アキラのランド節

アイン・ランドは、ふたりいる [12/09/2006]


昨日12月8日午後6時半から、あの洋販が展開している洋書店Random Walk大阪心斎橋店2Fにおいて開かれた日本初の一般公開向けアイン・ランド講演会は、無事に終わりました。

予約無用&無料の座席20席のミニ講演会でも、私は無名だし、アイン・ランドが日本でヒットしているという状況でもないし、「必ず来ること!これは授業です!来なければ単位あげない!」と学生を脅迫し動員する度胸は私にはありません。前日にRandom Walkさんが送信してくださったチラシを印刷して1クラスに、サラッと配っただけであります。これでは3人すらも集まらないなあ・・・それはそれでしかたない・・・私がどうこうできるものではないし・・・と思いつつも、やはり、クヨクヨウジウジと気になってしまったのでありました。

もう〜〜難波から心斎橋に向かって、アメリカ村に向かって、Random Walk大阪心斎橋店に向かって歩きながら、このまま消えちゃいたいと思いましたね〜〜夕暮れのえびす橋近辺は、いつもと同じく若い人たちで混雑していました。あたりの空気は週末を控えた解放感でいっぱいに満たされているのに、私はといえば、「これからもアイン・ランド講演会があるたびに、こういう思いをするのかなあ・・・うわあ・・・幸福だけど、かなわんなああ・・・」と、クリスマス・シーズンのイルミネーションが華やかな雑踏の中を緊張して歩いているのでありました。

私は、弱気なときや体調が悪いときは、真っ赤な衣服を身につけます。ですから、昨日も、鮮やかに真っ赤なダッフルコート着て出かけました。あれだけの鮮やかなレッドだと、いいんだよね。昔のポストでいいですよ、別に・・・私は、赤とゴールドの組み合わせが好きなんだ。派手が大好きだもんね、ほんとは。

学会というところならば、必ず聴く人はいる。大学の講演会も、聴く人は必ずいる。しかし、組織なしの、動員なしの、純然たる「一般公開講演会」というのは、予測がつかない。20名という数字が、いかほど重いか知りましたよ!!!

しかし、なんとか席も埋まった状態で講演を始めることができました。ありがたかったです。ほ〜〜んとに、ホッとしました。A画伯からは、お花の差し入れもしていただき、感謝感激でした。そのお花を飾ったテーブルを前に腰掛けて、気楽なおしゃべりという趣で、まとまらないながらも、好きにアケスケに話させていただきました。

来てくださったみなさん、ありがとうございました。ご来場の桃山学院大学の学生さんたちには、心ひそかに、学期末の成績評価で「A」をつけよう!と思いましたが、彼らは、もともとが「A」の学生だから、意味ないね。他の大学の大学院を出たOGも、京都の大学で3クラス教えたあとに、大阪まで来てくれた。3クラス(3コマと私らの業界では言う)やったあとでは、いくら若くても、くたびれていたでしょうに、ごめんね。もう嬉しくて・・・涙が出るよね。12月8日当日朝に、前回の「ランド節」を読んで講演会のことを知ったそうであります。忙しいのに、読んでくれているんですね〜〜♪

副島隆彦氏のお弟子さんで大阪在住の方も、おふたり来てくださり、質問してくださった。社会人聴講生の方も来てくださった。

知らない方も数人来てくださっていた。その中には、カナダのロックバンドRUSH(ランドのAnthemをもとにした曲を歌っています)のファンという女性もいらしていた。お礼を申し上げたかったのに、サッサと会場から消えた男性もいらして、残念でした。

あの洋販が展開しているお洒落な洋書店Random Walk大阪心斎橋店(あの洋販、という言い方が気になる・・・と、あの洋販の方々はおっしゃっておられましたが・・・いや悪意も他意もありません)は、ミニ講演会を、今後も定期的に開いて、アメリカ村の一角で洋書店にふさわしい文化啓蒙活動を展開する予定だそうです。その第一回目が、「アイン・ランド講演会」だったのであります。実に光栄でありました。

