アキラのランド節 |
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ネイティヴ・ジャパニーズ集会 [02/17/2006]2月の3日(金曜日)から5日(日曜日)まで、入試で神戸の試験会場の責任者だった。会場(予備校)近くのホテルに宿泊も可能だったのだが、3泊4日分の荷物作ってホテルに行くのも面倒だし、ホテルの乾燥は嫌いだし、ホテルだと「にんじんジュース」や「生姜湯」も「蜂蜜レモン」も作れないし・・・というわけで、今回は試しに「通い」にした。南大阪の和泉市に借りている部屋から、神戸駅近くの会場まで、2回乗換えで、結局2時間15分以上かかった。早朝5時には起床して、6時半には自宅を出ないと、責任者の集合時間8時45分には到着しない。往復の「通勤」に5時間は消えた。アホだった。 入試が終わって名古屋に帰って、くたびれてへばっていたら、昨年の暮れから肺炎で入院していた夫の父が亡くなったという知らせが入った。1週間ぐらいの滞在はOK分の荷物を急遽作って夕方に長野に向けて出発した。高速道路が凍結のために自動車は使えないということで、ひさしぶりにJR中央線特急「しなの」で出かけた。この特急「しなの」という電車は「振り子電車」であり、塩尻までメチャクチャに揺れる。おかげで、車内で食べた駅弁を全部吐いてしまった。売店で一番高い1050円の駅弁だったのに、もったいなかった。 長野では、お通夜とか告別式とかお墓参りとか親類縁者への接待など、カッポウ着をつけて「田舎の嫁」をやった。久しぶりに正座もした。やたらお辞儀ばかりした。夫の実家を継いでいる夫の弟の奥さんの邪魔にならないように、出しゃばらないように気を使って、湯のみだの小皿だの、チョコチョコ洗いながら台所の窓から日本アルプスの雪山景色を眺めた。あれは黒姫山で、あれはナントカ山で、あっちのギザギザした形の山は・・・と、夫の母の実家の長男さんの長男さん(つまり夫のいとこ)が教えてくれた。 夫の母の実家は豪農だったんで、このいとこは、りんご園とかの果物系農業をやっている。りんごジュース販売は特に繁盛しているようだ。篤農家というか「農業オタク」というか、それが嵩じて、今では時たま東京で「自然農法」に関する講演もするんだそうだ。「農薬を使わないきゅうりは曲がらざるをえない。それはなぜか」とか「大手スーパーなどで、生産者の名前と写真入りで有機農業野菜とか無農薬野菜とかが売っているが、ほとんどウソ。マチの人間は知らないから」とか「焼いてふくれる餅は機械でついたもの。杵でついた餅は焼いてもふくらまない」とか「長野産りんごと表示してあっても青森産りんごが多い」とか「魚沼産コシヒカリの袋は一袋750銭。それ買ってきて適当に外国米混ぜて売る奴が多い」とか「青い部分にさびみたいな赤い筋がつくのが農薬をあまり使っていないネギ。赤い筋がついていないきれいな緑色の長ネギは農薬漬け」とか、いろいろいろいろ教えてくれた。「無農薬」なんてありえないってさ。少なくとも、日本で農薬と認定されていない消毒剤は必ず使用されているんだってさ。「まっすぐなきゅうり」は、2週間に1度は消毒=農薬散布の「成果」だってさ。 「黒豆とか流行してますが、あれはどうなんですか?中国産を日本で袋詰めして丹波産とか表示する例もあるんですか?」と私が質問したら、「おれっち、雑穀のことは知らねえ。果物や野菜のことなら訊いて」とのことだった。 このいとこの誇りは、寝たきりになった父親(つまり夫の母の長兄)の介護をひとりで全部して、ちゃんと見送ったということにある。「下のお世話」もゴム手袋なんかせずにしたということにある。あと4日しかもちませんという医者の診断をくつがえして半年も父親の寿命を延ばしたということにある。このいとこにとって、憤懣やるかたないことがある。それは「本家では年寄りを施設に入れている」ということである。それも「高級な施設ではなく、転院を繰り返すような病院に入れている」ということである。 