なペルシャ猫のような外貌の底にある虎のような獰猛さ、生きることへの真摯な情熱というのは、ドミニクと雪穂に共通しています。 同様に、「南大阪のハワード・ローク」みたいな亮司も、ロークではありません。彼は、父親を殺した時点から、雪穂の一部になってしまい、自己完結はしているけれども、それは雪穂の隠れたる守護者である存在として完結しているだけであって、自分自身の生きたい人生のヴィジョンを持たないですから。ハワード・ロークは、こんな「利他主義」的生き方などしません。ただ、このような徹底した自己滅却を意志的にできること自体が、強烈に自我があることの証でして、ローク的ですね。 だから、特攻隊員というのは、前途有望のまっとうな優秀な若者たちがするしかなかったのですねえ。生きて帰ることはない理不尽極まりない特攻隊なんか、考えつくこと自体が、「貧すりゃ鈍す」の典型例で敗戦必死なんだから、どうせ「焼けくそ」ならば、強姦魔とか痴漢とか露出凶とか性犯罪者の変態や凶悪犯ばかりをかき集めて、空に飛ばせばよかったのに、ならば一石二鳥なのにと、若い頃の私は思ったものでしたが、しっかりまともで意志自我強固でないと特攻隊員は勤まらないし、飛行機も飛ばない。クズはどこまでいってもクズであって、使い道がないんだから、リサイクル不能なんだから、法務大臣は、ちゃんと死刑執行の公印を押しましょう。クズゴミ害虫人間処理みたいな、きつくて危険で汚い3K仕事は、国家権力がやってくれるしかないのでありますよ。「公務員」がやるしかないのですよ!公のために汚い仕事をしたくないっていうヤワな根性ならば、なるなよ、公務員とか法務大臣。 ともかく、「無名の自爆テロリスト」のごとく、自分で選んだ使命(?)を冷静沈着に遂行し死んでゆく亮司の姿勢には、明らかにローク的なるものと通じるものがあります。 そうかあ、日本においては、ハワード・ロークとかドミニク・フランコンみたいな意志的に人生を構築しようと行動実践するタイプの人間は、自己の欲望に素直なキャラは、悪女かダーク・ヒーローとして提示されやすいのかもしれないなあ。日本では、「ざまみろ、勝手なことばっかりするから、そういうはめになるんじゃ〜〜ちっとは人に気を使え、分をわきまろ!生意気な!ひとりで生きているような顔しやがって!」と、なじられるような悪女とダーク・ヒーローが、『水源』の主役であり、かつ、その種のタイプの人間が、最終的には勝利をおさめて、光に向かっていく、という設定だから、あかんのかなあ。 それに関連しまして、ちょっと脱線させていただきますが、私が担当している「児童文学」っていうクラスの話をします。このクラスで、秋学期に19世紀アメリカの少女小説の古典であるルイザ・メイ・オルコット作Little Women(『若草物語』)読んだときに、「心優しい献身的なベスが死んで、ジョーが苦労してお金を稼いでいるのに、わがまま勝手で要領がいいエイミーが金持ちと結婚するのは許せません。作者は、どうしてこういう結末にしたんでしょうか」と、少なくない学生がコメント・ペーパーに書いていた。 わかんないかなあ。そこが、わかんないと駄目だって。いくら心優しくたって、何が何でも生きていこうとする意欲や情熱がない奴は死ぬんだよ。「私には、大きくなったら、こうしたいとか、こうなりたいってっ思ったことがないわ」と言っているベスは、病気になったら闘志がなくて死ぬしかないわさ。性格悪くたって、「絶対に私はお金持ちと結婚するんだわ!私はレディですもん、絶対に貧乏な男は駄目だわ!」とガキの頃から決心して、そうなるべく着実に行動してきたエイミーが条件のいい結婚をするのは、物の道理なんだよ。「わがまま勝手で要領がいいエイミーが金持ちと結婚するのは許せません」なんて、書いている場合じゃないんだよ。小説の登場人物に嫉妬している暇があったら、サッサと美容整形手術受けて、金持っている男がいっぱいいるようなスポーツ・ジムとかゴルフ場の受付とかのバイトしないといけないって。コンビニで貧乏な男の子に添加物ばっかりの弁当を笑顔で売っていてもしかたないって。ストーカーされたら、どうするんだ。貧乏な男の子相手じゃ、損害賠償も取れないよ。 『若草物語』なんて、ふやけた邦題つけられてはいるけれども、この小説は、しっかりきっかり「アメリカ」の小説です。作者のオルコットは現実の厳しさを描いているわけ。彼女は、親父が「志の高い」牧師&教師だけれども、実生活では経済的にも無能極まりない男だったから、彼女の家族は母親の実家の援助や母親や彼女自身の頑張りで、なんとか食うことができた。