アキラのランド節

もっと究極のSelf-Development本、もしくは「神の収縮」に関する話(その2) [05/16/2006]


すみません。今年の前半分は、心臓は動いているんですが、脳波が停止しています。だから、本ウエッブサイトの更新も滞っております。

気力がない時は、やたら名古屋に帰ります。名古屋に帰って、大須(おおす)とかのアーケード商店街をタラタラ歩いて、大須演芸場のポスター眺めたり、大須観音にご挨拶したり、アジア雑貨店なんかのぞいて、インド製かなんかのビーズがいっぱいくっついた安っぽいけど綺麗なポーチとか造花の蓮の花(トイレに飾るんだ)を買い込んだりして、食堂(断じてレストランではない)でオムライスとか中華そば(断じてラーメンではない)を食ったりします。

大須という町は、東京の浅草に似ていますが、浅草の仲見世みたいに「ニッポン」を売り物にできるほどの民族的統一性がないエリアです。ニューヨークにたとえれば、ソーホーとチャイナ・タウンと34丁目より南の7番街や8番街あたりをミックスしたみたいな、下層中流階級風(下流社会風)にバランバランに雑多な何でもありの商店街です。いわば名古屋の中のバザール地区、アジア&南半球ですね。と同時に、ネイティヴ・ナゴヤが色濃く残る懐かしいエリアです。好きだなあ、大須。

こういう心情は、北ヨーロッパ風(ユダヤ金融資本家風)合理性と効率の競争に疲れた白人が、イタリアとかスペインとか、トルコとかイランとかエジプトとかに行って、癒されるようなもんでしょうか。あ、大須さん、ごめんなさい。

エドワード・サイードは、かつて名著『オリエンタリズム』において、中近東&インド(日本を含む極東なんかオリエントでもないんじゃ、辺境じゃ、人外境じゃ)にヨーロッパ人が求める「魅惑の異国情緒」とは、「迷惑な自己同一化による身勝手一方的な妄想」と、その前提としての「オリエントに対する圧倒的な優越性を信じて疑わない思い上がりと歴史的無知」の産物であることを分析しました。

とはいっても、「こちらの文化や精神性の方が快適だな〜楽だな〜なんか北ヨーロッパはきついよなあ・・・」という純粋な懐かしさにも似た憧れの気持ちも、ヨーロッパ人たちにあったのも真実だったと思うなあ。結局は、懐かしき憧れのオリエントを足蹴にして、「きつくないと、少しは辛くないと、生きている気がしないな、やっぱり」と思いながら北に帰ることは、自分でもわかっていたにしても。私も元気になると、「大須〜〜??そんなところタラタラ歩いている暇があるかあ!」とほざくのだろう。

ところで(話は変わるような、関連しているような)、今の若い子たちが、やたらベトナムとかタイとかバリ島とかに行きたがる現象が、私には不思議です。なんでよ?東南アジア旅行とかって、アメリカやヨーロッパに挑んで疲れた奴がすることだろうが。若くて元気なのが、「癒しの国々」に行って、どうするんだろう。タイ式マッサージに行ってどうするんだろう。そんなところは、死ぬ寸前に行けばいいんだよ。まずは、北ヨーロッパあたりとかイギリスとかに行って、いやったらしい白人の馬鹿なくせにえっらっそ〜な態度にむかついてくるべきだろうが。アメリカでもまずはカリフォルニアではなくて、東部や南部に行って、「なんだ、先住民族殺しまくったくせに。メキシコからの不法移民追放だって??もともと、ここはメキシコ人の先祖の土地じゃ。元にもどっただけじゃ、お前らこそ旧大陸に帰れ」と、心の中で悪態をつくべきだろうが。

再度ところで、5月始めのゴールデンウイーク中に、以下のような貴重なニュースを見つけました。何度も映画化が試みられながら、ぽっしゃってきた『肩をすくめるアトラス』が、今度はほんとうに映画化されるらしいです。

  (以下は、http://ccr2.blog9.fc2.com/blog-entry-1532.htmlからのコピペです) ブラッド・ピット(Brad Pitt) とアンジェリーナ・ジョリー(Angelina Jolie) 主演で、企画段階で長い間滞っていた作家アイン・ランド(Ayn Rand) の名作小説『肩をすくめるアトラス(Atlas Shrugged)』の映画化がついに実現することになった。