この「本家」というのは、夫の母の父の実家の長男の家のことである。この本家の跡取りというのは、私より先に焼香しやがったから、確かにエライんだろうな。「用水管理」の高給取りの公務員だそうで、農業の心を捨てたんで、生活が荒れているそうだ。だから「年寄りを施設に入れる」ようなことをするはめになるんだそうだ。そういえば、この本家さん、告別式の席でも、落ち着きがなく貧乏ゆすりをしていたな。 ところで、単独登山が、この親孝行のいとこの趣味である。長野県の山は全部踏破したらしい。山と植物のことには詳しいらしい。いつもは、多摩ナンバー(長野ではなく、なぜか多摩)の四輪駆動車で走り回っている。このいとこは、ぶらりと夫の実家にやってきて、黙って挨拶もなしであがりこみ、自分で勝手にお茶炒れて飲みながら、好きにしゃべって、またぶらりと帰っていくのだそうだ。なんか、ネイティヴ・アメリカンみたいだな。顔つきや体つきもネイティヴ・アメリカンみたいだ。馬のかわりに多摩ナンバーの四輪駆動車でさすらう1939年生まれのネイティヴ・アメリカン。かなり若く見えるが、実際にかなり若くタフな人のようである。 ネイティヴ・アメリカンってのは、中国大陸やシベリアのモンゴロイドや、ネイティブ・ジャパニーズの好奇心の強いのが、北海道をさらに北進し、アリューシャン列島を歩き渡って、北米大陸へ、ひいては南米大陸へ行った人々の末裔なんだから、北信州にネイティヴ・アメリカンみたいな人物がいても不思議じゃないよな。 このネイティヴ・アメリカンが、話の途中で数回、「おれっちのかあちゃん、東京で働いてんだけどね」と言う。長野語では、「かあちゃん」というのは奥さんのことでもある。奥さんが東京に転勤しているんだな思ったら、夫の母に聞いたところによると、このいとこは、すでに20年前に奥さんに逃げられているそうだ。なんで逃げられたかというと、山師みたいなヨソモノの連中に共同事業をもちかけられて、先祖から受け継いだ土地を抵当にいれて、いろいろ事業を始めて、みな失敗して、土地も家屋敷も全部なくしたからだそうだ。やはりネイティヴ・アメリカンだ。外の世界からやって来た白人に好奇心を出して、24ドル相当にしかならない光り物とひきかえにマンハッタン島を売った山っ気の強いアルゴンキン族のネイティヴ・アメリカンと、遺伝子を共有しているな。 このネイティヴ・アメリカンが今やっているりんご園の土地は、農業をやめてしまった友人からの借地だそうだ。このいとこは、奥さんに逃げられて、やっと、地道に果樹園経営に従事するようになったとか。しかし、このいとこは、今でも(元)奥さんのこと気にかけて東京に行くたびに会ってくるらしい。なんと20年前に奥さんが逃げたときも、その奥さんが逃げて東京に行くとき駅まで自動車で送ったそうだ。いそいそと荷物もプラットホームまで運んであげたらしい。「家出する女房を送っていくなんて・・・何考えてんだかねえ・・・」と夫の母の長兄の奥さん(つまり、そのいとこのお母さん)があきれて愚痴ったとか。心優しい情の深いところもネイティヴ・アメリカンだな。 このネイティヴ・アメリカンが、「おれっちんとこのりんごジュース1ダース1万円。送料こみで」と言うので、私は安いじゃんと思い、2ダース注文して2万円払った。なのに、ジュースはまだ届かない。時間感覚まで、おおらかにネイティヴ・アメリカンである。いっそ、「おれっちんとこのりんごジュース」っていうブランドを立ち上げたらどうか。 夫の母親の実家関係には、このネイティヴ・アメリカン以外にも変な人が多い。夫の母の兄のひとりは、島田紳助司会の「お宝鑑定団」に2回出場して、2回とも大敗退した骨董オタクである。「今、加賀前田家のお宝を預かっている。なんか前田家でお金の入用があって、そのカタに預かっている。ないしょだけど」と通夜の読経のあとの会食後のひとときに、このオジサンは話し出す。感心して聴くのは私だけで、あとの親族は聞き流して相手にしていなかった。このオジサンの家には、昔一度だけ訪問した事があるが、家中が古美術品だらけであった。