アキラのランド節

皇居見物をした [03/31/2006]


3月も今日で終わりだ。先週の3月25日土曜日は、副島隆彦氏によるVictor Thorn のThe New World Order Exposed(2003)の超訳『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』上下巻(徳間書房刊)出版記念講演会が、武蔵野公会堂で開催された。私は講演会のお手伝いというか、副島氏の講演の無料聴講しに行ったような、副島氏のところの若い気持ちのいいお弟子さんたちとおしゃべりしに行ったような、結局は講演会のお手伝いではなく邪魔しただけのような大人気ないことをするために東京に行った。講演会のお客様の中には、「佐々木一郎の極意学的オブジェクティビズム考」の佐々木さんや、このウエッブサイトの掲示板登録者のYameさんもおられた。直接にお会いできて嬉しかった。

やっぱり、自分の顔をちゃんとさらけ出せないような人々が、挨拶もできないような社会性の欠落した人々が、匿名掲示板に卑しいことを書き連ねるのだろうなあ。

翌日は、「杉並アニメーション・ミュージアム」に行くつもりが、天気がいいんで、東京では早くもあちこちで桜が開花していたんで、そういえば中学の修学旅行以来皇居は来たことがないなあと唐突に思って、急に皇居見物をすることにした。丸の内駅に行って、八重洲口までの自由通路にあるコインロッカーに荷物を預けた。「21世紀中に終わる(かもしれない)」前に、あらためて、ちゃんと「正規の住人のいる皇居」を観ておかないとね、と思いながら丸の内駅北口からぶらぶらと皇居に向かって歩き出した。そのうちに、皇居付近の大きくて立派なビルが、外資系企業ばかりであることに気がついた。CitiBankにAlicoにBloombergに、やはり金融保険関係が多いな。

そういえば、皇居大手門前のパレス・ホテルで去年の初冬に例のA画伯(2005年アイン・ランド墓参ゼミ旅行参加メンバー)が個展を開催なさったのだが、そのとき、A画伯の作品を購入したのは、外国人ばかりだったそうだ。決して旅行者ではなく、いかにもいかにもの外資のエリート・ビジネスマン風白人男性ばかりだったそうだ。その白人男性たちは、共通して、ふらりとギャラリーに立ち寄り、サッサと気に入った絵に直進し、日本語ではなく、あたりまえのごとく英語でA画伯に話しかけ、値段を確認して、サッサと無造作に「ドルで」支払いを済ませたそうだ。オフィスに飾るつもりなのか、気楽に作品をそのまんま抱えて持って帰って行った客もいたそうだ。

ということは、彼らの財布には、いつも何千ドルもの金が入っているということになりますね。金持ちというのは、財布に50万円ぐらいは常時入れているから、二つ折り財布ではなく長財布を持っているのだと読んだことがある。長財布というのは、そういうためにあると読んだことがある。入れるお札のない人は二つ折り財布。納得。

ということは、彼らは日本国内で日本語を話す必要なんか全く感じていなくて、ドル建てで購入するのがあたりまえの環境に生息しているということですね。現在の、東京の丸の内って、そういうエリアなんですね〜〜うわあ。

という具合に、日本は、今やあからさま植民地であります。いよいよもってして、その状態を隠す必要もなくなってきたということですね。植民地の一側面を、「皇居大手門の真向かい」のホテルでA画伯は身をもって経験なさったわけです。皇居と外資の隣接・・・あまりにも象徴的ではないですか。

しかし、あらためて眺めると、皇居というのは、元江戸城というのは、広くて立派なものですね。私は延々と皇居の外堀を一周するつもりだったのだが、甲高、幅広の典型的日本人足用コンフォート・パンプスを履いていたにも関わらず、歩いているうちに足が痛くなってしまった。スニーカーを鞄に入れておけばよかったと思っても、いまさらしかたない。だから、残念なことに、東御苑と外苑だけしか歩けなかったのであるが、それでも「皇居って、すごいんだなあ」と感心した。中学生の修学旅行の記憶はなんも残っていないから、初めて見たのと同じだったし。

あんたたちねえ、こんなすごいところに住んでいるんだから、民主的な普通の家庭の幸福なんか求めちゃいけないでしょう〜〜家庭の幸福なんてものは一般ピープルのささやかな慰めなんだから、そういうもの欲しがる貧乏臭さはやめなさいよ〜〜迷惑だから、警備の金もかかるんだから、ガキをディズニーランドになんか連れて行くのやめなさいよ〜〜普通のガキじゃないんだから、甘やかすのやめなさいよ〜〜どうしても行きたいのならば、せめてあんたんとこの姪御さんふたりをなんで連れて行ってあげなかったの?あの可愛い女の子たちだって行きたかったと思うよ、TDLは。いい年して、そういう気配りもできないんじゃ、どうしようもないよ・・・と、私は会ったこともない幼稚な某夫妻に向かって、悪態をついた。