今回ライオンズゲイト・フィルムズが映画化権を取得したこの作品は、1957年に出版されて以来多くの人々が歴史上最も影響力のある本の中の一冊とする名作で、未来のある時点の経済破綻を迎えた米国という設定の中、ランドの哲学というべき客観論が語られている。

ヴァラエティ誌によると、世間を騒がしている『Mr.&Mrs.スミス(Mr. & Mrs. Smith)』のカップルは共にこのロシア生まれの作家がお気に入りなのだといい、それぞれダグニー・タッガートとジョン・ゴールトを演じることになるとのこと。 1,100ページにも上る長編小説の脚本は、『レイ(Ray)』のプロデュースを手がけたボールドウィン夫妻(Howard and Karen Baldwin) が担当する。

  『肩をすくめるアトラス』の映画化プロジェクトは、かつてクリント・イーストウッド(Clint Eastwood) 、ロバート・レッドフォード(Robert Redford) 、そしてフェイ・ダナウェイ(Faye Dunaway) が長きに渡り関わっていた。
(以上、コピペ終わり)

前置きが長くなりました。前回のランド節の続編です。「もっと究極のSelf-Development本」の小林正観さんの『宇宙を味方にする方程式』の話ですね。厳密に言うと、「宇宙を味方にする方法」は1000ぐらいあるらしいのですが、サッサと荒っぽく言いますと、以下のふたつのようです。

まず第一の方法は、「ありがとう」をいっぱいいっぱい声に出して言うこと。なんでかっていうと、前のランド節にも書いたように、宇宙で起きることは、個人の身にであろうが、集団、国家にであろうが、みなその個人や集団や国にふさわしいものであり、いかに不条理に見えようと、ちゃんと意味があり、大きく見れば善きことの実現に貢献しているのだから、すべての現象に「ありがとう」と言うことが、宇宙の意志にかなうんだそうです。だから、「ありがとう」と言うことは、宇宙に気に入られる一番確実な方法なんだそうです。

デキの悪い女房や亭主や親や子どもや上司や同僚や部下の悪口&批判は、「なんで、こんな人間とあたいが関わらなきゃいけないのよ〜〜おかしいよ、宇宙さん」と言うことなのだから、宇宙を敵に回すことになるそうです。「ああ、こういう人々と遭遇させていただいて、ほんとうに勉強になります、ありがとうございます」と言わなきゃいけないんだそうです。愚痴や泣き言、不平不満も、同じ理由でいけないんだそうです。「こんなのひどいよ〜〜不公平でしょう〜〜不条理でしょう〜〜」と言うということは、宇宙の深遠なるデザイン=神の摂理を、小賢しくも無知にも疑い批判することだから、宇宙を敵に回すことになるそうです。宇宙を味方にしたいならば、ともかく抵抗せずに、全肯定して、「ありがとう」と言いいなさいと。なるほど。

年齢の数に1万回かけた数だけ声に出して「ありがとう」と言うと、奇跡が起こるそうです。癌細胞も消えるそうです。3000回言っただけで、「うつ病」が治った人がいたそうです。100万回以上言った人がいたそうで、その方は超能力者になったそうです。水を飲むとき、「若返らせてくださってありがとう」と水に言いながら飲むと、ほんとうに白髪が2ヶ月ぐらいで消えるそうです。花を飾るとき、「綺麗に咲いてくださって、ありがとう」と言うと、花が喜んで、ずっと咲いていてくれるそうです。これは、よく聞くなあ。

じゃあ、これもありではないかと思って、私は、食べ物に「痩せさせてくださって、ありがとう」と言いながら、どんどん食っています。今のところ、まだまだ、私の言葉に心がこもっていないのでしょうか、発声回数が足りないせいか、痩せません。

第二の方法は、洗面台とお風呂とかトイレなどの水周りの掃除。特にトイレの掃除は毎日すること。なんでかというと、トイレ掃除するときは、人は腰をかがめたり、便器の中に顔をつっこんだりと、謙虚にならざるをえない。「人間って、どんなに偉そうにしても、気取っても、上品ぶったって、トイレで排泄物出さないでは生きて行けない生き物だな・・・恥ずかしくも、こっけいな、可愛い、かっこ悪い存在だな」と感じざるをえない。つまり、地に足がつくといくか、正気になるというか、現実を静かに見つめるようになれるというか。そうすると、「なんか、こうやって生活させてもらえるって、ありがたいことだなあ・・・・何があっても不思議じゃない世の中なのにねえ・・・」と、感謝の気持ちがわいてきて、自分や自分の人生や、自分の周りの人々を肯定できるようになる。ちっぽけな自分のこだわりが消える。そういう心性や姿勢が、宇宙から見ると、「こいつ可愛いじゃん」ということになると。なるほど。