座敷といい廊下といい、絵画や美術品が足の踏み場もないぐらいに無造作にゴミのように置かれ、そのほとんどが、いかにも贋物っぽかった。しかし、このオジサンは全然懲りていない。近いうちに「お宝鑑定団」にまた挑戦すると言っていた。「必ず、リベンジを果たす」と宣言していた。私以外は、誰も聞いていなかったようだが。 このオジサンは、「金目当てで地主の家に養子に入ってやったんだから、金使うのは当然だ」と言っていた。「一番楽しかったのは、中国で憲兵やってた頃」とも言っていた。そういうこと、言っていいのか? その他にも、「密教」に凝っちゃって、修行に行ってしまった夫の母の姉の夫という人物がいる。この人物は、兄が戦死したんで、家の存続のために、かなり年上の兄嫁さんと結婚した。こういうことは、戦前はよくあったそうだね。この方が、「あそこの名古屋に住んでいる長男には子どもができんらしいから、護摩たいて祈祷してやろう」と思い立ってくれまして、それで夫の母親が「祈祷してもらったらどうかしらねえ?ついては一番最近に撮った写真を送ってちょうだい」と、私に問い合わせてきたことがあったな。この一件で、夫の母は息子に電話で怒鳴られた。かわいそう。 通夜の夜は長い。あちこちから集まった親族たちがおしゃべりに興じる。誰も故人の思い出話などしない。誰も泣かない。どちらかというと「終わったい、終わったい」という安堵感とかすかな解放感の空気が家中に漂っている。肺炎で入院する前から、夫の父はかなり弱っていて、夫の母は介護で苦労したらしい。「デイケア・センターがあるから助かった」と言っていた。 その数日前に、秋篠宮紀子さんが御懐妊ということで大騒ぎになったので、ごく自然に通夜の客たちの話題は、そちらに流れる。横浜から来た夫の父の姉の夫の85歳のかくしゃくとした御老人が「紀子さんには是非男の子を生んでもらいたいのよ〜〜」とのたまう。この御老人の愛読雑誌は『正論』と『諸君』だそうだから、当然、女帝はまだしも、女系天皇には反対だ。「雅子さんはやる気がなくていけない。公務さぼって乗馬やってるっていうじゃないの〜」とのたまう。「離婚しないと、あの仮病は直らないわよ」と御老人の奥さん(夫の父のお姉さん)が断言する。一方、長男の妻として長年気を使ってきた女性らしく、夫の母は「紀子さん、妊娠なんかしなきゃいいのに。雅子さん、かわいそう」と言う。この見解に対して、「皇室の危機を救うために、あえて紀子さんは立ち上がったのよ〜」と横浜の御老人は言う。 そのおしゃべりを聴きながら、私は、皇室というのは、「日本教総本家宗家としての宗教祭祀の伝統の維持と死守という100%24時間公僕の、高給が生涯保証されて皇居が官舎の家族全員が最高級公務員一家」だけど、そういう存在のありようというのには、どう考えても無理があるよなあ、とか思っている。どうしても「永久不滅なもの」が欲しい、この変転極まりない世界を生き抜いていくために、そういう幻想が欲しいという気持ちは、すっごくわかるけれども、それを生身の家族に求めるのは無理なんじゃないのかなあ、とか思っている。「悠久の日本の象徴として永遠に変わらないでいて〜」という期待と、「国際社会にも通用するようなベスト&ブライテストでもいて〜」という期待を、皇室の人々というのは負わされているわけだけど、このふたつの期待は矛盾するよなあ、とか思っている。 また、私は、紀子さんファンは伝統と日本人のアイデンティティに固執する「尊王攘夷派」で、雅子さんファンというのは、「世界に開かれたニッポンの皇室にふさわしい新しい妃殿下であるのが一番で、皇室祭祀みたいな極東の離れ小島の土人の風習みたいな伝統行事なんかやることない」と考える「グローバリズム推進派」なんかなあ、とか思っている。幕末の尊皇攘夷と開国(=グローバリズム)の戦いは、21世紀の日本でも、まだまだ続いているんだなあ、とか思っている。 