ロシアはサンクトペテルブルクの冬の宮殿や夏の宮殿や離宮は、豪壮豪華絢爛華麗なものですが、ニッポンの皇居は、規模や風格に関してならば、絶対に勝っている。大したものだ、あの品格は。カラスの姿を見かけなかったので、管理整頓掃除も行き届いているのでありましょう。カラスがいるところは、必ず不潔だもん。「ケガレチ」だもん。「イヤシロチ」じゃないもん。

京都も、かつての華麗さをしのばせる寺院仏閣は多いですが、スケールに関しては、江戸城といいますか皇居には到底及びません。江戸時代の庶民が仰ぎ見る江戸城なんて、ほんとに「別世界」だったろう。特に、桜の季節などは、素晴らしい眺めだったろう。まさか、あの江戸城に住んでいる人々の支配が終わるなどとは夢にも思えなかっただろう。でも終わったんだよね〜〜必ず何でも終わるんだよね〜〜感慨。

ところで、私が主にほっつき歩いた東御苑というのは、江戸城の本丸、二の丸、三の丸だった場所が皇居付属庭園として、1968年から無料開放されたものだ。ここには、かつて「松の大廊下」とか「大奥」とかがあったのだ。私が「松の大廊下跡」のガイドポストに行ったら、なんか20人ほどの御老人集団に歴史的説明をしている中年の男性の方がおられた。どうも日本史の研究者のようである。その方のお話が巧みで、きわめて面白いので、ドサクサにまぎれて、私はその集団にくっついて、無料で「歴史案内」を聴いた。

実は、『忠臣蔵』で知られる浅野のお殿様が刃傷に及んだのは、「松の大廊下」ではなくて「柳の廊下」なんだってね。松の大廊下は畳敷きだから、刃傷が起きて血が流れれば、いくら拭いても血は畳の目につまる。そんな汚れたところを、事件後に勅使が通るわけはないし、柳沢吉保の日記にもちゃんと「刃傷があったのは柳の廊下」って記述してあるそうだ。歌舞伎にしたときに、「柳の廊下」では、なんか舞台栄えしないというか、迫力がなかったみたいで、勝手に「松の廊下」にしちゃったらしい。

純情一途な浅野の若殿様を意地悪吉良さんが苛めたというのは嘘で、勅使饗応役の浅野さんがドジ踏んだら、上司のコーチ役の吉良さんの責任になるんだから、苛めて嫌がらせなんかするはずない。刃傷沙汰は、浅野さんの単なる乱心というか、吉良さんからすれば「通り魔」みたいな、実に迷惑至極な事件だったらしい。その証拠に、吉良さんは後ろから「斬り」つけられている。日本刀でほんとうに殺害する気ならば「刺す」のであって、それが武士の常識なのであり、浅野さんが斬りつけたということは、ガキがふざけているみたいなもんで、本気ではなかったし、殺意もなかったということなのだ。だいたい、そのときの衣装は袖の長さが150センチもあり、持っていた刀は27センチくらいしかなくて、袖の中に刀が埋もれている状態で斬りつけたので、致命傷なんか与えられるはずもなかったそうだ。

浅野さんの母方の叔父さんふたりというのが、大した理由もないのに突然カッとなって、城内で同僚に斬りつけた人たちで、どちらも、それで切腹しているんだそうだ。被害妄想になりやすいというか、もともとが脳がおかしく切れやすい家系出身だったのだ、浅野の殿様というのは。饗応役のストレスと疲労で、つい発作が出ちゃったというのが、真相らしいです。

殿中での饗応役の歩き方には作法があって、いわゆる「難波歩き」の極端なやつであり、右足と右手を同時に、左足と左手を同時に出して、腰を落として長袴でシズシズと歩行しなければならず、浅野の殿様は、この優雅ではあるが、むかつく歩行をする緊張に苛々して切れた、という説もあるそうです。覚醒剤が切れていたわけではないらしいです。

ところで、この浅野の殿様が即日切腹になったと聞いて、赤穂の領民は実は大変に喜んだそうだ。年貢ばかり高くして、ろくでもない領主だったからだ。あの当時の年貢は、収穫の35パーセントが普通だったのに、この浅野の殿様は40パーセントの年貢を取り立てた。100万円稼いで40万円税金で取られるのだから、たまらんよね。饗応役は1400両ぐらいの自己負担費用がかかるのが相場なのに、この浅野の殿様は、相場の半分の700両で賄おうとした。無謀というかケチというか財政困難というか。これではストレスがかかるよな。相場の30%安いヒューザーのマンション買っただけでも、ローンは残っているのに退去しなくてはならずで、長々とストレスがかかるのに。