だから、その姿勢は甘くないよ。かといって、「女の子は条件のいい結婚しなきゃ駄目」という俗な知恵で書いているわけじゃないよ、オルコットは。エイミーの結婚は、経済的には恵まれてはいるけれども、生まれた子どもは病弱だった。ジョーやメグは健康な子どもに恵まれたけれども。ちゃんと、オルコットは、そういう「負」を「勝ち組」エイミーに付与している。そして、「負け組」ベスは家族の心に人生の美と愛の象徴として永遠に生きる。現実の、このえげつない俗な世の中での勝ち負けだって、単純じゃない。ましてや、永遠の相のもとに考えれば。だけれども、それでも、オルコットは、この世的な生きることへの貪欲さを肯定しているんだ。エイミー的なるものを否定なんかしていない。 私は教師やってきたから、たくさんの女の子を見てきたけれども、「絶対に医者と結婚する!」という固い決意で、医者とだけ合コン&お見合いを重ねていた子は、美人でなくてもスタイルよくなくても医者と結婚したよ。結婚相手の医者がろくでもなく幼稚な奴で、そいつの父親が権威主義の威張り腐った奴で、そいつの母親が極度のお節介で、意味なく丈夫で長生き確実で、ついでにそいつの祖父母まで、しっかりまだ生きていても、舅&姑&大姑&大舅どもと邸宅で同居が条件でも、ひるまなかった猛者もいたよ。なかなか、あっぱれである。あの根性は見上げたものである。私のような気の弱い小心な人間には「想定外」の壮絶で華麗なる人生であるよ。それに果敢に挑戦した彼女はすごい。その結婚の結果とか内実なんか、どうでもいいわけよ。そんなこと他人が、どうのこうのと論評することない。彼女がそれを望み、その実現に具体的に動き、それを成就させたってことが、えらいのだ。まずは、初めに欲望ありきよ。 だけど、こういう女性の生き方は、日本では「したたか」とか「計算高い」とか言われるんだろうなあ。でもって、こういう女性が、婚家先で散々苦労して離婚したら、同情されて受け入れられるんだろうなあ。しかし、この女性が婚家先のジジイもババアも懐柔して、ガキは男女ともバンバン生んで、「お受験」させて、亭主に関しては、稼いでくる金の額以外は、いっさい期待せずにひたすら効率よく働かせて、亭主が看護婦さんとおできになっても、「だからなんだ?」と馬耳東風、非情にハード・ボイルドに雄雄しく生きて、嫁にセクハラした舅が寝込んだら、こっそり腹ペコの猫に舅の足の指を食いちぎらせ、姑を高カロリー・グルメレストランに連れまわし、大いに食わせて太らせ豚にして心臓病か脳血栓にさせて、発作が起きたときには救急車を呼ぶのを「少し」遅らせ死にいたらしめ、マザコンの亭主が落ち込んでいる隙に、さっさと不動産の名義を自分に書き換え、めでたく婚家先を乗っ取りゴッド・マザーになったら、きっと、世間は憎むんだろうなあ。「あっぱれだ。すごい!」とは賞賛しないんだろうなあ。こういう女性こそ尊敬に値するのに。ドミニク・フランコンならば、こういう偉業を成し遂げるに違いない。まあ、ドミニクならば、他人の家の乗っ取りではなくて、自分で事業に乗り出すかもしれんが。 あ、そうか「強烈な嫁はん」って、「ユダヤ人」に似ているのかもしれないなあ。宿主あっての寄生虫なのに、寄生虫としての仁義と節度を守らずに宿主の息の根を止めようと画策するという点において。「ユダヤ人」にせよ「女」にせよ、あまりに足蹴にすると、こういうことになるんよ。ある集団を貶めて卑しめると、結局は復讐されるんだよね。排除された穢れ(abject)は、必ず還ってくるんだ。「ケツの穴」なんて、無視して馬鹿にしていた肛門から、ある日復讐されて、痔になって苦しむようなもんよ。お尻だって、あなた自身ですから。この世の一部ですから。 あ、そうなると、私が生ゴミとして貶めてやまない幼女誘拐殺害猥褻男たちも、「穢れ」「卑中の卑」として排除無視するだけでは問題は片がつかずに、痔みたいに再発を反復するのかもしれないなあ。こいつらが生まれてくる前に処理できる方法はないの?変態ホルモンが胎児の段階で見つかれば、遺伝子操作するとかさあ・・・何の話か。 Anyway,私が言いたいことは、『水源』読んで、ロークやドミニク批判に終始し、「キーティングかわいそう。キャサリンかわいそう」と言う奴のかなりの部分は、それから『白夜行』読んで、「後味が悪い。こういう女性像は読んでいて不快だ」とかアマゾンのレヴューに書くような奴は、ほんと表面的にしか物事を見ていないなあ〜〜ってことです。「なんで、たかが小説の登場人物なのに、その登場人物から殴られたわけでも金貸して踏み倒されたわけでもないのに、その登場人物をなぜに、あたいは嫌うのか?」