それにしても、雅子さんは、官僚の娘なのに、「100%24時間公僕の最高級公務員」の仕事ってのがわかっていないんだなあ、いや官僚の娘だからこそ、税金への寄生に抵抗感がないのかもなあ、とか思っている。将来の皇后たる皇太子妃殿下というのは、美智子さんみたいに、税金に寄生なんて思いもしないような、ほんとうのお金持ちの上品なお嬢さんでないと勤まらないのではないかなあ、とか思っている。それにしても皇太子さんは未来の天皇としては、あまりに「普通に」育ってしまったのかもしれないなあ、とか思っている。天皇と皇后が物分りの良い民主的な理解あるご両親だから、ついまともに育ってしまったのかなあ、とか思っている。「100%24時間公僕の最高級公務員」なんて職は、「自分の祈りだけが日本を守る」と確信できる「聖なる狂人」でないと勤まらんぞ、とか思っている。 ついでに、紀子さんは、今年が天中殺だそうから健康は大丈夫かなあ、とか思っている。日本中の神社は、ちゃんと男子出生の祈祷をやるんだろうなあ、とか思っている。人さまの家のことなんかどっちでもいいよと思いつつも、やっぱり皇室ネタって面白いなあ、私も好きだなあ、とか思ったりしている。 14年前に父が亡くなってからは、私が親族の冠婚葬祭はすべて出なければならなくなったので、今の私は、こういう行事にも慣れてしまい抵抗感も消えてしまっている。しかし、若い頃の私は、冠婚葬祭とか法事の類が大嫌いだった。しょうもない世間話に社交辞令に・・・・アホらしいと軽蔑しきっていた。 そういう私が、名古屋で結婚式と披露宴をやったにも関わらず、長野県でも親族用の披露宴をしなければいけないということで、夫の実家近くの美容院で、亡き母から持たされた留袖(礼装用和服の正統な地が黒くて、紋がついているやつね)一式を着せられて、ヘアスタイルを「佐久間良子」みたいにされて、顔は白塗りされて、座敷にダダッとお膳がならんだ席の上座に正座させられて、「本家の」御老人による「北信流おさかずき」の儀式を見せられて、「信濃の歌」の大合唱を聴かされて、その披露宴がお開きになったときの「おごっそうでやんした」という御老人の方々のご挨拶に三つ指ついて挨拶させられ、そのあとは雪の降る中を、夫の母の後をチョコチョコ歩いて、「長男の嫁のカヨコでございます」と近所を一軒一軒挨拶回りさせられた。あのときは、ほんとうにびっくり仰天した。 翌日からの親戚への挨拶回りもカルチャー・ショックだった。座敷の壁に「戦前の昭和天皇と皇后」のセピア色の写真と「日露戦争で金鵄勲章もらった大叔父さん」の写真が飾ってある家もあった。すでに1980年代に入っていたのに、あの頃の北信州の一角では、まだ太平洋戦争が終わっていないようだった。各家の仏壇も異様にでっかくて、まず訪問したら仏壇にご挨拶なのだった。そのあとで、夫の母の使いで近所のスーパーへ買い物に行ったら、知らないオジサンから、「フジモリさんとこの若奥さんだね。ご苦労さんです〜」と声をかけられた。誰だよ、あのオジサン?? しきたりも伝統もなんもないズボラな両親を持ち、老人には縁のない核家族の家庭で育った私は、フェミニズムのフの字もない様々なネイティブ・ニッポンの慣習に驚くばかりだったが、おかげで世間とのつきあいに免疫ができたような気がする。あのカルチャー・ショックは、私にとっては荒療治だった。私は、結婚したことで、いかにもいかにものネイティヴ・ジャパニーズらしい人々とその慣習を知ることができた。それは、いいことだった。 通夜の夜は更けていく。お灯明もろうそくも大丈夫。「(老けた)お嫁さんぶりっこ」して、黙って年配者の人々のおしゃべりに耳を傾けながら、私は「思えば遠くにきたもんだ」みたいな感慨にふけっていた。 隣室の仏間では、故人が白い布を顔にかぶされて、ドライアイスを胸にかかえて、誰にも構われずに、話題にもされずに、眠っている。しかし、その霊は、通夜の客たちといっしょにお寿司をつまんでいるにちがいない。寝込んだ日々が長く、最後の日々は物が食べられず、臨終の数日前からほんの少しのおかゆを食べることができるようになった矢先の病状の変化だったそうだから、お腹が空いておられるでしょう、お父さん。