講演会後に、Random Walk大阪心斎橋店のスタッフの方々とお食事をして、楽しく過ごしました。ちゃんとアイン・ランドの本を読んでくださっていた方々もいた。若くて陽気で元気で、マナーも良く、内輪の話を勝手に内輪で始めることもなく、愚痴など言わず、私のしょうもないおしゃべりに大いに笑い興じ、気遣ってくださった。実によくできた方々でありました。みなさんまとめて、珍しいくらいに感じがよかったぞ。不思議な会社だ。という言い方は失礼か。あのお店の空気も、オフィスの空気も、邪気がなかったなあ。ひょっとして、あそこの社長さんとかが偉い方で、その感化とか?トイレも綺麗でしたよ。トイレ・チェックは怠りない私。

みなさん、本を買うならBook Offではなく、Random Walkね。ニューヨークはマンハッタンのあちこちにあるBarnes & Nobleみたいにお洒落な書店です。センスいいです。和書も販売しています。いい本が置いてあります。私は、ここで、井上章一著『夢と魅惑の全体主義』(文春新書2006)を購入しました。1300円でした。「独裁者たちは建築でうったえる」という帯の惹句がいいね。そう、建築って、ほんと思想だわん。政治だわん。年末年始の休暇に読むぞ。何の話か。

最終の電車で和泉市に帰ってきたとき、駅構内のコンビニで、私としては極度に珍しくも、アイスクリームを購入しました。緊張が解除して、疲れが出たときって、むしょうにジャンク・フード食べたくなりませんか?焼きそばとか、たこ焼きとか、カップラーメンとか、コンビニのアイスクリームとか。体冷やしてはいけないのに、おかげで体が冷えてしまって、ベッドにもぐりこんで毛布の中で震えていました。アホや。熱い生姜湯作る元気は残っていなかったから。

ところで、今日は、ミニ講演会でもお話させていただいたことを書きます。はっきり、ぶっちゃけて言えば、私は、The Fountainhead を書いたアイン・ランドは偏愛するが、Atlas Shruggedを書いたアイン・ランドは、よくわからん・・・のであります。正直言うと、そうなのよ。

Atlas Shruggedはプロットは巧みで、スケールも大きく、読み物として面白いけど、The Fountainheadではなく、Atlas Shruggedを先に読んでいたら、私は翻訳をしたいとは全く思わなかったろうし、アイン・ランドに関するウエッブサイトを立ち上げようとも思わなかったろう。ということは、前にもここで書きました。ひょっとしたら、Atlas Shruggedを最後まで読むことすらできなかったかもしれない。それくらいに、私にとっては、この2作品は、同じ作家の小説なのか?といぶかしむほどに、本質が違うと感じられます。つまり、私にとっては、アイン・ランドはふたりいるのですね〜

The Fountainheadを読んで私がぶっ飛んだ理由はいろいろありますが、要するに、ハワード・ロークという主人公の絶対的に自分の人生を肯定する姿勢の臆面もない向日性に、私の心がスパーンと解放されたからでした。

現実は絶対的な客観物であり、人間の思惑や願望や期待なんかで動くものではなく、それに対処して、自分自身の幸福の追求と実現という生の目的を遂行するための人間の手段は、理性(利性)だけ、というのがアイン・ランドの思想=Objectivismの前提であります。ランドの思想小説たるThe Fountainheadの主人公ハワード・ロークは、だから、現実の世界の出来事に心を悩ませることがありません。動揺することが、ほとんどありません。彼の理性(利性)が判断したことを、淡々と処理するだけです。

現実の闇が深くて濃いことを人間がどう嘆こうが、現実はその嘆きに作用されません。現実が光を放つことはないのであります。だから、現実の闇を嘆いても無駄であります。光がないと苦しんでも無駄であります。人間ができることは、現実の推移に動かされない自分を形成し、脳(mind)で現実に対処していくことだけであります。光がないけど光が欲しいのならば、自分が光源になって、自分で光るしかありません。自分が光らなければ、ずっと闇の中にいるままなのです。光を浴びたいのならば、自分で発電するしかないのであります。幸福も不幸もありません。自分の心が幸福でいることだけが問題です。