で、使用していないときは、「トイレの蓋を必ず閉じておく」ことだそうです。世界中のお金持ちの家を調査したところ、唯一の共通点が、「トイレの蓋が閉めてある」ということだったからだそうです。こんなこと誰がいつどこでどうやって調べて記録したのか?と、いちいち疑問をさしはさんではいけないのだそうです。「なんで?」と聞くことがすでにして、否定的な態度であるから。

また、トイレは霊界への通路だそうです。死者は、トイレなんかに現れて、愛する人々に自分の死を知らせるとか。トイレの扉を開けたら、しばらく会っていないおじいちゃんが立っていたら怖いよね〜〜トイレの蓋を開けておくと、霊界への入り口ができてしまって、そこから邪や魔が入ってくるから、トイレの蓋は閉めなければいけないそうです。なんとなく、この話には説得力があるな。ホラーの題材になりそう。

ともかく、仕事とお金に困りたくなかったら、毎日トイレ掃除をしていればいいのだそうです。また、臨時収入とかそれに類した嬉しいことが起こるそうです。

「ありがとう」を言うことと、毎日のトイレ掃除・・・な〜〜んて簡単なんでしょうか。「ありがとう」なんか、言うのは簡単ですよ。何回行ってもただですよ。トイレ掃除なんか、もともとが毎日して当然のことだし、今どきのトイレなんか、みな水洗なんだから、とても簡単です。毎日ちゃんと水拭きすれば、便器も床もピッカピカです。臭いもしません。ましてや、用が済んだらトイレの蓋を閉じることなんか、簡単より簡単です。

そんな簡単なことでいいのか、なんの努力もしなくていいのか、頑張らなくていいのかと喜んで、早速、とても素直な私は「実験」を始めました。

まず実験その1。ブツブツ1000回ぐらい「ありがとう」と言うと、頭がスッキリしてきます。スッキリしすぎて、一時的ではありますが、死んでるみたいに平静な気持ちになります。これが、脳波がα波になったとかθ波になったとかいう状態でしょうか。この「ありがとう」というのは、21世紀大衆版「高天原に〜〜」の祝詞(のりと)みたいなもんでしょうか。21世紀大衆版「南無妙法蓮華経」もしくは「南無阿弥陀仏」でしょうか。1000回ぐらいは簡単に言えます。数えてみたら、1分で80回言えます。地下鉄の中とかで、ブチブチ言ってりゃいいんですよ。

しかし、若い人はいざしらず、年の数に1万回かけた数の「ありがとう」を私が口走るには、1日1000回で計算して2年弱ぐらいはかかる。しかし、「奇跡」って見たことないから、見てみたい。ちゃんと実験しとおすぞ。必ず「奇跡」を経験するぞ。どんな「奇跡」かな。と言いながら、昨日も忘れた「ありがとう」1000回発声。この実験結果は、2年後に御報告いたしします。

といっても、まあ私の人生、けっこう、私的には、ささやかな奇跡はいっぱい起きてきました。疲れる人生ではありましたが、ついてる人生ではあったのですよ。だから、年の数に1万回かけた数だけ「ありがとう」と言ったとたんに頭脳明晰になるとか、容姿端麗になるとか、ロシア語も中国語もアラビア語も話せるようになったとか、六本木ヒルズに観光に行ったらテロに遭遇したけど無傷で助かったとか、勤務先の桃山学院大学の教育サーヴィスが飛躍的に向上して関関同立を蹴飛ばして早稲田、慶応に迫る勢いになり、東京とアメリカに分校を設立して収益拡大、ボーナス年収の2年分が全教職員に支給されたとか、日本が安全安価な代替エネルギーを発見して石油や原子力に頼らなくてすむようになったとか、日本が廃棄物から美味で栄養もある食料を生産できるようになって世界の食料不足が解消されたとか、世界から戦争とか拷問とか強姦とかの暴力が消えた、ぐらいのことは起きてくれないと、それが「奇跡」とは気がつかないかもしれません。ははは。