どんどん召し上がってください。ビールも熱燗もありますよ。もう自由にどこにでも行けますよ。人生、お疲れ様でした。 通夜が明ければ出棺である。長野県(北信州しか知らないが)では、通夜から明けた朝に出棺して、火葬場で焼いてから、お骨の入った箱を祭壇に飾り、告別式を執り行う。名古屋では、告別式が終わってから出棺されて、それからキンキラキンの霊柩車で火葬場に運ばれて、そこでしっかり焼かれる。長野県ではお棺が入れられる自動車も地味な黒塗りのリムジンみたいな奴。その黒塗りリムジンもどきのあとには親族一同が乗り込んだマイクロバスが続く。リムジンもどきとマイクロバスは、粛々と火葬場に向かう。空は晴れやかに澄み、遠くに山々の雪の稜線がくっきり見える。寒い寒い真冬の清潔な朝である。道路に沿って果樹園が広がっている。この道路は、「果物ロード」と呼ばれているそうだ。 火葬場で、お棺が炉の中に入れられる前にご焼香。それから一時間半ほど待合室で待機。一族再会して、話は尽きないようだ。故人である夫の父の姉の娘であり、国立大学の大学院で物理学を学んだ秀才だったが、同窓の理工系の学者さんと結婚して某国立大学教授夫人となって家庭に入ったという、夫のいとこである女性に、私は話しかける。その女性のお嬢さんは東大の大学院生で、フランスに留学中で精神分析を学んでいるそうだ。このネイティヴ・ジャパニーズ集会には、珍しい御婦人である。この方のお父さんは、大東亜戦争に3度も従軍して最後の出征で戦死なさったので、この方はお父さんの思い出がないそうである。この方のお母さん(夫の父の姉)は戦後に大変なご苦労をなさったようである。戦死なさったお父さんは秀才で、かつ品のいい美男子であらせられたのだろうなあと想像がつく御婦人である。 この御婦人は、夫にとって今でも「憧れのノブコちゃん」である。ガキの頃の夫は、自動車が走りすぎると、うわ〜と家から飛び出して道路に出て、ガソリンの臭いを胸いっぱい吸い込んで「町の匂いだ・・・」と思い胸をときめかせたそうだ。ガキの頃の夫は、この山々の向こうには何があるんだろう・・・自分はこの山々の向こうに生涯行けないんじゃないだろうかという憂いに沈んだそうだ。信じられん。いつの時代のガキの話か?『次郎物語』か?そういうガキにとって、その10歳近く年上のいとこは、「憧れの都会のインテリのいとこ」だったそうだ。山中湖に避暑に来る都会の若者たちと同じ洗練された匂いを発散させていた少女だったんだそうだ。なんか絵に描いたみたいな話であるな。 火葬が終わり、お骨を骨箱に収める前に、またご焼香。ふたりずつ箸を使ってお骨をはさんで骨箱に入れる。全部くまなく入れる。あくまでも丁寧に係りの人はお骨を扱う。当たり前だけど、しかし、この点も名古屋と違う。名古屋の火葬場では、骨箱にお骨をテキトーに入れたら、あとは係りの人が水をバッとぶっかけて、サッサと残りを掃除する。実に散文的。考えようによっては、かなり無神経。夫の父のお骨はしっかりと骸骨の形で綺麗に残っていたので、全部を骨箱に納めるのに時間がかかった。私は、癌で死んだ父の骨がボロボロで、あまり残っていなかったことを思い出した。 そういえば、友人から以下のような話を聞いたことがあるな。大阪には、火葬場の焼き師とも呼ぶべきプロがいて、この人物が火加減を調節すると、見事に全身綺麗な骸骨となって骨が焼き残るそうだ。この人物は、<姿焼き>の名人として、業界では「知る人ぞ知る」の有名人だそうだ。この種の名人は、コミックにはならんよな・・・ お位牌と遺影とずっしり重くなった骨箱をかかえて遺族と親族はマイクロバスに乗り込む。リムジンもどきの霊柩車とはここでお別れ。バスは、「安楽院」というネーミングの告別式会場へ移動する。名古屋では「愛昇殿」という葬儀会社が有名で、システムも優れているし、従業員教育もよくできていて、私も両親の死の際には実にお世話になったのだが、まだ長野県までは進出していないようだ。 あくまでも空は青磁の磁器のような色合いに晴れている。