と自分の心に問わない読者は、しょうもないなあ〜〜ってことです。 私は、ピーター・キーティングが嫌いですが、なんで自分が彼を嫌うのか、ちゃんと自己分析しながら読みましたよ。それは、自分自身のなかにも、キーティング的な他愛ない俗物性、世界や世間への恐怖、抱いてもしかたのない未来への不安、現在をじっと耐えて受容できない焦燥、保身のために過剰に自己防衛するがために卑怯な振る舞いにおよぶ傾向が、あるからですよ。しっかりありますよ、それは。作家のアイン・ランドだって、キーティング的なるものを自分の中に見出すことができたからこそ、ああも迫真的に「うわっ」とするほどに生き生きと、しょうもない駄目男の醜い像を描くことができたに違いないさ。エルスワース・トゥーイーもしかりです。 つまり、ハワード・ロークやドミニク・フランコンを嫌う読者は、その読者の中に、ローク的ドミニク的、生きることへの獰猛さがあるから、他人の死体を踏んででも自分の欲望を実現させようとする非情さがあるから、ロークやドミニクを嫌うのですよ。この種の読者は、自分の中にある、その獰猛さや非情さを直視したくないのですよ。自分が、「ご清潔でご誠実でお優しくて」と思いたいのですよ。自分に対して、カッコつけていたいんですよ。「いい人」でいたいんですよ。厚かましいよね〜〜ほんと。狡猾だよね〜〜丸太のような神経しているくせに、繊細ぶりやがってさあ。 日本人の一般読者が、『水源』のハワード・ロークやドミニク・フランコンや、南大阪八尾市のロークやドミニクこと、『白夜行』の雪穂や亮司に不快さを感じるとしたら、それは日本人自身が、かなり獰猛で非情だからだよ。そのくせ、それを直視し、自覚できていないんだ。だから、さんざんとんでもない戦争をやらかしておいて、「アジアの人々から信頼されない日本人・・・」なんて嘆くような偽善がやれるんだ。前科者なんだから、言動に気をつけて当たり前だ。どんな事情で犯した罪であれ、前科は前科だ。日本人は、外部から見たら、けっこうしっかり獰猛で非情なんじゃないの?やっぱりずっと「倭寇」なんじゃないの?「素朴な日本人では、これからの時代、対処できないんではないかしらん?」なんて、心配しなくたって大丈夫ですわ。「ユダヤ人」と、しっかり張り合って生きていけますわ。「資本主義と自由競争の自由市場の邪魔をしてきた資本家たち」(「副島隆彦の学問道場」http.//www.soejima.to./の「今日のぼやき」無料版725号<アメリカでロックフェラーと戦っているリバータリアンの政治評論家、ジャスティン・レイモンド氏の文章を紹介する>を是非に読んでね!読まないと損するよ!)とやりあっていけますわ。 獰猛で非情なことは、恥ずかしいことではないよ。それは、可能性なんだから。それこそ生きる意欲だから。生命力だから。目的さえ間違わなければ、いいんだから。ほんとうの損得を考え続け、考え抜くことができれば、いいんだから。ただまあ、獰猛さと非情さだけあって、脳は筋肉みたいな奴が多いのも、問題なんだけど。うちの大学も、そういう連中に引っ掻き回されつつありますわ・・・嵐の予感。今年の受験生、去年の30%減だしなあ・・・ 私なんか、もう、そういう獰猛さや非情さが欠落しているからこそ、ロークやドミニクが好きで好きで、ゼミの学生がローク嫌いだと言っても、その気持ちがわっかりません〜。私なんか、子どもの頃は、『若草物語』のベスに憧れて、汚れた人形も捨てず壊れた人形に包帯して大事にして、将来は「看護婦さんになろう」なんて考えていたんだぞ。気の優しい繊細なレース編みの好きな女の子だったんだぞ。そんな日々が、今や前世のように遠く思える、今日この頃ではありますが。 つくづく思う。しみじみ思う。私は、日本人としては気が弱すぎる。女としても気が弱すぎる。だから、フェミニストになるしかなかった。気の強い雄雄しいと女は、ブスだろうが足が短かろうが太かろうが臆せずに資産家の息子を捕獲して、婚家先の家族を骨抜きにして、息子をマザコンにして母離れさせずに、乗っ取りを完遂させる「猛烈な嫁はん」である。それこそ、「ヒロイン」である。 さて、今後も、桃山学院大生の隠れたる意識されざる「獰猛さと非情さ」を引き出すべく、「知的なる獰猛さと非情さ」を刺激するべく、多数の「心優しき」ゼミ生からのアイン・ランド批判にもめげず、アイン・ランドをゼミで読み続けるぞ。来年度は、いよいよ『肩をすくめるアトラス』じゃ。けけけ。学生は、さらに抵抗するだろう。ざまみろ。 |