なにしろ、ほんとうに宇宙を味方にすると、どういう生活になるか?それは、何事もなく平穏無事な心穏やかな淡々とした平々凡々な日々が続くそうです・・・・・あの、ならば、もう今の私の状態は、そんなもんですが・・・・あ、これが奇跡?「ウウウ・・・ウォーターー!!」と叫ぶばかりが、奇跡ではない。

実験その2。毎日のトイレ掃除をすると臨時収入があるというのは、あたりました!なんでか、どういうわけだか、夫の母が私にかなり結構な額のお小遣いを下さったんですね〜〜夫の母が、なんで唐突にも、50歳過ぎた老けた嫁にお小遣いをあげようという気になったのか、謎です。宇宙のようにはかり知れないです。トイレの神様の思し召しでしょうか。いくつになってもお小遣いは嬉しい。狂喜しつつ、ありがたくいただいて、すぐに散財させていただきました。私が貯金するはずない。

というわけで、みなさん、トイレ掃除をいたしましょう。私は「実験」しました。「臨時収入」ありました。素直に信じて、中も外も便器を磨いてください。ブラシでなく、手袋使用せずに、素手で。清潔な雑巾で、しっかり床もドアも拭きましょう。水仕事の後は、尿素入りのハンドクリームで手のお手入れは欠かさずに。指先は特に念入りに。何の話か。

なんか、明治時代にも「一燈園」(いっとうえん)という新興宗教団体があって、人の家を訪問しては「トイレ使わせてください」じゃなくて、「トイレ掃除させてください」と申し出て、修行としてトイレ掃除をしていた人々がいたそうです。大本教(おおもときょう)の創始者の出口なおさんが、神がかりになって教団を創設する前のこと、極貧の暮らしを支える行商で訪れた家々で、「神棚や神床を掃除させてください」と申し出て、掃除させてもらっていたという話を読んだことがあるが、神棚掃除にせよ、トイレ掃除にせよ、申し出られた家の住人は、さぞかし驚いたことだろう。今なら、「何を売りつけるのか?」とか「新手の強盗かしらん」とか「変態!」とか、疑われること間違いない。

どうも、「掃除」というのは、日本の精神文化において、霊的向上のための重要な実践事項らしいです。「生長の家」も、信者たちが何をするかというと「掃除」というご奉仕だもの。

中国人女優が奇妙な髪型のゲイシャを演じた、あのしょうもないデタラメニッポン映画、Sayuriの原作者に取材されて、そのネタを確信犯的に誤解され利用され、その原作者を訴えた岩崎峰子さんという祇園の名舞妓さん&名芸妓だった方がおられます。その方がお書きになったエッセイ集が何冊か出版されています。これらのエッセイ集は、少女コミックになっています。大和和紀さんの『紅匂う』(白泉社)ね。その祇園本によりますと、京都祇園の置屋のトイレは、必ず、その置屋の跡取りが掃除するんだそうです。女中さんが何人いても、トイレ掃除は跡取りの仕事。また、京都の大店(おおだな)の主人の大事な仕事のひとつは、家族用トイレはもちろんのこと使用人用トイレも掃除するということだったそうです。でないと、その店は繁盛しないのだそうです。名刹(めいさつ)の大きなお寺のトイレは、一番の高僧が掃除するんだそうです。「貴重なる修行の機会、徳積みの機会」を、下っ端の修行僧なんかに与えるわけにはいかないそうです。あまりにもったいないそうです。

こういう発想って、すごくないですか?トップに立つ人間だからこそ、トイレ掃除という掃除の中でも一番したくない類の底辺の仕事をする。この種の奇妙な、精神における霊性における民主性があるよね、日本人には。この世の階層を無効にするような実践を、上位の階層の人間にあえてさせることによって、下層の人間の心に対する共感や想像力を養うわけです。そうすることによって、より深く広い視点を、ひいては、この世を越えた視点を、上位の階層の人間に身をもって身につけさせるわけです。すごい知恵ではないですか。いつから、この知恵が日本から消えたのか?