それにひきかえ、吉良さんは名領主で、年貢は20パーセントしか取らなかった。吉良さんが殺されたとき、領民は嘆き悲しんだ。いまだにその「吉良町」では、吉良さんは名君の誉れ高い非業に倒れた郷土の英雄なんである。これは、よく聞く話ですね。

史実がどうであれ、侵略されての防衛戦で負けたわけでもなく、他に何があったにせよ、一族郎党藩士を路頭に迷わせたリーダーなんて、とんでもない馬鹿である、という理解は世間では暗黙にも共通のものだと私は思う。しかし、いまだに性懲りもなく、正月時代劇とか大河ドラマで『忠臣蔵』は取り上げられている。お馬鹿なリーダーに忠義をつくす健気な男たちの自虐ロマンというのは、眺めていても劣等感が刺激されないので、いいのかな。日本人って暗いな・・・

ともかく、なんで、そんな馬鹿殿様のために大石内蔵助たちは、吉良さん暗殺というテロを決行したのか?という問題に関しては、その歴史案内役の男性は、「実はよくわかりません。殿様が吉良さんを襲った理由はわからなかったにせよ、ただ赤穂浪士たちは、殿様がそうまで殺したかった人ならば、代わりにやっておくのが臣下の役目だと、思ったらしいです。300人余りの藩士のうち討ち入り参加者は15パーセントしかいなかったわけですから、もっともな理由や正義などなかったのかもしれません」と言っておられた。身も蓋もない見解ではあるが、この歴史案内役の男性は、正直な方ですな。

この奇妙な事件の背後にも、鬼塚英昭氏著による大作2段組全538ページの『二十世紀のファウスト』(自費出版です&4000円。読みたい人は、ネットで鬼塚氏の住所調べて注文してください)に丹念に描かれているような陰謀があったのでしょうか?黒人奴隷貿易と中国での阿片販売で巨利を蓄えた後は、武器や石油や鉄道など戦争物資の販売で儲けまくった「黒い貴族」たるロスチャイルド家とつるんだアヴェレル・ハリマン(この人の父親の鉄道王エドワード・ハリマンは『肩をすくめるアトラス』のダグニーの祖父のモデルらしい)が、大国の王室だの大統領だの首相だの総統だのを手足のごとく使って、世界規模の戦争をたきつけることによって、秘かにめざしていた「壮大なるプロジェクト」の日本縮小ヴァージョンみたいなものが、あったのでしょうか?

この歴史案内役の男性の「大奥」の説明も面白かった。大奥の将軍の寝所には、布団が3つ並べられ、真ん中の布団には将軍さんと夜伽の女性が寝る。それぞれ左右の布団には、寝所での言動を全部書き留める役目の女性が寝る。こういう「記録係」がふたりというのは、記録に不備がないようにしておくため、正確さを期するためであろうか。いっさい見落とさないためであろうか。寝たふりして、あとで記録したのか。最中から描写したのか。いずれにしても、ご苦労なことである。今ならば、盗聴器と隠しカメラ設置で簡単なのだが。

これは、夜伽の女性が、pillow talkで将軍さんにおねだりをしたり、政治を左右するような話をさせないための方策だったそうだ。徳川幕府って凄いですねえ。最高施政者としての責任感がハンパではないですね。惚れた女が口出しすると男がわりかし素直に言うこときいてしまうものであると、ベッドは政治的な場所であると、少なくとも初期の徳川幕府は認識していたらしい。偉い!

こういう配慮をするというのは、女の力をあなどっていない証拠である。単なる男尊女卑の性差別主義者や、もしくはジェンダー・フリー提唱者よりも、女をなめず、女に媚びず、きちんと女の力に対して警戒を怠らないという点において、徳川幕府はリアリストであった。さすが勝ってナンボの、実際に仕事してナンボの武士集団が構築した政府である。なんとなく、しょうもない瑣末な気配りのような気もしないではないが。

私は、先月に某児童文学研究者の方に、よしながふみ作『大奥』(白泉社)というコミックをいただいたことを思い出した。すっごく面白いコミックだった。このコミックは、一種のSFです。江戸初期に男しかかからない伝染病がはやり、男人口が減ってしまったので、生殖のために男が大事にされ、厳しい労働は女が担い、「大奥」は、男1000人が女性の将軍のために働く場所になった。そういうalternative worldの話であります。主人公の武家の超イケメン次男坊が大奥に奉公に出て、八代将軍吉宗(本名はお信という紀州家のお姫様)に仕えて、いろいろ体験するという話であります。「さかさま世界」の話です。