ともかく、人間にできることは自家発電だけです。他人や世界を発電させることはできません。その他人や世界以外には。他人も世界も、自分にとっては、「絶対的他者」であり、どうこうできるのは自分だけなんだから、自分を管理統制しないと、永遠に世界や他人に翻弄されるだけであります。世界や他人の奴隷でいるだけであります。と認識して、「絶対的他者」に侵されない完璧なる要塞としての「幸福なる自分」という自己を形成した新人類が、ハワード・ロークです。

まあ、このロークも、コートランド住宅設計案の改悪には関しては、理性(利性)によって、「これは爆破することこそ理(利)」と判断して、ダイナマイトでぶっ飛ばしたわけでありますが、これを許せば、自家発電は不可と判断したのですね〜〜そういう譲れない最後の一線というものもあるけどね〜〜

The Fountainheadが分かりにくいとすれば、ハワード・ロークが、小説の最初から、もうできあがっている自家発電光源人間だからです。現実の闇に翻弄されつつ、しだいに自家発電光源人間になるプロセスが描かれている小説ならば、読者の共感も呼びやすいし、感情移入もしやすいでしょう。もしくは、できあがっている生き方が挫折して、ひどい目にあいつつ、あらたに生き方を構築しなおす物語ならば、これもわかりやすいでしょう。まっとうな長編小説とは、通常は、そういうもんであります。

The Fountainheadの長さは、主人公の成長の過程や再構築の軌跡を追う長さではありません。主人公のできあがっている、すでに完成している人格の非現実的な(?)、人間離れした宇宙人みたいな(?)、「かぐや姫」みたいな光具合(?)を、読者に納得させ、「あ、こういうふうに私も生きたいな」と読者をして思わせるのに必要な長さなのであります。読者に、ハワード・ロークを認めさせるために必要な長さであります。彼に読者が慣れるために必要な長さなのであります。ドミニクが、ロークをほんとうに理解し、ロークの生き方を学ぶのに時間がかかったように、不可解な(?)ロークに反発しつつ、ついにはロークの弟子に読者がなるという過程が、The Fountainheadを読むという行為であります。

小説の中のローク以外の登場人物のドミニクも、彫刻家のマロリーも、電気技師のマイクも、ゲイル・ワイナンドでさえ、ロークの「弟子」になっていくのでありますよ。彼女と彼らは、イエス・キリストについていった弟子のように、ロークに着いて行くのであります。さしずめ、ロークに魅かれつつ、何度も何度もロークを裏切るピーター・キーティングは「ユダ」みたいなもんでしょうか。あ、ユダは自殺するんだけど、そうなると、映画版では自殺したワイナンドがユダなのかな。

で、私も勝手にハワード・ロークの弟子になったわけでありますよ。

では、Atlas Shruggedはどうか?私は、もう一冊の別種のThe Fountainheadに出会うつもりで読み出したのでありますが、ダグニーは女性版ハワード・ロークなんかなあと思いつつ読み進めていったのでありますが、Galt’s Gulchに結集する人々、腐敗し麻痺しつつあるアメリカ合衆国から人材をどんどん抜いて新世界アメリカを形成する人々に、なにか違和を感じざるをえなかったのであります。読後感が爽やかじゃないのであります。元気なんかもらえなかったのであります、あの小説からは。

私に言わせれば、なんで、あそこまで有能なる人々がコロラドの山奥深くに、Galt’s Gulchなる新世界をわざわざ作るのか、わからないのであります。現実に、寄生虫でしか生きて行けない人間は生まれてきてしまうのだから、そんな連中を制裁してもしかたないでしょう。そんな連中は復讐する値打ちもないですわ。どーでもいいんだよ。ほっとけ!!そんな連中もひっくるめて、食わしてやればいいじゃないか、真に強い有能なる人間は・・・と思ってしまうのだよね、私は。

ほんとうのエリートが、自分の才能や業績が駄目人間どもに搾取されてしまうからなんて、そんなケチな心配するんかな?と思ったのであります。そういう貧乏くさい発想するんかな?と思ったのであります。まあ、私は学会という単なる学歴成金業界しか知らないし、また日本官僚みたいな似非エリートに関する噂話しか知らないから、「真のエリート」といっても、想像でしかないですけどね〜〜

しょうもない人々に対して、「こいつら、ほんとに馬鹿で寄生虫だよな、そのくせ自分では自分のこと全然わかっていないんだ。だからこそパーなんだよな」と思って、うんざりはしても、「まあ、僕はこうやって支えているのが好きだし、充実しているし、退屈じゃないし、アホな他人に期待しているほど暇じゃないしいい〜」と、黙って人知れず天球を支えるアトラスやるのが、真のエリートってもんじゃないの?それこそが、能力の貴族ってもんじゃないの?ハワード・ロークならば、そうするんじゃないの?