バチカンにいるローマ法王が、神に近づくために、トイレ掃除をするとは思えない。エリザベス女王やチャールズ王子がバッキンガム宮殿のトイレ掃除をするとは思えない。ロックフェラーがシテイ・バンク本店のトイレ掃除をするとは思えない。ブッシュ大統領が、ホワイトハウスのトイレ掃除をするとは思えない。

根本的には、日本って「階層社会」じゃないんですよね。ほんとうの意味での「奴隷」がいない社会ですね。インドみたいなカースト制度の社会ならば、社長がトイレ掃除したら、部下はもう絶対に社長に従わないよ。「あ、この人、そういう出身なのね・・・」で、もう完全に無視だ。日本ならば、トイレ掃除をする社長を部下が軽蔑するっていうことは、まずないと思う。かえって、好きになるんじゃないか。小泉首相が国会議事堂のトイレ掃除をこっそりしていたら、それが国民に知られたら、支持率は上昇するんではないか。紀子様もトイレ掃除したら、秋にはめでたく男のお子さんが生まれるかもしれない。誰か教えてさし上げてください。

倒産する会社は、必ずトイレが汚いそうです。加害者であろうが、被害者であろうが、犯罪に関係する場所のトイレは汚いそうです。泥棒に入られるような家もトイレが汚いそうです。そうか、防犯はセコムを頼らずに、トイレ掃除から。

現代日本でも、公衆トイレの掃除を社長自らが率先してボランティアでしている会社(イエローハット)があるそうです。そこの社長に賛同して、日本や中国などで、あちこちにトイレ掃除ボランティア団体ができつつあるとか。「トイレ掃除大東亜共栄圏」とは素晴らしい。日本中の公衆トイレが綺麗ならば、それこそ日本は「文化国家」ですね。20年以上前のことですが、イギリス旅行の帰りにシンガポールに寄ったときに、「あ、アジアに帰ってきたな」って思わせたのは、そこのトイレの汚さだった。トイレが綺麗なことこそ文明だと、文化だと、洗練だと、知性だと、確かに私は思うもんね。

しかし、公衆トイレの掃除ボランティアかあ・・・私にできるかなあ・・・勤務先のトイレに、どこかの馬鹿が便器に何かを突っ込んだらしく、ともかく詰まってしまって使えないという状態だったときに、しかたないから腕を突っ込んで詰まっているものを取り出して、なんとか水が流れるようにしたという経験ぐらいは、私にだってありますよ。私は気が短いから、掃除婦さんの到来を待っていられない。しかし、公衆トイレには接近するのも、ためらうぞ・・・・

ソ連時代のロシアのトイレ話といい、なんで、かくも私はトイレにこだわるのか。理由なんか知らんわ。私は、自分が生まれ育った時代が、水洗トイレがあたりまえの環境であることの「奇跡」に、ただ、ひたすら感謝します。タイム・マシンで過去の時代に行くなんて気がしれない。トイレが水洗じゃないぞ。ロシアのロマノフ王朝のピョートル大帝よりも、女帝エカテリーナよりも、今の私の方が幸福。トイレが水洗だもの。

いやいや、私が今回のランド節で書きたかったのは、「ありがとう」とか「トイレ掃除」の話ではなかったのですよ、ほんとうは。『宇宙を味方にする方程式』から判断する限り、小林正観さんという方の提唱する考え方は、キリスト教にたとえれば、「キリスト教以前のキリストの教え」=「いまだ歴史上実現されたことがないキリストの教え」みたいな「ほんとうの根源的な純粋カトリック」みたいなもんであり、それがいかに価値転覆的な過激なことか書きたかったのですよ。

この小林さんが提唱なさる考え方は、「神の収縮」説が導入されて以来の人類の迷走を終わらせるような人類を救う未来の思想なのかもしれない。中世を経て近代の宗教革命で内実が変形させられてしまったけれども、時代が進んで、やっとキリストの言ったようなことが実現される下地ができたことを証明するような現象かもしれない。という話を書きたかったのですよ。しかし、ひょっとしたら、この小林さんが提唱なさる考え方は、「来るべき階層社会日本の、格差社会日本の、生涯年収300万円以下の層の日本人慰撫/懐柔思想」もしくは、「新たなる中世の思想」かもしれないという話も書くつもりだったのですよ。そうなると、この小林正観さんは、心ならずも「21世紀日本版エルスワース・トゥーイー」であらせられるのかもしれない、という話も書くつもりだったのですよ。かつ、副島隆彦氏がなぜカトリックを「貧乏白人大連合」とお呼びになるのか、やっと遅ればせながら、しっかり腑に落ちたという話も書くつもりだったのですよ。

だから、この話はまだまだ続きます。では、お近いうちに。トイレに行ってきます。