お葬式の日が晴れているって、いいよね。心臓病で40代そこそこで亡くなった母の妹の葬式が、ひどい雨降りだったことを私は思い出す。亡き父が「死んでも運の悪い子だなあ・・・」とつぶやいていたっけなあ、あの朝。 葬儀場に到着。職員の方々からお出迎えを受けて会場に入る。告別式は、荘厳な音楽がかすかに流れ、祭壇の背後の白い幕に薄い緑色の照明があたり、そこに白い雲が流れる模様が映し出されることから始まった。次に来たのが雰囲気のあるナレーション。まず故人の出身地や学歴や職歴や資格や趣味や家族構成が紹介される。昨晩、夫の弟がB4用紙になんかしきりに書き込んでいたのは、これだったのか。死んでも履歴書がいるらしい。 ナレーターの女性は「家族から尊敬される良き夫であり・・・良き父のご生涯でした・・・いつかは別れが来るとは知りながら・・・その別れがほんとうに訪れるとき・・・私たちの心は悲しみにうちひしがれます・・・ありがとう・・・ありがとう・・・今までほんとうにありがとう・・・そう呼びかける声に答えてくれるはずの人は、もういないと知りながら・・・涙に濡れつつも、私たちは呼びかけてしまうのです・・・・」と、しめやかに語る。その声といい、その語り口といい、その絶妙の間といい、実に見事でいい感じなので、思わず小さな声で口真似したら、後頭部を夫にはたかれた。くそ。 ナレーションが終わると導師入場である。ここで拍手しそうになったが、してはいけない。3人のお坊さんたちがスタンバイすると、祭壇の前方に、ザザーと雨が5秒ほど降る。そういう演出なんである。天井から噴水みたいなもんである。読経が流れ始めると、参列者の頭上に設置されたスクリーンに故人の写真10枚ばかりがスライドになって映し出される。そういえば、前日の午後に、夫と夫の弟が、しきりに何冊もあるアルバムをめくっていたが、このスライドのためだったのか。夫の父の現役時代の仕事中の写真とか、台湾だのハワイだのに旅行に行ったときの写真とかが何度も何度も映し出される。そのスライドは映画仕立てで、ちゃんとタイトルもついていた。「追憶のために」という文字が菊の絵をバックに、スクリーンに浮かぶ。「冬の追憶」なんてタイトルはどうだろうか。「追憶のソナタ」なんてのもいいな。 しかし実に生真面目で真摯なお葬式である。長野県は教育県である。だから「ストリップ劇場」というものは存在しない。似たような施設はあるが、それは「人生劇場」と呼ばれる。であるからして、喪の儀式も実に教育的に生真面目に厳かに進行してゆく。お坊さんまで生真面目である。いまどき、生真面目なお坊さんなんて、名古屋ではめったに見かけないぞ。大阪では、とっくの昔に絶滅しているだろう。東京のお坊さんならば、ライブドアの株で大損したかも。檀家獲得のためのお寺ウエッブサイト作成で忙しいかも。長野県では、葬儀場の職員さんも、いたって生真面目で礼儀正しく、笑顔で私語を交わすこともない。長野県の葬儀会社には、途中で絶対に笑い出したりしないナレーションのうまい女性スタッフは必須アイテムなんかな。 告別式後のあとは、初七日法要を繰り上げて行う。そのあとは、「おとぎ」と呼ばれる会食である。椅子とテーブルの洋風会食の上座にお坊さんたちが並び座り、司会は横浜から来た例の「女系天皇反対」の御老人が勤める。まず、喪主の挨拶。次に導師を務めたお坊さんの法話みたいなお話と「献杯」の御発声。「乾杯」じゃないよ。このお坊さんは、まだお若いが、浄土宗のお寺の長女さんに婿入りして、お寺の住職となったのであり、ご実家はお寺でも何でもなく、「主体的にお坊さんになった方」だそうで、だから、世襲のお坊さんと違って、とても「やる気」でいいんだと、夫の弟が語る。お坊さんの「やる気」って、何をやるんだ? それから、故人の元同僚であった方々による故人の思い出のスピーチ。それから和やかに歓談(?)。会食のメニューはなかなかに豪華で、まるで結婚式の披露宴みたいだ。精進料理ではありません。「おいしいですね〜〜」と私はステーキにぱくつく。