この主人公は、美男であるばかりではありません。貧しくて金を払えないが子どもは欲しいブスとも性交してあげる優しい男です。この世界では、男が極端に少ないので、子種もらうのにも大金がかかり、貧乏な女は出産どころか、妊娠もできないのであります。よく考えつくよなあ、こんな話。まだ一巻しか販売されていないが、今後の展開によっては、このコミックは、フェミニスト・コミックの傑作になるのではないでしょうか。しかし、ほんとに、よく考えつくよなあ、こんな話。

歴史案内役の男性は、さらに「再建されなかった江戸城天守閣」の話もしておられた。江戸城天守閣は3回建て変えられたが、三代将軍家光が命じて建てた金の鯱が乗った高さ51メートルの五層の天守閣は、明暦の大火事(1657)で焼失した。そのとき、家光の異母弟で四代将軍家綱の叔父の保科正之が、「天守閣なんて、いまさら戦国時代でもあるまいし、作る必要なし。城下町の復興のほうが大事」と言って、蔵に蓄えられた金銀は、そちらに回されて、以後天守閣は再建されなかったそうだ。そうかあ、見識ある、物事の優先順位をつけることができる判断力のある施政者がいたんですねえ。

時代劇で、吉宗とか幕末の時代なのに、江戸城の天守閣が出てきたりするが、あれは無知の産物だそうだ。いまどきのテレビや時代劇では、時代考証なんかしないんじゃないの?大昔に見たTVドラマの『木枯らし紋次郎』で、田んぼを疾走する紋次郎さんの背後に遠く送電塔(?)みたいなのが写っていたのは、面白かったが。

私がガキの頃の時代劇では、ちゃんと武家の既婚女性は眉をそり落として、鉄漿(おはぐろ)をしていたよ。腰を落としてすり足で歩いていたよ。三隅研次の傑作時代劇映画『斬る』(1962)を見てよ。市川雷蔵主演の『斬る』は、当時の作品としては時代劇離れして斬新すぎるものだったらしいが、今見ると、やはりちゃんと時代劇している。冒頭の藤村志保演じる御殿女中が、びっくりするほど素晴らしいぞ〜〜あれ一本だけでも、藤村志保さんは日本映画史にその名が残りますわ。すごいぞ〜〜

さてそのあとは、歴史案内役の男性に引き連れられた御老人集団は、梅林坂に向かい、次の予定は、丸の内駅のステーション・ホテルで昼食らしい。漏れ聞いたところによると、この方々は、「大人の休日」とかいう歴史探訪がメインの旅行クラブの会員らしい。一行と離れて、私は二の丸雑木林の中の小道をタラタラ歩く。お名前も存じませんが、あの歴史案内役の男性にお礼を申し上げます。面白いお話を、ありがとうございました。

Carroll QuigleyがTragedy and Hopeで書いていた「日本文明は江戸期に最盛期を迎えたが、1853年に西洋から侵略されて以来、西洋文明の周辺となった」という記述はほんとうかもしれないなあと、私は思った。確かに、これだけの場所を作った江戸時代というのは、実は、空前絶後のニッポンの最盛期だったのかもしれない。それは確かに「ある文明」の頂点だったのかもしれない。

そのあとは、三の丸尚蔵館をのぞき、大手門にもどり、外苑に向かった。外苑の真ん中から、東と南に広がるビル群の遠景を望んだ。日本の首都の中心地から眺める平和と繁栄の風景だ。歩き疲れて足が痛くなった私は脱いだパンプスを右手にぶらさげながら、「どこに行くのかなあ、ニッポンは・・・」と思った。「どうなろうと、日本人は何とかやっていくんだろうな・・・」とも思った。

「雨の外苑〜〜夜霧の日比谷〜〜今も心に優しく浮かぶ〜〜君はどうしているううだあろおおかあ〜〜あああ〜〜東京の灯よ〜〜いいつうまあでええも〜〜♪♪」という、はるかに大昔(東京オリンピックの頃かなあ?)に流行した歌謡曲の一節を口ずさみながら、私は、東京駅に向かってのんびり歩いた。若い人は、この高度成長期ニッポンの東京を寿いだ名曲を知らないよな。可哀想に。けけけ。

帰りの新幹線のなかで、着ていたコートの後ろの肩に鳥の糞らしきものが付着しているのに気がついた。くそ(文字通りだな)。私は、ニューヨークでもサンクトペテルブルクでも、よく鳥に糞を衣服にひっかけられる。鳥とかの小動物って、きっと悪魔の使者なんだわん。私が幸福だもんだから、こうゆうセコイ嫌がらせをするんだわん。と思いながら、くたびれて眠ってしまった。今日のランド節は、ただこれだけの話です。