だから、ダグニーがジョン・ゴールトやフランシスコ・ダンコニアの仲間に入ってしまったとき、「あれ?」と意外でありました。なんだ・・・ベタな展開と・・・「優秀なる男たち」が「おれらの才能が搾取されるのはかなわんね〜〜損だよな〜〜」と、セコイな計算しているのをダグニーは蹴飛ばせばいいのに・・・と、私はうっすら期待していたのでありますよ。

「なんで、あんたらは、山奥なんかで巨大な秘密結社の基地造ってんのよ〜〜造るのならば、この世界、この社会に目に見えない基地をはりめぐらして、造り直すしかないでしょうが〜〜誰もできないんだよ、私たち以外には。だから、やるんだって。学習できない人々に何を期待しているの?学習する素質のない人々に期待しないってことは、彼らを捨てることではなくて、さりげなく彼らをテキトーに食わせておくことでしょーが。ゴキブリぐらい捨て置きなさいよ。回虫ぐらい体内で飼っておけばいいでしょうーがああ!それをしてこそ、ホンマモンのエリートでしょうがあ!!そんなことぐらい、私たちならば、できるでしょうーがあ!!男が何をコセコセやってんのよ〜〜!!まったく、だから男ってのは気が小さいんだからあ〜〜!!」とダグニーが、ジョン・ゴールトやフランシスコ・ダンコニア連中に啖呵切って、誠実篤実たるエディ・ウイラーズを旧世界に置いてきぼりにしないで、新世界を旧世界の中に入れ込むプロジェクトに乗り込むという方向に、小説が展開したのならば、私は、Atlas Shruggedに夢中になったと思う。

ニューヨークは、ロックフェラー・センターのアトラス像は、苦しそうに天球を支えているけれども、サンクト・ペテルブルクのアトラス像は、まっすぐに健やかに軽々と立ち、さりげなく誇らしげに黙って(あたりまえか)建造物の梁を支えていました。アイン・ランドが描くべきは、彼女の美しい故郷サンクト・ペテルブルクの晴れやかなるアトラスであって、マンハッタンの苦々しい顔したアトラスではなかったのではないかと、私は勝手に思うのでありますよ。

現実のAtlas Shruggedの根底にあるのは、どうも被害者意識っぽいのだよね・・・犠牲者になるのを嫌悪するあまりに、世界を、人々を嫌悪してしまう「傷つきやすさ」なんだよね・・・寄生虫のはびこる世界を憎むあまりに、世界そのものまで憎むほどに、世界を客観視できなくなった、対象化することができなくなった脆弱なる脳なんだよね・・・そう思いませんか?

私は、そーゆうアイン・ランド゙は好きじゃないんであります。私が好きなのは、あっけらかんと無頼なハワード・ロークが風に吹かれながらマンハッタンの街を大またで歩くThe Fountainheadを描いたアイン・ランド゙なんであります、私は。ハワード・ロークを心の師としながらも普段は各自好き勝手に動いていて、いざとなればロークの回りに結集する仲間たちが好きなんであります。あの物語は、ほんとうに気持ちいいよね。清冽だよね。永遠の青春が、あの小説世界にはありますよ。登場人物の魂が、それぞれの色合いで光っているよね。

まあ、小説世界の話なんて、どーでもいいようなもんだけど、私は、同じ作家が書いた小説であるThe Fountainhead とAtlas Shruggedの、私が思うところの根源的な差異にこだわるんであります。もう、はっきり書いてしまうよ、私は。

The Fountainhead とAtlas Shruggedの間に何があったのでしょうかね?アイン・ランド゙は、どうして変わってしまったのでしょうか?