私も、父親の法事の会食を「しゃぶしゃぶ店」や「焼肉店」でやったことがあるが、あれは親族のガキたちには好評だったな。別にアメリカ産の肉で構わんよ。だいたいが、肉を食うこと事態が人類の病気なんだ。心配ならば肉はいっさい食うな。何を食っても生き抜くことこそ大切なんだ。神経質に狂牛病を心配する前に、安易な生き方の結果である脳萎縮を心配しろよ、日本人。 「おとぎ」会食のあと、またもマイクロバスに乗り込み帰宅。帰宅してから、また会食。まだ食うのか。留守をあずかり、おでんを煮込み、サラダを作って待っていたのは、あの「多摩ナンバーの四輪駆動車を乗り回すネイティヴ・アメリカン」の妹さんふたり。お姉さんのほうは、長女さんのご主人がタイに駐在しているんで、何回もタイに行ったことがあるとか。長女さんご夫妻は、メイドと運転手&プール付の大豪邸を借りているから、タイ滞在は非常に快適で楽しいそうだ。このお姉さんの淹れたお茶はメチャクチャうまい。お湯の温度といい渋さの加減といい実においしかった 妹さんのほうは美人で、90歳と86歳の舅さんと姑さんを抱えて果樹園経営だから、すごくお忙しいそうだ。ご主人が運転免許を取らないので、軽トラックをこの女性が運転してお仕事にいそしんでおられるそうだ。この方々の作った野菜サラダもおでんも、非常においしかった。お茶の淹れ方の巧さといい、親類縁者とのコミュニケーションのとり方といい、さすがは例のネイティヴ・アメリカンの妹さんたちである。生活力に秀でている。農家の嫁の底力である。 しばらくして会葬客は、じょじょにポツポツ帰りだす。お帰りになるお客さんたちに、告別式に飾られたお花を分けて大きな花束にしたものと、お寿司とか他のご馳走をプラスティックに詰めたものとか果物とか持って帰っていただくので、私は、プラスティックにご馳走を詰めるのに大忙しとなる。夫の母は、「あそこは歯の悪い年寄りがいるから、固いものは駄目ね。イカは入れないでね。あ、イクラとウニと甘海老は、ナントカちゃんのお家にね」と仕切る。やっぱり自分と血を分けた甥後さんや姪御さんには、お気遣いが格別ですね、お母さん。例のネイティヴ・アメリカンの妹さんふたりには、こっそり特別に上寿司の折りが用意されていたぞ。夫の弟の奥さんのお姉さんとお兄さんにメロンを持って帰っていただけるように、私は、ドサクサにまぎれて祭壇に飾ってあった大きな果物籠からメロンを2個くすねる。けけけ。 告別式のあくる日は、夫の母は居間のコタツでひたすら眠りこけていた。夫の弟は香典の整理に忙しく、夫の弟の奥さんは、息子さんの大学受験の付き添いで息子さんと東京に出かけた。くたびれているのになあ、お疲れ様です。夫の甥も入試の前に祖父の葬式とは大変だったなあ。文句も言わずに、会席の場では会葬者にお酌などして、素直に礼儀正しく育ったいい子である。東京に行ったら、きっと悪い子になるだろう。ははは。大丈夫だよ、合格するよ。おじいちゃんが守ってくださる。ちなみに夫の弟の奥さんは、「紀子さん」である。私は「雅子さん」じゃありません。ははは。何の話か? 私と夫は、夫の実家の菩提寺まで行き、お墓をスポンジで磨き、新しい雑巾で拭いて清めた。夫は墓石にこびりついた雪かきに励んだ。告別式の翌日もよく晴れていた。気温が上がって、日差しは暖かかった。 喪の仕事をすませての長野からの帰路は、またも「振り子」に揺られたくなかったので、食ったものを吐き出したくなかったので、東京まで新幹線で行き、東京から名古屋へと、また新幹線に乗り継いで帰ることにした。「長野新幹線」って乗ったことなかったので、乗ってみたかったしね。車内販売のワゴンが来たので、アイスクリームを買って食った。新幹線の車内販売で売っている青いパッケージのアイスクリームってうまいよね。食ったら、いつのまにか眠ってしまったようだった。気がついたら、埼玉県を通過している最中で、もうすぐ東京駅なのだった。 ひさしぶりのネイティヴ・ジャパニーズ集会だった。今日のランド節は、ただそれだけの話です。 |