本が売れて弟子なんかできちゃって、弟子を周りにはべらせているうちに人間依存症になってしまって、脳の冴えが鈍くなったのか?だいたいさあ、アイン・ランドの思想をほんとうに理解した人間だったら、いつまでも「師匠と弟子ごっこ」なんかしていないでしょうーが。本家本元のアイン・ランドが、「もう、あんた自分で生きなきゃ駄目だって。なんで、いつまでもここにいるの?」と言わなければ、おかしいでしょーが?

若い女に走った25歳年下の弟子&愛人のナサニエル・ブランデンなんか、破門する必要もないよ。好きにさせとけばいいんだよ。他人なんか、しょせん、好きにはできないんだから。放し飼いしているつもりで、自由にさせておけば、カッコよかったのに。好きな男ならば、好きにさせとけよ。気が向いたら帰ってくるわさ。帰ってこないならば、帰ってこないでいいよ。なんも困らんよ。男は何億人といるんだからさ。自分と弟子という「ミニ結社」に執着するのは、ハワード・ロークを造形したアイン・ランドらしくない。

ふたりのアイン・ランドがいるのは、執筆時の30代(The Fountainhead)と40代から50代にかけての時期(Atlas Shrugged)の差異、つまり「老い」のせいなのか?更年期のホルモンバランスの異常のせいか?だけど、若くなくなればなくなるほど、どうでもいいことは気にしなくなる心の無頼さが本格的になるものだけれどね。

The Fountainheadの執筆時と、Atlas Shruggedの執筆時では、ランドが「敵」と意識する政治的状況が、よりリアルに脅威になりつつあったのかなあ。でも、ハワード・ロークは絶対的に明るい積極的肯定的自閉症みたいなやつだから、「敵」を「敵」と意識するほどにも、「敵」になど関心もなかったろう。ハワード・ロークを造形した責任があるんだから、アイン・ランドには、50歳過ぎても、いや過ぎたからこそ、ハチャメチャに破天荒に、自らが想像した人間像を、本気で模倣して欲しかったと、私は思うのであります。

でも、アメリカ人読者は、圧倒的にAtlas Shruggedの方が好きみたいです。 う〜ん、そこが、よくわかりません。美徳の産物としての貨幣論など、Atlas Shruggedには、洞察&明察、たっぷりとありますが、根底にはThe Fountainheadにはない「恐怖」があります。「不信」があります。Atlas Shruggedは、臆病な「男のドミニク・フランコンたち」が寄ってたかって、「女のハワード・ローク」たる剛毅なダグニー・タッガートに世界への恐怖を伝道しようとしている物語に、私には思えます。これって、アイン・ランドの退化じゃない?

あ、この私の印象って、どなたにも共感されない?まあ、共感されなくてもいいけどね。ともあれ、みなさま、『水源』と『肩をすくめるアトラス』を読み比べてみてください。

類は友を呼ぶ結社がやたら多いアメリカ合衆国は、個人主義だからこそ、共有するものが欲しくて結社形成が盛んなのだと、個人の限界を意識してこそ組織運営と維持に逆説的に長けるのだと、私は学生には説明します。となると、私がThe Fountainheadを偏愛するのは、個人主義のなんたるかをわかっていないからこそ、その孤独と責任をほんとうには骨身に沁みていないからこそ、組織や結社や集団の必要を切実に求めることがないからでしょうか?「地球規模の世間」を知らない「お気楽日本人」だからでしょうか?つまり、私って、幸福な日本人なんだよね〜〜うわあ〜〜よかったああ〜〜ははは〜〜うん?なにか思考がずれたような・・・まあ、この問題は、明日の日曜日に考えよう。

さて、今年の授業終了は12月20日水曜日か・・・もう少しだな・・・今日は、アイン・ランドが好きだったチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト第1番変ロ単調と、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調を、ガンガン流しながら、ときどきパソコンのキーボードから手を離し、指揮者の真似しながら、このランド節を書きました。

ラフマニノフのピアノ協奏曲は、ほんとにベタだと馬鹿にされるけれども、あなた、ストレートに、素直に、少年のような少女のごとくまっすぐに、ぬけぬけとロマンチックやっているのを馬鹿にするような斜に構えた根性だから、病気になるんだよ!細胞が病むんだよ!『水源』読んでいれば、大丈夫よ、治るわよ・・・・むふふ。